創価学会の信仰に功徳はあるか?

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祈祷の体験談10

2021年04月10日 23時59分13秒 | 他宗の勧請/祈祷
適切なカテゴリーがないので、一般仏教にした。ブログ読者にとって話1/100で受け取ってもらって構いません。

前記事からの続き
祈祷の体験談9(祈祷を受けた体験) - 創価学会の信仰に功徳はあるか?

●地水火風空など自然を尊ぶ

 Cさんの儀礼、Cさんと教団Aの儀式などから創価学会員時代には経験できなかったことが多数あります。
単語に無理やり置き換えると過去記事に書いた「吉事」がそうです。吉事は自然環境、地水火風空と関係が深いのです。

地水火風空についても部分的に私自身が経験したか、吉事を数多く呼び寄せやすい(Cさん以外の)信者さんが自然との関わりの深い吉事を経験してます。Cさんと信者さんも吉事を「素直に受け止め」喜び、学問的な地水火風空を気にしていません。

私も地水風だけは自分で見るか経験するか身近にいたかで、ある程度は経験できました。火は知識だけありますが吉事経験できるかは全くわかりません。
勧請・祈祷と同じ時間と空間で結びついている体験もあれば、勧請のない祈祷から離れた時間と空間(場所が異なる)の体験の場合もあります。
つまりは具体的に希望もせず祈ってもないのに「吉事が神仏の「お導き」「おはからい」か「E−1」か私には断定も推測もできませんが、目の前に現れるか或いはやってくる」事実があります。

私は「教団よりも神仏を直に尊ぶ」ことを優先したいと思いますが、普通の信仰心が人並み戻るか宿るかは未だにわかりません。
教団の教えや近代建物などの場所よりも、地水火風空に近い自然環境を大事にしたいと考える様になりました。
読者には私が自然原理主義ではないことを留意してください。文明や科学を否定していません。
神仏の学問的な「遍照(へんじょう)・辺照」は以前から知ってましたが、正宗系以外の他宗で知った時は私の立場は「宗教は否定しないが神仏否定派」でした。
今の私は神仏の辺照を重視しています。

地水火風を大事にしないのが創価学会だと私は考えています。正宗系の彼らは日蓮遺文や経典などから地水火風空の知識は少しありますが、仏壇、仏壇周り、結界、人、祈り、光に全てに問題を感じます。(創価の場合は他人の不幸を祈っている。日顕宗撲滅など。他人の不幸を見つけると嘲笑か激怒、罵倒しています。)正宗はどうかわかりませんが、特に創価は自然破壊を気づかずにやっています。私個人は、創価と地水火の関係に全く無縁だと考えています。一つ取り上げるとコピー本尊はその最たるものでしょう。

もう三つは光と音とHー1の経験ですが、勉強不足であまり知識が無く今までに書いてきた概要の説明すら出来ません。もう知識はなくても幸福体験があればそれで構いません。

●もし正宗系信者が上記内容を否定した場合

 創価員からオカルトと言われかねないので書いておきます。
もし正宗系信者が上記内容を否定すると、日蓮以前の仏と神の勧請、祈祷、地水火風空と周辺の思想、知識、文献を否定することになります。池田大作の(旧)人間革命に出てきた「ご秘符」はどうなりますか?ご秘符は水、炭(火)、和紙(地の樹木)、祈祷による仏の力を水という中間物に正宗の坊さんが仏力、法力を込めた、ということになっているはずです。その過去を否定することになります。

日蓮さんは日蓮生前の文献に学んでいるので日蓮以前の勧請、祈祷を否定するのは無理があります。別の観点から後述します。
日蓮さんが全ての仏教文献を読んだと書き残していますし、そう言われていますが祈祷と勧請の観点から考慮すると嘘どころか大嘘でしょう。

●Cさんの能力発揮

 Cさんの能力が発揮される個々の場合を私が見ていると、教団の決めた形式の祈る時、祈る対象(正宗系で言うところの日蓮曼荼羅)と場所、儀式、儀礼は存在します。しかし決まりから外れて必要に応じて柔軟に行われる場合も多々あります。その場合、縛り的な固定概念はありません。曖昧に書いているのでさっぱりわからないと思います。例えば道を歩いてる最中でもCさんの能力発揮はあります。

ずいぶん以前の過去記事に書いたのですが、私はニセ法主だった阿部日顕のコピー本尊と創価の改変コピー本尊しか正宗・創価時代に拝んでません。更にひどいのは信徒の分際で曼荼羅に優劣をつける非宗教なゴッコ遊びをしていた過去があります。バカバカしいと言うか痛々しと言うか。
正宗僧侶の修行内容と勧請や祈祷の能力に優劣をつけるべきでしょう。不幸の解決や相談、お願いをしてお金を払うのは信者側です。

コピー本尊が駄目とする日本の法律も仏法律もありませんが、勧請や祈祷を考えると望ましくないと考えるようになりました。
日蓮真筆曼荼羅の写真を印刷して拝む形式を肯定した時もありましたが、今はどちらかといえば否定的です。
コピー本尊を容認した正宗と創価のトップは勧請と祈祷に無知で修行の必要性すら感じてなかったと私は結論づけています。別の観点から後述します。

人様他人様の幸不幸や神仏について学問において(人助けするならともかく)笑ったり争ったりバカにしたりするのはどうかと思います。特に正宗系はこれが酷い。以前からこの考えでしたが、人の幸不幸、神仏の学問は神仏のお導き、おはからい、Eー1である可能性を考慮すべきとの理由からより強くなりました。正宗系で教団や教団トップでバンザイ主義な人がいますが、この数年で私は口をききたくなくなりました。

●複数の一般信者さんの場合

 聖職者ではない複数の一般信者さんで準じる能力を持つ方々について過去記事で触れました。同様に教団としてのきまりである場所(寺社)、儀式、儀礼はあっても、能力発揮に縛り的な(例えば日蓮曼荼羅を折りたたんで身に帯びるなどが必携で、そうでないと地獄へ行く等々)固定概念はありません。曖昧に書いているのでさっぱりわからないと思います。

聖職者ではない複数の一般信者さんが少し能力が高くても聖職者やCさん、他誰も「お前は生意気だ」みたいな発言などの嫉妬、怨恨、罵倒は一切ありません。
皆さん、思いやりや喜びやありがたさがあるだけです。

●仏教も神道も否定しない。

 日蓮系でなく禅宗系でもなく日本の宗教であることはわかると思います。Cさんは仏教も神道も否定していません。

どの宗派か明記しませんが、仏教だった場合、神道を否定していませんし神道だった場合、仏教を否定しないという意味です。
私個人はもう一方も大事にするようにCさんから言われています。

●Cさんの顔の向きや目線



目の画像は著作権フリー画像です。

(続く)

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