創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

317.別尊曼荼羅と付随する目的や方法。

2011年02月23日 22時48分06秒 | 創価学会
●曼荼羅と付随する手法、方法。

 面白いほどよくわかる密教 渋谷 申博 (著) を読んでいて疑問に思ったのが、密教の修行の数がこんなにすくないのか?ということ。もちろん、最初からこの本に全てが書いてあるとは思ってません。

>密教修行を知りたくて探したけど知りたかったテーマはなかった

具体的な加持祈祷、修行、修法について知りたかったけど本屋さんでは見つかりませんでした。
手にとった本に書かれていなかったか、熟読すればあったのかもしれないけど。

愛染、不動が一括りにされる理由。あるいはその年代。
これが今回また少し見えてきたのかも。

マンダラは何を語っているか 真鍋俊照(著)
P141
このように別尊曼荼羅はこの世(現世)でいかに人間が人間らしく現世利益を追求するかを前提としている。しかも別尊マンダラは、その現世利益を達成するために、それにともなう手法が必ず一セットとなって初めて効力を発することを条件としている。

ということで 「別尊マンダラ」+「特定の修法、つまり加持祈祷など」 であろうということ。

別尊曼荼羅で検索をすすめると、私個人が知りたいのが見つかりました。

おもな別尊曼荼羅
http://web.kanazawa-u.ac.jp/~hikaku/mori/class/0608jp_mandala/0608jp_mandala_resu/besson.pdf

一字金輪曼荼羅:一字金輪法、金輪王法

このPDFの学説では曼荼羅と「法」がセットになっているのがわかります。
(おおよそながら、一つの曼荼羅=ある特定の目的=目的のための特定方法ということかと)
宝珠はこのPDF中で一字金輪曼荼羅など、2つにしかない。

このPDFには残念ながら、摩尼宝珠曼荼羅がない。
マンダラは何を語っているか 真鍋俊照(著)にも摩尼宝珠曼荼羅がない。
摩尼宝珠曼荼羅は、特殊な位置づけかあまり流行しなかったのか、秘密だったのだろうか?

少なくとも学説上、証拠が存在する程度には、法華経とその法があった、ということか?

●摩尼宝珠曼荼羅

そこで「摩尼宝珠曼荼羅 最古」で検索するとより興味深い結果が。

『鹿園雑集』奈良国立博物館研究紀要|奈良国立博物館

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─研究ノート─
平家納経雑感
梶谷 亮治

 平家納経経篋の荘厳について河田貞氏は、それが法華経提婆品の龍女成仏の表現であろうとされながら、蓋表に二頭の龍が向き合いその上方に五輪塔が浮かぶという異例の図様に注目され、如意宝珠法の本尊画像である摩尼宝珠曼荼羅との形式の近似に注意された(注3)。摩尼宝珠曼荼羅の現存最古の作例とみなされる仁和寺の白描図像本は長寛から承和年間の成立であり、平家納経当時にこうした図様がすでに成立していたことを示されたのは新しい知見である。また最近の内藤栄氏の宝珠に関する研究(注4)によると、平安時代末期から鎌倉時代にかけての醍醐寺では、如意輪観音と宝珠とを同体と見る特別な宝珠信仰が行われていたが、その内容を伝える『東長大事』(注5)には興味深い「如意宝珠曼荼羅」が掲載されている(内藤氏前掲論文の図13)。空海に仮託された能作性の宝珠観を図示したものとみられるが、蓮華上五鈷杵に安置される宝珠を雲上の双龍が見上げる図である。さらに『東長大事』には醍醐寺の勝覚(一〇五七~一一二九)が建立した三尊図(同前の図21)を示している。これは中央に五輪塔、左右に不動明王と愛染明王を配したものである。記述によればこの五輪塔の水輪には二顆の宝珠が納められ、「中尊五輪ハ此如意輪ノ三形也」とする。その後勝賢(一一三八~一一九八)はこれを「三仏如意輪法」と称し秘密に伝えた。注目されるのは「塔婆宝珠一躰異名也」とする記述があることで、これにしたがえば容易に平家納経経篋の意匠が思い浮かぶことになる。五輪塔は如意輪観音であり玉女(皇后・中宮)のイメージと重なり合うであろう。経篋蓋表のモチーフが平安後期の小野流における宝珠信仰を強く意識したものであることは疑いない。清盛がこうした宝珠信仰を知るについては、勝賢が清盛と交誼の深い藤原通憲(信西)(一一〇六~五九)の子息であり、別にはまだ若年だがのちに安徳帝護持僧となる醍醐寺僧良弘(良勝方、一一四二~?)の存在が何らかの役割を果たした可能性も考えられる。

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>如意宝珠法の本尊画像である摩尼宝珠曼荼羅
>摩尼宝珠曼荼羅の現存最古の作例とみなされる仁和寺の白描図像本は長寛から承和年間の成立
>宝珠
>左右に不動明王と愛染明王

宝珠と政治家トップのかかわり。
これは、日蓮さん漫荼羅と宝珠。日目さんの天奏などと関係があるのだろうか?

奈良国立博物館を見に行ったときは四天王や愛染、不動の像、画像ばかりに目がいって「摩尼宝珠」関連も見たはず(笑)(^^ゞだけど意識してみた覚えがない。うーん。失敗失敗。残念なことをした。

犀角独歩さん達、皆さんのご研究が進むことを期待しています。

●敷曼荼羅

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>「曼荼羅の世界」P50には 「敷マンダラ」があり、宝塔を中心に右に大日如来、左に釈迦如来(?字が不鮮明)の2仏形式のマンダラ写真があります。
この敷マンダラの所蔵寺院と年代は例によって例のごとくさっぱり不明なのですが、敷マンダラは大きなお寺で複数所持されている可能性があるのだそうです。
このマンダラの制作年代によっては 「中央に宝塔(法)二仏」という形式は日蓮生前からあったのかもしれません。
この「敷マンダラ」は壇の上に敷くマンダラだそうです。
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>絹本著色両界曼荼羅図〈/(敷曼荼羅

絹本著色両界曼荼羅図とは - 国指定文化財等データベース Weblio辞書
1rkmd006

1410は東寺の所蔵みたい、前掲書P50はやはり1410関連か?
上のリンクは年代はありがたいけど所蔵寺院名がいつも未記入。

●参考リンク

http://web.kanazawa-u.ac.jp/~hikaku/mori/class~マンダラ関連文献

0502enshu_bib_topic


●日蓮さんの評価。

 先のPDFをみると、時代の変遷で変わっているかもしれないが、ある時代(あるいは人、あるいは日蓮さん)に限定すれば、一つの曼荼羅=一つかとある目的=特定方法だったらしい。

そうすると仮に法華経法で相承(特定方法)の授受がある、ということは現代で言うところの医師免許と専門は異なるけど、わかりやすく例えれば鎌倉時代は小児科医は小児科医の免許相伝、みたいな感じか?(*1)

もし、そうならばお寺の名前はどうなるのだろうか?適当に思いつきで書くが、如意輪寺、法華寺とか命名があったとして、そのお寺が如意輪寺なら、如意曼荼羅を所持していて如意輪の手法(加持祈祷)が出来ますよ、ってことでは?
お医者さんで言うところの専門道具と医師の能力、ということ。
中身が日蓮外科病院なのに命名で日蓮小児科病院って言わないだろう。ふつー。

今度オフ会に参加出来れば、鎌倉時代前後のお寺の命名でこんな推測が少しでも成り立つのかどうか、独歩さんかFBIさんか誰かに聞いてみよう。

なお、加持祈祷の違いは検索するか面白いほどよくわかる密教 渋谷 申博 (著) などを参照のこと。

(*1の意見は日蓮漫荼羅が允可状である意味を弱めないのか?法華経最第一であるトータル相承と専門の相承と矛盾しないのか?なおかつ天皇に受戒?允可って日蓮さんの考えは法華経があれば仏教を知り尽くした最勝允可の意識なのか、専門允可なのか?どっちだろう?)


こうしてみれば、正宗系信徒会員の罵詈雑言は 「歯科医が脳外科治療も眼病治療もがん治療も出来るのだ!!!南無妙法蓮華経!」っていってるのと同じか。(笑)

法華経最第一が鎌倉時代当時の有力学説の一つだった。
法華経や法華マンダラが比叡山トップ僧侶や高野山トップ僧侶にその時代、その時代でどの程度重んじられたのかは私には分からない。が、
法華マンダラは「別尊マンダラ」であり下位か目的別の漫荼羅扱い。「ご相承」「ご相承」「御義口伝」「御義口伝」「マンダラ」「マンダラ」「ご本尊」「ご本尊」と強く言えば言うほど、原始仏教から見て問題ありそうな密教色が濃くなり、密教の両部曼荼羅を肯定して最上とする一面を持つ。正宗系信徒会員の様に口汚く言えば、なおさら反論となって返ってくるだろう。
法華経だけちょっとしか知らないから、ちょっとの相承(訓練や修行、手法)しか無いから、口汚い言動しかでてこないのだと。

法華経だけ、日蓮さん遺文だけ、日蓮関連だけの書籍だけ、日蓮さんだけを知っていればOKというのが、どれだけダメダメだというのがわかるだろうか?>正宗系信徒会員
素人の私がちょっと調べただけでも、こうして膨大に正宗教学を部分否定できる証拠が出てくる。(日蓮さん真筆遺文も事実であり、一つの証拠。私は全否定していません。)

 他宗絶対否定の誹謗中傷の絶えない顕正会とか創価とか正宗とか正宗系をなんとかしないと、法華経、日蓮漫荼羅とかが諸尊諸仏を否定せず肯定し取り入れるなど、日蓮さんとかの苦労が台なし。日蓮って町医者のレベルだろ?って言われても仕方ないような。

誤解されやすい日蓮遺文や法華経に限界や問題がある、ともいえるか。

FBIさんに時々伺うのだけれど、日連系は他宗派に比べて文献があまり整ってないらしい。
日蓮宗(日蓮正宗は問題外。)のお坊さんは、上記の問題に気がついたからやろうと思っても出来ないのでは?などと邪推したくなります。
実際はそんなことなく普段から宗教者が宗教行為(言動)をすれば普通に大丈夫だと思うけどねぇ。

以上。

コメント (3)
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316.マンダラは何を語っているか 真鍋俊照(著) 講談社現代新書

2011年02月20日 09時28分30秒 | 創価学会
 FBIさん紹介の真鍋俊照さん、本の選択は私が適当に安い本を見つけて選んだだけのことです。
一応、きちんと読んだつもりですが、誤字脱字、引用ミスがあれば御指摘ください。

なお繰り返して言いますが、真鍋俊照さんが91年に書いた学説であって絶対でも最新の学説でないことをご理解ください。

マンダラは何を語っているか 真鍋俊照(著) 講談社現代新書
1991年9月20日第一刷発行

2-マンダラの起源をさぐる
2-1 マンダラの原初の状況

P47
このような「牟梨曼陀羅呪経」(むりまんだらじゅきょう)は、方形のマンダラとしては四隅と四門を構図上整備し外側の守護の特に強い意味を持たせていることが伺える。既に指摘したように、このマンダラ壇は不空(705ー774)によって訳された「宝楼閣経」三巻諸説の「宝楼閣マンダラ」となり完成される。

P49
不空訳「宝楼閣経」(C)は菩提流支(ぼだいるし)訳「宝楼閣経」(B)、および「牟梨曼陀羅呪経」(A)を経典発達史上では間接的な典拠としているのである。つまりこの三本は親子関係にあり、(A)が本経で(B)(C)は異訳・抄訳である。すなわち(A)の展開が(B)(C)なのである。しかし三本とも共通していることは、最終的には釈迦如来を本尊としている点である。この部分は後の「宝楼閣マンダラ」に等しい。

P49
四天王も全体を守るように四隅に描かれている。釈迦如来中心の三尊の形式は(A)の「牟梨曼陀羅呪経」および(B)(C)の「宝楼閣経」にもとづいているのだが、どちらかといえば(B)(C)の所説によってこのような七宝荘厳の楼閣内・外に配置されていることは間違いなく、後世の阿弥陀如来お三尊形式が、阿弥陀浄土変の図学的発展と関わっていることを示唆している。

2-2 マンダラを生んだ宇宙観

P61
それはマンダラの展開という見方であるが、空海の「十住心論」所説の第十秘密荘厳住心が根拠になっている。わかりやすくいえば、この境地は大日如来の浄土をあらわしている。その場所は、覚鑁(かくばん)が著した「密厳浄土略観」では大日如来の法界宮殿が舞台となる。その周囲には阿シュク・宝生・阿弥陀・釈迦の四仏が配置されそれぞれ浄土があり、また四仏の周りに四波羅蜜菩薩、十六大菩薩、十二天妃、二十八転輪王のマンダラの諸仏が取り囲んでいるのである。

2-4 マンダラの構図の根拠

P68
このように釈尊を中心とする原始仏教の円座の系統はのちの「法華経」にもとずく変相図や数多くの「経変」において中心(仏)をとりまく、あるいは取り囲む構図となって造形化されるようになる。法華変相図などが法華マンダラと呼称されるのはそのためである。この形態は涅槃図などにも顕著にあらわれるようになるが、そこでは密教マンダラのようにパンティオン(仏や神々の集合)は組織的な統一原理を持たないのである。つまり変相(経変)は、幾何学的な集合の形式をとらないから、人間臭い生々しさがあるという見方ができる。

P69
密教と浄土教のマンダラの表現の仕方は各々逆であることが、作画・構図の発展過程の中で鮮明に出ているのは興味深い現象である。浄土教の変相(マンダラ)は極楽浄土の時間・空間を超えた理想的な景観を通して次第に鮮明に現れる。マンダラの主題はそれほど多くはない。

P69
しかし、密教のマンダラは「金光明経」の四仏、「観仏三昧経」の十仏中の四仏、後に七世紀中頃に成立した「陀羅尼集経」十二巻のごとく (筆者米山が中略) マンダラの主題はきわめて多岐にわたっている。いうばらば、浄土変相(マンダラ)は作図の出発点として人間の死と釈迦の涅槃を拠り所にしているのに対し、密教のマンダラは釈迦の降魔成道・説法を出発点としているように考えられる。

P70
これらの五仏、四菩薩を中心とする両部マンダラは、中国において空海の師・恵果によって統合され完成したと考えられている。但し両部、マンダラの方形・円形の構図の根拠となるべき資料が、最近中国の鏡(漢鏡)までさかのぼるのではないかという解釈を中野美代子氏(「即身」所収「中国のマンダラ的世界像」)が提起されているのは、注目すべき指摘であろう。

3-両部(両界)マンダラの世界

3-1 空海が創り上げた手法の場

P77
「曼荼羅は宇宙の真実の表現ですね」 (筆者米山が中略)

3-5 マンダラは生きている

3-4 金剛界マンダラが表現するもの

P105
一元論(アドヴァイタ=不二)が有力なインドのウパニシャッド哲学では、宇宙の本質としてブラフマン(梵)と個人の主体的本質であるアートマン(我)の二つを同一のものとみなして「梵我一如」という。これは宇宙を含めて万有のすべてがブラフマンとアートマンに帰一するという意味である。この原理を考えると、その本質的内容の表現に苦心がはらわれ、結局は不可知なもの、言葉をこえたものとしての「ある一つの存在」を認識することが出来る。密教マンダラの出発点もここにある。

4ー浄土マンダラとは何か

4-1 マンダラと「浄土変相図」

P122
密教マンダラは細密に描かれた密教絵画であり、多種多様な表現形態をとるが、大きく分けると両部(両界)マンダラと別尊マンダラの二種類になる。
ところで、このほかに浄土教が説く極楽浄土の世界を描いた絵画も、一般的にマンダラと呼ばれることがある。しかしこれは正しくは「浄土変相図」と解釈するべきである。

P123
両者を絵画として構図色彩から比較してみると、全体に密教のマンダラは空間の中に描かれているのに比べ、浄土教の変相図は建築物(楼閣など)を背景に、前面には浄土の蓮池を配置している。ここが密教曼荼羅とは異なる特徴である。

変相とは、監訳では「変現」すること、あるいは「転変」することの意味で、サンスクリット語のパリナーマが原語である。
(中略)
仏教における変相図は、略して「変」とも呼ばれるが正しくは浄土の様子・世界をあらわしたものであるから、「浄土変」とか「浄土図」とかあるいはここで問題になるようにマンダラという言葉が拡大解釈されて、「浄土マンダラ」として広義に使用されることがある。しかし変相図は密教のマンダラとは異なり、その範疇には入れないのが普通である。
 ところが日本では浄土三曼荼羅としてたいへん有名な「当麻曼荼羅」「智光曼荼羅」「清海曼荼羅」などがあって、これらの多くの模写転写本にまでさかんに”曼荼羅”という語が付されている。しかし表現された内容を比較してみると、密教マンダラの幾何学的な(場合によっては抽象的な)構図とは異なり、浄土の情景を描写したものが多い。

5-別尊マンダラの世界

5-1 別尊マンダラと現世利益

P139
この真言を唱えるものは、生涯で受けた生死の重罪を全て洗い流すが如く消滅してしまうという。

P141
このように別尊曼荼羅はこの世(現世)でいかに人間が人間らしく現世利益を追求するかを前提としている。しかも別尊マンダラは、その現世利益を達成するために、それにともなう手法が必ず一セットとなって初めて効力を発することを条件としている。

5-2 様々な別尊マンダラ

P158
(5)大仏頂マンダラ
中尊が一字金輪如来の写真あり。

P160
(6)一字金輪マンダラ
一字とは梵字ボローンをあらわしたもので、金輪仏頂のシンボルである。
図像(6)は不空訳「金剛頂経一字頂輪王瑜伽一切時処念誦成仏儀軌」(略して時処軌という)にもとずく図解

P165
(10)宝楼閣マンダラ

P167
(11)法華マンダラ

P179
(20)愛染明王マンダラ
愛染明王の像マンダラの写真と愛染明王マンダラ単独で種子曼荼羅の写真あり。

(21)両頭愛染マンダラ
P179~P180
図では日輪のなかに両頭の愛染明王を描く。(中略)
この着想のヒントは平安時代末期に確立した愛染不動合体像の考えに基づくという。

不動マンダラの紹介はなくP145にキーワードがあるのみ。
マンダラの所蔵寺院は一切不明。年代も(6)以外はほぼ不明。
宝楼閣マンダラが古いのは引用のとおり。

=============================================================
P47
日蓮の曼荼羅に正方形はないが、四角という意味で特に目新しいとは言いがたい。

>外側の守護の特に強い意味を持たせている

日蓮さんが知っていたかどうかは不明だが、日蓮曼荼羅で四天王や梵字が巨大な理由はこれと同等か?
日蓮曼荼羅で四天王や梵字が巨大な理由になにか意味があるとすれば、歴史上の密教的な理由があるのかもしれない。

◯日蓮曼荼羅は変相図か曼荼羅か?

日蓮曼荼羅の形式と内容から、変相図とも曼荼羅とも、どちらともとれる。
どちらかというと密教的な形式と内容が多いと私は感じた。

私だけが感じたことかもしれないが、日蓮さんは曼荼羅と言って書き残したのは失敗だったように私は思う。
曼荼羅の精密さ、情報の多さとは比較にならない。日蓮さんが曼荼羅と言い残した割には密教系金胎曼荼羅の儀軌や歴史を「かなり大きく」無視したことになる。

例えば、無知な学会員が「これが御本仏の曼荼羅で、この曼荼羅こそが正統派なのです。」って密教系の人に言うと笑われると思う。
なにしろ問題集団(教団)としての自己中心的な言動がありすぎるから。
日蓮さんが経文名(法)を中心にしたのは良かったと私は思うけど、学会員は法の内容(原始仏教の内容)をどころか勤行以外、法華経もロクに読んでないし。
法とはなんですか?って聞かれ、方便品、寿量品を取り上げても更に問われても原始仏教には辿りつかないし。

遺文に一代五時図があり、これの名前がいつの時代に付いて誰がつけたのかは私は知らないが、同様に命名すればよかったと思う。
日蓮さんが「法華経宝塔品図」、又は「宝塔図」と名付ければよかったような気がする。そう思うのは私だけかもしれないが。
方角があるのは事実なので地図の図でいいと思う。

一字金輪、大日如来、愛染不動、金烏玉兎、こうしたキーワードからも日蓮さんは密教系(台密)の影響を残したまま、宝塔品図を描いた僧侶。
が、途中までしか相承されなかった密教僧としてレベルの低かった僧侶として名前を残すのかもしれない。何の証拠もないけど。

大乗仏教でかつ天台法華のみの僧侶であれば真言密教(大日経など)のキーワードを採用せず、法華経のみの仏教用語を採用すれば良かったように思う。日蓮さんが曼荼羅といっている以上、密教の曼荼羅をさしているのは間違いない。が、曼荼羅というべきではなかった、かと。

格下と思われる愛染が用いられる理由が今ひとつ不明だったが、P180の
>図では日輪のなかに両頭の愛染明王を描く。(中略)
>この着想のヒントは平安時代末期に確立した愛染不動合体像の考えに基づくという。

独歩さんのブログの記述の裏付けの一つ。
何かの云われや理由があっておそらく日本独特な理由から愛染不動が選ばれた、ということか。
愛染不動、一字金輪と、3つの中でなんとなく愛染だけが私には疑問だった。
なんとなく、ようやく納得したかも。後は独歩さんたちに調べてもらうしか無いのだろうけど。
ここでも日輪と愛染だった。

不動愛染が一緒に扱われるのも平安時代にさかのぼることが出来、日蓮さんのアイデアや発明ではないということ。
ま、可能性や学説であって断言はしませんが。

◯教えないよ、秘密だよ。

空海と最澄のやりとりからもわかるとおり、トップ同士で経文の貸し出しすらお断りがあるわけだし、現代人でも池田氏日顕氏はお互いにダメ出しをして「教えてあげる」という姿勢どころか話し合いもない。拒絶なわけだ。

正宗系信徒会員が「御義口伝」など「秘密」「甚深」「奥義」「口伝」「先生にしか分からない」「御法主上人猊下のみ」とか口汚く言えば言うほど、密教系宗教の秘密、神秘相承を肯定することになり、日蓮及び曼荼羅の評価は下がるのは間違いなさそう。

◯最後に。

変相図にしても密教系曼荼羅にしても相手にわかりやすく説明する、修行僧にとって成長を促す、という役割や意図があるのは見逃してはならないと思う。
ここでは心理学的な理由は控えるが、安易に何かを否定しない、ということかと。絶対に否定するな、と言ってるのではないです。安易さが問題。

マンダラは何を語っているか 真鍋俊照(著)
P215
たとえば国宝・伝真言院両界曼荼羅(東寺)の蓮花部院(観音院)の観音たちの仏の顔をみてみよう。
接近してみると、顔相は一つ一つ違うけれど、みんなに共通していることだが、大小の差こそあれ静かな笑を浮かべてほほえんでいることだ。

>神秘主義的宗教は師に対して絶対的な服従を求める(松長有慶)
>http://fallibilism.web.fc2.com/046.html

Libraさんの引用していた密教本の評価がどの程度、妥当なのかは私には分かりません。
密教の歴史的に、他者救済のための僧侶を成長させるための厳しい教えなのか、歪んだ服従の教えなのか、歴史的にそれぞれの割合が1:99だったのか50;50なのか99:1なのかも私は分かりません。2つの本の内容がどちらもそれなりに事実ならやはり、言動不一致な歪んだ人間を育てることであり、ますます宗教は不要、そう言われると私は思います。
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曼荼羅と烏と玉兎。 梵字をまとう不動明王。

2011年02月14日 20時39分16秒 | 創価学会
富士門流(日蓮法華)の皆さんやFBIさんに連絡。
犀角独歩さんのブログや富士門流信徒BBSに既に記載があったらゴメンなさい。

密教修行を知りたくて探したけど知りたかったテーマはなかったです。>FBIさん。

1.曼荼羅と烏と玉兎

はじめての「大日経」入門 (セルバ仏教ブックス) [単行本]
越智 淳仁 (著)

この初心者向きの本を立ち読みすると

>3 大悲胎蔵生曼荼羅の三部と9曜(曼荼羅の中尊をなぜ法身と呼ぶのか三密行と3種曼荼羅 ほか)

中尊、つまり大日如来を法身と捉える解釈がある。
つまり、初心者本でこの解説があるのだから探せばいくらでも文献や研究所に同等のことが出てくる様な気がします。
中尊、つまり真ん中に法を表現する点についても日蓮曼荼羅に特別なオリジナリティがあると思えません。私は、ですが。


もう一つ大事な点、この本のたしかP72から3ページに渡って真言曼荼羅と金烏(色はたしか黒)玉兎の記載あり。

はじめての「大日経」入門 書目明細

>曼荼羅と三つ足カラスと玉兎

に記載あり。カラスと玉兎について年代は敦煌壁画まで遡れる。
パラパラと見た限りではこの書籍に日蓮への言及はなし。
FBIさん必読かと。あとよろしく。FBIさん(笑)。
私はもう仏教者ではないので、1円なら買ってもいいんだけど。。。。

2.梵字をまとう不動明王。

 実修 真言宗の密教と修行 (わたしの家の宗教) [単行本]
大森 義成 (著)

パラパラめくると、この書籍にはお遍路さんのコースがあり
体が梵字で出来ている本尊(お札)がある。

詳細は「独鈷山 青龍寺 不動明王」でgoogle画像検索か
第三十六番札所 独鈷山 伊舎那院 青龍寺
例によって例のごとく、本尊の年代がはっきりしない。
ほとんどお伽話風味なので。

ポイントは四国八十八箇所 お遍路のうち、不動明王の本尊が2つ(たしか2つ)あるうち、一つが梵字で、もう一つが密教曼荼羅のよくある絵画風。

日蓮曼荼羅では愛染と不動のみが梵字だが、不動がなぜ梵字で書かれるのか?
という理由がこの辺りからさぐれそう。
梵字が多少崩れた書き方をしているのもポイントか?

もう一つ。愛染は密教の中で格下の存在。これは密教の書籍を読むとわかります。

私の印象でしか無いが、少なくとも
【大日≧不動>>>>>>愛染】
こんな感じのはず。

格下の愛染が梵字となって描かれる理由が不明。
 →日蓮が愛染不動のみしか相承を受けなかった?
  →私度僧ならぬ、私度相承の為か?

空海の流れをくむ高野山の正統派の曼荼羅の相承(儀軌など)を日蓮が受けたとは思えない。
最澄の流れをくむ比叡山の正統っぽい?密教の相承(儀軌など)を日蓮が受けたとは思えない。

密教では格下の愛染が曼荼羅に必要な理由が不明。
 →?

不動明王だけが梵字の体で出来ている理由がわかると、愛染の理由もわかるのかもしれません。もちろん逆もあり。

FBIさんの日記の一部、理趣経の説明あたり?を公開したほうがいいような気がします。

というわけで、日蓮さんは真言密教僧だったけど、真言宗や大日経などの問題点、疑問点に気がついて儀礼や作法、曼荼羅など表現方法は真言風だけど、法華経の内容が大事だと気がついた。

儀礼や作法、儀軌などを表現方法は曼荼羅(真言風)として経文は法華経を採用した?

●笑えたので、おまけ。

弘法大師空海の金言をひらく (セルバ仏教ブックス) [単行本]
静 慈圓 (著)

空海さんの言葉は学会指導そっくりです。
嘘だと思うなら読んでごらん。>バリさん達。

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メモ:マンダラの漫と曼、サンズイありなしの違い。

2011年02月14日 00時31分49秒 | 創価学会
犀の角のように独り歩め:日蓮墨筆を読む(366)大日経疏要文-「漫荼羅」という語との関係

文永6(1269)年で「陀羅尼字」の記載。
陀羅尼字とは文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の真言らしい。
文殊菩薩は日蓮曼荼羅に勧請されていたっけ?
パッと思い出せない。

日蓮さんが47歳の時点で真言について言及があるわけだから、創価学会教学の言うところの
「立宗宣言以後に真言に言及するわけがない。よって愛染不動感見記は偽書。」というのは無理があると思う。他にもこんな証拠が沢山あるだろうけど。
北林なんとかのHPは読んでて正直、腹がたつ。
ま、私には日蓮墨筆が読めないし、文殊菩薩や真言を否定した文章の可能性もなきにしもあらず、だけど。

曼の字を満月上岡山で検索すると約35。
漫の字を満月上岡山で検索すると約11。

漫の字は大日経の引用。
真筆に限って年代順にしらべると面白いのかも?後日やってみるか。。

FBI(笑)Oh my Buddha!日記/マンダラ・まんだら・曼陀羅・曼荼羅・漫荼羅 - GREE
説明文はこのリンク先が分かりやすいので転載許可待ち。以下のとおり。

-----------------------------------------------------------
マンダラ・まんだら・曼陀羅・曼荼羅・漫荼羅
まんだら

一般的には
曼陀羅
もしくは
曼荼羅
という書き方をします。

ところが日蓮さんは「曼」の字にサンズイを付けて
「漫荼羅」
と書きます。

このしサンズイのついた「漫荼羅」の出典は、
『大毘盧遮那成佛神變加持經』(だいびるしゃなじょうぶつしんぺんかじきょう)
別名『毘盧遮那経』(びるしゃなきょう)
という、真言の経典。

「大毘盧遮那」とは「大日如来」のことです。

そして『大毘盧遮那成佛神變加持經』とは、いわゆる
「大日経」
のことを言います。

日蓮さんが「大漫荼羅」と書くとき、その言葉の出所は真言密教の根本経典にあったわけです。

2011/2/12 04:09
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315-1.これから宗教を肯定しますが、注意事項として。続き

2011年02月13日 21時10分30秒 | 創価学会
●過去記事にも書いてきたことですが、、、、、

「贈与するのが伊達直人、増税するのが菅直人」
「子供たちにランドセルを背負わせたいのが伊達直人、子供たちに借金を背負わせたいのが菅直人」
「必殺技を決めるのが伊達直人、『俺に決めさせるな』が菅直人」

小学生の女の子二人が自分のお小遣いを出して寄付したケースもあったみたいですね。
誰が上手いこと言えって言った?ってくらい本当によく出来ていますが、宗教と反宗教(カルト)の違いもこの辺りかも。

「相手のしてほしいことをしてあげる(行う、与える)のがお釈迦さん。自分達の欲しいお金や権力、時間をgetする(脅して奪う)のが日顕氏日如氏池田氏浅井氏。」

日顕氏日如氏池田氏浅井氏は怒りも恐怖も与えるだけでなく、ついでに嘘を教え、ネットやリアルでのいい負けた責任、嘘の責任は末端にのみにしかありません。
指摘しても「〇〇のお心が分からないのか?」「信心が足りない!」というオカシナ精神論です。

起こるべくして起きた“ゆうパック”遅配騒動を 他人事のように分析する日本郵便経営陣の「見識」|『週刊ダイヤモンド』特別レポート|ダイヤモンド・オンライン

トップが末端の責任にするのは非常に浅ましいですね。何が罰だの宿業だの、人様他人様の不幸に更に不健全な怒りを与えたり喜びを感じる正宗系信徒会員にはいい加減にして欲しいですな。

●曼荼羅

 さて曼荼羅について語る必要がありますが、日蓮が創価などの教団都合な100%純粋さであったわけはなく(と、私は考えています。)、密教とか真言とかどんな意味合いを持ち得るか?つまり現代人にとってどんなメリット、デメリットがあるのか?
というのが今の私の興味です。創価学会から見て日蓮さんは邪宗の僧侶であるけれども私から見れば歴史的経緯や日本仏教の現状から混ざっていて当然だと思います。

曼荼羅と三身(法身・報身・応身)は関係があるので避けて通れないと思いますが、
過去に、中国天台宗が、日本天台宗が、日蓮さんが、三身についてどの様に説明したか?これには基本的な点など少ししか興味がありません。

2つ疑問があるとすれば、ですが、
鎌倉時代の日蓮さんは どういうシチュエーションでどんな人に、どういう風に 法身・報身・応身 を「説明ではなく」実際に使ったのか?
現代人にはどういうシチュエーションでどんな人に、どういう風に 法身・報身・応身 を説明したら役立つのか?
こんな感じかな?
「何を信じているかではなく、何をしているかで判断する」
これの後半の、法身・報身・応身で 「何をしているか?」「どう使うか?」 に興味があります。
具体的な人とかにTPOが分かればOKなのかも?

FBIさんから教わった大日如来のポイントも簡単にメモ書きにはしようと思っています。

●どうして「何をしているか?」「どう使うか?」 に興味があるか?というと。

 過去記事にも書いたとおり、お釈迦さんは糞尿まみれの病人を世話しているわけですが、現代で言うと所のホームレスですよね。
知ってる人は知ってると思うんですけど、ホームレスの人ってお風呂入ってないので凄い臭いがするんです。

 お釈迦さんは無常無我の教えを弟子に説いた、というのは比較的知られていることですが、少し考えてみましょうか?

これは私の想像だけかもしれませんが、無常、無我という教えはお釈迦さん彼自身が使っていたように感じるのです。
原始仏教当時でも現代でも普通の人なら臭い人には近づきたくないでしょう。
でも、「臭いなあ」「近づくたくないなぁ」ってそんな考えや感情、その考えや感情はいつか消え去るものだ。
でも、「臭いなあ」「近づくたくないなぁ」ってそう思う自分、そんな自分はいつか消え去るものだ。
って考えられたらどうでしょうかね?

というより、普段から修行してそう発想するようにしていたからこそ、お釈迦さんはできたんじゃないのかな?と私は想像しています。

あるいは、、、いつか消え去る自分なのだから、自分にこだわりを持つ必要性はなく他人につくすべきでしょう。というのは彼の言葉と行動であって、言葉と行動が一致しているんですよね。
無常無我から他者救済に向かったのか?それとも元々他者救済に興味があって、無常無我の教えに気がついたのか?
お釈迦さんはスジャータさんにインドの牛乳?(ミルクで作ったお粥?)をもらってその後の瞑想で悟りを得た、というのが定説ですが私にはここはかなり興味深かったり。(草稿記事あり。)

どっちにしても仏教として混じり気や矛盾は少ないかと。ま、当たり前ですが。

曼荼羅と三身(法身・報身・応身)は関係があるので必要なテーマなんですが、
自分や他人に具体的に「使えるのかな?」「使うことが出来るのかな?」ってのが興味深いです。

●出来る、ということはイコール≒素晴らしいではない、ということ。

”「どう使うか?」 に興味があるか?というと。”このテーマと相反することを書きます。

「お釈迦さんは糞尿まみれの病人を世話しているわけです」つまり、「世話しているわけです。」→世話することが「出来る」わけです。普通の人には出来ないことをお釈迦さんは 「出来る」 んですね。

これも以前書いたのですが、
学会問題で脱創価する過程だけでも、これだけ物の見方が180度変わるテーマってあまり無いのかもしれません。
それだけ学会員があまりにもひどくMCしていることの証拠でもあるわけなんですが。。。。。。

元オウム真理教幹部だった、林 郁夫は元医師でした。医師免許は剥奪されていると思いますが、頭が良いとか医者としての能力(例えば手術など)は今でも発揮 「出来る」 んじゃないでしょうか?
私と彼で何かのテストをしたら彼が100点で私が50点ってありそうです。
今の彼のことを私は知りません(無期懲役のまま?)が、いくら 「出来る」 人でも、普通は彼が100%健全であるとか、彼と関わり合いになりたいと思う人はいないでしょう。

同時に池田大作氏の指導ですが、
社会で実証を示して信頼を勝ちとれ!というのも社会の中で自分の脳力を発揮して活躍し、世の中に貢献するという一面がありますが、必ずしもそうではありません。
池田大作氏や学会幹部を見ていればわかります。特に弁護士など、せっかくある優秀な記憶力や能力を反社会的、非人間的に使っているのは明らかです。
池田大作氏の能力の高さというのは創価学会の中でMCされた人、特におばちゃんあたりにしか通用していないみたいですけどね。

見方によっては「俺は社会で実証を示したんだから、(社長なんだから重役なんだから、部長なんだから)つまり 「出来る」 人間なんだから、俺の教える仏教学も言う事を聞け!」っていうのは、かなり歪んだ服従を強いているのが分かるでしょう。

仕事の命令とプライベートの価値観と宗教観は別物です。

池田大作氏や学会幹部は具体的な社会貢献は何もしていません。お金は会員が働いて稼いだものです。

●じゃあ布教の上で何が条件になるのか?

カウンセラーはいい人ではダメで例えば、安全性を確保するのに訓練や資格が必要なわけですが
宗教は無責任なイイ人で構わない、って事だと思います。
宗教のいくつかあるテーマのうちの一つが安心立命なんですけどね。
ここいら辺に宗教の甘さ、問題教団(カルト)を生む可能性、いい加減さ、時代遅れetcetcってのがあるのだと思います。

>もしも米山さんが理解できないとすれば、それは、ちゃんと理解できるように書いていない書き手の方が悪いのです。説明不足なのです。
>実際に理解できないところがありましたら、どんな些細なことでも構いませんので、遠慮なくおっしゃって下さい。

ほんとありがたいコメントです。
ちゃんと公開討論や、説明してみ?>池田大作氏、日顕氏、日如氏。
池田氏はもう出来ないのかもしれませんがね。実に弱っちい生命力だよな。(笑)
日顕氏に負けてるじゃん?

ここで文字数を数えたら、かなり長いです。(笑) これ以上は長くなるので、省略。
●黒丸単位で中にはひとつの記事になる分量がありましたが、省略した(つもり(^^ゞ)でこの長さ、という有様です。

とにもかくにも、宗教でなくてもMCや依存のある人、2世3世で自身にMCや依存のある人にとってはきつい話かもしれません。
これから宗教をある程度肯定しますが、私自身は現代人に宗教は不要だと思っています。
私が宗教を肯定するからと言って、カルトサーフィンしないでね。たとえ日蓮宗に行っても己に自他への過信や依存があれば、同じように悲惨な宗教人生になると私は考えています。

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315.これから宗教を肯定しますが、注意事項として。

2011年02月13日 21時07分28秒 | 創価学会
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/7868f6ad592639a632185028165c4ef3

此処に書いたLibraさんへのコメントや過去記事で私が言いたいことを少しですが、ある程度書いています。なのでこれから書くことも特に目新しくないです。以前、過去の記事や議論にも似たようなことを書いています。

●このブログの目的と今の私。

 正宗系信徒会員にとって自分が属する教団の正当性を示したい、そんな欲求があります。
簡単にいえば、自分の信仰の正当性を示す、そのことで布教する(折伏:しゃくぶく)目的もあります。


 他宗は邪宗であり、日蓮大聖人だけが、我々の教団が、我々のトップが仏教の正当性を持つ、そんな白黒2極論が特徴的でなおかつ問題であることは何度も書いてきました。


☆私に取っては日蓮さんは既に死んだ人間、「過去」の人間、評価を悪くしても良くしても、自分の人生に直接には何のかかわりも影響もないでしょう。教団都合な地獄論も罰論ももう信じていませんから、日蓮さんのことを批判しても大丈夫なわけです。日連系の関係者のように日蓮の欠点を黙っている必要もなければ、日蓮の欠点を指摘する/されることに恐怖もありません。
 MCされていない普通の人が一般的な仏教の本を読めば普通に宗教性(現代人にとってのメリット)を読み取れるでしょう。創価などの教団都合なキーワードや教えの流れに乗ると途端に話の方向がおかしくなるでしょう。確実に。彼らは都合の悪いことは教えられていないので知らないか、あるいは知っていても言いませんから。
MCされていない普通の人がする日蓮さんの良い評価なら私にとっても何の問題もないのです。

 長くなるので結論だけ書くと、今の私から見れば、密教でも神道でも念仏でもどの宗教でも教団都合でない教えの内容や書籍であれば、それなりに少しはという意味合いで宗教性は読み取れる、そう私は考えています。

但し、宗教は現代人には不要、という意見は変わっていません。どうしても宗教したい誰かがいて、宗教をするならば、読み取れるでしょう、という意味です。

●では何故に私が日蓮肯定や ”日蓮が密教の傾向を持つこと” を強調するのか?

布教する(折伏:しゃくぶく)目的は教団への入信です。折伏しなくても自分は信仰をしたい人、折伏して他人も信仰させたい人、どちらの人にも信仰の理由として正当性が重要です。但し、教団都合な正当性を与えられてMCされた人は宗教と反宗教の区別が付いていません。

日蓮大聖人は100%正しい、こうでないこと困るわけです。
100%無謬、100%間違いない、100%混じり気のない法華経の行者。。。
そんなイメージでしょうかね?

 今回、密教の初心者本を改めてじっくり読んでみたら意外に創価学会で教わった仏教用語を数多く見つけることが出来ました。宇宙生命論が好きな人には密教はぴったりなのかもしれません。折伏というキーワードまでありました。大日経と法華経ならともかく、密教という1ジャンルと1経典でしかない法華経を比較するのはやや無理がありますが、関係性を説明することは出来ます。つまり、法華経は100%お釈迦さん一人の教えではないですから純粋ではありません。日蓮も純粋ではないということです。

密教が小乗(部派仏教)と大乗を兼ね備えた点も教えのトータルバランスとして見逃せません。どういう歴史的経緯かは分かりませんが
1.大乗から小乗に原点回帰したのか、
2.それとも両方を必要とした部派仏教が継続されて、最終的に密教になったのか?
3.小乗仏教が大乗の他者救済を必要として原点回帰したのか?

 「小乗(部派仏教)と大乗」で単純にたった2つだけにしか別れなかった、 という学説は100%正しいとは言えないのかもしれません。

●混じり気や矛盾がある。

1.そもそも原始仏教、お釈迦さんの教えですら、
「生まれによってバラモンになるのでない行いによってバラモンになるのです。」
という、他宗教や他宗教徒に対して「こうこうこうしてみたら?」というアドバイスです。

2.原始仏教の本を読んだことのある人にはわかると思いますが、
無常無我を説いたお釈迦さんが、「いつの時代も私の教えに絶対に従いなさい」というのはいかにも変です。
お釈迦さんが教えた内容、つまり「法」は引き継がれることは望んでいましたが、無常の法則からすれば、変わることも分かっていたと私は考えています。(過去記事かイカダのたとえ参照。)

3.法華経の七つの例えですら、相反する例があります。
長者窮子(ちょうじゃぐうじ)の譬え(たとえ)では長者の子供が幼い時に家出して長い時間を経て救済しています。
三車火宅(さんしゃかたく)の譬え(たとえ)では長者の家が火事になった時、中にいる子供たちは遊びに夢中で火事に気づかずに外に出ようとしません。火事ですから当たり前かもしれませんが、短時間のうちに救済しています。たった一つの妙法、正法ではないでしょう。これしかない、とかこれだけ、ではありません。たとえ自体7つあります。

教団都合な信徒会員の言動はどちらかというと、強迫観念や恐怖から直ぐに入信しないとダメ、ですよね。
これでどれだけ友人や夫婦恋人などの人間関係がだめになっていることか。。。。。

日蓮が例えば密教の傾向を持ち、創価などの正宗系信徒会員の教学から見て邪宗の人間である、邪宗の要素を持つ本尊であるetcetcことを言いたい訳です。
そもそも日蓮正宗自体が大石寺で昔から神事である相撲してるんですから笑っちゃいますけどね。
正宗系信徒会員はそうは思ってないでしょうから。

記事を書いて批判する対象は正宗系信徒会員なわけです。
Libraさん達の宗教性のある意見を批判している訳ではありません。
また例えばですが夫婦恋人で正宗系の宗教が問題になっている場合に、未入信側の人にとって説得する材料かヒントになってほしいわけです。
過去にも書いてきましたが、

1.平和活動に魅力を感じて、過程を経て「それから」学会や仏教に魅力を感じたのか?
2.折伏を受け学会は平和主義だと騙され、「それから」学会を通してしか平和を見てこなかったのか?*A

◯勤行など、普段何をしているか?

数年前、某地方でのオフ会があり、それからしばらくして九◯九さんと私もMCが解けてきたせいか、どちらからともなくお互いに
「題目も本尊も勤行も不要だね。」
「勤行ぐらいはそれまでの習慣などから毎日や時々はしてもいいと思う。」
と言い合ってました。私に限ってはブログ立ち上げのしばらく前から勤行も唱題もしてませんし、クセだった創価班歌も口ずさむことは全く無くなりました。
勤行だけでなく唱題も本尊もあってもいい、と今の私でも思います。が、あくまでも
「宗教なら題目も本尊も勤行もあってもいい、でも必須ではない。但し宗教ならば、あってもいい」
でしょう。

実際に「題目、本尊、勤行」と揃っていても不幸になる人、精神病を発症する人、一家離散があるじゃないですか?
正宗系教団が怒りと恐怖を「与えている」ことは過去記事で何度も書いています。

教団都合にMCされて情報や感情を操作されれば、つまり「与えられれば」正宗系信徒会員は普段の勤行だけでも、「◯◯しなければならない。」といった様なストレスを生むでしょう。本人が意識しているかどうかは無関係でしょう。気がつくはずもないですから。*Bの原因。

創価学会に属していて唱題、勤行して安心感があります。其の様に言えるのは、あくまでも池田氏や学会教義に服従することが前提です。矢野絢也氏などがいい例です。
怒りと恐怖「しか」与えられていないので、リアルでもネットでも関係なく自分と意見の違う人と接すると、怒りと恐怖「しか」与えることができないのでしょう。職場や学校など日常生活ではそんなこと無いわけですが、宗教の話題が出ないからであって、ストレスを潜在的に抱え、増大させている可能性が高いと私は考えています。*Bの結果。

*Aも*Bも
「何を信じているかではなく、何をしているかで判断する」(マインドコントロールの恐怖の翻訳者:浅見定雄さん)
何度も紹介してきたとおり同じことです。


●用語の誤解について

よく日連系の人、特に正宗系信徒会員か元、正宗系信徒会員に言えるのですが、聖教新聞とかで教えられた情報そのまま、それだけでなく「戦ってまいります。」「破折します」「打ち破ります。」述語などの言い方もそっくりそのままの人が多いです。
ですから、あえて私は生命とか恩とか一般でも学会でも使われる用語で気をつけて避けるか注意して書いているのですが、そこまで理解されていないようです。

示している。
意義がある。
秘密がある。
秘伝がある。
隠されている。
意味がある。
悟りである。
甚深、悟達、、、、、、、
報身とは
応身とは
etcetc、
仏教用語やこうした言葉を書いていきますが、密教を肯定して信仰の推奨をしているわけでも日蓮を肯定して信仰の推奨をしているいるわけでもありません。

これからLibraさんと議論や意見交換をして、どの程度かはわかりませんが、私は日蓮や仏教を肯定的に書くと思いますが、実際には
「仏教だけでなく宗教はこれからの社会や人類には殆ど何も役に立たない」
という”私の意見”が前提になっています。
あくまでも、 「過去に」 社会や人類に何か役に立つ、そう考えられてきたのが仏教です、仏教者がそう考えてきた、でもいいでしょう。これが究極の教えだ、これが全てだ、という仏教者の妄想とでも言っていいしょう。

では、何の役に立っているのでしょうか?宗教者(正宗系信徒会員)って何をしているんですかね?

●日蓮の思想は人間関係の破壊に役に立つ

 法華講信徒なのか僧侶なのか知りませんが、メールやBBSで日蓮曼荼羅が甚深だの、意義深いだのキモイ意見には呆れています。
授与書きを削った、修正しただの創価学会も正宗も過去の経緯や言動からしてどっちもどっちで酷いモノです。
常識的に考えて法華経の内容理解と理解したらその後の言動がポイントです。
日蓮曼荼羅が甚深だの意義があるのに、お互いに冷笑するか誹謗中傷するだけなんですかね?

浅見定雄さんの言葉から考察すれば、正宗系信徒会員は最初から最後まで人を傷つけるための自己主張、自己愛的な言動を繰り返しているようにしか思えません。
今は日蓮正宗系だけかもしれませんが、日蓮の思想は人間関係の破壊に役に立つ、そう一般に言われても不思議じゃないでしょう。

実際は日蓮しかみない、日蓮正宗系教学しか見ようとしない、日蓮だけ学んでいれば仏教である、そうした思い込みが原因です。そう教えたのは創価学会、正宗、顕正会などの教団ですが。

◯「過去」、「架空の存在」”小さな理由”自然「共通点」

日蓮の思想は人間関係の破壊に役に立つ、そう一般に言われても不思議じゃない、そう書きましたが、何をどう勘違いすると何に気がつかないとそうなるんでしょうね?

大日如来も多宝仏(如来)も実在人物かは私には分かりませんが、少なくともお釈迦さんの原始仏教時代の直弟子ではないようです。直弟子とか本門とか本弟子とか法主だの会長だの、上下関係にうるさいのが問題教団や現代の日本仏教なんですけどね。
仮に実在したとしても、お釈迦さんの直弟子である十大弟子のほうが兄弟子か先輩弟子で、大日如来も多宝仏(如来)は弟弟子か後輩弟子だと思うんですけどね。私は。間違っていたら教えてください。>誰か。

発達心理学を持ち出すまでもなく子供たちは小さな接点や理由で、つまり架空の存在で仲良くなれます。
架空の存在って仮面ライダーだとか、ウルトラマンだとかプリキュアだとかの架空の存在ですが、一緒におもちゃやテレビとか共通の話題で仲良くなっています。
「甚深な信仰の対象と子供が見る下らないテレビの娯楽と一緒にするな!」そう思う人は、私から見て非常に疑問です。

子供たちはそんな下らないとか小さなこととかでも、 「共通点から」 友人を作り年齢を重ねるに従って大人としての距離感覚に近づいていきます。
子供は昨日したゲームとか、昨日見たテレビは「過去」ですが「過去」でも「架空の存在」でも「共通点があれば仲良く」一緒に遊んだり笑ったり出来ます。子供ですから本人の「遊びたい、楽しみたい」という欲ですけど、不健全でないのは明確です。

しかし、過去記事に書いたとおり「カルト的な信仰、問題宗教を体験した人は他宗派の人や同系統の信仰者に対し、少しでも意見が違うと腹立たしいとか嫌いとか不愉快とか許せない。」という負のエネルギーを持つ傾向にあるようです。大勢の人を巻き込んでいながら、正宗VS学会に限っても全く公開の話し合いも行われていません。


「過去」でも「架空の存在」でも”小さな理由から”自然に「共通点があれば」仲良くしたり喧嘩したり人間形成できるのが子供達。
日蓮系という「共通点があるにもかかわらず」「過去」でも「架空の存在」でも小さな理由を無理やり見付け出し、無理やりダメだししてレッテル張りして、罵倒誹謗中傷、は疲れ果てて家族を放り出して人間形成しているのが末端の信徒会員。人間形成が明らかに不健全な方向に進行しているのです。


過去にも書いたとおり「法華経読んでくれてありがとう。」「一緒に勤行してくれてありがとう。」「おや、あなたは浄土真宗!?私は天台宗。いやー仏教っていいですね。」「あらあなたはキリスト教?ホームレスの支援が立派ですね」そんな会話が成立しないんですかね?


ですから、一般人でも持ち得る、好きとか親切とか、言葉の丁寧さとかそんなごくありふれた言動はバロメーターなのは宗教者であるなしにかかわらず、ポイントなんでしょうね。

日蓮宗の人は日蓮正宗系信徒会員に折伏とかでなくて無理のない形で等身大で親切に言葉と行動を与えてみては如何ですか?もちろん一般仏教やキリスト教などの人もいいかと思います。宗教が大事。人様他人様の幸福が大事なら。。。ですが。彼らは本当の親切や愛情を知らないか言動の矛盾があることに気がついていません。

☆私も

 他人の評価は日々気がつけばしていることがあります。断っておきますが一般世間並みに、です。
でも、出来れば悪い評価はサクっと忘れて最終的な評価は走馬灯の中で出来ればいいかな?とも思っています。それくらいならいいかな?って軽い気持ちです。
今まで世の中を「北山南河は邪宗の都~♪」とレッテル張りしてきたので、それくらい、軽い感覚で日々チャレンジしたいですね。

 ( お!でもFBIさんは大聖人ならぬ大宇宙人としてレッテル張りして褒め称える必要があると思います。(笑)(棒読み)(´Д`)=3
  大日如来についてTELで長々と説明してくださったんですけどね。えぇ。ホントに親切に。これはちょっと後で書いとかないと。w )

Libraさんとか富士門流信徒(日蓮法華)のみなさんとか(チョンガーさんとかハッタリの皆さんとか)色々お世話になっている私。仏教学で一生初心者(笑)だしトンチンカンな米山ですけど、宗教継続しているなら、温かい目で見て仲良くしてもらえると幸いです。宗教的な日蓮さんが好きなら別にいいとは思うのけど、学会的な日蓮さんとか絶対的な日遠さんのイメージ(MC)をもつ人とはやっていけるのかはわかりません!
私も等身大の人間でしかありませんから。

続く。
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