創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

534.文献関係の調査についての近況

2022年08月12日 08時58分16秒 | 日蓮宗の文献、教学など
2022/08/12、2つ目のアップロード。
文献関係の調査についての近況です。

以下は2つカテゴリーだが「日蓮宗の文献」カテゴリーに本記事を分類した。

その1
日蓮宗の大正時代の文献で新たな発見がありました。
調査途中ですが、おそらく今までの結論の裏付けになると思います。
日蓮宗の今現在使われている文献については(間違いではありませんが)意見の分かれる点だと考えます。

その1の補足(2022-08-12深夜追記)
私でない別の人が日蓮宗の大正時代の文献で新たな発見をしました。
MTが社長で日蓮宗の大正時代の文献に関係していた。MTはSKGとも関係あり。

その2
とある調査から、堀日亨に問題がある発見がありました。
調査途中です。

今後は未定。


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510.「日蓮聖人遺文辞典 教学編」について

2020年08月24日 06時51分15秒 | 日蓮宗の文献、教学など
日蓮聖人遺文辞典 教学編について

●日蓮正宗系信者の仏教文献に対し認識の甘さの問題

今でも日蓮正宗(以下、正宗)や創価学会(以下、創価)の遺文集の問題点を取り上げるか或いは日蓮宗の文献紹介すると文句を言う信者がいる。
日蓮宗の文献をいくつかピックアップして、正宗や創価のそれらと比較し具体的に反論してきた人は皆無。
そもそも比較対象になる文献が日蓮遺文集以外で、ほぼ皆無であり不十分すぎる。
この為、正宗系の人とは全く話が噛み合わない。

あと、多いのが正宗系信者の異常な感情論で「私(米山)がいい気になっている」との意見で全く意味不明で的外れな意見である。日蓮宗の僧俗の皆様から私をみたら、元々私の正宗、創価時代に日蓮宗の評判低下を招き足を引っ張った過去があるだけだ。
日蓮宗や他宗の僧俗の皆様からは「脱カルト出来て良かった。戻ってこれて良かった。」
日蓮宗なら例えば「日蓮宗の文献を読んでくれて感謝」。何度か書いたが、私は日蓮宗の文献を一部分読んだ程度であって日蓮宗でしっかり勉強している方々に勝てるわけがない。

日蓮遺文に報恩抄が存在するが、私が報恩感謝するのは日蓮宗や他宗である。

●問題点
1.日蓮宗の文献の取り扱いを全く知らない。
1.日蓮宗の文献を紹介しつつ問題点を取り上げた正宗系信者が殆どいない。にもかかわらず自分たちが優位だと誤認識したまま。
1.正宗僧侶と創価系学者が日蓮宗の文献と正宗や創価のそれらの浅深高低や問題点を多数、多岐にわたって示してない。それどころか創価系学者が創価、正宗の遺文集の盗用剽窃にふれないまま日蓮宗の遺文批判する論文を公開して謝罪すらないまま。
1.日蓮宗の文献と正宗や創価のそれらの浅深高低を示し、入信まで至った事例がない。
1.ネットで正宗や創価の信者が現代的に学んだ結果、100人、200人と次々に布教に成功した事例を示せない。
1,池田大作や学会幹部、学者、正宗僧侶(故・阿部日顕など)全く日蓮宗の文献を高く評価しないまま死に行く事実と問題。
1.正宗系では原始経典を未採用のままで梵字の研究、墨筆の文字の解釈など論文や書籍が殆どない。
1.例えば、開目抄の「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」は「したし父母なり」との解釈もある。異論など解釈違いの論文や書籍が一通り出そろってない。

他多数でキリがない。
正宗や創価のレベルが低すぎて折伏が成功するわけがない。

創価学会で御書刊行は君ら創価の勝手だろうが遺文集だけ一冊出せばいいのではなく、日蓮宗の各文献のように丁寧に数多くの書籍を出した上で、創価の新御書刊行をする必要がある。会員が馬鹿にされるだけだ。

●日蓮聖人遺文辞典 教学編

日蓮聖人遺文辞典_教学編の一部を紹介しておく。
画像はスマートフォン撮影なので後日スキャナー画像に差し替えるか未定である。
日蓮宗の文献の方が詳細かつ真面目に作っていることが分かる。
辞書引きすると、項目によっては著者名や記名されている場合がある。論文や書籍を出し学説上の第一人者と考えられる。
「日蓮聖人遺文辞典 歴史編」も存在する。

過去記事で日蓮宗の昭和定本(日蓮聖人遺文 立正大学日蓮教学研究所編)の参考文献、刊行者の人数の多さについて良心的に記載があることは指摘済み。

各画像はサムネイル画像でクリックすると拡大される。
1440x1920 px等の巨大画像なのでスマホではなく大画面のPCやタブレットを推奨。

(c)日蓮宗 平成十五年
背表紙(1440x1920px)


凡例など(以下、1920x1440px等、巨大画像)




創価や正宗の遺文集は全く無いのが笑える。

各項目には記名されている場合がある。


刊行委員会


刊行委員会と参考文献


参考文献の続き
一部、日蓮正宗の書籍もある。







以上
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フランス語で書かれた看板にANTIFAとhakumai

2020年07月01日 00時20分21秒 | 日蓮宗の文献、教学など
ある人Aさんからフランス語で書かれた看板の画像を見せてもらった。
フランス語で書かれているので私には読めなかったが
Aさんに教えてもらうとANTIFA(アンティファー)を掲げているらしい。

画像の下の方を見ると「nichiren daishonin hakumai」のワードが見つかった。

Aさんにその後どうなったか聞いてみたい。
hakumaiが出てくる遺文は複数ある。
日蓮宗昭和定本(立正大学日蓮教学研究所編)
遺文名検索だと
204   白米和布御書

本文検索だと
74  上野殿母尼御前御書
75  富木殿御返事
82  四条金吾殿御書
173   王舎城事
204   白米和布御書
209   阿仏房御書
230   事理供養御書
231   松野殿御返事
241   六郎次郎殿御返事
256   日女御前御返事
282   上野殿御返事
287   松野殿御返事
316   四條金吾殿御返事
357   上野殿御返事
378   松野殿女房御返事
380   南條殿御返事
388   上野殿母尼御前御返事
410   治部房御返事
断2

創価版は満月城岡山でキーワード検索すると以下の画像の通り。
(サムネイル画像)


フランス語で書かれていてもフランス国内なのかどうか不明だし
今の所、店主が創価学会なのか日蓮正宗なのか日蓮宗なのかはっきりしない。
一人なのか、数名いるのかも興味深い。

日本の明治大正と昭和初期にかけて日蓮主義とテロの関わりが多かれ少なかれ存在した事実がある。

画像の元は店舗の看板か何からしい。
店主の外国意訳で日蓮遺文の内容を勘違いしてアンティファ応援と店舗の宣伝が偶然結びついただけと思いたいが、権力への反抗の意思があるのだろうか?
店舗のメシつながりだけと思いたい。
フランス語をすらすらと読めないのでなんとも判断できない。

画像については貰えるならば次回会った時にでもお願いして貰うつもり。

以上
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法華講、大師講など。

2019年08月17日 12時20分43秒 | 日蓮宗の文献、教学など
一般論が多いので、カテゴリーは日蓮宗の文献とした。

米山士郎「@GSIHdeWIdIJA3kU @sougaku_salon 他宗では、天台大師講など先師を偲ぶ命日や記念日など儀礼としての講が形式で残存。昔は学問的だったと思われます。現代の大学で仏教学部の天台大師史とか天台大師学とか天台大師論にあたる大師の「講」義のイメージかと。なお、本コメの批判は誰でもしてくださいませ。」 / Twitter

米山士郎「@GSIHdeWIdIJA3kU @sougaku_salon 日蓮遺文を学ぶ団体名としての法華講は日蓮死後の成立です。法華の講義としての御講は平安時代から私は確認済。もっと遡れるでしょう。題目(唱題)も法華講も法華堂も日蓮の専売特許ではありません。日蓮以前に唱題も集団と講義の両方で法華講は存在し、法華堂も然り。」 / Twitter

日蓮遺文を学ぶ団体名としての法華講は日蓮死後の成立
としましたが、
【日興文献に「法華かうしう」語が見える】ということは法華講は日蓮も知っていた当たり前の単語だった可能性が高い、
に訂正します。

法華講の講を単純に講義の意味で捉えるならば、弘法大師空海や聖徳太子まで遡れることをお忘れなく。
(大御本尊の脇書きに「法華講衆等敬白」とあるので本物だ、とするのは無理がある。)
平安時代には、法華八講、法華十講などの記録が日蓮系以外の他宗にたくさんあります。

弘法大師と法華講会
空海伝の研究 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

気楽にブレゲ。「@yoneyama_shirou @GSIHdeWIdIJA3kU @sougaku_salon ほぼその通りでしょうね。 一代五時鶏図は、大師講での講義内容とも言われていますが、そうだとすれば非常に学問的な会だと思われます。富木常忍に大師講の担当をお願いする日蓮の書状が現存していますね。」 / Twitter

米山士郎「@mwP0s8t4fiA7LWQ @GSIHdeWIdIJA3kU @sougaku_salon 日蓮と弟子僧侶の法華経講義も講義名の法華講(義)、集団名の法華講(受講者)と見なす事は可能です。但し記録には無いと記憶します。法華衆だけ。>toALL」 / Twitter

米山士郎「@mwP0s8t4fiA7LWQ @GSIHdeWIdIJA3kU @sougaku_salon to気楽さん そういえば良いスレッドに絡んで来てくれました。日蓮正宗は大師講(天台、妙楽)の形跡、記録はあるのでしょうか?私の知る日蓮正宗系の読書した限りだとありません。今日の時点で構いませんので教えて下さい。」 / Twitter

気楽にブレゲ。「@yoneyama_shirou @GSIHdeWIdIJA3kU @sougaku_salon 富士大石寺では大師講について書かれた文献はちょっと見つかりません。元々大師講義は文永初期に始まり、佐渡以降文永10年に日昭に日蓮が大師講を行うべしと書状を送っていますから、日蓮晩年まで行われたことが推測されます。」 / Twitter

気楽にブレゲ。「@yoneyama_shirou @GSIHdeWIdIJA3kU @sougaku_salon ですから日蓮晩年まで身延山で大師講が行なわれていたことは文献から推測できるのですが、「法華講」という語は見出せません。むしろ「法華かうしう」の語を用いたのはむしろ日興であり、日蓮は熱原信徒に対して「あつわらの愚痴の者ども」と呼称していますよね。」 / Twitter

気楽にブレゲ。「@yoneyama_shirou @GSIHdeWIdIJA3kU @sougaku_salon 大師講について直接に言及された文書は、日蓮『弁殿尼御前御書』で「弁殿に申す。大師講ををこなうべし」とするのが経年では最後かなぁと。文永10年9月19日で真蹟は中山法華経寺にほぼ全文が現存しています。」 / Twitter

米山士郎「@mwP0s8t4fiA7LWQ @GSIHdeWIdIJA3kU @sougaku_salon 六老僧以後の文献を調べて無いので助かります。」 / Twitter

気楽にブレゲ。「@yoneyama_shirou @GSIHdeWIdIJA3kU @sougaku_salon 日昭は日蓮晩年に大師講を頼まれ、また天台に接近した人でもありますから、いちおう宗全上聖部収録の分は見てみたのですが「大師講」の文字はなかったかと。」 / Twitter

運ちゃん「@mwP0s8t4fiA7LWQ @yoneyama_shirou @GSIHdeWIdIJA3kU 日昭師は日蓮の元に来た時、既に天台宗の権律師の資格を持ってましたからね。天台教学にはかなり精通していたと思われます。」 / Twitter

気楽にブレゲ。「@yoneyama_shirou @GSIHdeWIdIJA3kU @sougaku_salon 思うに、天台大師講から法華最第一を導き出す教化の方法は、弟子にも引き継がれていったとは思うのですが、その距離の取り方が各教団によって違ったということかと。日興はむしろ脱天台という側面が強かったのかと思いますし。」 / Twitter





別のスレッド

気楽にブレゲ。「すでに中山日常の時代からそうですが、日蓮没後、各山は自分たちの正統性を主張して相伝書等を偽作したことが記録に残っています。日代八通譲状とか誰も信じていませんけど、同様に大石寺もまた自山の正統性を主張するなら、その客観性についてきちんと論証しなければ議論にならない筈ですよね。」 / Twitter

気楽にブレゲ。「例えば、大石寺の板本尊の正統性を主張するなら、本尊の一部を炭素年代測定にかけるとか、そもそも「法華講」という組織が「大師講」前後に存在した信頼の高い文献をあげるとか、そういうことが大石寺系教団信徒はできずに、勝手に自分たち以外の考えを排斥するだけの独善に陥ることが多いですね。」 / Twitter

気楽にブレゲ。「そもそも日興の文献には「法華かうしう」の語が見えるのですが、日蓮の文書では熱原農民信徒に対して「あつわらの愚痴の者ども」と呼称しており、「法華講」という語は日蓮遺文には見られないんですよね。」 / Twitter

米山士郎「@mwP0s8t4fiA7LWQ 【日興文献に「法華かうしう」語が見える】ということは法華講は日蓮も知っていた当たり前の単語だった可能性が高いですね。元々、法華講、法華堂も専売特許ではないのですから。」 / Twitter

気楽にブレゲ。「@yoneyama_shirou もし日蓮が「法華講」「法華かうしう」を特別な語と考えていたのなら、熱原事件の際の書状に「法華講」等の文字が並んでいて不思議はないと思います。むしろ法華講衆という呼称は日興によるもので、それについて特に特別な呼称と日蓮は考えてなかったとする方が推論としては自然かと思います。」 / Twitter

気楽にブレゲ。「@yoneyama_shirou また撰時抄、開目抄等の諸抄には「法華宗」という語がありますが、そのほぼ全てが「天台法華宗」のように天台と法華を同列に論じていますから、「法華宗」の語が天台に隔絶して特別という発想は日蓮にはなかったのではないかと個人的に思います。」 / Twitter

米山士郎「@mwP0s8t4fiA7LWQ 熱原の法難に会った人々は農民でしたね。熱原の全員が法華講(講義)に参加したと思えません。また、法華講(講衆)と呼ぶのは不自然な気がします。鎌倉時代では法華講(講義、講衆)は僧侶、武士限定の語彙と考察。」 / Twitter

法難に遭った 、の間違い。

気楽にブレゲ。「@yoneyama_shirou そうですよね。私もそう思います。 ですから日興が「法華かうしう」という語を使いながらも、日蓮は「あつわらの愚痴の者ども」だったんじゃないかなと思います。」 / Twitter

気楽にブレゲ。「@yoneyama_shirou あ、私、間違えました。 「法華かうしう」の語は佐渡国に送られた書状です。ですから熱原の農民信徒に法華講衆と呼んだ文献はないのではないでしょうか。 すいません。訂正します。」 / Twitter

気楽にブレゲ。「@yoneyama_shirou ですから、大石寺信徒が「法華講」の由来とするものは、板曼荼羅の「法華講衆等敬白」と、日興の『佐渡国法華講衆御返事』末文の「法華かうしう」の二つしか存在しないかと。それでは日蓮の生前に法華講が特別な存在として成立していたとする考えは、特に有力な根拠を持ち得ないと思います。」 / Twitter

米山士郎「@mwP0s8t4fiA7LWQ 日興さんは僧侶でない信者も「思いやりと慈悲から」「法華かうしう」である、と考えたのかもしれませんね。日興の『佐渡国法華講衆御返事』は漢文だと読めないかもしれませんが、探してみて読めそうならチャレンジしてみます。」 / Twitter

気楽にブレゲ。「@yoneyama_shirou かなりの仮名交じりです。読みやすいと思いますよ。」 / Twitter

米山士郎「@mwP0s8t4fiA7LWQ 有難うございます。私も日興の「法華かうしう」を知ったので先程自分の意見を訂正してます。ブログに残しておきたいので転載許可を下さいませ。」 / Twitter

気楽にブレゲ。「@yoneyama_shirou 全然構いません。どんどん載せてくださいませ。」 / Twitter



大師講については創価版御書の盗用剽窃の記事でも記述したので参照のこと。
他の記述は、私のブログで「大師講」で検索のこと。

以上
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483.日蓮の「苦、空、無常、無我」の理解。

2019年06月09日 11時47分10秒 | 日蓮宗の文献、教学など
米山士郎さんはTwitterを使っています: 「現代では四法印は重視。日蓮は軽視。但し日蓮宗の資料によれば日蓮遺文に「苦、空、無常、無我」語彙はあり。「空」と「無常、無我」が別意として存在。」 / Twitter
に書いたスレッドをメモ。

現代における一般的な仏教学に置いて、四法印は重視されています。日蓮は軽視(*1)。但し日蓮宗の資料によれば日蓮遺文に「苦、空、無常、無我」語彙はあり。「空」と「無常、無我」が別意として存在しているため、日蓮の空の理解が正確だったとは言い難いでしょう。

*1:日蓮は三大秘法抄などで、本門の題目、本門の戒壇、本門の本尊を重視した為。

四法印の形ではないが「涅槃経六云依法不依人。依義不依語。依智不依識。依了義経不依不了義経云云。又亦於如来随宣方便所説法中不生執著是名了義。不了義者如経中説一切焼然一切無常一切皆苦一切皆空一切無我。是名不了義。」(釈迦一代五時継図)

(釈迦一代五時継図)などを真筆とするのは無理があるらしい。日蓮宗では(釈迦一代五時継図)を真筆扱いしないようだ。よって日蓮は空などをある程度知ってはいたが軽視した。が近いと推測。

「苦、空、無常、無我」語彙は戒体即身成仏義、一代聖教大意、顕謗法抄、開目抄、法蓮抄、報恩抄、四教儀名目、等々12に存在。何れも日蓮宗資料より。

何かあれば追記します。

他宗批判や他人の信仰に配慮、他人を傷つけない、原始仏教を取り入れている日蓮宗の僧俗であれば(釈迦一代五時継図)を真筆でないとしながらも、重書とすれば良いのではないだろうか?
日蓮宗でない創価など日蓮正宗系は原始仏教や四法印を取り入れておらず、未だに他宗批判し、他人の信仰に配慮せず、他人を傷つけている。仏教の基本どころか日蓮遺文もよく知らないのだろう。

以上
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482.日蓮法華の立場からの許しとは

2019年06月02日 08時40分49秒 | 日蓮宗の文献、教学など
米山士郎さんはTwitterを使っています: 「@Diamondwherever @kEEbvcIKyUAaPQt @iwatachi 岩立さん、日蓮遺文における「許し」は多くの遺文に明確でしょうか?1.法華思想が「許す」のか、それとも2.仏菩薩が「許す」のか、3.破戒僧でない持戒のお坊様が「許す」のでしょうか?教えて下さい。時間かかってもかまいません。」 / Twitter

(1) 岩立盛郷さんはTwitterを使っています: 「@yoneyama_shirou @Diamondwherever @kEEbvcIKyUAaPQt 許しは、仰る意味から採れば 赦しのことだろうと拝察しますが 日蓮は仏菩薩にその赦しをなすような書き方もありますが 実際は因果応報の枠から外れず しかし、悪因を善悪一如、もしくは変毒為薬の法門から毒皷の縁を解釈していると思えます 悪因もまた善因と同じく善果菩提の因とするということですね」 / Twitter

岩立盛郷さんはTwitterを使っています: 「@yoneyama_shirou @Diamondwherever @kEEbvcIKyUAaPQt 毒皷の縁は、経力、つまり説かれている涅槃経の力用を示すものですが、天台の五時判では 法華涅槃は一つと解釈され 毒皷の縁も法華経の力用と拡大解釈され、日蓮は採用したという経緯です 補足です」 / Twitter


あまり許すというテーマで書いたことがない気がする。
重要になるかもしれないのでメモ。気になる点があれば追記。

私が日蓮遺文を一つ一つチェックしつつ意味を確認してませんので、概要であることに注意して下さい。
引用等は時期責任でお願いします。

以上
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477.日蓮宗の開目抄、日本語訳 (c)日蓮宗 2003

2019年05月14日 22時38分07秒 | 日蓮宗の文献、教学など
開目抄より  (c)日蓮宗 2003

迹門方便品(ほうべんぽん)は一念三千・二乗作仏を説(とい)て爾前二種の失一(とがひと)つを脱(のが)れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本(ほつしやくけんぽん)せざれば、まことの一念三千もあらはれず、二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし。根なし草の波上(はじよう)に浮(うかべ)るににたり。本門にいたりて、始成正覚(しじようしようがく)をやぶれば、四教(しきよう)の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界(じつかい)の因果を打ちやぶて、本門十界の因果をとき顕(あら)わす。これ即ち本因本果の法門なり。九界(くかい)も無始の仏界(ぶつかい)に具(ぐ)し、仏界も無始の九界に備(そなわり)て、真(まこと)の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。

日蓮宗の日本語訳 (c)日蓮宗 2003

法華経の迹門の中心をなす方便品は、一念三千の教えと二乗作仏(声聞乗・縁覚乗に在る者も真の仏道を達成できるという仏陀の導き)を説いたので、法華経に至る前段階の経典がもっている二種類の失点のうちの一つをまぬがれることができた。しかしそうはいっても、まだ迹門の教えをひらいて本門の主旨を顕らかにしていないから、真実の一念三千も明らかにされるに至らず、したがって、せっかく説かれた二乗作仏の根底が明確にされないから、決して定まったことにはならない。あたかもそれは、水面に浮かんだ月の影を見るようなものであり、根無し草が波の上に浮かんでいるようなものである。しかし、本門に至って、釈尊はたまたまブッダガヤの菩提樹の下で覚りを開いたのではないことが明らかにされれば、釈尊の教えは蔵教(ぞうきよう)・通教(つうぎよう)・別教(べつきよう)・円教(えんぎよう)という四つの教えに集約されると理解してきたことは、表面的なものであることがはっきりし、それらの四教による限りでは釈尊の覚(さと)りを示すには充分でないことが明確にされるならば、四教が示した覚りに至る修行の道筋も否定されることになる。こうして、法華経の前段階の諸経典や法華経の迹門に説かれた「十界の因果」は充分に確立していないとし、仏界の確立を中心とする「本門の十界の因果」が説き明かされた。これがすなわち本因(ほんいん)・本果(ほんが)の教えである。ここにおいて地獄界から菩薩界に至る九界は無始の仏界(永遠なる仏界)に包まれ、仏界も無始の九界(永遠の衆生)の中におのずから備わっている救済の様相が示され、真実の十界互具・百界千如・一念三千が明らかにされるに至ったのである。

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463.日蓮聖人の説く菩薩戒(三聚戒)ー つらつら日暮らし('18年9月20日更新)

2018年09月15日 00時52分10秒 | 日蓮宗の文献、教学など
日蓮聖人の説く菩薩戒 - つらつら日暮らし

 三聚戒やその他については興味があり日蓮宗の文献で私もぼちぼちと調べているが、しっかりとりかかれそうなのは来春か。日蓮宗系で私が読んでいる書籍群だと今のところ、梵網戒の記述がおおい。
正宗系できちんと説明できる坊さんはいるのだろうか?

末法無戒だとか題目が戒律だとか、本尊受持が戒律だとかの教団都合なレベルの低い話ではない。
日蓮系に限らず戒律はどの宗派でも共通している。鎌倉時代以前までの元々の戒律がどうだったのか?と現代にどう伝わっているのか?ということ。

大正期日蓮宗の得度作法について - つらつら日暮らし

追記は未定。

以上
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443.日蓮宗勤行法式における禮仏偈文の由来

2018年05月05日 00時56分21秒 | 日蓮宗の文献、教学など
●帰依について

 日蓮遺文。
行道文庫、昭和定本、他 他多数あり。以下、行道文庫版より引用

四条金吾殿御返事(四条第五書)(梵音声書)
>則天皇后の御帰依ありしによりて諸宗肩をならべがたかりき

帰依については上記を参照のこと。
後日の記事で他にも記載できるかもしれません。

●禮仏偈の偈文の由来

 日蓮が奉請、奉送、禮仏偈をとなえる勤行法式をしていた資料は未確認です。
日蓮門下の関連文献から奉請、奉送、禮仏偈の発見はしていません。
但し、禮仏偈の偈文にかんしては、法華懴法と関連があります。

436番号記事
--------------
日蓮宗聖典の禮仏偈を見ると、

我此道場如帝珠 十方三寶影現中 我身影現三寶前 頭面接足歸命禮
--------------

この偈文は法華懴法に出てきます。

法華懴法の遺文名と南無妙法蓮華経の2つの単語は日蓮遺文の当体義抄に出ています。

行道文庫 当体義抄 (原文漢文)
----------<ここから>----------
>故に妙法の名字を替へて止観と号して、一念三千、一心三観を修し給ひしなり。但し此等の大師等も南無妙法蓮華経と唱ふる事を自行真実の内証と思食されしなり。南岳大師の法華懺法に云く「南無妙法蓮華経」文。天台大師云く「南無平等大慧一乗妙法蓮華経」文。
----------<ここまで>----------

法華懴法自体が日蓮宗の勤行法式に似ている部分が存在します。

というわけで、以下のようにまとめられます。

●まとめ

 法華懴法に「我此道場如帝珠 十方三寶影現中 我身影現三寶前 頭面接足歸命禮」と記載。
法華懴法は現在の日蓮宗の勤行法式に類似。現代の学者やお坊さんが法華懴法をどう重要視し、どう考えているかは私も勉強不足で分かりません。

日蓮遺文では当体義抄に法華懴法の記載。
当体義抄は昭和定本で一巻に収録されており、一巻の遺文は真筆扱い。(最新の研究は未調査。)

現代の日蓮宗の勤行法式と日蓮さんの勤行が同一かは今の私には不明です。
しかし、偈文に関し日蓮遺文、当体義抄と南岳大師の法華懺法に辿れる。

創価などの正宗系教団で行う勤行が見劣りする点がよくわかると思います。

●参考リンク

著者紹介 | 天台寺門宗
----------<ここから>----------
この儀式には全く仏教音楽といってよい声明で、琵琶、琴等のはいった雅楽の伴奏で、唱えられる荘厳華麗な儀式で、御懺法講といわれ御白河法皇ー保元二年ー以来宮中に於ける重要な法会であったのであります。

当時天皇法皇の御前で公卿、殿上人が参加して紫宸殿、清涼殿、仙洞御所などで盛んに行なわれ僧侶も俗人も一緒に執り行なわれていました。
----------<ここまで>----------

紫宸殿だって。紫宸殿本尊と五座三座の矛盾は一体。(笑)

wikipediaより。
----------<ここから>----------
慧思(えし, 515年(延昌4年) - 577年(太建9年))は、中国の六朝末の僧。天台智顗の師であり、天台宗の二祖(龍樹を開祖とし第二祖を慧文、慧思を第三祖とする場合もある)とされる。
----------<ここまで>----------

南岳大師とは - コトバンク

以上

当体義抄は昭和定本で一巻の遺文は真筆扱い。

当体義抄は昭和定本で一巻に収録されており、一巻の遺文は真筆扱い。
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436.日蓮宗における勤行や儀礼(その4)禮仏偈、奉請、奉送の必要性

2018年04月04日 00時10分41秒 | 日蓮宗の文献、教学など
2018年4月5日 00:21頃 注書きを追記。
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ある方からご指摘頂き、新たに判明したことがあります。2,3の奥深く面白いテーマがあるのでブログ本文では追記、修正の更新せずこのままとします。本記事の引用転載を禁止はしません。01番記事に書いたルール通り、誰かが引用転載して問題や誤ちがあっても私は一切責任を取りません。
創価や正宗の勤行形式が意味不明である主旨は変わりがありません。
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●禮仏偈、奉請、奉送について

 禮仏偈、奉請、奉送についてはネタの宝庫だと感じて色々書けると思い時々調べていました。
実はこの3つだけでも調べれば調べるほど奥が深そうです。

1.調べれば調べるほど、古来から存在している儀礼。
2.日蓮宗だけでなく鎌倉時代など日本仏教の各宗派に存在している儀礼。中国仏教に遡ることが可能な儀礼。

と言えそうだと考えています。
仏像や本尊を最重要視しない(重視するが1番ではないという意味)日本の禅宗でも仏に対し禮仏偈(讃仏偈)を唱え、仏法僧の三宝を敬います。

●日蓮宗聖典の勤行法式に記載される「運想」

 例えば「運想」は荊溪湛然(けいけいたんねん)が著した「法華三昧行事運想補助儀」にまで遡れることが分かっています。

湛然さんは妙楽大師と称され、天台宗の第六祖です。日蓮遺文にも数多く出てきます。
なお、中国天台宗の修行は天台禅、座禅です。法華禅、禅法華だったわけですね。
現代人から見て、湛然さんがどの程度、禅宗の正統派だったのかは勉強不足で今の私には分かりません。

荊溪湛然が著した「法華三昧行事運想補助儀」には、佛に請い願う儀礼があり次のように重要なキーワードが出てきます。

請佛、次請佛菩薩、五歎佛、六禮佛、多寶佛、分身、東方諸佛、三世諸佛、舍利形像等、妙法、諸菩薩、舍利弗等、普賢菩薩

「法華三昧行事運想補助儀」の六禮佛には次の一節があります。

我此道場如帝珠。釋迦牟尼影現中。我身影現如來前。頭面接足歸命禮。

日蓮宗聖典の禮仏偈を見ると、

我此道場如帝珠 十方三寶影現中 我身影現三寶前 頭面接足歸命禮

と書かれており酷似しています。

禮仏偈は日蓮宗聖典で一番最初に出てくる勤行法式です。
私は漢文がすらすら読めないのですが、六禮佛は禮佛(礼仏)の形式の一つ、あるいは日本仏教の禮仏偈の原型と見て、まず間違いないでしょう。
請佛、次請佛菩薩はおそらく奉請に近い内容でしょう。「法華三昧行事運想補助儀」冒頭には入道場観らしい記述も見受けられます。

なお「法華三昧行事運想補助儀」は大正新脩大藏經に掲載されています。

●「運想」は中国仏教の天台宗の湛然さんと日本仏教の道元さんの時代から今に伝わっています。

 繰り返しますが、目に見える仏像や本尊を最重要視しない日本の禅宗や中国天台禅でも、目に見えない仏に対し禮仏偈(讃仏偈)を唱え勧請を行い、仏法僧の三宝を敬います。
湛然の「法華三昧行事運想補助儀」を「道元さんと師匠である如浄禅師」は知っていた事実が分かっています。
なにせ、道元さんの有名で素晴らしい正法眼蔵に記載されているので本記事のへ非難、誹謗中傷は諦めましょう。

☆☆「鎌倉時代の道元さんと師匠である如浄さんから、現代の曹洞宗の僧俗の皆さんに至るまで、素晴らしい儀礼を維持している事がわかると思います。」☆☆ 正法眼蔵を学べば、わかるのですが。

なお「法華三昧行事運想補助儀」の一節については、日本天台の円仁も知っていた様です。
証拠となる文献を私は未調査ですが、もう、その必要もないでしょう。
讃仏偈が浄土宗にもある点についても、もう書く必要もありませんね。
真言密教になると真言宗信徒向け勤行はすぐ解るのですが、お坊さん向けの勤行は数多く複雑になっているようです。

お坊さんと信徒さんで古来から教え(勤行など)の領分が異なる点も間接的に証明できていると思います。

●日蓮宗聖典に記載される「運想」や「禮仏偈」などが日蓮由来かどうか?

 日蓮宗聖典に記載される「運想」や「禮仏偈」などが日蓮さん由来かどうかは全く分かっていません。
鎌倉時代からなのか、江戸時代からなのか、近代からなのかは興味があります。
”我身影現xx前”の「影現」というキーワードは日蓮遺文から見つかるのですが、六禮佛や日蓮宗聖典の禮仏偈らしい一節は昭和定本からまだ見つからないのです。
弟子、孫弟子まで調べる必要があると思いますが、膨大な文献が必要なのと私の年齢や健康上、時間はなく出来ないと思います。

仮に、「運想」や「禮仏偈」などが遅れて近代に日蓮宗に輸入されたとしても、江戸末期、明治初期の日蓮宗のお坊さんが勉強家だったことが分かります。

●まとめ

 というわけで、最近の記事と本記事はもっと調べてから書きたかったのですが、ツイッターで勤行や世雄偈が話題になったのでタイミング的に良いと思い書いています。
私の場合こうして記事を書くと飽きて放ったらかしにするかもしれません。
そうだとしても、本記事の内容から創価などの日蓮正宗系教団が儀礼や勤行の形式においてダメな教団であることは十分に解ってもらえると思います。
過日の創価の世界青年部総会で、会合を中断し「区切りを入れ」東日本大震災で亡くなった方への黙祷や勤行唱題を「重ね重ねて」行うべきだったとツイッターに私は書きましたが、日蓮宗や各宗派の「丁寧で更に丁寧な」儀礼、勤行を調べていたのも理由の一つです。
天台宗、浄土宗、禅宗などにおいて、禮仏偈、奉請といった形式をとり偈文などで「区切られている」のがわかると思います。(*1)

学会問題の中で、創価員が在家信者(元々は正宗の信徒)なのに勤行して方便品、寿量品を読めるのは素晴らしい、そんな記述をよく見かけます。
私も在家信者が方便品、寿量品を勤行で読むことは良いことだと認めます。しかし今回のようによくよく調べると、日蓮正宗の勤行の実態は「法華三昧行事運想補助儀」とは無縁であり、意味不明な形で勤行形式としている。日蓮正宗の意味不明な勤行形式である五座三座を更に換骨奪胎しただけなのが、創価の勤行だとわかると思います。
日蓮宗の勤行法式が創価や日蓮正宗にはないわけですからね。
日蓮正宗聖典には勤行法式の記載がありません。日蓮正宗の他の文献で見つかれば記載したいと思いますが、十中八九、日蓮宗の勤行に近い勤行法式は無いでしょう。

正宗の勤行形式は禮仏偈、奉請がないので、何時までたっても仏(釈迦仏、多宝仏)はやって来ないのです。(笑)
創価員は諸天善神さえ来てくれればそれでいいのでしょう。

長い時間の中で、創価や正宗は他宗の勤行から盗用すると思いますが、みなさん如何でしょうかぁ〜?
「法華三昧行事運想補助儀」からなら盗用にはあたりませんが、日蓮、日興遺文の根拠はおそらくないでしょう。

次回は、三寶の意味、教えについて記事を予定しています。

以上

(*1)参考リンク
般若心経と各宗派

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435.日蓮宗における勤行や儀礼(その3)日蓮宗聖典に記載される禮讃式文

2018年04月03日 00時00分31秒 | 日蓮宗の文献、教学など
●日蓮宗聖典に記載される禮讃式文

日蓮宗聖典の一部を抜粋します。明治45年7月の版です。
初版は明治45年二月。日蓮宗管長、旭日苗の名前があります。
(旭日苗は江戸末期の天保4年(1833)〜大正5年 (1916)8月8日)

参考画像 2ページのみ。





本文全てと多くの注意書きは省略しています。
旧漢字と新漢字が混じってしまったのはご容赦下さい。

禮讃式文

一、勤行法式(1244ページ)
◯禮仏偈
◯奉請
◯敬禮
◯開経偈
◯読誦(方便品と寿量品。注意書きあり)
◯運想
◯正行
◯宝塔偈
◯回向
◯四誓
◯三帰
◯奉送

二、施餓鬼法会儀(1248ページ)
◯禮仏偈
◯奉請
◯敬禮
◯供養
◯散華
◯行堂
◯施食偈
◯灑水咒
◯対揚
◯諷誦(寿量品偈)
◯開経偈
◯読誦(提婆達多品を訓読)
◯咒讃
◯繞鉢(ふりがなは「ねうはち」と書いて「にょうはち」と読む。シンバルのような楽器で漢訳の方便品と法師品由来。チベット仏教にもシンバル楽器あり。日蓮宗辞典を参照のこと)
◯讃歎
◯正修
◯宝塔偈
 回向文
◯三帰
◯奉送

三、礼法華儀式(1261ページ)
◯奉請
◯正修
◯献供
◯帰依
◯敬禮
◯懺悔文
◯帰命禮
◯開経偈
◯読誦(寿量品、神力品、安楽行品、普賢品)
◯讃歎
◯運想
◯唱題
◯宝塔偈
◯回向
◯四誓
◯三帰
◯奉送

四、放生慈済法会(1267ページ)
◯禮仏偈
◯総拝
◯勧請
◯供養
◯敬礼
◯運想
◯咒水
◯放生式文
◯誦経(方便品と寿量品)
◯唱題
◯回向
◯四誓
◯通戒
◯三帰

以上で礼讃式文終わり。

●補足

 日蓮宗、現代宗教研究所関係者によると三派合同以前に各寺院や各教団ごとに様々な勤行のあり方や儀礼、儀式があったそうです。
前記事で紹介した日蓮宗の本との違いは、こうした経緯によるものと思われます。

以上

ブログ内参考リンク
433.日蓮系における勤行や儀礼(その1)世雄偈読誦について - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
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434.日蓮宗における勤行や儀礼(その2)

2018年04月02日 00時18分52秒 | 日蓮宗の文献、教学など
●日蓮正宗系の勤行や儀礼

日蓮正宗後付け教学では曰く「日蓮正宗富士大石寺の勤行の形は、他ならぬ宗祖日蓮... - Yahoo!知恵袋

日蓮正宗の【勤行】のやり方。次第の詳細について説明します。

他多数の証拠あり。

 創価などの正宗系教団の勤行は題目三唱と五座三座を基本とした略の中の略を極めた簡素な形式だと私は考えています。
なお、皆さんがどう思うかは自由です。

創価などの正宗系教団はこうした勤行と儀礼で大威張りしているわけです。

禮佛偈(他宗によっては讃仏偈とも言います)と奉請(勧請のこと)、奉送(お帰りいただくこと)ぐらいは創価退会後の数年前から知っていました。他の儀礼について知ったのは日蓮宗の文献を手に入れた最近になってからです。

●日蓮宗系の勤行や儀礼

 日蓮宗の文献に掲載されている勤行や儀礼を紹介します。

日蓮宗のとある文献













創価などの正宗系教団関係者は真面目な人か、真面目でありたい人が多いと思いますが、実際は不真面目か丁寧な勤行や儀礼を知りもしないか全く行ってないと思います。

日々の勤行くらいは創価など正宗教団の略された形式、つまり略式勤行でもいいのかもしれません。しかし真面目で、全知全能な仏菩薩から下界の僧侶、信者の日常を見たら見劣りするのではないでしょうか?
真面目な人、不真面目な人、勤行の丁寧な人とそうでない人、どちらの願いを聞いてもらえるかは一目瞭然ではないでしょうか?

牧口、戸田城聖は日蓮宗の勤行形式を知っていた可能性が高いと思うのですが、どうなんでしょうね。池田大作門下は論外でしょう。

創価などの正宗系教団に入信しないほうがいい理由が、また一つ増えたと思います。

以上

ブログ内参考リンク
433.日蓮系における勤行や儀礼(その1)世雄偈読誦について - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
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佐前・佐後は、江戸時代の肥後本妙寺の日導「祖書綱要」(日蓮宗)

2018年01月28日 12時08分10秒 | 日蓮宗の文献、教学など
佐前・佐後の端緒は、江戸時代の肥後熊本・本妙寺の日導による「祖書綱要」の「佐前・佐後法門異相章」にあります。肥後本妙寺は日蓮宗。

佐前・佐後は江戸時代から近代のどこかで、日蓮宗から日興門流大石寺系に流入したのかもしれません。「日興門流大石寺系だけがすごいのだぁ〜!!」「池田先生だけが御本尊も日蓮仏法もわかっているのだぁ〜!!!」とかいい加減にして欲しいです。

●注意事項

 無用のトラブルを避けるために、本記事は本文でも画像でも全てにおいて引用、転載を一切、禁止します。

本記事はリンクのみ許可します。
ツイッター、フェイスブック、他ツールからでも、本記事に飛べば許可します。

以下は日蓮宗辞典より。

----------<ここから>----------
●日導
(一七二四—八九)字は智渓、一妙院と号す。近世日蓮宗学の泰斗。彼の日蓮宗教学史上画期的な名著『祖書綱要』にちなんで「綱要導師」と称される。享保九年、医師井上氏を父として肥後熊本に生れ、幼名を一妙という。その名は法華信仰篤い父がつけたものである。一〇歳の時熊本本妙寺塔頭東光院の室に投じて出家し栄雅と改めた。一八歳の時、志を懐いて京鷹ヶ峰檀林に入り習学に勤めたが、貧困のためにはなはだしく苦学する。時の化主谷中妙福寺観道日禅はこれを見かねて世話をし、帰東に際し日導を江戸に連れ従えた。そこで日禅に師事して名を智渓と改め、日深と号す(後に日導と改む)。師に従って高田本松寺に移り、その本松寺の聖人の御影に本化の学業成就を祈請し、感応を受けたこと伝えられる。

後、正東(中村)檀林に笈を負い。苦学精励、宗義の研鑽に寝食を忘れ、頭角を現す。この頃檀林は天台教学を習うことを専らとし、聖人の御書を読むことを禁ずるというような台学偏向の風が蔓延していた。彼はこれを嘆き、本化宗学の興隆を願い、宗風宣揚をもって自己の使命と任ずるようになった。
(中略)
日導は在檀中同学士に常に「噫、社中の学士、縦い台教の六〇巻を明練し、荊渓四明の佳児孫と称すとも、苟しくも塔内別付の干を探らんずば我に於いて何如。設い一代経を語ること文殊等の如きとも、法華の文文をもって題目の五字に結することを識らずんば、末法弘通の師とするに足らず」(「感読祖書綱要序」)と語っていたという。その思想の帰趨を窺い知ることができよう。日導、学成って一夏檀林で妙玄を講じ、ついで中村の妙興寺に住し、江戸牛込恵光寺に移って一五年余り、その間、青年時代の志を成就するべく祖書に参究し、聖人の教学の枢要を著し始めた。天明三年(一七八三)寺内の我浄土庵に退蔵してもっぱら著述に励む。翌四年には正東の化主に招せられたが文句を講じて直ちに帰り著述を続け翌五年、ついに論述の完成をみた。その量二三、聖人の御書の眼目、要諦を説き明かしたところから、名づけて『祖書綱要』という。翌五年には肥後侯の請により熊本本妙寺二一世に瑞世し、在山三年、寛政元年七月一二日、本化宗学樹立に曄世をかけたその一生をおえた。世寿六六歳。著述は『祖書綱要』の他『法華即身成仏義』『裁断惑説』『草木成仏記』『四種三段』等あり。『祖書綱要』二三巻は安永九年(一七八〇)から稿を起し、天明五年(一七八五)に一応完成し、熊本の三年間はもっぱら校訂に費された。それは六四章より成る日蓮宗最初の宗学の体系的組織書である。《執行海秀『日蓮宗教学史』、望月歓厚『日蓮宗学説史』、稲田海素「祖書綱要並に同刪略に就て」(『大崎学報』五三)》

●祖書綱要

二三巻。一妙院日導(一七二四−八九)、天明五年(一七八五)著。近世日蓮宗学の組織者、日導の代表的な著書。六四章よりなる。日導は享保九年熊本に生れ、一〇歳のとき本妙寺の塔頭、東光院日禅に師事。その後、京都鷹ケ峰檀林等にて修学。寛延二年(一七四九)二六歳のとき、同学の四人と「同盟起請文」をつくり、宗風扇揚の誓いを立てるのである。さて『祖書綱要』二三巻は安永九年(一七八〇)正月に稿が起され、前後およそ五年にわたって、日導は蘊蓄を傾け、天明五年(一七八五)春に脱稿。その撰述の縁由は、対外的には浄土宗及び浄土真宗との権実論争、対内的には了義日達(一六七七−一七四七)の『本迹雪謗』によって投ぜられた本迹論の論争があり、更に根本的な問題として当時の檀林教学が天台学偏重にあったことが考えられる。つまり本化宗学の復興が本書執筆の根本的な動機であったといえる。その著述は『観心本尊抄』を骨子として、体系化された教観二門にわたるものである。本書の構成は宗学全般にわたるもので、そのおもな綱目を列挙すれば、学者鑽仰次第、妙法五字の元旨、法華経の経旨、佐前佐後破顕の進退と法門異相、宗祖化道の始終、相承論、顕本論、本仏論、成仏論、位階論、本迹論、付嘱論、本尊論、題目論、戒壇論等である。なお現代において聖人教学を佐前・佐後とに分けて異相を論ずることが一般化しているが、この端緒となったものは、本書の「佐前・佐後法門異相章」である。日導は本書を著した翌天明六年本妙寺の第二〇世に晋山し、寛政元年(一七八九)七月一二日に遷化している。生前中、日導は自ら『祖書綱要』二三巻の刪訂を企画したが、遂に果さず弟子に遺嘱した。それを受けて弟子一乗院日述は本書の刪訂および出版を企画した。しかし巻数も多く、またその引文が煩雑であるために修刪も進まず、加えて多忙であるために遂に断念せざるを得なくなった。日述は浪華妙徳寺妙用日運(一七五五−一八三三)にこの事業を依頼した。日運はこれを承諾したのであったが、手指の病を患い、この事業を中途で止めることになった。更に日運は越後角田山妙光寺三五世、事成院日寿(一七四一−八〇五)にこの事業を委託した。日寿は寛政一〇年六月に刪略の業を起し、四年を経て寛政一三年(一八〇一)二月二六日、六一歳にて完成した。これが『祖書綱要刪略』七巻である。近世日蓮宗教学の代表者、優陀那院日輝(一八〇〇−五九)はこの『祖書綱要刪略』に註釈を加え、宗学を論じたものが『祖書綱要正議』二巻である。日輝はその「序」の中で、日蓮宗における三つの宝の書物として(三大宝策)、草山元政の『草山集』、常在日深の『峨眉集』、日導の『祖書綱要』とを挙げ、中でも『祖書綱要』は宗義を論究したもので、宝策中の最宝策として高く評価している。なお『正議』の序には、日蓮聖人五五〇遠忌(天保二年)の八月一日の日付けがあり、日輝三二歳に当る。

●釈子

(一)出家受戒した者は、釈尊の子であるという意味。仏弟子、僧侶をいう。釈氏ともいう。『維摩経』(正蔵一四巻五四三頁a)を参照。(二)聖人の宗教的自己規定の変化は著述等の署名より窺うことができる。例えば、『撰時抄』には「釈子日蓮」とあるが、それ以前の署名には、「天台沙門日蓮」(安国論—日興写本—)・「根本大師(最澄)門人日蓮」(法華題目抄)・「本朝沙門日蓮」(教機時国抄・顕謗法抄・祈祷鈔・本尊抄等)・「扶桑沙門日蓮」(法華取要抄)とある。以後は「沙門日蓮」(安国論—広本—)・「法華経の行者日蓮」(法華證明鈔)と表明されている。佐渡配流以前は天台・伝教に直結する天台宗の、あるいは日本の一僧侶という立場を脱しきっておられない。しかし、それ以降は閻浮提の日蓮、または釈尊に直参しその詔勅を奉ずる日蓮と、変化が見られる。即ち前者が外相承の意識、後者が内相承のそれを帯すると考えられよう。『撰時抄』における「釈子日蓮」の表現には、法華経の行者として上行自覚され、一閻浮提の衆生を救済しようとする聖人の師(五義)自覚が看取できる。

----------<ここまで>----------

2018年1月29日 釈子を追記

以上

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「佐前佐後」の単語を用いたのは日蓮宗(国柱会)山川智応か?

2018年01月27日 22時48分33秒 | 日蓮宗の文献、教学など
色々と問題を感じるので更新はしないかもしれません。

saikoさんのツイート: "大聖人の扱いが どんどん釈尊の弟子みたいになってく… "

もっとんさんのツイート: "そろそろ、天台沙門って言いだすのでは?… "

もっとんさんのツイート: "興門流が、佐前佐後という言葉を使うのはご存じですか?… "

saikoさんのツイート: "佐渡前・佐渡後、習わなかったですかっ?! そっかあ、、 なんで教えないんだろう… "

もっとんさんのツイート: "日蓮正宗に限りませんが、日興上人の系統だけの考えですね。 大聖人を仏と見ない五老僧の系統には、佐前佐後という考え方は存在しようがありませんから。 大聖人自身が意識していたのはもちろんです。

もっとんさんのツイート: "あなたは人と話す態度ではないな… "


日蓮遺文を読むと、釈尊の弟子を意味する釈子。釈尊御領観もあちこちに見受けられます。

「佐前佐後」の単語を最初に言及したのは近代からと思われます。国柱会系の書籍で、大正12年「本化聖典大辞林 解題提要」山川知應(智応)P50 佐前佐後の解釈内容が、教団や時代により違いは存在します。

日興門流のお坊さんが「佐前佐後」との単語を書いていればコメントを下さい。

佐前佐後の単語は、元々、他宗にあり日蓮正宗独自のものではないこと。大正12年から存在していた単語だと思われます。日蓮正宗と日蓮宗は戦後しばらくまで、お坊さん同士で教え合っていました。堀日亨、大橋慈譲、稲田海素などの資料を読めばわかります。

佐前佐後は現代の学術用語であって、直接の仏教の用語ではありません。忘れてもいいと思います。日蓮遺文に書かれている、釈尊御領観や釈子はきちんと理解しましょう。日蓮宗の書籍でしっかり学ぶことです。

堀日亨が言い出して、国柱会側が「佐前佐後」の単語をつかった可能性もなくはないと思いますが、私はそうした話は記憶にありません。

以上
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