FBI(笑)道明寺が好きっ日記/いまだにこういう間違った説を信じているヒトもいるのですね - GREE
http://gree.jp/7737268/blog/entry/336110813
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日蓮仏法の解釈が間違って弘まれば、どうなってしまうか。
①日興上人以外の五老僧は、大聖人の本義が解らず、我見などを入れ、大聖人の仏法を歪めてしまいました。
②日蓮正宗も、時の貫主が、己義に執着し、清流の中に濁流と化していった事実が物語っております。
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12. FBI(笑)道明寺が好きっ FBI(笑)道明寺が好きっ (79) - 2009/11/25 04:18
>>①日興上人以外の五老僧は、大聖人の本義が解らず、我見などを入れ、大聖人の仏法を歪めてしまいました。
これについては、以下の資料集を読めば、間違いもしくはウソであることが明白です。
A日興上人全集編纂委員会編纂「日興上人全集」興風談所
国会図書館請求記号 HM182-G13
B立正大学日蓮教学研究所編「日蓮宗宗学全書 第2巻 興尊全集・興門集」山喜房仏書林
国会図書館請求記号 HM181-E4
C立正大学日蓮教学研究所編「日蓮宗宗学全書 第1巻 上聖部」山喜房仏書林
国会図書館請求記号 HM181-E4
Bには、日興さんと日興門流の僧侶たちの書いたものが掲載されています。
Aは、文字どおり日興さんが書いたほんど全ての文書が掲載されています。
そして、Cには、五老僧およびその他の日蓮さん直弟子たちの書いたものが掲載されています。
注意してそれぞれを書かれた順番に並べ替えると、
日昭・日朗・富木さんなどが、波木井は信心がおかしいから身延には行かないと言い出した。
それに対して、日興さんが波木井をかばい、日昭さんたちに対して「おおめにみてやってほしい」と手紙を書いた。
しかし、その後も日昭さんたちは身延に行かなかった、
日興さんが日向を身延に呼び寄せた。
波木井が日向と親しくなり、日興さんをジャマにし始めた。
波木井の謗法を日向が容認した。
日興さんは身延に居づらくなり、弟弟子の日目の関係で富士上野村の南条家に身を寄せた。
「おほいしてら」(大石寺)ができると日興さんは石川家を頼って重須(北山)に移り談所を構えた。
重須には六老僧の1人である日頂さんがやってきて、日興さんのもとで学頭になった。(日頂さんは富木さんの血筋ですから中山門流とも良い関係だったことがわかります)
鎌倉にいた日昭さんが重須に行き日興さんと話しあい「一味同心」した。
簡単に言えばこういう史実になります。
つまり、もともとは日向対他の五老僧という図式でした。
途中で五老僧の1人だった日持さんは蝦夷から中国大陸に布教に行き行方不明になりました。 (つづく)
返信する
13. FBI(笑)道明寺が好きっ FBI(笑)道明寺が好きっ (79) - 2009/11/25 04:19
つづきです。
その後、日昭・日朗の門流だった鎌倉の寺や池上本門寺、中山法華経寺は「身延不参」を江戸時代まで唱えていました。
江戸時代になって、寛永7年(1630)に、、法華経未信者である国主の供養をめぐって、幕府が、受不施を主張する身延久遠寺と不受不施を主張する側の代表として池上本門寺を召喚し江戸城で対決させました。
これが「身池対論(しんちたいろん)」という教義論争です。
不受とは日蓮宗以外の他宗、不信・未信者、謗法者よりの布施供養を受けないこと、不施とは日蓮宗以外の僧に供養しないことであり、これは日蓮さん以来の日蓮教団全般にわたる伝統的な通規でした。
対論では不受不施側の池上本門寺が有利でしたが、政治的判断で身延勝利という裁定が下されました。
これによって全国の日蓮門下の寺院はなかば強制的に身延に従わざるをえなくなってしまいました。
この間、大石寺は幕府から意見を求められましたが、明確な回答はしないままでした。
当然の結果として、大石寺も、日蓮宗本山となった身延久遠寺の膝下という位置づけになったのです。
この「不受不施論争」まで、日蓮門下は大枠で
身延VS他の日蓮門下
に分かれていたわけです。
もちろん、他の日蓮門下の中での教義論争などはありましたが、日興門流も池上・鎌倉・中山・京都・堺などの他門流との交流はありました。
阻害されていたのは基本的に身延派だけでした。
おおまかには、こういうことです。
返信する
14. FBI(笑)道明寺が好きっ FBI(笑)道明寺が好きっ (79) - 2009/11/25 04:38
①のような説は、
「五人所破抄」
「富士一跡門徒存知之事」
の記述によるものですが、これは日興さんが書いた直筆はありません。
また、この2つの文書が出回るようになったのは、日興さんや日目さんが亡くなった後のことで、しかも大石寺の文書ではありません。
つまり、学会が教えている
「五一の相対」
は、かなりいい加減ということになります。
18. FBI(笑)道明寺が好きっ FBI(笑)道明寺が好きっ (79) - 2009/11/25 13:10
☆○○○○○さん
近所の図書館に言って国会図書館から取り寄せてもらうことができますよ。
上記の書名と請求記号を書けばOKです。
他の日蓮系教団でも、ついつい「五人所破抄」や「富士一跡門徒存知之事」の記述に引きずられて、五一相対といえば「日興VS五老僧」と思いがちですね。
身池対論や戦前の三派合同などいくつもの大きな事件のために、歴史的事実としての五一相対つまり日向VS他の日蓮門下はタブーのようになってしまっています。
返信する
19. FBI(笑)道明寺が好きっ FBI(笑)道明寺が好きっ (79) - 2009/11/25 13:55
あるグリ友の方に誤解されてしまったようです。
その方の日記でお叱りが書かれていましたので、そちらで説明をさせていただきました。
私の記述は、「学会員全員」を批判したものではありません。
あくまでも、
「50年前の「日蓮正宗創価学会」時代の教学のままな」理解しかしていない学会員などに向けてのものです。
どうか、誤解のないようにお願いいたします。
21. - 2009/11/25 23:51
それから、この日記のFBIさんの記述を私のブログに使ってもよいでしょうか?
返信する
22. FBI(笑)道明寺が好きっ FBI(笑)道明寺が好きっ (79) - 2009/11/26 00:32
☆○○○○○さん
ぜんぜんOKです、お任せしますですよ
25. FBI(笑)道明寺が好きっ FBI(笑)道明寺が好きっ (79) - 2009/11/27 02:11
(中略)
☆○○○○○さん
「正本朽敗」
これだけではハッキリしませんが、「正本」とは「日興さんが書いた直筆」ということですね。
「朽敗」の「敗」は「破れ」の当て字なので、「破れ朽ち果て」ということになります。
つまり
「日興さんが書いた直筆は破れ朽ち果て」
ということです。
「破れ朽ち果てている」と捉えると、ボロボロだけれども、まだ残っているというニュアンスです。
「破れ朽ち果ててた」と捉えると、もう残っていないというニュアンスですね。
>>写本万治元年富士妙蓮寺日諦
万治元年は1639年 (寛永16年) で、徳川綱吉の時代、大石寺では日精が貫首に再住していた時代です。
富士妙蓮寺は今の下条妙蓮寺のことです。
>>同万治2年大石寺日舜
このときの日舜はまだ大石寺貫首ではありませんが、大石寺の御朱印改めのために出府していますから高僧であり、1645年に大石寺の貫首になります。
「五人所破抄」の書かれた年月日は、嘉暦(1328)3年7月となっていますから、300年後の写本、ということですね。
堀日亨さんは、
「日興監修日順記」
と書いています。
つまり、三位日順が書いたものを日興さんが監修した文書であるという意味です。
27. FBI(笑)道明寺が好きっ FBI(笑)道明寺が好きっ (79) - 2009/11/27 11:03
☆○○○○○さん
うっかりしていましたが、上記に「綱吉」と書きましたが「家光」の時代でした、いま読み返していて気がつきました絵文字
上記のように大石寺の日精は1645年に日舜に相承したことになっていますが、このとき日精は「他山の」相承をしたと記した日精自身の文書が現存します。
で、何年かたってから大石寺の相承を行なったともあります。
日精は京都要法寺の影響が強い人でしたので、1645年の「他山の」相承とは要法寺流のものだったのかもしれませんね。
http://gree.jp/7737268/blog/entry/336110813
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日蓮仏法の解釈が間違って弘まれば、どうなってしまうか。
①日興上人以外の五老僧は、大聖人の本義が解らず、我見などを入れ、大聖人の仏法を歪めてしまいました。
②日蓮正宗も、時の貫主が、己義に執着し、清流の中に濁流と化していった事実が物語っております。
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12. FBI(笑)道明寺が好きっ FBI(笑)道明寺が好きっ (79) - 2009/11/25 04:18
>>①日興上人以外の五老僧は、大聖人の本義が解らず、我見などを入れ、大聖人の仏法を歪めてしまいました。
これについては、以下の資料集を読めば、間違いもしくはウソであることが明白です。
A日興上人全集編纂委員会編纂「日興上人全集」興風談所
国会図書館請求記号 HM182-G13
B立正大学日蓮教学研究所編「日蓮宗宗学全書 第2巻 興尊全集・興門集」山喜房仏書林
国会図書館請求記号 HM181-E4
C立正大学日蓮教学研究所編「日蓮宗宗学全書 第1巻 上聖部」山喜房仏書林
国会図書館請求記号 HM181-E4
Bには、日興さんと日興門流の僧侶たちの書いたものが掲載されています。
Aは、文字どおり日興さんが書いたほんど全ての文書が掲載されています。
そして、Cには、五老僧およびその他の日蓮さん直弟子たちの書いたものが掲載されています。
注意してそれぞれを書かれた順番に並べ替えると、
日昭・日朗・富木さんなどが、波木井は信心がおかしいから身延には行かないと言い出した。
それに対して、日興さんが波木井をかばい、日昭さんたちに対して「おおめにみてやってほしい」と手紙を書いた。
しかし、その後も日昭さんたちは身延に行かなかった、
日興さんが日向を身延に呼び寄せた。
波木井が日向と親しくなり、日興さんをジャマにし始めた。
波木井の謗法を日向が容認した。
日興さんは身延に居づらくなり、弟弟子の日目の関係で富士上野村の南条家に身を寄せた。
「おほいしてら」(大石寺)ができると日興さんは石川家を頼って重須(北山)に移り談所を構えた。
重須には六老僧の1人である日頂さんがやってきて、日興さんのもとで学頭になった。(日頂さんは富木さんの血筋ですから中山門流とも良い関係だったことがわかります)
鎌倉にいた日昭さんが重須に行き日興さんと話しあい「一味同心」した。
簡単に言えばこういう史実になります。
つまり、もともとは日向対他の五老僧という図式でした。
途中で五老僧の1人だった日持さんは蝦夷から中国大陸に布教に行き行方不明になりました。 (つづく)
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13. FBI(笑)道明寺が好きっ FBI(笑)道明寺が好きっ (79) - 2009/11/25 04:19
つづきです。
その後、日昭・日朗の門流だった鎌倉の寺や池上本門寺、中山法華経寺は「身延不参」を江戸時代まで唱えていました。
江戸時代になって、寛永7年(1630)に、、法華経未信者である国主の供養をめぐって、幕府が、受不施を主張する身延久遠寺と不受不施を主張する側の代表として池上本門寺を召喚し江戸城で対決させました。
これが「身池対論(しんちたいろん)」という教義論争です。
不受とは日蓮宗以外の他宗、不信・未信者、謗法者よりの布施供養を受けないこと、不施とは日蓮宗以外の僧に供養しないことであり、これは日蓮さん以来の日蓮教団全般にわたる伝統的な通規でした。
対論では不受不施側の池上本門寺が有利でしたが、政治的判断で身延勝利という裁定が下されました。
これによって全国の日蓮門下の寺院はなかば強制的に身延に従わざるをえなくなってしまいました。
この間、大石寺は幕府から意見を求められましたが、明確な回答はしないままでした。
当然の結果として、大石寺も、日蓮宗本山となった身延久遠寺の膝下という位置づけになったのです。
この「不受不施論争」まで、日蓮門下は大枠で
身延VS他の日蓮門下
に分かれていたわけです。
もちろん、他の日蓮門下の中での教義論争などはありましたが、日興門流も池上・鎌倉・中山・京都・堺などの他門流との交流はありました。
阻害されていたのは基本的に身延派だけでした。
おおまかには、こういうことです。
返信する
14. FBI(笑)道明寺が好きっ FBI(笑)道明寺が好きっ (79) - 2009/11/25 04:38
①のような説は、
「五人所破抄」
「富士一跡門徒存知之事」
の記述によるものですが、これは日興さんが書いた直筆はありません。
また、この2つの文書が出回るようになったのは、日興さんや日目さんが亡くなった後のことで、しかも大石寺の文書ではありません。
つまり、学会が教えている
「五一の相対」
は、かなりいい加減ということになります。
18. FBI(笑)道明寺が好きっ FBI(笑)道明寺が好きっ (79) - 2009/11/25 13:10
☆○○○○○さん
近所の図書館に言って国会図書館から取り寄せてもらうことができますよ。
上記の書名と請求記号を書けばOKです。
他の日蓮系教団でも、ついつい「五人所破抄」や「富士一跡門徒存知之事」の記述に引きずられて、五一相対といえば「日興VS五老僧」と思いがちですね。
身池対論や戦前の三派合同などいくつもの大きな事件のために、歴史的事実としての五一相対つまり日向VS他の日蓮門下はタブーのようになってしまっています。
返信する
19. FBI(笑)道明寺が好きっ FBI(笑)道明寺が好きっ (79) - 2009/11/25 13:55
あるグリ友の方に誤解されてしまったようです。
その方の日記でお叱りが書かれていましたので、そちらで説明をさせていただきました。
私の記述は、「学会員全員」を批判したものではありません。
あくまでも、
「50年前の「日蓮正宗創価学会」時代の教学のままな」理解しかしていない学会員などに向けてのものです。
どうか、誤解のないようにお願いいたします。
21. - 2009/11/25 23:51
それから、この日記のFBIさんの記述を私のブログに使ってもよいでしょうか?
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22. FBI(笑)道明寺が好きっ FBI(笑)道明寺が好きっ (79) - 2009/11/26 00:32
☆○○○○○さん
ぜんぜんOKです、お任せしますですよ
25. FBI(笑)道明寺が好きっ FBI(笑)道明寺が好きっ (79) - 2009/11/27 02:11
(中略)
☆○○○○○さん
「正本朽敗」
これだけではハッキリしませんが、「正本」とは「日興さんが書いた直筆」ということですね。
「朽敗」の「敗」は「破れ」の当て字なので、「破れ朽ち果て」ということになります。
つまり
「日興さんが書いた直筆は破れ朽ち果て」
ということです。
「破れ朽ち果てている」と捉えると、ボロボロだけれども、まだ残っているというニュアンスです。
「破れ朽ち果ててた」と捉えると、もう残っていないというニュアンスですね。
>>写本万治元年富士妙蓮寺日諦
万治元年は1639年 (寛永16年) で、徳川綱吉の時代、大石寺では日精が貫首に再住していた時代です。
富士妙蓮寺は今の下条妙蓮寺のことです。
>>同万治2年大石寺日舜
このときの日舜はまだ大石寺貫首ではありませんが、大石寺の御朱印改めのために出府していますから高僧であり、1645年に大石寺の貫首になります。
「五人所破抄」の書かれた年月日は、嘉暦(1328)3年7月となっていますから、300年後の写本、ということですね。
堀日亨さんは、
「日興監修日順記」
と書いています。
つまり、三位日順が書いたものを日興さんが監修した文書であるという意味です。
27. FBI(笑)道明寺が好きっ FBI(笑)道明寺が好きっ (79) - 2009/11/27 11:03
☆○○○○○さん
うっかりしていましたが、上記に「綱吉」と書きましたが「家光」の時代でした、いま読み返していて気がつきました絵文字
上記のように大石寺の日精は1645年に日舜に相承したことになっていますが、このとき日精は「他山の」相承をしたと記した日精自身の文書が現存します。
で、何年かたってから大石寺の相承を行なったともあります。
日精は京都要法寺の影響が強い人でしたので、1645年の「他山の」相承とは要法寺流のものだったのかもしれませんね。