ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

おそろしい

2024-04-01 06:51:54 | 日記・エッセイ・コラム
おそろしい、とは
通常ではない事態に対する「心の様」を謂う。
だからそれは「恐怖する」という意味も、
だからそれは「畏敬する」という意味も、
あるのです。
これは日本語の特徴の一つ。
例えば「結構」という言葉。
これは心の構えを結ぶということであり、
肯定にも否定にも使う。
ここに日本語の特徴がある。
それは状態や様を表現していて、
所謂善悪二元論的にはならない。
つまり排除の論理を持たないと。
これは現実の世界とは符合する。
現実世界は現実世界としてあり、
肯定しても否定しても変らない。
ときに人の言葉は無意味なのだ。
てかむしろ有害である、
ということ。
・・・・・
言葉は分けて分けて分けるだけ。
分けるとは脳内だけのこと。
現実は何も変わらない。
それを方便と言う。
それを知ろう。
それを知っているのが日本語である。
だから余り分けません。
てか分け方が違うようです。
それが上記での言です。
ここで聖書の冒頭の記述を思う。
そこには記されている、
初めに神は天と地を創造された、と。
これは物が有る場です。
だから「物場」と言う。
これは「事場」の前にある、
次に言葉が発せられて世界はなった。
神の言葉は現実として実現するもの。
人の言葉は語るだけのもの。
語るにはそこに順序がある。
それが初めにとか次にとかです。
聖書は物場が先で事場が後だと記す。
私はそう捉えているが、
それを踏まえて先記の日本語に戻る。
「おそろしい」と「結構」。
「おそろしい」とは、
目の前の事象に対する心の様のこと、
「結構」とは、
決断するときの心の構えを結ぶこと、
共通するのは、
私がそこに在るのは前提として、
その場の状況への心模様として、
あるもの。
先ずは場があり、
それも先にあり、
それに呼応して、
ときの私を表現するのです。
ここに日本語の特徴があります。
それは場がほぼすべて。
前提の私は表に出ない。
ゆえ主語がないのです。
これは省略ではないと。
むしろ要らないのです。
そこに在る私は当事者かあるいは立会人。
必要があればときに示すことも。
私を強調するとか私以外とかの場合。
それを「は」や「が」などの助詞で。
そこで大事なのは、
場であり場の状況です。
それを主題という。
例えば広島の原爆死没者慰霊碑、
そこには主語がないと言われる、
原爆投下という過ちの。
そうなのだが、
これが日本語の特徴である。
それは状況がさせたとして、
そこに彼我を出さないのだ。
かくのごとく日本語は、
「我」を前に出さない。
「場」を前に出す。
むしろ「我」を出すのを嫌う。
だから「我」を出す者を嫌う。
言葉をかえればこれは、
世界があって私がある、のであって、
私があって世界がある、のではない。
ここに欧米との違いが明らか。
とくに違うのは否定が少ないこと。
違いを知って線を引くが、
どちらも現実の一断面であり、
好き嫌いや損得で争いになっても、
とことん排除することはない。
いま巷に蔓延っているリベラル的言辞は、
否定と排除に満ちている。
これを日本人は嫌うのだ。
しかるにこの昨今の状況、
リベラルに乗っ取られて、
もう惨憺たる有様である。
だから、
こんな私でも戦うのです、
少しは。
・・・・・
例えば今回の能登半島沖地震。
そこでも奪い合いは起らない。
むしろ秩序を保って助け合う。
東日本大震災のときはもっと顕著だった。
阪神淡路大震災のときも同じ。
ちなみにこの時はリベラルが邪魔をした。
あの山口組ですら手を貸してくれたのに。
ちょっと逸れたが元に戻って、
それを民度とか言っているが、
なんとも安直な言い方である。
してもそれは何処から来るのだろう。
教育がしっかりしてるからか。
それもあるだろう。
てかそれも又安直な言い方であると。
戦後教育の無様さを思えばね。
それは生き方の総体である文化の力だと。
いわゆる歴史・伝統・文化の文化である。
文化とは文が化けること。
文とは言葉の集まりが織りなす綾。
つまり言葉を使い始めた後のその用い方、
そこに文化がある。
まずは神話として、
そして国語として、
それが今に伝わる。
それは深く静かに。
既に上で言ったことだが、
日本人は場に生きており、
場と我は常に一体で離れない。
一例として日本の商人道を挙げる。
売り手良し買い手良し世間良し、である。
この言い回しには主語がない。
でも個人個人も社会も皆良しです。
まあそんなとこで、
ハイ!

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