●三世の因果業報論をブッダや日蓮はどの様に考えたのか?
ブッダは歩むブッダは語る ではブッダの三世の因果業報「観」がどういうものだったのかが解説されています。
結論だけ書くとブッダは三世の因果業報論は否定しています。長いので読んで頂くより他にありません。(P192~P222)この本の最大のテーマだと私は思います。
もちろん、現代人にとって、現世上での原因と結果はあまりにも当然であるとおもいます。
(例:2H2O → 2H2 +O2、頑張って仕事したら給料あがる、とか。(笑))
●ブッダの因果論
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ブッダは歩むブッダは語る 友岡雅弥 著 第三文明社(P192)
よく仏教は「因果論」を説く」と言われます。
果たしてそう単純に言い切って良いのでしょうか?「因果業報論」は確かに部派仏教の重要論題です。しかしブッダ自身は因果論や宿命論を説いたのでしょうか?
(P193)
過去の罪業によって次の人生が決定してしまうというのは、既にバラモン教で説かれているのです。しかも、それは差別と関係を持っているのです。いい事をすればバラモンの「好ましい母胎」に生まれ悪い事をすればの「汚らわしい母胎」に生まれるというのです。
(中略)
バラモンでいう因果論というのは一見合理的な法則性があるようでいて、実は現在の差別に対してそのまま肯定し、それに基づいて断定しているにしかすぎないのです。
「過去に悪い事をしたから、今貧乏に生まれた」
(中略)
この様な言葉は後にも述べますが、日本において差別と関連してしばしば使われた言葉です。
もし仏教が人を救う宗教であって、因果業報論を主張するとするならばこの様なことは言ってはいけないでしょう。
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過去世の法華経誹謗(日蓮誹謗)の為に今の宿業(状態)がある、、なんて言葉、学会員の間で「何度も何度も」聞きました。
あの人は幹部じゃないのは、
あの人は池田先生を批判する低い境涯なのは
、、、、、きっと過去世で法華経誹謗したのだ!!!(断定)
あるいは
幹部でもないあの人なんで境涯が低い!!信心を解っていないので結婚は反対だ。
とかね。
「あなたの今の苦しみは(境涯が低いのは)過去世の法華経誹謗が原因です。」これに似た様な文章はたしか折伏経典にもあった気がします。人間革命にもあったかな?
●日蓮は因果業報論をどの様に捉えたのか?
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ブッダは歩むブッダは語る 友岡雅弥 著 第三文明社(P200)
因果業報論は過去に呪縛させて自由を奪うのです。もう一度繰り返します。仏教は
安易な「因果論」を説いたのではないのです。因果からの解放を説いたのです。その仏教が自ら否定した「因果業報論」を説き人を呪縛する体制イデオロギーに堕落したのです。
非仏教的、非人間的要素に敏感だった日蓮大聖人を始めとする鎌倉仏教は、この手の因果論に極めて慎重に対応しています。
そして「信」によって又仏教とは何かを問い続ける事によって因果の鎖を断ち切ることの可能性を求めようと努力したのです。
例えば日蓮大聖人は佐渡御書で因果論を説く教典をあげながら普通は他者に向けられる(中略)因果業報論を自らにまず引き受けようとします。そして「これは常の因果の定まれる法なり」と総括し「日蓮はこの因果にあらず」と呪縛的因果論をひっくり返すのです。過去世の悪い行いが今に報いるという因果異時論ではなく、今よき行いをしている人が良き人であるという因果倶時論が大聖人仏教の真骨頂でしょう。
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安易な「○○論」を説いたのではない
○○は相手を否定する、地獄、餓鬼、悪魔、天魔、地獄の因etcetc、、、それから境涯、宿命などなどがはいるんじゃないでしょうか?
明らかに聖教新聞の四面座談会はおかしいですね。
はてさて、私はコメント禁止にされてしまいましたが、コメント禁止は真摯に誠実に「仏教とは何かを問い続ける」ことでしょうかね?私に「信」がないのは明らかですが、それはそれでちゃんと理由はあります。
しかし、「信」がない私が”地獄の因という決めつける事”を否定して、”地獄の因と決めつける”現役の日蓮系信徒が日蓮の言う事を聞けていない気がするのは私だけでしょうか?
●地獄の因つまり因とは因果の因、原因の因。(222番記事の再掲載)
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日蓮自伝考 山中講一郎 著 水声社(P356)
「日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず不軽品に云く「其罪畢已」等云云、不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり(創価学会版御書P958)」
しかしここで重要な事は「其罪畢已(ございひっち)」を必ずしも弟子達に要求していないことである。日蓮は「其罪畢已(ございひっち)」にみられるような因果論を「常の因果」と共に乗り越えて観心本尊抄に消化して、それを弟子達に与えようとしたのであった。
(中略)
いわゆる「常の因果」観には大きな欠点がある。法華本門を標榜しながら爾前経(にぜんきょう)の歴行修行に逆戻りしてしまうことが一つ。そして更に大きな問題は社会性を欠落させて差別思想の温床となってきた歴史的事実である。仏教者がこの事実を正視しない限り真に社会に潜む悪と対峙することはできないであろう。
佐渡御書においては「常の因果」を通常の善悪による因果とし日蓮の因果を謗法による因果としている。これは日蓮がその因果を我が身に引き受けている事によって成り立っている。そこでは社会的な問題は発生することがない。しかし末流の人々が、自らを高見において不用意に他者に突きつける時、謗法による因果といえども差別を生み出し社会的罪悪をもたらすという構造は変わらない。
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日蓮が自分の身に引き受ける、、というのは同苦に似ている気がします。
日蓮の慈悲ですかね?
慈悲のない池田大作氏を始めとする創価学会が地獄論や罰論を結論として説くのはあたりまえか。慈悲のない創価の言う地獄論(罰論)は全く気にする必要がないって事ですね。(笑)ヽ(^o^;)ノ日蓮正宗もしかり。
慈悲がないんですからそりゃあ、四六時中、聖教新聞や過去コメントの様に誹謗中傷したり「堕地獄!!堕地獄!!」って結論づけて言うわけか。ようやく納得、納得。
というわけで、あとは日蓮の地獄論だけを突き詰めればいいのかな?
無謬ではなく間違いがある日蓮、宇宙生命かの様な本仏でなく人間としての日蓮、喜怒哀楽があり時には嘆きもした慈悲ある日蓮であれば、日蓮遺文を学ぶ事に全く意味が無い訳ではないでしょう。
●結論
日蓮もブッダも「過去どうのこうの、だから今が不幸。」という三世の因果業報論は否定しています。
高等教育や道徳を学んでいる現代人の私たちは、三世の因果業報論だけでなく、現世、つまり現在の因果業報について”堕地獄””幸福になれない=不幸”などと安易に軽々しく断言する(決めつける)のは良くないと思いませんか?
また、特に日蓮は法華経などを読んで三世の因果業報論は否定出来る宗教観、バランス感覚があった様に思います。
ブッダやブッダの教えにかなり原点回帰出来た、と言えるでしょう。釈子と言う単語も日蓮遺文にいくつかあるようですしね。
ちょっと一念三千もメモするかな?新たな疑問が出てきました。
○補足
創価学会の信仰に功徳はあるか? 90.日蓮の優しさと厳しさ
日蓮は本尊を女性信徒に再度配布しているようです。つまり本尊=宇宙生命とは考えていなかったと思います。創価のいうとおり宇宙生命であれば絶対”かも”しれませんが。。。
創価学会の信仰に功徳はあるか? -8.師匠達との対話。その7より
回答(2007.01.18-03) (Libra)
2007-01-18 04:18:10
【日蓮は釈迦が無常無我を重視したのを理解していました】
日蓮は釈迦が無常無我を重視したことを理解していました。これは以下の発言から明らかです。
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人の師と申すは弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候なり、例せば仏より前の一切の人天外道は二天三仙の弟子なり、九十五種まで流派したりしかども三仙の見を出でず、教主釈尊もかれに習い伝えて外道の弟子にてましませしが苦行楽行十二年の時苦空無常無我の理をさとり出してこそ外道の弟子の名をば離れさせ給いて無師智とはなのらせ給いしか、又人天も大師とは仰ぎまいらせしか
(「開目抄」、全集、p. 208)
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日蓮は、無常無我を理解していた、ということは、「何々が絶対である。」という思想からも遠い人だった様な気がします。
無常は 常なるものは無い んですから、絶対なんてあり得ない、そんな気がします。
無常や原始仏教に興味がなく、教えることも学ぶことも創価学会員はしませんので「「何々が絶対である。」」という問題が多い気がします。