ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

今の心

2021-11-22 09:57:06 | 日記・エッセイ・コラム
「もの」は常に動いている。
動いている「もの」は互いに影響しあっている。
それが世界(宇宙)である。
「もの」が動いてなければどうだろう。
一瞬は永遠で永遠は一瞬、
つまり時がないのです、ちょっと想像できない。
でも現実は動いている。
動いている「もの」は互いに影響しあう。
だからお互いを知ろうとする。
それが世界(宇宙)です。
・・・・・
「もの」は「もの」です。
その「もの」の変化の有様が「こと」です。
動いてる「もの」はお互いを知ろうとする、
とは先に言ったこと。
だから「こと」を知ろうとする。
もとより「こと」は「こと」だけでは成り立たない。
「もの」の変化ですから。
つまり「もの」と「こと」は一体であり、
本来は一つのもので「ものごと」と謂う。
前に言ったようにそこを見落とせば文字通り落し穴になる。
唯物論がそれである。
こんな奇怪なものはない。
「もの」は「もの」だけでは知る意味がない。
変化の様子を知るのが本題である。
「こと」を知ることが重要なのだ。
ならそも初めから嘘がある、
「もの」だけを語るなどと。
とりわけ唯物史観というのが極め付け。
史観とはまさに「こと」のこと。
それを唯物論として論じるとは。
ちょっと理解できない。
・・・・・
知るとはどういうことか。
常に動いているものを知るとは。
知るとは定着させること、
定着させてこそ知ると謂える。
でも動いてるものは定着させられない。
だから一瞬を切り取るのです。
そしてそれを繰り返す。
パラパラ漫画のように。
実際の記憶もそのようである。
映像の記憶ならではだが。
それを更に一つにするのが言葉である。
言葉にすれば一言ですむ。
ときの思いを一言で表す。
その時点での「いま」を己の魂に映す。
その模様が「こころ」です。
それを全身で発する、声として。
言葉の始まりです。
「いま」の「こころ」、これが念です。
書いて字のごとく、今の心と記す。
世界という具象を映しても、
それは概ね抽象を抱え込む。
念とは概念にしかず。
言葉がおそろしいのはそれがその場限りではないこと。
繰り返せばどこまでも続くのです。
その時の「いま」が永遠に続くのです。
文字を持てば尚のこと。
そこがおそろしい。
・・・・・
日本語の世界にいれば、
新たな気付きが時に出てきて、
先のようなことも視野に入ってくる。
実に奥深い言語です。
さらにその先がある。
「明鏡止水、波一つない静かな水面に映せば、
 世界は在るがままに映る」と。
欲を排し、我を捨てれば、
まんまの世界が写せると。
そしてそれを道として求める、
そういう文化が。
ちなみに言葉は基本的にデジタルだと。
ゆえに間があり闇があると。
さりながら日本語はそこも埋めている。 
曰く、
言外の言、不立文字、行間を読め、空白の美、
等々。
それに一つの音で多くを伝える。
それに単語は区切らないで繋いでいる。
「てにをは」で。
真言に誠に、
奥が深い。

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