現代人は大きな罠の前に立っている。
それは言葉という罠である。
聖書はそれを警告していたのに。
必ず陥ると知っていたから。
それでも、
陥ると覚悟している者だけが、
かろうじてその前に留まれる、
のだが。
しかし、それができない者がほとんどだ。
昨今は実に酷い有様である。
・・・・・
言葉を持たない生物は、
己のすべての感覚で現実に向き合っている。
その範囲は人の目から見れば非常に小さいものだ。
この広大無辺な宇宙からすれば。
だがである。
彼らが向き合っている範囲は、
この宇宙の一片ではあっても、
そこに切れ目はなく、
どこまでも繋がっている。
結局は宇宙そのものなのである。
人も本来は同じである。
だが如何せん言葉を持ってしまった。
それが何を意味するのか分からないようだ。
現代人はこのことを問わなくなった。
言葉に溺れてしまった。
・・・・・
神の言葉は現実だ。
神は言葉によってこの世界を創ったのだから。
だが人はなぜか言葉を手に入れた。
聖書はそのことを暗示している。
さすればである、
人にとって言葉は借物(仮物)でしかない。
神の言葉は現実であり、人の言葉は仮想なのだ。
確かに現実の一端を表現するには都合がいい。
それが言葉の質だから。
そしてそれを合理とか言っている。
ここで勘違いをした。
一端はどこまでも一端なのに、その一端に囚われたのだ。
一端を言葉に置き換える術を得て、勘違いしてしまった。
それを大きくすれば全部になると。
でも一端は一端である。
どこまで行っても一端である。
その向うにいつも未知の領域がある、圧倒的な。
それを神秘と謂う。
現実とは神秘に他ならないのだ。
それを知ろう。
・・・・・
それにである。
人間ももとよりすべての感覚で現実に向き合っている。
そこは他の生物と同じだ。
さりがら常に目の前の現実を言葉に置き換えてしまう。
その置き換えられた言葉に感覚が引きずられる。
言葉(により創られた思い)に囚われてしまう。
これが普通であり、宿命と言うべきか。
どうも大脳が発達したお陰らしい。
その大脳に写された言語的現実を現実と認識するのです。
全細胞による感応よりも大脳の認識が優先されてしまう。
つまり仮想現実を生きることになる。
お化けや幽霊は脳が見ている幻想だと言うが、
合理というものも幻想と変わりはないのです。
私はそう思っている。
ただ科学的思考は少し違うと思う。
科学は現実によって裏打ちされたものだけが認められると。
それなら仮想とは言えないだろう。
あくまで(自然)科学のことだが。
・・・・・
現実とは神秘である。
神秘が宇宙の現実である。
とは言え、合理にも意味がある。
大いに意味がある。
日常の行動の決め事にするのは素晴らしい。
範囲を決めて用いるなら、それも有用です。
でも実際の現実は広大である。
神秘に満ち満ちている。
それを知ろう。
しかして、神秘に対処するには方途がある。
それは祈りである。
合理では埋められない領域、
その圧倒的な領域を埋めるのは祈りである。
人間は言葉を持ったときから、そうである。
祈りを生きてきたのだ。
罠を前にして留まるには、
それを置いて他にない。
それは言葉という罠である。
聖書はそれを警告していたのに。
必ず陥ると知っていたから。
それでも、
陥ると覚悟している者だけが、
かろうじてその前に留まれる、
のだが。
しかし、それができない者がほとんどだ。
昨今は実に酷い有様である。
・・・・・
言葉を持たない生物は、
己のすべての感覚で現実に向き合っている。
その範囲は人の目から見れば非常に小さいものだ。
この広大無辺な宇宙からすれば。
だがである。
彼らが向き合っている範囲は、
この宇宙の一片ではあっても、
そこに切れ目はなく、
どこまでも繋がっている。
結局は宇宙そのものなのである。
人も本来は同じである。
だが如何せん言葉を持ってしまった。
それが何を意味するのか分からないようだ。
現代人はこのことを問わなくなった。
言葉に溺れてしまった。
・・・・・
神の言葉は現実だ。
神は言葉によってこの世界を創ったのだから。
だが人はなぜか言葉を手に入れた。
聖書はそのことを暗示している。
さすればである、
人にとって言葉は借物(仮物)でしかない。
神の言葉は現実であり、人の言葉は仮想なのだ。
確かに現実の一端を表現するには都合がいい。
それが言葉の質だから。
そしてそれを合理とか言っている。
ここで勘違いをした。
一端はどこまでも一端なのに、その一端に囚われたのだ。
一端を言葉に置き換える術を得て、勘違いしてしまった。
それを大きくすれば全部になると。
でも一端は一端である。
どこまで行っても一端である。
その向うにいつも未知の領域がある、圧倒的な。
それを神秘と謂う。
現実とは神秘に他ならないのだ。
それを知ろう。
・・・・・
それにである。
人間ももとよりすべての感覚で現実に向き合っている。
そこは他の生物と同じだ。
さりがら常に目の前の現実を言葉に置き換えてしまう。
その置き換えられた言葉に感覚が引きずられる。
言葉(により創られた思い)に囚われてしまう。
これが普通であり、宿命と言うべきか。
どうも大脳が発達したお陰らしい。
その大脳に写された言語的現実を現実と認識するのです。
全細胞による感応よりも大脳の認識が優先されてしまう。
つまり仮想現実を生きることになる。
お化けや幽霊は脳が見ている幻想だと言うが、
合理というものも幻想と変わりはないのです。
私はそう思っている。
ただ科学的思考は少し違うと思う。
科学は現実によって裏打ちされたものだけが認められると。
それなら仮想とは言えないだろう。
あくまで(自然)科学のことだが。
・・・・・
現実とは神秘である。
神秘が宇宙の現実である。
とは言え、合理にも意味がある。
大いに意味がある。
日常の行動の決め事にするのは素晴らしい。
範囲を決めて用いるなら、それも有用です。
でも実際の現実は広大である。
神秘に満ち満ちている。
それを知ろう。
しかして、神秘に対処するには方途がある。
それは祈りである。
合理では埋められない領域、
その圧倒的な領域を埋めるのは祈りである。
人間は言葉を持ったときから、そうである。
祈りを生きてきたのだ。
罠を前にして留まるには、
それを置いて他にない。
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