サンユッタ・ニカーヤIIより。
中村元(訳) 岩波文庫 2008年4月15日第25刷
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●第四篇 第二章 第八節 施しの食物
1.或るとき尊師はマガダ国のうちのパンチャサーラー(五本の沙羅樹)という名のバラモン村に住しておられた。
2.そのときパンチャサーラーというバラモン村では、若い男女が互いに贈物をする習俗があった。
3.さて尊師は朝早く衣を着て、鉢と重衣とを身に受けて、パンチャサーラーというバラモン村に、托鉢のために入って行かれた。
4.そのときパンチャサーラー村に住むバラモンや資産者たちは、悪魔・悪しき者にとりつかれていた。
---「修行僧ゴータマが托鉢の食物を得ることができないように、---」と。
5.さて尊師は、洗った鉢をもってパンチャサーラーというバラモン村に托鉢のために入って行ったが、やはり鉢を洗ったままで帰ってきた。
6.そのとき悪魔・悪しき者は、尊師に近づいた。近づいてから、尊師に次のように言った。
---「修行僧よ。施しの食物を得たかね?」
7.「悪しき者よ、わたしが施しの食物を得ないように、お前がそうさせたのではないか。」
8.「では、尊いお方!パンチャサーラーというバラモン村に再び入って行きなさい。尊師が施しの食物を得られるように、わたしははからいましょう。」
「悪魔は、如来を襲うという禍いをかもし出した。悪しき者よ。そなたは何を考えているのだ?わたしには、悪の報いは起こらない。われらは、何物をももっていないが、さあ、大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食(は)む者となるだろう。」
注1
9.そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。
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お釈迦さんの言葉で8の注1の言葉と同じ内容が
「感興のことば(ウダーナヴァルガ)」の第30章の49番にもあり、
「法句経」の第15章「楽しみ」の200番にもあります。
サンユッタ・ニカーヤIIには「悪魔・悪しき者は(中略)気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。」という語句がいくつも出ています。
A.お釈迦さんは自身の心の中を魔だと言ってる。
しかも成道した(悟りを開いた)後の出来事の伝承らしい。
B.お釈迦さんは成道した後でも自身の心の中の魔を打ち明ける正直さがある。
(お釈迦さんの弟子も正直に打ち明けています。後述。)
C.食事を取らなければ死んでしまうかもしれないのに、悪魔の誘いを断って乞食をしなかった。生にも死にも執着しない。煩悩がない。
D.悪魔というのは様々な形をとる。人だったり牛だったり様々。
五蘊などへのこだわりも悪魔の扱い。あるいは様々な快楽や欲望のこと。
この教えではお釈迦さんは自身の心の中を魔としており、命を繋ぐ食欲すら執着やこだわり、欲望だと言い切っている。
E.生死だけでなく食欲すら、こだわりすぎると執着です。
仏教の正邪で仏と魔がよく言われますが、学会の仏=生命、魔=奪命者は誤り。
悪魔が命を繋ぐように戒律を破って ”もう一度托鉢に行け” と誘惑しているのですから、学会の解釈は誤りです。
偽経である無量義経の「三十四の否定」を読んだ戸田城聖の獄中の悟達、
「仏とは生命のことなのだ!」(宇宙生命論)は梵我一如。外道の教え。
「三十四の否定」は無常や無我、空の説明の変化形か?
欲望に忠実なほうが悪魔の教え。
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●第十一篇 第三章 第一節 斬り殺して
(中略)
3.傍らに立った神々の主サッカは、尊師に詩を以て語りかけた。---「何ものを斬り殺して安らかに臥すのですか?何ものを斬り殺して、悲しまないのですか?いかなる一つのものを殺害することを、あなたはが嘉(よし)とするのですか?ゴータマよ。」
4.〔尊師いわく、---〕
「怒りを斬り殺して安らかに臥す。怒りを斬り殺して悲しまない。毒の根である最上の蜜である怒りを殺すことを、聖者は称讃する。それを斬り殺したならば、悲しむことはないからである。」
(中略)
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A.創価などの正宗系教団に、「怒りと恐怖」のマインドコントロールがあるのは過去記事に書いてきたとおり。
学会では「魔を切る/斬る戦い」と習いますが、実際は「怒りを斬る」のが正しい。
拡大解釈して欲望のままな貪瞋癡を切るのがお釈迦さん以来の正統派な教えと言ってもいいかもしれません。
サンユッタ・ニカーヤによれば、お釈迦さんもその弟子である僧侶も座禅瞑想により、自身の心の内を見つめ、魔であることを知って「悪魔・悪しき者は(中略)気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。」と "数多く"書かれています。注2
魔は切るのではなく、消滅、退散、降すのが正しい。
●お釈迦さんと弟子の成道と魔の関係
原始経典のお釈迦さんと弟子には成道した後でも魔が出て来る。
大乗經典だと、降魔成道といって成道する直前に魔を降す話は有名です。
しかし、大乗經典に成道した後のお釈迦さんには魔が出てこないらしい。
過去記事でも少し書いたお釈迦さんの神格化だと思います。
あるいは、注2のことがサンユッタ・ニカーヤに数多く書かれているにも関わらず、大乗經典で無視されたのは、伝承が意図的に途絶えた可能性があります。信仰者が成道した後、欲望を満たす為の堕落だったのかもしれません。
日蓮本尊のように魔が諸天善神となって法華經行者の味方をする、というのもおかしな話です。
中国天台が日蓮さんの基本の一つなので仕方ないところ。
おとぎ話的な第六天魔王は中国の創作かもしれません。
お釈迦さんの教えは基本的には現実を直視しています。
◯その他 法華経の女人成仏
やはり法華経の女人成仏はおかしい。元々原始経典で女性も成道した後で悪魔も退散していることから女人は成仏できないのはお釈迦さん滅後の創作じゃないのか?
女性は男性出家者にとっての修行の妨げになることが拡大解釈されたのではないのか?
サンユッタ・ニカーヤIIでは「娘たち」という章があり、悪魔の娘である女性がお釈迦さんを惑わす話が描かれている。
以上
原始経典で鬼(天邪鬼)の存在があったのかよくわかっていません。
中村元(訳) 岩波文庫 2008年4月15日第25刷
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●第四篇 第二章 第八節 施しの食物
1.或るとき尊師はマガダ国のうちのパンチャサーラー(五本の沙羅樹)という名のバラモン村に住しておられた。
2.そのときパンチャサーラーというバラモン村では、若い男女が互いに贈物をする習俗があった。
3.さて尊師は朝早く衣を着て、鉢と重衣とを身に受けて、パンチャサーラーというバラモン村に、托鉢のために入って行かれた。
4.そのときパンチャサーラー村に住むバラモンや資産者たちは、悪魔・悪しき者にとりつかれていた。
---「修行僧ゴータマが托鉢の食物を得ることができないように、---」と。
5.さて尊師は、洗った鉢をもってパンチャサーラーというバラモン村に托鉢のために入って行ったが、やはり鉢を洗ったままで帰ってきた。
6.そのとき悪魔・悪しき者は、尊師に近づいた。近づいてから、尊師に次のように言った。
---「修行僧よ。施しの食物を得たかね?」
7.「悪しき者よ、わたしが施しの食物を得ないように、お前がそうさせたのではないか。」
8.「では、尊いお方!パンチャサーラーというバラモン村に再び入って行きなさい。尊師が施しの食物を得られるように、わたしははからいましょう。」
「悪魔は、如来を襲うという禍いをかもし出した。悪しき者よ。そなたは何を考えているのだ?わたしには、悪の報いは起こらない。われらは、何物をももっていないが、さあ、大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食(は)む者となるだろう。」
注1
9.そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。
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お釈迦さんの言葉で8の注1の言葉と同じ内容が
「感興のことば(ウダーナヴァルガ)」の第30章の49番にもあり、
「法句経」の第15章「楽しみ」の200番にもあります。
サンユッタ・ニカーヤIIには「悪魔・悪しき者は(中略)気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。」という語句がいくつも出ています。
A.お釈迦さんは自身の心の中を魔だと言ってる。
しかも成道した(悟りを開いた)後の出来事の伝承らしい。
B.お釈迦さんは成道した後でも自身の心の中の魔を打ち明ける正直さがある。
(お釈迦さんの弟子も正直に打ち明けています。後述。)
C.食事を取らなければ死んでしまうかもしれないのに、悪魔の誘いを断って乞食をしなかった。生にも死にも執着しない。煩悩がない。
D.悪魔というのは様々な形をとる。人だったり牛だったり様々。
五蘊などへのこだわりも悪魔の扱い。あるいは様々な快楽や欲望のこと。
この教えではお釈迦さんは自身の心の中を魔としており、命を繋ぐ食欲すら執着やこだわり、欲望だと言い切っている。
E.生死だけでなく食欲すら、こだわりすぎると執着です。
仏教の正邪で仏と魔がよく言われますが、学会の仏=生命、魔=奪命者は誤り。
悪魔が命を繋ぐように戒律を破って ”もう一度托鉢に行け” と誘惑しているのですから、学会の解釈は誤りです。
偽経である無量義経の「三十四の否定」を読んだ戸田城聖の獄中の悟達、
「仏とは生命のことなのだ!」(宇宙生命論)は梵我一如。外道の教え。
「三十四の否定」は無常や無我、空の説明の変化形か?
欲望に忠実なほうが悪魔の教え。
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●第十一篇 第三章 第一節 斬り殺して
(中略)
3.傍らに立った神々の主サッカは、尊師に詩を以て語りかけた。---「何ものを斬り殺して安らかに臥すのですか?何ものを斬り殺して、悲しまないのですか?いかなる一つのものを殺害することを、あなたはが嘉(よし)とするのですか?ゴータマよ。」
4.〔尊師いわく、---〕
「怒りを斬り殺して安らかに臥す。怒りを斬り殺して悲しまない。毒の根である最上の蜜である怒りを殺すことを、聖者は称讃する。それを斬り殺したならば、悲しむことはないからである。」
(中略)
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A.創価などの正宗系教団に、「怒りと恐怖」のマインドコントロールがあるのは過去記事に書いてきたとおり。
学会では「魔を切る/斬る戦い」と習いますが、実際は「怒りを斬る」のが正しい。
拡大解釈して欲望のままな貪瞋癡を切るのがお釈迦さん以来の正統派な教えと言ってもいいかもしれません。
サンユッタ・ニカーヤによれば、お釈迦さんもその弟子である僧侶も座禅瞑想により、自身の心の内を見つめ、魔であることを知って「悪魔・悪しき者は(中略)気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。」と "数多く"書かれています。注2
魔は切るのではなく、消滅、退散、降すのが正しい。
●お釈迦さんと弟子の成道と魔の関係
原始経典のお釈迦さんと弟子には成道した後でも魔が出て来る。
大乗經典だと、降魔成道といって成道する直前に魔を降す話は有名です。
しかし、大乗經典に成道した後のお釈迦さんには魔が出てこないらしい。
過去記事でも少し書いたお釈迦さんの神格化だと思います。
あるいは、注2のことがサンユッタ・ニカーヤに数多く書かれているにも関わらず、大乗經典で無視されたのは、伝承が意図的に途絶えた可能性があります。信仰者が成道した後、欲望を満たす為の堕落だったのかもしれません。
日蓮本尊のように魔が諸天善神となって法華經行者の味方をする、というのもおかしな話です。
中国天台が日蓮さんの基本の一つなので仕方ないところ。
おとぎ話的な第六天魔王は中国の創作かもしれません。
お釈迦さんの教えは基本的には現実を直視しています。
◯その他 法華経の女人成仏
やはり法華経の女人成仏はおかしい。元々原始経典で女性も成道した後で悪魔も退散していることから女人は成仏できないのはお釈迦さん滅後の創作じゃないのか?
女性は男性出家者にとっての修行の妨げになることが拡大解釈されたのではないのか?
サンユッタ・ニカーヤIIでは「娘たち」という章があり、悪魔の娘である女性がお釈迦さんを惑わす話が描かれている。
以上
原始経典で鬼(天邪鬼)の存在があったのかよくわかっていません。