不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

225.Iraq Body Count20071121

2007年11月21日 02時35分52秒 | 創価学会
Iraq Body Count

ちょっと見ていない間に  77,305 – 84,222 ということで最低でも75000人以上死んでいます。

 11111世帯達成!!とか言って過去の折伏達成や折伏、新聞ノルマが大好きな池田大作氏、学会本部、バリ活の皆さんは 妙法は5字7字とか意義づけて

「公明党の政策によりイラクで75,000人の死者達成!!」

とか言って喜ぶんでしょうか?こうしたことからも「数を気にする事が馬鹿馬鹿しい」というのがよく分かりますね。組織都合であり、学会本部都合であり与党にいて証人喚問を逃れたい池田氏都合なわけです。

改めてイラク戦争反対。日本のアメリカの戦争行為荷担に反対しておきます。

最近思うんですけど、バリ活諸氏のHPに限ってイラク戦争のことを全く反対していない気がします。忘れているか、思考停止しているんでしょうね。

創価学会の信仰に功徳はあるか? 196.Iraq Body Count20070513 (4月17日)
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/460600efc788f42377555e22a9a3606a
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

224.犀角独歩さんの一念三千に関するご意見。

2007年11月20日 23時14分10秒 | 創価学会
犀角独歩さんの某所でのコメントについて転載許可を頂きました。

/////////////////////////////////////////////
☆富士門流信徒の掲示板で、一字三礼さんほかの皆さんとの議論は、自分の考えを整理する善い機会となっている。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1194814301/

智述/灌頂書の三大部の段階で、観法は三千不可思議境なのだが、これを固定観念化しない、現代語で言えば、存在論のようにとらえられない工夫があると思う。その論法は四門観別の採用であったりする。いわば三千という数分類の実在化を避けたことのように思う。しかし、湛然は、事も無げに一念三千と成句する。その後、天台学は、この筋でいくことになる。「これでよかったのか?」という思いがわたしにはある。けれど、日蓮はこれを採用した。

誤解を恐れず、あえて記せば、智が嫌った実在化を湛然がなし、それまで、最澄を経て、日蓮は密教的観点から一念三千をとらえていく。
妙楽でさえ、一念三千といった約行は修行の範疇であったけれど、日蓮になると受持する絶対の信仰が即身成仏といった密教的な完成をする要に変わる。

法華三大部から加持祈祷は思いもつかないが、『祈祷抄』などからする日蓮の叙述からは、たしかに加持祈祷を想起される。
実は、この差に、わたしは悩ましさを感じる。

ついでに記せば、三千不可思議境観法、一念三千観法といった推移のなかで、特に誤解されるのが三世間である。
五陰仮和合するところを衆生というのであって、この二つに別はない。また、その衆生の五陰から感じ見えるのが国土であって、国土に差別があるのではなく、十法界各衆生の感じ方を観じることなのだが、いろんな世間があるのだと誤解される。相性体が一つのものを三側面から見たことと同じように、三世間も心を観る三つの方法であるにもかかわらずだ。

人間の情動やら、その存在が、たかだか3000ばかりの分類で終わるわけがない。人間の心はもっと複雑であり、それが全生物ともなれば、もはや、その心象などわかるわけもないことだ。

ただそれでも一字三礼さんが投げかける、一念三千観法を簡び、唱題を採るに当たり、五字に一念三千が裹まれるとした日蓮のコンセプトは、経釈証から説明付けられるかどうか。やや蛮勇ながら、この難問に取り組むのは面白いことだと思う。
/////////////////////////////////////////////
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

223.日蓮もブッダも三世の因果業報論は否定。

2007年11月19日 18時53分56秒 | 創価学会
●三世の因果業報論をブッダや日蓮はどの様に考えたのか?

 ブッダは歩むブッダは語る ではブッダの三世の因果業報「観」がどういうものだったのかが解説されています。
結論だけ書くとブッダは三世の因果業報論は否定しています。長いので読んで頂くより他にありません。(P192~P222)この本の最大のテーマだと私は思います。

もちろん、現代人にとって、現世上での原因と結果はあまりにも当然であるとおもいます。
(例:2H2O → 2H2 +O2、頑張って仕事したら給料あがる、とか。(笑))

●ブッダの因果論
-------------------------
ブッダは歩むブッダは語る 友岡雅弥 著 第三文明社(P192)

 よく仏教は「因果論」を説く」と言われます。果たしてそう単純に言い切って良いのでしょうか?「因果業報論」は確かに部派仏教の重要論題です。しかしブッダ自身は因果論や宿命論を説いたのでしょうか?

(P193)
 過去の罪業によって次の人生が決定してしまうというのは、既にバラモン教で説かれているのです。しかも、それは差別と関係を持っているのです。いい事をすればバラモンの「好ましい母胎」に生まれ悪い事をすればの「汚らわしい母胎」に生まれるというのです。
(中略)
 バラモンでいう因果論というのは一見合理的な法則性があるようでいて、実は現在の差別に対してそのまま肯定し、それに基づいて断定しているにしかすぎないのです。

「過去に悪い事をしたから、今貧乏に生まれた」
(中略)
この様な言葉は後にも述べますが、日本において差別と関連してしばしば使われた言葉です。
もし仏教が人を救う宗教であって、因果業報論を主張するとするならばこの様なことは言ってはいけないでしょう。
-------------------------

過去世の法華経誹謗(日蓮誹謗)の為に今の宿業(状態)がある、、なんて言葉、学会員の間で「何度も何度も」聞きました。

あの人は幹部じゃないのは、
あの人は池田先生を批判する低い境涯なのは

、、、、、きっと過去世で法華経誹謗したのだ!!!(断定)

あるいは
幹部でもないあの人なんで境涯が低い!!信心を解っていないので結婚は反対だ。
とかね。
「あなたの今の苦しみは(境涯が低いのは)過去世の法華経誹謗が原因です。」これに似た様な文章はたしか折伏経典にもあった気がします。人間革命にもあったかな?

●日蓮は因果業報論をどの様に捉えたのか?

-------------------------
ブッダは歩むブッダは語る 友岡雅弥 著 第三文明社(P200)

因果業報論は過去に呪縛させて自由を奪うのです。もう一度繰り返します。仏教は安易な「因果論」を説いたのではないのです。因果からの解放を説いたのです。その仏教が自ら否定した「因果業報論」を説き人を呪縛する体制イデオロギーに堕落したのです。

非仏教的、非人間的要素に敏感だった日蓮大聖人を始めとする鎌倉仏教は、この手の因果論に極めて慎重に対応しています。
そして「信」によって又仏教とは何かを問い続ける事によって因果の鎖を断ち切ることの可能性を求めようと努力したのです。
 例えば日蓮大聖人は佐渡御書で因果論を説く教典をあげながら普通は他者に向けられる(中略)因果業報論を自らにまず引き受けようとします。そして「これは常の因果の定まれる法なり」と総括し「日蓮はこの因果にあらず」と呪縛的因果論をひっくり返すのです。過去世の悪い行いが今に報いるという因果異時論ではなく、今よき行いをしている人が良き人であるという因果倶時論が大聖人仏教の真骨頂でしょう。
-------------------------

安易な「○○論」を説いたのではない
○○は相手を否定する、地獄、餓鬼、悪魔、天魔、地獄の因etcetc、、、それから境涯、宿命などなどがはいるんじゃないでしょうか?
明らかに聖教新聞の四面座談会はおかしいですね。

はてさて、私はコメント禁止にされてしまいましたが、コメント禁止は真摯に誠実に「仏教とは何かを問い続ける」ことでしょうかね?私に「信」がないのは明らかですが、それはそれでちゃんと理由はあります。

しかし、「信」がない私が”地獄の因という決めつける事”を否定して、”地獄の因と決めつける”現役の日蓮系信徒が日蓮の言う事を聞けていない気がするのは私だけでしょうか?

●地獄の因つまり因とは因果の因、原因の因。(222番記事の再掲載)

-------------------------
 日蓮自伝考 山中講一郎 著 水声社(P356)

 「日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず不軽品に云く「其罪畢已」等云云、不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり(創価学会版御書P958)」

 しかしここで重要な事は「其罪畢已(ございひっち)」を必ずしも弟子達に要求していないことである。日蓮は「其罪畢已(ございひっち)」にみられるような因果論を「常の因果」と共に乗り越えて観心本尊抄に消化して、それを弟子達に与えようとしたのであった。
(中略)
 いわゆる「常の因果」観には大きな欠点がある。法華本門を標榜しながら爾前経(にぜんきょう)の歴行修行に逆戻りしてしまうことが一つ。そして更に大きな問題は社会性を欠落させて差別思想の温床となってきた歴史的事実である。仏教者がこの事実を正視しない限り真に社会に潜む悪と対峙することはできないであろう。

 佐渡御書においては「常の因果」を通常の善悪による因果とし日蓮の因果を謗法による因果としている。これは日蓮がその因果を我が身に引き受けている事によって成り立っている。そこでは社会的な問題は発生することがない。しかし末流の人々が、自らを高見において不用意に他者に突きつける時、謗法による因果といえども差別を生み出し社会的罪悪をもたらすという構造は変わらない。
-------------------------

日蓮が自分の身に引き受ける、、というのは同苦に似ている気がします。
日蓮の慈悲ですかね?

 慈悲のない池田大作氏を始めとする創価学会が地獄論や罰論を結論として説くのはあたりまえか。慈悲のない創価の言う地獄論(罰論)は全く気にする必要がないって事ですね。(笑)ヽ(^o^;)ノ日蓮正宗もしかり。

慈悲がないんですからそりゃあ、四六時中、聖教新聞や過去コメントの様に誹謗中傷したり「堕地獄!!堕地獄!!」って結論づけて言うわけか。ようやく納得、納得。

というわけで、あとは日蓮の地獄論だけを突き詰めればいいのかな?

無謬ではなく間違いがある日蓮、宇宙生命かの様な本仏でなく人間としての日蓮、喜怒哀楽があり時には嘆きもした慈悲ある日蓮であれば、日蓮遺文を学ぶ事に全く意味が無い訳ではないでしょう。

●結論

 日蓮もブッダも「過去どうのこうの、だから今が不幸。」という三世の因果業報論は否定しています。

高等教育や道徳を学んでいる現代人の私たちは、三世の因果業報論だけでなく、現世、つまり現在の因果業報について”堕地獄””幸福になれない=不幸”などと安易に軽々しく断言する(決めつける)のは良くないと思いませんか?

 また、特に日蓮は法華経などを読んで三世の因果業報論は否定出来る宗教観、バランス感覚があった様に思います。
ブッダやブッダの教えにかなり原点回帰出来た、と言えるでしょう。釈子と言う単語も日蓮遺文にいくつかあるようですしね。

ちょっと一念三千もメモするかな?新たな疑問が出てきました。

○補足

創価学会の信仰に功徳はあるか? 90.日蓮の優しさと厳しさ

 日蓮は本尊を女性信徒に再度配布しているようです。つまり本尊=宇宙生命とは考えていなかったと思います。創価のいうとおり宇宙生命であれば絶対”かも”しれませんが。。。


創価学会の信仰に功徳はあるか? -8.師匠達との対話。その7より
回答(2007.01.18-03) (Libra)
2007-01-18 04:18:10
【日蓮は釈迦が無常無我を重視したのを理解していました】

 日蓮は釈迦が無常無我を重視したことを理解していました。これは以下の発言から明らかです。

───────────────
人の師と申すは弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候なり、例せば仏より前の一切の人天外道は二天三仙の弟子なり、九十五種まで流派したりしかども三仙の見を出でず、教主釈尊もかれに習い伝えて外道の弟子にてましませしが苦行楽行十二年の時苦空無常無我の理をさとり出してこそ外道の弟子の名をば離れさせ給いて無師智とはなのらせ給いしか、又人天も大師とは仰ぎまいらせしか

(「開目抄」、全集、p. 208)
───────────────

日蓮は、無常無我を理解していた、ということは、「何々が絶対である。」という思想からも遠い人だった様な気がします。
無常は 常なるものは無い んですから、絶対なんてあり得ない、そんな気がします。
無常や原始仏教に興味がなく、教えることも学ぶことも創価学会員はしませんので「「何々が絶対である。」」という問題が多い気がします。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

222.もう一度、創価の「善悪」という決めつけを考える。(地獄、境涯、宿業、罰など)

2007年11月14日 01時00分25秒 | 創価学会
●創価学会の教える、単純な”決めつけによる”善悪や単純な”決めつけによる”十界は信用することが出来ない。

 創価学会の信仰に功徳はあるか? 33.創価学会の「悪」「仏敵」とは何か?創価の勘違い。 この記事では創価学会の「悪」「仏敵」と”決められた”相手に対して対話がなされていない、創価学会本部や日蓮正宗トップがお互いに全く説得や対話がなされていない事を書きました。後者は他の記事にいくつも書いています。

 創価学会や日蓮正宗系の人には師弟不二や法主絶対論を教えられているので、それと一緒に教わったり学んだりした「トップの対話拒否」から一方的にコメント禁止、削除なども一つの傾向としてあるのかもしれません。

 今では問題を感じている「これだけは言っておきます」「言い切る」という言葉は私自身も当初もくじ1、2の頃には多用していますし学会員に共通するキーワードなのかもしれません。人に言い切る事を”決めてしまう”のはいかにも恰好良いようですが、言って、切って、見捨てる傾向が学会員には強い気がします。

 しかし創価学会や日蓮正宗のやりとり、あるいは創価とアンチ創価のやりとりを見て罵倒が飛び交うのは問題です。特に宗教者側が切れる事が多く、また説得できていないのは呆れます。
 ネット弁慶ならぬ聖教新聞弁慶、自画自賛は自分の宗教団体ですからあっても不思議ではありませんが、信徒に法戦や対話、戦いを要求して学会本部が何もないのは異常でしょう。
 ネットだけでなくリアルでも説得が上手くいかないのは当然の様な気がします。
学会本部は新聞上の説得も失敗しているのではないでしょうか?聖教新聞弁慶というのは、一個人の友情の復活や対話継続失敗もその辺に一因があるのかもしれません。

 やはり聖教新聞などで「その様にしか、それしか、」教わっていない事が問題だと思います。

気長にのーんびりと話し合いを続ける事が「ケースバイケースで友を作る、様々な立場の友人を作る」事なのかもしれません。

 創価学会本部の様にいつまで経っても敵と呼ばれる人を誰も説得できないのはおかしいです。やはり、それほどまでに「我々が正しい」「自分が正しい」と”決まっている”のであればきちんとオープンに説得すべきでしょう。

創価学会の場合は批判者や退転者が「悪」であり「敵」であり「仏敵」であり「魔」であり地獄の○○と決められています。
創価学会は池田氏が永遠の指導者であり、最も「仏の境涯」に近いとされています。
子供は「池田先生の様なリーダーになれ」、創価班などでは「先生をお守りしろ!」といわれますよね。

創価学会の言う敵とか悪ってそんな単純なものでしょうか?

●もう一度、「善悪」について考える。境涯、宿業、宿命など安易に”決めつける”事。結論づける事。

-------------------------
 ブッダは歩むブッダは語る 友岡雅弥 著 第三文明社(P18)

「悪」とはその様に単純なものでしょうか。貧困と空腹のどん底でストリートチルドレンがつい店先のオレンジに手を出した。もちろん、盗みは悪い事です。しかしこの場合、100パーセントの悪をこの子に負わせる事が出来るでしょうか?その子の事を考える時に私たちの胸は痛みます。「善悪」とはそのような「痛み」を持って考えるべき問題なのです。「痛み」を感じることなく誰かを「悪」と決めつける。「痛み」を感じることなく自分のやっている事を「善」と思う。これこそもっとも避けなければならない態度でしょう。全くの悪もなく全くの善もない。ゼロと100%の間に真実は漂うのです。
-------------------------

上記の文章で「悪」は「地獄の因」とか「地獄」とかに置き換えても宗教的な意味は成り立つと思います。文章としてはおかしくなりますが、私の言いたいニュアンスは解って頂けるのではないでしょうか?

要は安易に人を決めつけて良いのか?ということです。

●十界の六道を目的として”決めつけて”言及するならば、それは差別。

創価の言う「悪」とはその様に単純なものではない、と書きました。では十界はどうでしょうか?

 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏というのは仏教徒にとって菩薩、仏は言っても良いと思います。
菩薩道や菩薩、などの 仏にはほど遠いけど。。。という場合によって仏という単語は使いません。という謙虚な感じがしますし、仏道修行とか仏とは人を救う過程の中で説明のために使われるのは構わないでしょう。

 私はギャンブルは全く駄目ですが、プロのパチンカーだっています。ギャンブルやっていたら餓鬼、畜生、修羅、でしょうか?それは周りから見たらその人のイメージでしかないですよね。本人は生活かかっていますし、楽しいのかもしれません。
 生活がかかっているのは現代人の大人ならば誰でも当たり前です。世界中の人が(例えば)修羅になってしまいます。
そういえば東大を出てプロの麻雀士になった人もいた気がします。頭良いから声聞、縁覚???でも餓鬼、畜生、修羅??

 現代社会はもっと複雑であり、現代人の心の中はもっと複雑な思いがあると思います。

○「十界互具」

 仏法者にいわせると「十界の中に十界があるのが百界」が上記のことに当てはまると思います。
「十界互具」とは「十界それぞれに十界が具わっている」ということです。「十界の、どの一界にも十界が具わっている」

その構造は当たっているかもしれませんが、この世の中にはたった十しかない立場や境涯しかないのか?ということです。

もちろん、カルト思考のないまともな仏教徒の人が十界や十界互具を説明するのは何の問題もないと思います。当然その先の説明があるでしょうし、MCしないでしょう。過去の教えは過去の教えとしてきちんと説明できれば意味はあると思います。

●地獄の因つまり因とは因果の因、原因の因。地獄の境涯と人を”決めてしまう”こと。

-------------------------
 日蓮自伝考 山中講一郎 著 水声社(P356)

 「日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず不軽品に云く「其罪畢已」等云云、不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり(創価学会版御書P958)」

 しかしここで重要な事は「其罪畢已(ございひっち)」を必ずしも弟子達に要求していないことである。日蓮は「其罪畢已(ございひっち)」にみられるような因果論を「常の因果」と共に乗り越えて勧心本尊抄に消化して、それを弟子達に与えようとしたのであった。
(中略)
 いわゆる「常の因果」観には大きな欠点がある。法華本門を標榜しながら爾前経(にぜんきょう)の歴行修行に逆戻りしてしまうことが一つ。そして更に大きな問題は社会性を欠落させて差別思想の温床となってきた歴史的事実である。仏教者がこの事実を正視しない限り真に社会に潜む悪と対峙することはできないであろう。

 佐渡御書においては「常の因果」を通常の善悪による因果とし日蓮の因果を謗法による因果としている。これは日蓮がその因果を我が身に引き受けている事によって成り立っている。そこでは社会的な問題は発生することがない。しかし末流の人々が、自らを高見において不用意に他者に突きつける時、謗法による因果といえども差別を生み出し社会的罪悪をもたらすという構造は変わらない。
-------------------------

-------------------------
 日蓮自伝考 山中講一郎 著 水声社(P362)

 罰ということについては、立教開示以来、日蓮の終始語る所ではある。ところが意外なことに日蓮は信徒や庶民に対して「罰を受ける」とか「それは罰だ」といったことは一度もない様である。もちろん事故や病気で倒れた人に「罰だ」といった事もない。
-------------------------

上記の文章で「罰」は「地獄の因」とか「地獄」とか「悪」に置き換えても宗教的な意味は成り立つと思います。文章としてはおかしくなりますが、私の言いたいニュアンスは解って頂けるのではないでしょうか?

要は安易に人を宗教的差別で決めつけて良いのか?ということです。

●結論

大事なことは苦しんでいる人を安易に地獄とか餓鬼とか決めつけたり結論づけたりするのではなく、(低い境涯だと思うのであれば、なおさら。)その人に近づいて関わり救うことが必要でしょう。”決めつけることが目的でなく”救うことが目的です。見下す目線の救う、というよりはお互いに助け合う。。。。がいいのかもしれません。

'07.11.14 本文全面修正
'07.11.12 追記
'07-11-11 20:40:06 初稿
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

221.地獄論、罰論、メモ(その5)

2007年11月11日 00時25分50秒 | 創価学会
●創価学会員の物の考え方

創価学会員に幸福に生きている人が多いから自分の中で「だから私は正しい」「だから創価は正しい」「だから本尊は正しい」「だから先生は正しい(間違っていない)」ということなのでしょう。

いわゆるアンチ創価でも創価学会員でもどの人でも幸福体験自体は私は否定しません。

特に創価学会員の場合は「正しい」という単語は「無謬である」「間違っていない」という単語とほとんど同意であり、そして必ず「それが絶対だ。」という思想、思考に多かれ少なかれ結びついてしまいます。これがホントに危険な考え方だと思います。

そのように宇宙生命論、十界生命論を根拠として御本尊に「祈れば境智冥合(きょうちみょうごう)する」「祈るだけで境智冥合する」という思想です。境智も境涯も同じ人間を分け隔てる「境」という言葉がありますね。

本尊は自分の生命であり、祈るだけで妙法という高い境涯、高い生命状態という高い「境涯にいる」「いることができる」、、、そうした勘違いを学会員は必ずします。また、他宗の人を邪宗と見下したりバカにしたりする傾向があるようです。

「あの人は邪宗だから学会を理解できない。」
「あの人は邪宗だから池田先生を理解する事が出来ない。」
「あの人は退転者だから○○を理解できない。」
日蓮を、創価学会員である私を、、というのもあてはまるでしょう。

これらの事はより高みを求めたり、向上心を求める人の自然な感情や欲につけ込んだ「宗教教団ご都合」の教えでしょう。

●できるかぎりでいいから差別を排除する

仏法、つまり原始仏教や法華経は本来、人種差別やカーストなどを否定し、宗教思想上、平等であることを教えたはずです。

自分の手の届く範囲、あるいは自分の社会(家庭や学校や会社)で自分と良く似た「境涯」の人という「小さな社会」しか見ていない気がします。

本来、仏教は生老病死(しょうろうびょうし)、つまり生に苦しむ人、老いに苦しむ人
病に苦しむ人死に苦しむ人、つまりはそうした苦しむ人の所に行くのが仏法ではないでしょうか?
仏教、仏法とは仏陀の教え、仏陀の人を救う方法を教えた物であるはずです。
仏陀の教えは必ずしも差別などが完全になくなるという思想や目的観ではなく、無くなる方向に常に努力する、そんな思想の持ち主だったと思います。縁起の思想からしても「差別」自体はどうしても生まれる気がします。

「祈れば」「祈るだけで」高い境涯にいられるという創価の思考や思想を否定します。目的と手段が入れ替わっています。

 妙法、正法というのは法華経(妙法蓮華経)を読んで内容を理解して、宗教的な人を救おうという気持ちを持って苦しむ人の所(つまり創価学会員から見て低い境涯の人の所)に行くのが仏法ではないでしょうか?その際に、心の中で

「おまえは境涯が低いから助けてやる。」
「おまえは境涯が○○だから助けてやる。」

そのように思うのですか?あるいはその様に言うのですか?
一体、どこの誰が、そんな事を言われて嬉しいでしょうか?
どの辺が慈悲なのでしょうか?

 過去にも書きましたが、聖教新聞の4面座談会や寸鉄に多く書かれている人に地獄の因、地獄の境涯、堕地獄、修羅、何々の境涯、、、などなどいとも簡単に安易に人を決めつける事、結論づける事をもう一度否定しておきます。(宿命はまだよくわかりません。三世の因果業報論は本を読んで否定できそうです。)

様々な経典は人々の様々な(ケースバイケース)悩みに応じた様々な救いのアドバイスでしょう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする