創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

294.公明党 西田まこと氏 06/29日放送、テレビタックルでの発言。

2009年07月11日 15時36分36秒 | 創価学会
 記事を書いていない日はアクセスが少ないのが普通ですが、今回も都議選前の為か沢山のアクセスを頂き有り難うございます。
 笑顔できっぱりと断るか、あるいは笑顔で「公明党に投票しますよ」って言うだけで実際は別の政党に入れて頂ければ嬉しく思います。低い投票率を願う創価公明なんてとんでもないです。
投票依頼をされた人は出来るだけ学会員とのトラブルを避けるようにして下さい。
新聞啓蒙や会合参加も笑顔できっぱり「興味ありません」と断れれば良いのですが、それだけではすまない場合には私のサイトや数々のアンチ創価のHPやブログが役に立ってくれれば嬉しく思います。

●公明党 西田まこと氏 06/29日放送、テレビタックルでの発言。

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 鳩山前大臣、中身はいい悪いと色々話あると思いますけども、
 その私はですね。大臣は権力を持っているわけなんですよね。
 権力を持っている人が、ま、民間人に対して正義という事をいうと
 民間人は不正義ということになります。悪ということになるんでしょう。
 (中略)
 中身の問題は別なんですけど、大臣という権力を持っている人が一民間人に対して
 正義正義という言葉を使ってしまうと、もう民間の方は悪。。。。。。
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 番組中盤で正義と不正義(悪)というテーマで西田まこと氏が語っていますね。
今回、西田氏は鳩山前大臣の正義と不正義(悪)の言及を批判しています。

正義と不正義(悪)という物の見方、決めつけ、レッテル張り、思考パターンはまさに聖教新聞に書かれている内容。
普段から池田大作氏や聖教新聞から「与え」「教え」られた言動パターンです。

疑問が幾つもわいてきます。

西田まこと氏は番組の中で郵政社長が民間人かどうかについてツッコミ入れられていますね。
公務員に欠けている民間人の「様々な感覚や能力、経験など」を求めたから、
敢えて民間人に郵政トップになってもらったのでは?
郵政社長は民間の社長とはだいぶ違っていますから、民間人そのままの立場ではないでしょう。

私も鳩山前大臣の正義と不正義(悪)の言及には問題を感じますし、西田まこと氏、三宅久之氏の意見に賛成です。
今回、西田氏は鳩山前大臣の正義と不正義(悪)の言及を批判していますが、
彼自身、政治家でありながら正義と不正義(悪)という白黒2極論的な発想でしか人物評価出来ていないのではないか?
西田まこと氏自身が民間人の「様々な感覚や能力、経験など」を与党側として求めたのを忘れているような気がします。

○心理学的な考察からも疑問がわきます。

西田まこと氏の公式サイトには
ttp://www.nishida-makoto.jp/column/index.php?eid=142
ここで 心の中で合掌していました と書いていますからおそらく学会員なのでしょう。

彼が正義と不正義(悪)を語ると
「正義と不正義(悪)という創価学会と同じスタンスで語っている」
などと周りの人から思われるのを考えないのか?

彼自身だけは正義と不正義(悪)を決め語る資格があると思っているのか?
池田大作氏には正義と不正義(悪)を決め語る資格があると思っているのか?
公明党だけには正義と不正義(悪)を決め語る資格があると思っているのか?

 鳩山前大臣の正義と不正義(悪)の言及に反対した理由は政治家としてではなく、
彼の深層心理に
”池田氏、創価公明、あるいは自分だけに「正義と不正義(悪)を決め語る資格がある」”
”他の人が正義不正義を語るのは許せない”
このように思っているからかもしれません。
それとも島田裕巳氏の本にあるように創価VS公明の構図があり「権力者が民間人に悪とか言うな」との池田氏への皮肉でしょうか?w

 西田氏はそれなりの学歴があるようですが、カルト問題だけに限っても、学歴だけでその人が安全な人、安心出来る人とは言えません。
オウム真理教の信徒も高学歴な人がサリンをまきテロを起こし人を殺しました。
オウムが政治にも関わろうとしたのは事実です。

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33.創価学会の「悪」「仏敵」とは何か?創価の勘違い。 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/eee67f600411a80ebb79eb26aa2a8c0b

「青年よ、仏敵を打ち砕け。学会迫害の悪人は厳罰でのたれ死ぬまで攻め抜け」
'04年11月18日付け聖教新聞より。
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西田まこと氏がどの程度、創価学会の思想、池田氏の思想、聖教新聞の思想に傾倒して受け入れているか?
私個人としても興味深いところです。

以上
コメント (10)
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293.犀角独歩さんの日記 仏教は本来「信仰」ではなかった

2009年07月03日 22時18分30秒 | 創価学会
http://gree.jp/?mode=blog&act=view_per_entry&user_id=8028711&urn=urn%3Agree%3Ablog%3Aentry%3A202195498

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仏教は本来「信仰」ではなかった
2009/01/03 11:20
仏教は元々は信仰ではなかった。そう言うと、ビックリする人も多いだろう。
「強信」は信仰者のステータスのようなもので、それが大石寺であれ、創価学会であれ、顕正会であれ、熱心な会員信徒であればあるほど、重視することだろうから。
たとえば、わたしのペンネームの由来である最古の経典・スッタニパータ・蛇の章「犀の角のようにただ独り歩め」には「信」はただの一度も出てこない。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo02/mob/sainotutunonoyonitadahitoriayume.html
「信」が、では、もともとの仏教になかったというとそうではなく、プラニダーナはあった。この信は帰依(南無)の意味合いを帯びていない。「願い」といった意味合いに近い。
しかし、そうした仏教を一変させる思想運動が西北インドを中心に席巻する。ヒンドゥー教バーガヴァタ派のバクティ(誠信)の流行だ。
ヒンドゥー教は、もちろん、神への信仰だ。だから、その原型は「“神”への絶対の帰依」を意味した。しかし、ひとたび、これが仏教に摂取すると容易に「“仏”への絶対の帰依」へと変貌する。驚くことに、元来、願いほどの意味で用いられていたプラニダーナまでも同様の意味で使われるように変貌してしまう。
こうして、仏教の持つ修道修行は、バクティにとって変わられることになる。日本に至ってはさらに極端で仏教を受容することを「信仰」と呼ぶようにまで変化する。仏教は本来、修行実践するものであったのに、その修行実践そのものまでが信仰であると解釈されるに至る。
「信」が絶対の価値を持つに至るその遠因は、実はヒンドゥー教であり、その影響も受けながら創作された『法華経』もまた、信の強調が目立つ。
しかし、『法華経』がさらに徹底した「信仰」に書き換えたのは、羅什の翻訳にその原因があった。こうして完成したのが漢訳法華経、すなわち『妙法蓮華経』である。

原本の法華経がバクティ化した「信」の影響を色濃し示すまでも「絶対の帰依」と表現はそれほど、強くない。この点を「一乗思想」で書き直したのが『妙法蓮華経』である。わたしの羅什嫌いの理由はここにある。
日蓮が「南無妙法蓮華経」と言ったのは、この羅什の徹底を、さらに徹底した結果である。
よって、日蓮における法華経の受容はまさに信仰、強信そのものであったと言える。しかし、こうした信の強調は、仏教の本来の姿とは大きくかけ離れ、むしろ、ヒンドゥー教バーガヴァタ派のバクティのアレンジ「唯一絶対の仏の絶対の帰依」である。日蓮の教えはヒンドゥー教の影響を受けた「絶対」「信」に色濃く染まったものであるというほかない。
法華経における唯一絶対仏思想は「寿量品」に極まる。久遠仏思想である。
日蓮門下では、この寿量仏を妙法蓮華経(法)と一体であるという教学が流行する。仏・法が一体であり、そこに帰依(南無)することを「南無妙法蓮華経」であるとする解釈である。
こうした一方、田舎天台と言われる仙波談林ではひそかに独特の教学解釈がなされていった。その久遠仏釈尊より天台が勝り、釈尊の法華経より天台の摩訶止観が勝るという解釈である。
天台勝釈尊劣/止観勝法華経劣
「天台は勝れ釈尊は劣る/止観は勝れ法華経は劣る」という勝劣思想がここにあった。所謂「恵心流口伝法門」における極意である。
この解釈を生んだ仙波談林に、実は大石寺の日時以降の歴代が学んだという。
さて、ここから持ち帰られたこの考えは、大石寺において日蓮を本仏と解釈するアイディアの元となった。すなわち
日蓮勝釈尊劣/御書勝法華経劣
日蓮こそが本仏であり勝れ、釈尊は劣り、その日蓮が説いた御書こそ勝れ、末法に法華経巻は劣るという考えだ。「久遠元初」「自受用身」「本因」といった教学のアイディアもすべて恵心流口伝法門から盗用である。こうしたことは、文献資料を精査すれば、理解されることだ。よって、大石寺の日蓮本仏論は後世の変形解釈であり、日蓮本来の教学とは違うと言われるのである。
もちろんのことだが、釈尊より天台が勝れるといった考えは本来の天台の思想にはない。妙楽にもない。伝教にもなく、もちろん、日蓮にもない。真蹟遺文を精査すれば、わかることだが、日蓮は絶対仏・寿量本仏釈尊の絶対帰依者であった。日興の思想を精査しても、仏:寿量本仏、法:妙法蓮華経、僧:日蓮とする三宝観は不動であった。しかし、その後、仙波談林の影響を受け、大石寺の教学は大きく書き換えられてしまう。この大成者が日寛その人である。日寛はまた、天台宗細草談林の能化でもあったのだ。天台宗のこうした秘伝を大石寺に盗み入れるには格好の人物であったわけだ。わたしの日寛嫌いはここにある。
教学史を真面目に勉強すれば、どの時点で、どのように教学が書き換えられていくか、何の影響に依るのかわかるものだ。
さらに日蓮自らが書いた漫荼羅を研究すれば、所謂「本門戒壇の大御本尊」が、日蓮の真筆ではなく、それを元にした贋作であることは容易に見極められる。
わたしが戒壇本尊を批判するのは、それが日蓮の真筆によっていない偽物であるからだ。大石寺の教学を批判するのは、日蓮の本来の教学と違っているからだ。
さらにわたしが信仰を卒業したというのは、それが本来の仏教ではないからである。
信仰に冒された人は、善悪を信・不信でしか解釈できない熱病に冒される。しかし、その信仰とはヒンドゥー教の影響を受けて変形された似非仏教である。バクティ(強信=狂信)からプラニダーナ(信=願い)へ。それがわたしの提言である。なぜならば、それが本来の仏法であるからだ。
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2. 犀角独歩 (22) - 2009/01/03 13:00
○○○○さん

コメント有り難うございます。
追って書こうと思っていますが、「信」について、もう一点、重要な問題があります。妙法蓮華経(法華経)における「信」の用法はすべて法、そして、仏が目的語になっている点です。つまり、信じる対象は仏法に限られています。仏法を説く“人”への信に対する言及はないということです。

ところが法華教団、なかんずく、日蓮門下において、特に創価学会・顕正会を含む大石寺圏では人と集団に対する信が強調されます。「池田先生」「浅井先生」「御法主上人猊下」という人をです。
『涅槃経』では「依法不依人(法によって人によってはならない)」と明確に記されていますし、日蓮もまた、この厳戒を護りました。

いま「議論ある団体」また、ネット上で「カルト」と称される日蓮門下集団の「先生」「猊下」は、ところが人への帰依を説いているわけです。ここに問題がありませんか。法華経にも、涅槃経にも人に対する信など説いていないわけです。人への信、さらには特定教団への信を強調するのは、法華経からみても完全な邪説でしょう。

こうしたグループとリーダーは、本来、仏と法へ限定された信を自分たちに向かせています。この点が「信」を考えるいちばんのポイントではないでしょうか。
コメント (9)
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