☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
この記事に限って部分的に(I)と(You)を入れ替えていますので注意して下さい。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
とある学会員が次のように言ったとしましょう。
日蓮本仏論が好き、日蓮本仏論は素晴らしい、日蓮本仏論を信じる!日蓮を信じる!
池田先生が好き、池田先生は素晴らしい、池田先生を信じる!
これらは学会員である人(I)の感情、言動や行為です。
アンチや一般側、つまり学会員側から見た他者(You)はなかなか否定出来ません。
しかし学会員から他者への説得力は実は「0」です。
学会員(I)が信じる、素晴らしいと思う、これは他者から否定しにくいわけですが本当に問題はないのでしょうか?
人(I)は誰でも赤ん坊で生まれた時から色々な常識、知識、愛情を他者から与えられます。親も自分ではない他人、他者です。
ここでは血のつながりや親の愛情などを議論の焦点とはしていません。
創価などの日蓮正宗には日蓮本仏論や法華経仏説、大御本尊などの問題点が数多くありますが、実はこれらの問題点は信徒会員が誰かに嘘を教え込まされる、という点にあります。そして入信した信徒、会員は一般人の他者に向かって嘘や悪意、不健全を与えるわけです。
●IとYouって?。
いきなり結論から。
宗教の教義だけでなくどんな知識や言葉や態度など、自分(I)は赤ん坊で生まれた後に誰か他者(You)から受け取ったモノです。
もちろん自分自身で読書したり友人関係などから、教えられなくても察する、気がつく、ということはもちろんあります。その事を私は否定しません。しかし書籍も他者(You)が書いたものです。
他者、つまり親や学会の先輩、教団の僧侶、学会幹部こういった人々を(I)とみると、布教される側の人は(You)の立場として色々受け取っているわけです。
過去の体験、読書知識、口頭で説明される、教えられるなどの口伝の知識も結局は自分自身(I)が誰か他者(You)から受け取ったモノです。
見方を変えれば学会などの正宗系信徒会員を(I)として、布教される側の人は(You)の立場として色々受け取っているわけです。
●他者(You)が理解できる根拠が問題なのか?自分(I)が問題なのか?
説明する他者(I)から自分、(You)の立場として色々受け取る、受け入れる、信じるのは自由でもありますが、根拠が必要です。
アンチ創価とシンパのバトルによく見られるように仏教学の議論で根拠を求められる場合があります。
法華経仏説あたりは鎌倉時代には日本だけでなく中国でも言われていたでしょうが、
法華経仏説などの間違いの全責任が日蓮にあるはずがありません。
法華経仏説あたりは仕方なかったとしても日蓮本仏論などは教団都合の嘘か創作、教団の宣伝ぐらいに思わないといけません。
日蓮本仏論あたりは日蓮宗の中だけで、更にほんの一部の宗派でしか言われていなかったわけです。
日蓮自身に絶対的な根拠はないわけです。
仏教自体に絶対的無謬である根拠もありません。
(ケースバイケースで仏教が役に立つケースがあることや仏教に宗教性がかすかに残っているのは否定しませんが、全く別問題です。)
現代では科学的根拠、研究などから日蓮本仏論や法華経仏説、大御本尊など現代人には通用しません。
末端の信徒会員は(I)という立場で他者(You)に説得や布教をしますが、他者(You)から単純に興味がないなどの断り方が成立すれば問題は少ないケースが多いでしょう。しかし、ネットの議論などほとんどが衝突であり問題あるケースが数多く見られます。
信徒会員(I)は一般仏教の知識を前提として具体的な根拠、教団都合によらない文献引用を現代語などでわかりやすく他者(You)に説明する必要があります。
実際問題として末端の信徒会員はMCされ、しがらみなどからアイデンティティの問題から根拠を示せないのかもしれません。
理由はともかくとしても議論になっていないケースが多々あるのは間違いありません。
悪意や攻撃ありきや”先生の悪口を言うのは許せない!”など罵倒、誹謗中傷は論外なのですが、信徒会員にはその意識も薄いようです。
”勇気を示せばよい”
”言い切った”
これらの言動はつまりは以下の通り*1かと。
私(I)は勇気を示せばよい
私(I)は勇気を示した!!
私(I)は言い切った!!!
先の記事も書いたとおり、他者(You)が理解できることや他者が問題なのではなく自分(I)、私(I)が勇気を示せばよい!!という自分だけが問題になっています。
自己愛的かと。もちろん問題のある自己愛だと私は考えます。
*1の勇気や言い切ることが勇ましく、正義であり相手の心に響くと思っているからやっかいです。
上記も不健全なものを与えていますが、わかりにくいかもしれませんので典型例をあげましょう。
●学会など正宗系信徒会員は 「あるアプローチ」 からIとYouが同じ認識になると思っている。
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初心者アンチの質問&相談に答えるスレ14
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1228069690/
99 名前:そううそ ◆ozOtJW9BFA [sage] 投稿日:2008/12/08(月) 00:14:00 ID:???
>>95さん。
> 叩き、馬鹿にし、コケにし、嘲笑する退転の輩がいる。
> 四月会の増上慢に走った代議士達がどんな末路を辿ったか。
> いずれ身に浸みて後悔する時が来るだろう。仏法は厳然。
なるほど。なるほど。
あなた(>>95さん。)は退転者である私に言いたい事が上記なのですね。
「末路を辿った」「 いずれ後悔」「仏法は厳然」 厳然とは「厳」しい
コメントに書かれている内容からも明らかな様に
これを読んでいる人々(学会員、アンチ創価、一般の人)、つまり誰に対しても
「不幸になる」「恐怖」 を与えていると私は考えています。
「他者」対して慈悲や優しさetcetcを与えていませんね。
念の為確認します。
あなたは「自分」の持つ「恐怖」、「あなた自身(自分)」が罰が当たる思っている「恐怖」、
「自分」が謗法をすると不幸になる「恐怖」、これらのことを「他者」対して与えている認識がありますか?
あなたは95のコメント内容を改めて肯定しますか?
----------------------------------------------------------
自分自身は明確に言葉などで意識していなくても上記のような言動から下記の様に考えているのでしょう。
”学会員でない他者に怒りと恐怖を与えることで信じる、信仰の継続やきっかけになる。”
ですから95さんにはおそらく下記のような認識があるのでしょう。
”学会員??な95さんは怒りと恐怖を与えられることで信じる、信仰の継続やきっかけになる。”
ですから「あるアプローチ」とは怒りと恐怖のことです。
恐怖などは人間が誰もが持つ感覚ですから、相手にも恐怖や怒りが通じると思っているのでしょう。
慈悲や思いやり、優しさが通じるとは思っていないわけです。
また彼ら自身、心の深いところでMCされていることにも気がつけません。
学会など正宗系信徒会員は罵倒、誹謗中傷などでも相手に伝わると彼らは考えているのでしょう。
無意識のうちに教団から与えられた教団都合な”怒りと恐怖が彼ら自身によく伝わっている”(あるいは伝わった)という自覚がありません。
●問題点
○学会などの問題点。
学会の場合、創価家族、師弟不二、僧俗和合等が問題ある方向に拍車をかけていると私は考えます。
創価家族あたりは真の意味での他人であっても家族的人間関係を築く、他宗の仏教者でもあれば家族的人間関係を築くなら問題なかったのでしょうが。最近は特に会員をMCするか、一般人を騙す為にしか使われていないようです。
師弟不二は師匠と弟子が教義の根幹ですから、教えた池田氏などの他者(You)と教義を受け入れた自分(I)に一体感があるでしょう。
お互いに自分(I)達の思いが通じやすいのですから同じ教団の信徒会員であれば他者(You)に一体感を感じるでしょう。
○日蓮遺文の問題点。
僧俗和合は立場が違っても良き人間関係、仲良くすることがポイントですが、日蓮は四箇格言のアプローチで僧にも俗にも敵対視していった問題があります。
(日蓮は四箇格言とは言っていない。)
日蓮から見て思い通りにならない他者は批判の対象になっていますね。
日蓮の四箇格言のアプローチは攻撃と見るべきではないでしょうが、現代の学会など正宗系教団は攻撃として使っていますね。
しかし日蓮遺文に弟子や信徒に対しての説明文でやや口汚い単語がいくつかありますね。
日蓮は暴力でなく対話や法論を望んだようですが。。。
再掲載
---------------------------------------------
パーソナリティ障害―いかに接し、どう克服するか (PHP新書)
岡田 尊司 (著)
2008年03月21日第11刷
P19
最近連日のように報道されている児童虐待にしろ、ストーカー犯罪にしろ、些細な理由で親子が殺し合う事件にしろ、そこには一つの共通項がある。それは、思い通りにならない他者を、別の意志と感情を持った存在として認められないということである。 その人の心に、本来の意味での他者のとの関係が育っていないため、自分の思い通りになる存在だけを愛し、思い通りにならない存在は攻撃の対象になってしまうのである。こうした独りよがりな他者との関係は本論でも述べるようにパーソナリティ障害の人の一つの特徴である。
---------------------------------------------
私は多くの過去記事で 「ごっちゃになっている」 というフレーズを沢山書いてきましたが、心理学的な面から見ても
学会など正宗系信徒会員は ”自分(I)が語れば必ず他者(You)に思い通りに伝わる。”etcetcなどの
「IとYouの認識がごっちゃになっている」
とみるべきかと。
もちろん個人個人によってその度合いは違うでしょうけれど。
健全な日蓮信仰する教団にお目にかかったことがありませんが、個人ではなく教団、日蓮系では日蓮正宗系がパーソナリティ障害の要素や可能性を多く持っていると断言できるのではないでしょうか?
●だから。。。。
教義でも慈悲とかの気持ちでも良心でも正直さでもきっかけは何でも良いのですが、どこかでIとYou、自分と他人の区別をつけて欲しいと思います。
自分のしてきたことを良く見つめて過去を振り返って欲しいと創価学会退会者である私(そううそ)は思います。
仏教素人、心理学素人の私でもこの程度の記事が書けるわけですから、読書などで理解しつつ脱カルトなアプローチは十分可能でしょう。
自分は一体、どの様に他者から宗教教義を受けれて(影響を受けて)きたのか?
発達心理学などを勉強することで自分は一体、他者からどの様に影響を受けてきたのか?etcetc
不健全な教団や池田氏や日顕氏、浅井氏などの教団トップを師匠とか先生とか馬鹿なことを言ってないで決別するべきです。
1日できっぱり決別出来ればベストですが、多くの人は時間をかけてMCや心理的な不健全からゆっくりゆっくり少しずつ離れる必要があると思います。
極論かもしれませんが、教学などで一つか二つでも嘘があれば教団とはキッパリ決別すべきでしょう。
教学を沢山勉強してしまった人はやはり、脱カルト、脱教団都合なアプローチで勉強しなおす必要があるかもしれません。人によりけりでしょうけど。
学会精神、日蓮正宗学、日蓮の思いやりや慈悲などは時間をかけて脱MC脱カルト、心に整理整頓をすればいいと思います。
○ひとりごと。
数年前は理解できなかった日蓮本仏論や大御本尊の間違いに気がついた学会員さんを知っていますが、昔から今に至るまで自分がマトモだったか無謬だったかのような自己主張や大いばりは個人的に勘弁して欲しいです。
その性格や自己主張の仕方がカルトを受け入れる要素でもありカルトから影響を受けた(性格などの)アウトプットなんでしょうに。。。。
カルトにいたことに気がついたら教団系の信仰なんてするべきじゃないと、私は個人的に思います。
信仰ではなくカルトなアプローチで教団に属し、カルトな教団トップを師匠としMCされ騙されたとはいえ、ある意味において「間違ったものを信じた」「失敗してきた」「周りの人に迷惑だった」わけです。
ほとんどの学会員さんが教団都合な教えを過去に信じた自分、それを他者に大いばりで語った自分、不健全な自信を持った自分、不健全なアイデンティティを持った自分がいたわけです。「池田先生は凄い!」「御本尊は凄い!」「日蓮は凄いんだぞ!」「法華経はすごいんだぞ!」「(その信仰をしている)おれはすごいんだぞ!」「おれは偉いんだぞ」みたいな変な自己意識、自己主張があったわけです。
ところが創価学会に居続ける、正宗に移るetcetcなど「これからも信仰できる」という自信(私には不健全な依存にみえる)が私には不思議というか不健全に思えます。
この点だけですが自分に反省し何も自分を変えようとはしていません。
池田大作氏とそっくりかと。
もちろん自分に健全な自信を持つこと、自立することは問題ありません。おれは凄いなんて他者に自己主張する、というよりかは創嘘風に言えば「自分にはこれこれこんなことが出来た」自分に言い聞かせてあげる、、そんな感じでしょうか?
以上
この記事に限って部分的に(I)と(You)を入れ替えていますので注意して下さい。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
とある学会員が次のように言ったとしましょう。
日蓮本仏論が好き、日蓮本仏論は素晴らしい、日蓮本仏論を信じる!日蓮を信じる!
池田先生が好き、池田先生は素晴らしい、池田先生を信じる!
これらは学会員である人(I)の感情、言動や行為です。
アンチや一般側、つまり学会員側から見た他者(You)はなかなか否定出来ません。
しかし学会員から他者への説得力は実は「0」です。
学会員(I)が信じる、素晴らしいと思う、これは他者から否定しにくいわけですが本当に問題はないのでしょうか?
人(I)は誰でも赤ん坊で生まれた時から色々な常識、知識、愛情を他者から与えられます。親も自分ではない他人、他者です。
ここでは血のつながりや親の愛情などを議論の焦点とはしていません。
創価などの日蓮正宗には日蓮本仏論や法華経仏説、大御本尊などの問題点が数多くありますが、実はこれらの問題点は信徒会員が誰かに嘘を教え込まされる、という点にあります。そして入信した信徒、会員は一般人の他者に向かって嘘や悪意、不健全を与えるわけです。
●IとYouって?。
いきなり結論から。
宗教の教義だけでなくどんな知識や言葉や態度など、自分(I)は赤ん坊で生まれた後に誰か他者(You)から受け取ったモノです。
もちろん自分自身で読書したり友人関係などから、教えられなくても察する、気がつく、ということはもちろんあります。その事を私は否定しません。しかし書籍も他者(You)が書いたものです。
他者、つまり親や学会の先輩、教団の僧侶、学会幹部こういった人々を(I)とみると、布教される側の人は(You)の立場として色々受け取っているわけです。
過去の体験、読書知識、口頭で説明される、教えられるなどの口伝の知識も結局は自分自身(I)が誰か他者(You)から受け取ったモノです。
見方を変えれば学会などの正宗系信徒会員を(I)として、布教される側の人は(You)の立場として色々受け取っているわけです。
●他者(You)が理解できる根拠が問題なのか?自分(I)が問題なのか?
説明する他者(I)から自分、(You)の立場として色々受け取る、受け入れる、信じるのは自由でもありますが、根拠が必要です。
アンチ創価とシンパのバトルによく見られるように仏教学の議論で根拠を求められる場合があります。
法華経仏説あたりは鎌倉時代には日本だけでなく中国でも言われていたでしょうが、
法華経仏説などの間違いの全責任が日蓮にあるはずがありません。
法華経仏説あたりは仕方なかったとしても日蓮本仏論などは教団都合の嘘か創作、教団の宣伝ぐらいに思わないといけません。
日蓮本仏論あたりは日蓮宗の中だけで、更にほんの一部の宗派でしか言われていなかったわけです。
日蓮自身に絶対的な根拠はないわけです。
仏教自体に絶対的無謬である根拠もありません。
(ケースバイケースで仏教が役に立つケースがあることや仏教に宗教性がかすかに残っているのは否定しませんが、全く別問題です。)
現代では科学的根拠、研究などから日蓮本仏論や法華経仏説、大御本尊など現代人には通用しません。
末端の信徒会員は(I)という立場で他者(You)に説得や布教をしますが、他者(You)から単純に興味がないなどの断り方が成立すれば問題は少ないケースが多いでしょう。しかし、ネットの議論などほとんどが衝突であり問題あるケースが数多く見られます。
信徒会員(I)は一般仏教の知識を前提として具体的な根拠、教団都合によらない文献引用を現代語などでわかりやすく他者(You)に説明する必要があります。
実際問題として末端の信徒会員はMCされ、しがらみなどからアイデンティティの問題から根拠を示せないのかもしれません。
理由はともかくとしても議論になっていないケースが多々あるのは間違いありません。
悪意や攻撃ありきや”先生の悪口を言うのは許せない!”など罵倒、誹謗中傷は論外なのですが、信徒会員にはその意識も薄いようです。
”勇気を示せばよい”
”言い切った”
これらの言動はつまりは以下の通り*1かと。
私(I)は勇気を示せばよい
私(I)は勇気を示した!!
私(I)は言い切った!!!
先の記事も書いたとおり、他者(You)が理解できることや他者が問題なのではなく自分(I)、私(I)が勇気を示せばよい!!という自分だけが問題になっています。
自己愛的かと。もちろん問題のある自己愛だと私は考えます。
*1の勇気や言い切ることが勇ましく、正義であり相手の心に響くと思っているからやっかいです。
上記も不健全なものを与えていますが、わかりにくいかもしれませんので典型例をあげましょう。
●学会など正宗系信徒会員は 「あるアプローチ」 からIとYouが同じ認識になると思っている。
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初心者アンチの質問&相談に答えるスレ14
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1228069690/
99 名前:そううそ ◆ozOtJW9BFA [sage] 投稿日:2008/12/08(月) 00:14:00 ID:???
>>95さん。
> 叩き、馬鹿にし、コケにし、嘲笑する退転の輩がいる。
> 四月会の増上慢に走った代議士達がどんな末路を辿ったか。
> いずれ身に浸みて後悔する時が来るだろう。仏法は厳然。
なるほど。なるほど。
あなた(>>95さん。)は退転者である私に言いたい事が上記なのですね。
「末路を辿った」「 いずれ後悔」「仏法は厳然」 厳然とは「厳」しい
コメントに書かれている内容からも明らかな様に
これを読んでいる人々(学会員、アンチ創価、一般の人)、つまり誰に対しても
「不幸になる」「恐怖」 を与えていると私は考えています。
「他者」対して慈悲や優しさetcetcを与えていませんね。
念の為確認します。
あなたは「自分」の持つ「恐怖」、「あなた自身(自分)」が罰が当たる思っている「恐怖」、
「自分」が謗法をすると不幸になる「恐怖」、これらのことを「他者」対して与えている認識がありますか?
あなたは95のコメント内容を改めて肯定しますか?
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自分自身は明確に言葉などで意識していなくても上記のような言動から下記の様に考えているのでしょう。
”学会員でない他者に怒りと恐怖を与えることで信じる、信仰の継続やきっかけになる。”
ですから95さんにはおそらく下記のような認識があるのでしょう。
”学会員??な95さんは怒りと恐怖を与えられることで信じる、信仰の継続やきっかけになる。”
ですから「あるアプローチ」とは怒りと恐怖のことです。
恐怖などは人間が誰もが持つ感覚ですから、相手にも恐怖や怒りが通じると思っているのでしょう。
慈悲や思いやり、優しさが通じるとは思っていないわけです。
また彼ら自身、心の深いところでMCされていることにも気がつけません。
学会など正宗系信徒会員は罵倒、誹謗中傷などでも相手に伝わると彼らは考えているのでしょう。
無意識のうちに教団から与えられた教団都合な”怒りと恐怖が彼ら自身によく伝わっている”(あるいは伝わった)という自覚がありません。
●問題点
○学会などの問題点。
学会の場合、創価家族、師弟不二、僧俗和合等が問題ある方向に拍車をかけていると私は考えます。
創価家族あたりは真の意味での他人であっても家族的人間関係を築く、他宗の仏教者でもあれば家族的人間関係を築くなら問題なかったのでしょうが。最近は特に会員をMCするか、一般人を騙す為にしか使われていないようです。
師弟不二は師匠と弟子が教義の根幹ですから、教えた池田氏などの他者(You)と教義を受け入れた自分(I)に一体感があるでしょう。
お互いに自分(I)達の思いが通じやすいのですから同じ教団の信徒会員であれば他者(You)に一体感を感じるでしょう。
○日蓮遺文の問題点。
僧俗和合は立場が違っても良き人間関係、仲良くすることがポイントですが、日蓮は四箇格言のアプローチで僧にも俗にも敵対視していった問題があります。
(日蓮は四箇格言とは言っていない。)
日蓮から見て思い通りにならない他者は批判の対象になっていますね。
日蓮の四箇格言のアプローチは攻撃と見るべきではないでしょうが、現代の学会など正宗系教団は攻撃として使っていますね。
しかし日蓮遺文に弟子や信徒に対しての説明文でやや口汚い単語がいくつかありますね。
日蓮は暴力でなく対話や法論を望んだようですが。。。
再掲載
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パーソナリティ障害―いかに接し、どう克服するか (PHP新書)
岡田 尊司 (著)
2008年03月21日第11刷
P19
最近連日のように報道されている児童虐待にしろ、ストーカー犯罪にしろ、些細な理由で親子が殺し合う事件にしろ、そこには一つの共通項がある。それは、思い通りにならない他者を、別の意志と感情を持った存在として認められないということである。 その人の心に、本来の意味での他者のとの関係が育っていないため、自分の思い通りになる存在だけを愛し、思い通りにならない存在は攻撃の対象になってしまうのである。こうした独りよがりな他者との関係は本論でも述べるようにパーソナリティ障害の人の一つの特徴である。
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私は多くの過去記事で 「ごっちゃになっている」 というフレーズを沢山書いてきましたが、心理学的な面から見ても
学会など正宗系信徒会員は ”自分(I)が語れば必ず他者(You)に思い通りに伝わる。”etcetcなどの
「IとYouの認識がごっちゃになっている」
とみるべきかと。
もちろん個人個人によってその度合いは違うでしょうけれど。
健全な日蓮信仰する教団にお目にかかったことがありませんが、個人ではなく教団、日蓮系では日蓮正宗系がパーソナリティ障害の要素や可能性を多く持っていると断言できるのではないでしょうか?
●だから。。。。
教義でも慈悲とかの気持ちでも良心でも正直さでもきっかけは何でも良いのですが、どこかでIとYou、自分と他人の区別をつけて欲しいと思います。
自分のしてきたことを良く見つめて過去を振り返って欲しいと創価学会退会者である私(そううそ)は思います。
仏教素人、心理学素人の私でもこの程度の記事が書けるわけですから、読書などで理解しつつ脱カルトなアプローチは十分可能でしょう。
自分は一体、どの様に他者から宗教教義を受けれて(影響を受けて)きたのか?
発達心理学などを勉強することで自分は一体、他者からどの様に影響を受けてきたのか?etcetc
不健全な教団や池田氏や日顕氏、浅井氏などの教団トップを師匠とか先生とか馬鹿なことを言ってないで決別するべきです。
1日できっぱり決別出来ればベストですが、多くの人は時間をかけてMCや心理的な不健全からゆっくりゆっくり少しずつ離れる必要があると思います。
極論かもしれませんが、教学などで一つか二つでも嘘があれば教団とはキッパリ決別すべきでしょう。
教学を沢山勉強してしまった人はやはり、脱カルト、脱教団都合なアプローチで勉強しなおす必要があるかもしれません。人によりけりでしょうけど。
学会精神、日蓮正宗学、日蓮の思いやりや慈悲などは時間をかけて脱MC脱カルト、心に整理整頓をすればいいと思います。
○ひとりごと。
数年前は理解できなかった日蓮本仏論や大御本尊の間違いに気がついた学会員さんを知っていますが、昔から今に至るまで自分がマトモだったか無謬だったかのような自己主張や大いばりは個人的に勘弁して欲しいです。
その性格や自己主張の仕方がカルトを受け入れる要素でもありカルトから影響を受けた(性格などの)アウトプットなんでしょうに。。。。
カルトにいたことに気がついたら教団系の信仰なんてするべきじゃないと、私は個人的に思います。
信仰ではなくカルトなアプローチで教団に属し、カルトな教団トップを師匠としMCされ騙されたとはいえ、ある意味において「間違ったものを信じた」「失敗してきた」「周りの人に迷惑だった」わけです。
ほとんどの学会員さんが教団都合な教えを過去に信じた自分、それを他者に大いばりで語った自分、不健全な自信を持った自分、不健全なアイデンティティを持った自分がいたわけです。「池田先生は凄い!」「御本尊は凄い!」「日蓮は凄いんだぞ!」「法華経はすごいんだぞ!」「(その信仰をしている)おれはすごいんだぞ!」「おれは偉いんだぞ」みたいな変な自己意識、自己主張があったわけです。
ところが創価学会に居続ける、正宗に移るetcetcなど「これからも信仰できる」という自信(私には不健全な依存にみえる)が私には不思議というか不健全に思えます。
この点だけですが自分に反省し何も自分を変えようとはしていません。
池田大作氏とそっくりかと。
もちろん自分に健全な自信を持つこと、自立することは問題ありません。おれは凄いなんて他者に自己主張する、というよりかは創嘘風に言えば「自分にはこれこれこんなことが出来た」自分に言い聞かせてあげる、、そんな感じでしょうか?
以上