●注意事項
本記事は本文でも画像でも全てにおいて引用、転載を一切、禁止とする。
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2.末端の創価員におこりうる問題
1項「創価学会本部職員、創価系学者に関係する問題」に示した通り問題の多さを考えると、本文となる日蓮遺文が正しいだけでは末端の創価員は正宗や世間一般から相手にされないか馬鹿にされ恥をかくケースも多々あるだろう。
正宗の坊さんですら戦後から平成初期まで「平成新編」がでるまでは謗法(ほうぼう)といって差し支えない日蓮遺文集しかない状態だった。正宗僧侶向けの「昭和新定」は「昭和定本」の盗用剽窃である。
創価学会本部だけは「改版遺文集」を出してお祝いムードになると思われる。末端会員に定着と浸透するまでは時間がかかるし今度こそ嘘の説明は許されないはず。
●トップが謝罪するのかしないのか?
2-01.間違った遺文集と解釈で「今までごめんなさい」
2-02.間違った遺文集でも買ったり手に取ってくれて「今までありがとう」
2-03.「これからはもうしません」
この3つは池田大作自身が元気なら書くべき内容だが病気で書けないと思われる。
幼稚園児や小学生で教えられ出来そうな挨拶が大人の創価員に出来るのか興味深い。
●創価公明党と自民党の謝罪
創価公明にとって「自民党は仏敵」だった過去がある。自公路線が決まる頃男子部会合で盛んに聞かされたのが「自民党トップは謝罪した」との内容だ。
創価トップが謝罪しなければ末端会員も謝罪しないだろう。他宗や無宗教の人から「益々無視され相手にされない」ことを覚悟すべきである。
日蓮正宗も同じ問題がある。
●末端創価員の多くが日蓮宗遺文集の経緯を説明出来ない問題
創価版御書の盗用剽窃が明らかになった以上、末端創価員の多くが日蓮宗遺文集の経緯を少しでも説明出来ないと笑われるだろう。
(智英日明が収集書写した「新撰祖書」を底本とし、小川泰堂が「高祖遺文録」を編纂し刊行した。これをさらに完成度の高い御書として発刊させた加藤文雅編・「霊艮閣版 日蓮聖人御遺文」が存在する。「霊艮閣版」を底本に「昭和定本」が発刊)
創価学会は日蓮系教団として問題のある人やものばかり紹介し布施(正宗系のご供養のこと)を募ってきた。
以下は日蓮宗と真逆である。
盗用剽窃のある遺文集を紹介し読ませたり金を出させた。
裁判するほどダメな正宗の坊さんを紹介し金を出させた。
理想的といえるかは別として比較的よいと思われる勤行や本尊が日蓮宗に存在する。しかし正宗の偽物大御本尊やしょぼい勤行を紹介し金を出させた。
他多数。
●学者以外で頭のいい人や若い人の知的好奇心を満たせない。
1項はどちらかというと創価本部職員の世間常識や若者の心を全くわかってない点が原因だが「末端の現場でも良心的な説明」が出来なければ頭のいい人や若い人の知的好奇心を満たせないだろう。
本文となる日蓮遺文のみが「昭和定本」等と同じ完成度だけなら普通の人は「改版遺文集」を手に取る必要もないだろう。
他にも誰の本尊写真を載せるのか掲載しないのか、日蓮日興相伝書掲載など問題が多く、興味深い。
●ネットで引用するのは昭和の創価全集か令和の改版遺文集か?
どちらをネットで紹介してもトップが謝罪してないと末端会員は笑われるのが必然と思われる。
「前と違うぞ?これが宿命転換か?人間革命か?」
「今度はどこから盗用したのか?」
と笑われる可能性がある。
●リアルで読んだりやネットで引用するのは創価員や一般の人。
謝罪を別にしても正誤表や書名、遺文名の問題が解決しないと読者が混乱すると思われる。
レベルが低ければ「昭和定本」の代わりに使われることは無い。
●創価学会は創価新報などで偽法主な日顕や正式法主な日如氏の書き間違いや「平成新編」誤記を何度も指摘だけでなく誹謗中傷してきた。
今現在20歳前後の若い人は知らないかもしれない。
信徒の取り合いのために指導者失格、法主失格を結論づけ「平成新編」など数々の誤記を指摘しつつ絶叫(または発狂)し続けたのが創価学会である。創価学会のしてきたことは大問題だと思われる。
●「創価全集」を正しいと信じて死んだ人は成仏できたのか?
戸田城聖や戸田門下、池田門下で死んだ創価員が問題の対象となる。
383.創価学会の日蓮大聖人御書全集は間違いだらけ(その3)「日蓮遺文の脱字と授与書き削除」 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
----------<ここから>----------
日蓮遺文の脱字と授与書き削除
日蓮遺文の脱字で思い出したのが板本尊の授与書き削除です。
1994年11月15日、日蓮正宗本山である大石寺の板木尊、計四体の脇書部分の「願主法華講総講頭 池田大作」を日蓮正宗側が削除したそうです。
(総一坊(住職・山崎慈昭)と総二坊(住職・田爪鏡道))
同時に教えられたのは、「宗門(日蓮正宗)や悪僧を赦すな」という”怒り”でした。
私は本尊を日蓮大聖人の生命の当体、仏法の真髄は宇宙生命である本尊と教えられていたので、板木尊の脇書削除を聞いて気分が悪くなったのを覚えています。
ところが学会は日寛上人の本尊の授与書きを削除したコピー本尊を’93年に配布しています。
私自身も新本尊配布を喜んだことを覚えています。
’93年9月8日、9日当時の新聞を大事に保管し暫くの間、折伏に使っていたくらいです。
私自身、矛盾に気が付けないわけですからマインドコントロールって怖いですよね。
学会の場合、池田氏の本尊の授与書き削除程度で、正宗を許してはいけない(許されない)のです。
ところが、日蓮遺文の立正安国論を削除しただけにとどまらず遺文の文字をも御書に記載せず削除した結果となっています。本尊や遺文は大切なものであり、粗末にしてはいけないはずですが、こうした矛盾を抱えています。
創価学会ってなにかにつけ、いつもこうした矛盾や二面性があります。
----------<ここまで>----------
●日蓮宗の僧俗で死んだ人は成仏できたのか?
創価員各人は他宗を邪宗、または他宗とし異なるイメージを持っている。
日蓮宗を他宗と思うだけか、あるいは
創価、正宗、日蓮宗で言葉でしかない同じ題目を唱えても、創価以外は謗法地獄行きだ!との教団都合な思想だ。
(日蓮遺文には謗法堕獄抄が存在する。六郎恒長御消息、又は国家謗法文事・謗法堕獄抄・念仏無間事・念仏者無間地獄事(平編))
創価員の今後の言動が注目される。
●日蓮曼荼羅本尊は文字と図像、日蓮遺文は文字(一部梵字)。
頭の悪い創価員は「「改版遺文集」を新しくなってきれい!」とか言うのか?
過去の間違いを「平成新編」や故・日顕と共に責めるのか?
日蓮曼荼羅本尊は文字を曼荼羅にした図像なので改ざんされてもイメージの世界と言ったりとらえたりすることが出来る。
(今の私には改ざん本尊は気持ち悪く感じる。)
しかし創価によれば歴代法主の書き間違いは「謗法」や「法主辞任すべき責任」があるらしい。
「改版遺文集」や「創価全集」「創価編年」の過ちはイメージでとらえるのは困難と思われる。
創価員に普段から教え込まれた白黒二極論が問題になる。
(続く)
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2.末端の創価員におこりうる問題
1項「創価学会本部職員、創価系学者に関係する問題」に示した通り問題の多さを考えると、本文となる日蓮遺文が正しいだけでは末端の創価員は正宗や世間一般から相手にされないか馬鹿にされ恥をかくケースも多々あるだろう。
正宗の坊さんですら戦後から平成初期まで「平成新編」がでるまでは謗法(ほうぼう)といって差し支えない日蓮遺文集しかない状態だった。正宗僧侶向けの「昭和新定」は「昭和定本」の盗用剽窃である。
創価学会本部だけは「改版遺文集」を出してお祝いムードになると思われる。末端会員に定着と浸透するまでは時間がかかるし今度こそ嘘の説明は許されないはず。
●トップが謝罪するのかしないのか?
2-01.間違った遺文集と解釈で「今までごめんなさい」
2-02.間違った遺文集でも買ったり手に取ってくれて「今までありがとう」
2-03.「これからはもうしません」
この3つは池田大作自身が元気なら書くべき内容だが病気で書けないと思われる。
幼稚園児や小学生で教えられ出来そうな挨拶が大人の創価員に出来るのか興味深い。
●創価公明党と自民党の謝罪
創価公明にとって「自民党は仏敵」だった過去がある。自公路線が決まる頃男子部会合で盛んに聞かされたのが「自民党トップは謝罪した」との内容だ。
創価トップが謝罪しなければ末端会員も謝罪しないだろう。他宗や無宗教の人から「益々無視され相手にされない」ことを覚悟すべきである。
日蓮正宗も同じ問題がある。
●末端創価員の多くが日蓮宗遺文集の経緯を説明出来ない問題
創価版御書の盗用剽窃が明らかになった以上、末端創価員の多くが日蓮宗遺文集の経緯を少しでも説明出来ないと笑われるだろう。
(智英日明が収集書写した「新撰祖書」を底本とし、小川泰堂が「高祖遺文録」を編纂し刊行した。これをさらに完成度の高い御書として発刊させた加藤文雅編・「霊艮閣版 日蓮聖人御遺文」が存在する。「霊艮閣版」を底本に「昭和定本」が発刊)
創価学会は日蓮系教団として問題のある人やものばかり紹介し布施(正宗系のご供養のこと)を募ってきた。
以下は日蓮宗と真逆である。
盗用剽窃のある遺文集を紹介し読ませたり金を出させた。
裁判するほどダメな正宗の坊さんを紹介し金を出させた。
理想的といえるかは別として比較的よいと思われる勤行や本尊が日蓮宗に存在する。しかし正宗の偽物大御本尊やしょぼい勤行を紹介し金を出させた。
他多数。
●学者以外で頭のいい人や若い人の知的好奇心を満たせない。
1項はどちらかというと創価本部職員の世間常識や若者の心を全くわかってない点が原因だが「末端の現場でも良心的な説明」が出来なければ頭のいい人や若い人の知的好奇心を満たせないだろう。
本文となる日蓮遺文のみが「昭和定本」等と同じ完成度だけなら普通の人は「改版遺文集」を手に取る必要もないだろう。
他にも誰の本尊写真を載せるのか掲載しないのか、日蓮日興相伝書掲載など問題が多く、興味深い。
●ネットで引用するのは昭和の創価全集か令和の改版遺文集か?
どちらをネットで紹介してもトップが謝罪してないと末端会員は笑われるのが必然と思われる。
「前と違うぞ?これが宿命転換か?人間革命か?」
「今度はどこから盗用したのか?」
と笑われる可能性がある。
●リアルで読んだりやネットで引用するのは創価員や一般の人。
謝罪を別にしても正誤表や書名、遺文名の問題が解決しないと読者が混乱すると思われる。
レベルが低ければ「昭和定本」の代わりに使われることは無い。
●創価学会は創価新報などで偽法主な日顕や正式法主な日如氏の書き間違いや「平成新編」誤記を何度も指摘だけでなく誹謗中傷してきた。
今現在20歳前後の若い人は知らないかもしれない。
信徒の取り合いのために指導者失格、法主失格を結論づけ「平成新編」など数々の誤記を指摘しつつ絶叫(または発狂)し続けたのが創価学会である。創価学会のしてきたことは大問題だと思われる。
●「創価全集」を正しいと信じて死んだ人は成仏できたのか?
戸田城聖や戸田門下、池田門下で死んだ創価員が問題の対象となる。
383.創価学会の日蓮大聖人御書全集は間違いだらけ(その3)「日蓮遺文の脱字と授与書き削除」 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
----------<ここから>----------
日蓮遺文の脱字と授与書き削除
日蓮遺文の脱字で思い出したのが板本尊の授与書き削除です。
1994年11月15日、日蓮正宗本山である大石寺の板木尊、計四体の脇書部分の「願主法華講総講頭 池田大作」を日蓮正宗側が削除したそうです。
(総一坊(住職・山崎慈昭)と総二坊(住職・田爪鏡道))
同時に教えられたのは、「宗門(日蓮正宗)や悪僧を赦すな」という”怒り”でした。
私は本尊を日蓮大聖人の生命の当体、仏法の真髄は宇宙生命である本尊と教えられていたので、板木尊の脇書削除を聞いて気分が悪くなったのを覚えています。
ところが学会は日寛上人の本尊の授与書きを削除したコピー本尊を’93年に配布しています。
私自身も新本尊配布を喜んだことを覚えています。
’93年9月8日、9日当時の新聞を大事に保管し暫くの間、折伏に使っていたくらいです。
私自身、矛盾に気が付けないわけですからマインドコントロールって怖いですよね。
学会の場合、池田氏の本尊の授与書き削除程度で、正宗を許してはいけない(許されない)のです。
ところが、日蓮遺文の立正安国論を削除しただけにとどまらず遺文の文字をも御書に記載せず削除した結果となっています。本尊や遺文は大切なものであり、粗末にしてはいけないはずですが、こうした矛盾を抱えています。
創価学会ってなにかにつけ、いつもこうした矛盾や二面性があります。
----------<ここまで>----------
●日蓮宗の僧俗で死んだ人は成仏できたのか?
創価員各人は他宗を邪宗、または他宗とし異なるイメージを持っている。
日蓮宗を他宗と思うだけか、あるいは
創価、正宗、日蓮宗で言葉でしかない同じ題目を唱えても、創価以外は謗法地獄行きだ!との教団都合な思想だ。
(日蓮遺文には謗法堕獄抄が存在する。六郎恒長御消息、又は国家謗法文事・謗法堕獄抄・念仏無間事・念仏者無間地獄事(平編))
創価員の今後の言動が注目される。
●日蓮曼荼羅本尊は文字と図像、日蓮遺文は文字(一部梵字)。
頭の悪い創価員は「「改版遺文集」を新しくなってきれい!」とか言うのか?
過去の間違いを「平成新編」や故・日顕と共に責めるのか?
日蓮曼荼羅本尊は文字を曼荼羅にした図像なので改ざんされてもイメージの世界と言ったりとらえたりすることが出来る。
(今の私には改ざん本尊は気持ち悪く感じる。)
しかし創価によれば歴代法主の書き間違いは「謗法」や「法主辞任すべき責任」があるらしい。
「改版遺文集」や「創価全集」「創価編年」の過ちはイメージでとらえるのは困難と思われる。
創価員に普段から教え込まれた白黒二極論が問題になる。
(続く)
このような記事を拝見していますと、その内に自分たちの都合に合わない文脈などが削除されたり、改竄されたりといった問題が起きるのではないか?或いは、既に起きているのではないか?とすら思えますね。
まさに、ジョージ・オーウェル『一九八四年』そのものです。
他宗においては江戸時代や明治などに関わらず
教団トップの日記
教団トップの往復書簡
等々が現代で製本され記録として残っている場合があります。
改版遺文集の制作過程も日々、記録に残し学問的間違いやミスがないがチェックすべきだと改めて考えました。