創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

220.地獄論、罰論、メモ(その4)

2007年10月29日 23時27分44秒 | 創価学会
No.1
白黒か2者択一、絶対かそうでないか?はカルト思考。
法華経だけ、日蓮本尊だけ(日蓮本尊でなければ宿命転換できない)等々、あるいは ”創価学会員はなぜ幸せになれないのか?” と安易に「幸せでない」事を断定してしまう事に問題があると思われる。

●本尊

本尊に関しては日蓮は釈迦仏を拝んでもいた。もちろん本尊も。つまり本尊だけという絶対(限定)ではない。日蓮宗は本尊に釈迦仏も拝んでいる事が一つの証拠。


●法華経

創価など日蓮正宗系は「法華経を誹謗すると”らい病”になる」と教学上からはっきり言っている人がいます。

ところが日蓮は「法華経を誹謗すると”らい病”になる」とか信徒や平民に罵倒はしていない????(勉強中)

立正安国論においても様々な経典を引用して臨終直前に講義をしているので法華経から一番大事な 人を救う仏教精神 を学んで、金光明経、大集経、薬師経、仁王経などの経を挙げて、世に災厄が起こる理由を説明しているから、人を救うには法華経が一番と考えたのは別段、そううそ自信も違和感を感じません。

金光明経、大集経、薬師経、仁王経は現代から見て科学的根拠はありませんでしたが、現代の気象学の本だったのでしょう。日蓮がそれぞれの経典を仏説と考えていたのか非仏説を考えていたのかは私には不明です。


○現代人と法華経

日蓮の時代は法華経仏説であり五時八教が成立していて法華経は肯定されていました。ですから、強く法華経誹謗や否定する人を強く諫めても問題が少なかったのかもしれません。

しかし現代人は法華経非仏説であり五時八教でもなく、法華経は小説色の強い経文でした。ですから、強く法華経誹謗や否定する人を強く諫めると問題が多いでしょう。

No.2
●日蓮本仏論

日蓮が本仏ならば、なぜに日蓮の「祈り」で日本だけでも広宣流布が叶わなかったのか?
祈れば必ず叶うならば、日蓮は信心が足りなかった?(笑)

日蓮が信徒に対して「必ず叶う」と言っているのは宗教者として、僧侶としての現実的な 「思いやり」 では?

キリスト教でも懺悔して神を信じ神に祈りを捧げれば救われます、という教えですね。


●日蓮が法華経や本尊を選んで祈った事は元創価学会員の私ですから当然知っています。当たり前。

法華経や本尊を「人を救う為」に選択した事や「一番人が救えると考えた基準」を法華経や本尊においた事など無数に日蓮の真筆遺文から出てくるでしょう。そんなこと当たり前です。

仮に唱題だけで本尊を保つことなく死んでいったに日蓮信徒は地獄へ行ったのですか?

で???? 「地獄の因」がどのように日蓮一生の御化導精神なのか?あるいは法華経根本精神なのか説明して下さい。

私が何度も否定している「絶対は危険」というのは個人が持った人生観や価値観、過去ではありません。個人の体験や過去に絶対はあるでしょう。

宗教や思想において「何々が絶対」つまり「日蓮の本尊は絶対(祈りが叶う)」「法華経は絶対!」という創価思考、カルト思考を否定しています。特に他者に布教、説得、入信を迫る時に「本尊が絶対」と言うのが危険だと思います。


No.3
●人を決めつけるのがカルト思考。過去記事の通り。

私はあるBBSでとある人が六道の一つを差して見下す様にレッテル張りされた事から ネット上で大きなもめ事が起こった事を知っています。
一番問題があったのは私のブログをも荒らしに来た人でしたが、その事情をよく知る私にとって他人を軽々しくレッテル張りする事は許せません。

言っている相手が1人とか組織とかの問題ではないでしょう。レッテル張りその事がカルト思考であり、人の不幸を生むのです。

私は他人に地獄の因など、”創価学会員はなぜ幸せになれないのか?”などの見下す、あるいは否定的な言及は畜生だの餓鬼だの六道を示す否定的なレッテル張りと同じです。

信仰者、宗教者であるならば、もっと日蓮の様に慈悲ある態度がふさわしいのではないでしょうか?
低い境涯であると決めつけられた竜女という境涯、立場の人が成仏したのが法華経の教えであり、それを救うのが信仰者では?


●私は友情関係を何人か復活する事が出来ました。

一年程前、ネット上で大きなもめ事が起こってから、友情関係を何人か復活する事が出来ました。
もちろん継続中努力中であり、これからも出来るだけ多くの人と仲良くしていきたいです。

他人に地獄の因など、”創価学会員はなぜ幸せになれないのか?”などの否定的な言及する人に友人は増えるのでしょうか?
レッテル張りはいい加減に止めて頂きたいです。

更に 「「 議論の方向性を教学にして話をそらそうとして 」」 頭の悪いそううそを言い負かしても何の自慢にもなりません。

是非、創価教学、日蓮正宗教学で 富士門流信徒BBSの人達を説得しては如何でしょうか?
あなたは地獄の因でも境涯でもなく天国か仏界の境涯なのでしょう?

私の日蓮仏法の教学の基準は創価学会教学にはありません。また私は日蓮仏法を信仰する気はありません。私もまだ勉強中であり、あなたのそうした態度を見ればますます法華経や本尊に「絶対だ!」と拘ったり、日蓮本仏論信仰に危険を感じます。
コメント (5)
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219.地獄論、罰論、メモ(その3)

2007年10月29日 20時41分37秒 | 創価学会
すべてhttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269 素朴な疑問より。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/27-29

利益や功徳は自分の観念、心、の上に捉えられる。よって何宗でも利益はある????(そううそ的に?。)少なくとも私の親兄弟、友人にも幸福、不幸どちらもある。当然、良く変わる事もあるし、悪く変わる事もある。「私は功徳や利益をいただいた。罰が当たった」と素直に受け取る人が幸せという意見には賛成。他者から軽々しくその人に対して罰とか地獄とか言うべきではないと思う。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/71

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/212-215

「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」と書いてある日蓮の真筆本尊は8幅はあるらしい。すべての本尊に記して必須とは考えていなかった。もちろん法華経に対して「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」だと日蓮が思っていたのは当然でしょう。(日蓮の功徳論、罰論)但し、この形式でないと駄目、また本尊により功徳の違いが明確に現れる、などどは思えない。


http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/223

日蓮曼陀羅には定型はないらしい。日蓮正宗の大御本尊だけが絶対というわけではない。但し、偽物を真筆、本物と言うなど「嘘はよくない。」
「有供養者 福過十号 若悩乱者 頭破七分」は大御本尊には書かれていない。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/303

仏教精神で大事なのは慈悲ということに私も大賛成です。


http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/355

仏界が絶対的幸福境涯である可能性は低いか、全く的はずれらしい。


http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/364-368

地獄とか罰とかにとらわれすぎた、、、、という言及があるということは、当然、学会員が安易に他人に向かって「罰があたる、地獄へ行く、地獄の因」とか言うのはその人自身が創価学会や日蓮正宗から「罰があたる、地獄へ行く、地獄の因」と言われて地獄とか罰を信じ、囚われている証拠なのでは?。

普通の宗教者は 地獄へ助けに行ってあげるのが、思いやりや慈悲。仏教の大きな行動、思想、哲学、の一つは慈悲。(ブッダは歩む、ブッダは語る)

「設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ、暗に月の入るがごとく湯に水を入るるがごとく冰に火を・たくがごとく・日輪にやみをなぐるが如くこそ候はんずれ」(崇峻天皇御書:真筆度は高い)


http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014180269/381-382

私の本尊観は学会だらけ、という人がいるという事は法華経や日蓮、地獄論、罰論も当然、学会か正宗の影響を受けていると思われる。また、”学会だらけでない”本尊観や法華経や日蓮、地獄論、罰論があるのがBBSから読みとれる。

リンクは以上。
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218.地獄論、罰論、メモ(その2)

2007年10月29日 18時11分26秒 | 創価学会
http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_002.html 法華経について3

http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-13.html 仏教と批判的合理主義 日蓮の罰論の問題点

創価学会の信仰に功徳はあるか? 210.地獄論、罰論、メモ(その1)
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本題に入ります (Libra)
2007-08-22 01:39:03
 そううそさん、こんばんは。

 今回は、この記事の本題に関係があることを少し書いてみます。


1.日蓮の地獄論には大きな問題はない
 日蓮の地獄論には、大きな問題はないとわたしはおもいます。日蓮がいう「地獄」というのは、「我等が五尺の身の内に」あるものであり、「我等がむねの間」にあるものです。

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 抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば或は地の下と申す経文もあり或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候、さもやをぼへ候事は我等が心の内に父をあなづり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候

(「十字御書」、全集、p. 1491)
───────────────

───────────────
 夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はずただ我等がむねの間にあり

(「上野殿後家尼御返事」、全集、p. 1504)
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 ちなみに、親鸞も、「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞとくたまう」(『正像末和讃』)といっているようです。このあたりが、現代の真宗教学でどのように説明されているのか、少し興味がありますね。

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 法然が『選択本願念仏集』(『選択集』)を著わしたのは、建久九年(一一九八)である。法然は安元元年(一一七五)に比叡山を下りて、いよいよ本格的に布教をはじめた。その主張は、ひたすら阿弥陀仏の名を称えるだけでよいというもので、専修念仏と呼ばれる。その主張を正面から述べたものが『選択集』であった。法然はそれを九条兼実に献上したというが、その後、主要な弟子には筆写を許している。しかし、跋文に「一たび高覧を経て後に、壁の底に埋めて窓の前に遺すことなかれ」とあるように、法然自身その危険性を認識して、むやみに外部に出すことを禁じている。
 その際、「おそらくは破法の人をして、悪道に堕せしめざらんがためなり」と言い添えていることは興味深い。法然にとっては、念仏こそが仏説の核心であり、念仏を誹謗すれば、それは正しい法を誹謗したということであり、悪道(地獄など)に堕すべき重罪なのである。
 このことは、親鸞において、もっとはっきりと言明されている。親鸞の『正像末和讃』では、「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞとくたまう」と、念仏を誹謗するものは地獄に堕ちるといわれている。念仏者にとっては念仏誹謗こそ最大の謗法であり、逆に、日蓮にとっては、そのような念仏者の言動こそ最大の謗法なのである。

(末木文美士『日蓮入門──現世を撃つ思想』、ちくま新書、2000年、pp. 101-102)
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2.日蓮の罰論には問題あり
 一方、日蓮の罰論には、大いに問題があるとわたしはおもいます。日蓮の罰論は、鎌倉時代であればともかく、少なくとも現代においては全く通用しないとおもいます。日蓮の罰論の問題点は、【法華経をフィクションではなく、実話であると認識している点】につきるとわたしはおもいます。

 日蓮は、法華経をフィクションと認識していなかったので、そこに出てくる【十羅刹女などを実在のものとして認識していた】とおもいます。【法華経の行者を守護する十羅刹女】などを実在視すれば、【法華経の行者を不当に迫害する者は「十羅刹のせめを」こうむる(=罰をうける)】という考えが自然にでてきます。じっさい、日蓮は、そういうことを言っています。

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但一の冥加には景信と円智・実成とが・さきにゆきしこそ一のたすかりとは・をもへども彼等は法華経十羅刹のせめを・かほりて・はやく失ぬ

(「報恩抄」、全集、p. 323)
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───────────────
 けれども、ただ一つ冥加なことは、景信と円智と実城が先に死んだことである。神仏の助けとも思われるが、これは彼らが『法華経』の守護の十羅刹女の責めをこうむって早く死んだものである。

(藤井学訳『大乗仏典 中国・日本篇 第24巻 日蓮』、中央公論社、1993年、p. 234)
───────────────

 もっとも、鎌倉時代に生きた日蓮が【法華経を実話であると認識していた】としても、それは、その当時においてはむしろ【常識】といってもよいでしょうから、そのことじたいを責めるのはナンセンスです。

 しかしながら、【法華経は創作(フィクション)である】ことがすでに【常識】になっている現代においてもなお、【法華経は実話である】と主張してみたり、また、そのような認識にもとづいて、【法華経の行者を不当に迫害する者は十羅刹の責めを受ける】などと本気でお考えになる人がもしおられるとすれば、【そういう人の精神は健全とはいいがたい】とわたしはおもいます(以下の資料を参照)。

  精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー)
  http://fallibilism.web.fc2.com/112.html

 もっとも、わたしは、【法華経は実話ではないから、そんなものに価値はない】などと考えているわけでは全くありません(以下の拙文を参照)。
  
  『法華経』と釈尊の思想
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html


3.日蓮の罰論の問題点は弟子としてきちんと乗り越えるべき
 【日蓮の罰論を現代においてそのまま主張することには大いに問題がある】ということは上述したとおりです。したがって、日蓮の罰論は、現代においては捨てられるべきだとおもいます。「師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間仏法の道理によるべきなり」(「曾谷殿御返事」、全集、pp.1055 -1056)と日蓮じしんがいっています。

 そもそも、【十羅刹女に守ってもらいたい】というような考えは、以下の文章にみられるような【日蓮の崇高な精神】とは一貫しないとおもいますし、【一念三千に基づく日蓮の中心思想(成仏論)】とも全く無関係ですから、【捨てることができるし、捨てるべきである】とおもいます。

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詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん

(「開目抄下」、全集、p. 232)
───────────────

───────────────
日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり

(「四条金吾殿御返事」、全集、p. 1169)
───────────────

 【日蓮の崇高な精神】を現代に生きたいと望む日蓮の弟子の一人として、すくなくとも、わたしは、【法華経の行者を不当に迫害する者は十羅刹女の責めを受ける】などという考えは【きっぱりと捨てるべきである】と考えます。

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217.公明党から聖教新聞社に年間2億円の不透明な「補助負担費」の支払い記録

2007年10月23日 22時12分49秒 | 創価学会
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1192625005/

公明に“上納金”存在せず:ニュース|公明党
ttp://www.komei.or.jp/news/2007/1017/9871.html

ニコニコ動画(RC2)‐石井くん『公明=創価』に切り込むまとめ(一部字幕)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1334265

随時追記します。
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216.ニーバーの言葉は変わる事それ自体や希望を持つ事を否定していません。

2007年10月09日 01時13分11秒 | 創価学会
「自分が変われば、全てが変わる」ということを「どこまでも」あるいは「絶対的に」信じている学会員さんがいますね。やっぱり、というか、やはり誤解をしているようなので書いておきます。

「自分が変わっても全てが変わらない」「自分が変わっても、相手も環境も変わらない」というのなら、どの様に希望を持ったらいいのだろうか? という疑問です。

この学会員さんの文章を読むと「責任」ということが書かれているので、無責任なバリ活よりかはずっとマトモな意見だと思うのですが、やや誤解があるようですね。

●まず、変わる事それ自体や希望を持つ事を否定していません。

 ニーバーの祈りを良く読むか、紹介されているサイトを良く読めば分かるはずなんですけどね。

-------------------------
変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
-------------------------
ちゃんと変わる事が含まれています。

創価学会でない人が、勇気や希望を教えてくれています。

例えば私が紹介したサイトも偶々でしたがニーバーの祈りを紹介して人間関係のカウンセリングをしているようです。つまり人間関係が変わる事を期待しています。


ある人のサイトでも自分らしく、とか「おかしな学会員」とは関わらないで、精神衛生上、良いように生活していきたい。自分の人生をもっと大事にして希望を持ちたい、という事だと思います。

学会員でない一般人だって「自分が変われば、全てが変わる」そう思って良いのです。
”創価学会でよい事が言われている”、一般人にそう思われる可能性もあるでしょう。
希望を持つ事も悪い事ではありません。

過去記事に書いてきたとおり毒矢の例え、不軽菩薩の教えなどと同様に、ここまではカルトではありません。

●教団都合において 「それしか教えない、それしかない、いつもそれが絶対」 というのがカルト思考。

常に、学会本部や池田氏が教えた事、つまり「一つの教えが常に絶対に正しい」というカルト思考なのでしょう。
日蓮正宗と同じですね。日蓮本仏論や大御本尊は真筆本尊、というのと同じです。

そもそも選択肢が一つしかない思想は危険なのではないでしょうかね?
 不幸にうちひしがれている人に「希望を持て!」というのは良い事ですが、創価の場合は人の不幸につけ込む場合があるから危険です。過去記事の通り。

○見分ける事

私はニーバーの祈り(言葉)を持ち出して、カルトと宗教の見分け方、という事について書きましたが、

人生においても
「何が正しくて」「何が間違っているのか?」
「二つの道があればどちらを選択するか?」
「どちらが より良いのか?」

より。です。より。
二つの道のうち、選択した道でも結果的に間違っている”かもしれない”のです。

ですから様々な物事においても、

「自分が変われば、全てが変わる」
のか
「自分が変わっても全てが変わらない」
のか
”””見分ける事が大事”””です。

ニーバーの言葉はそういう事、つまり「見分ける事が大事」といっています。
批判的合理主義もそうだと思います。批判仏教もそうだと感じています。

●変わらない事を正しいと言う創価学会

「自分が変われば、全てが変わる」ということは創価思考、カルト思考の問題として、常に誰か、何かが変わる事を期待しています。
変わる事だけが真理や道理、常識なのでしょうか?
変わらない事も ”時には” 大事なのでは?

創価学会は日蓮宗、日蓮正宗などいわゆる創価にとっての邪宗を批判する際に

””日蓮大聖人の御精神とは変わってしまっている!!違う!!謗法だ!!大聖人の御精神が受け継がれているのは池田先生と創価だけ!!””

そう言って ”変わった事を批判している” じゃありませんか?
日蓮だって鎌倉時代の仏教界に”釈迦の言う事を聞け!”って 釈迦と変わらない事を求めたじゃないですか?

日蓮正宗は 我々のほうが ”より” 人を救える!そう信じ、希望を持ったから創価学会員を破門とか解散とかとかバカな事を行ったのでしょう。僧侶が信徒を見捨てるという歴史的なおかしな事件でした。(もちろん創価学会側にも問題はあるのでしょうが。)
変わって希望を持ったのが常に正しいのであれば、日蓮正宗に行けますか?変わらない池田大作氏の元にいたいんでしょう???


創価学会の何が良くて何が良くない(悪い)のか?何が変わって、何が変わっていないのか?
つまり、良くも悪くも何が変わったのか?
良くも悪くも何が変わっていないのか?
それぞれの議題やテーマは過去記事の通りです。
人について柔軟でない考え方は人の不幸に直結しやすい創価思考、カルト思考といえるでしょう。

過去記事に何度も書いてきた、バランス感覚。このバランス感覚が少ない、非常に危険な考え方だと思います。
希望を持つ事は悪い事ではありませんが、希望が持てれば、常に変わる事を期待すればいいのはおかしいです。


創価学会もいちおう、いちおう、宗教ですから宗教を求める人の中にはどうしても弱い人がするのかもしれません。
弱い人が信仰にすがるだけのあまりよろしくない?ケースがあるので「自分が変われば、全てが変わる」という指導はあり得ると思います。それがケースバイケースで指導を受ける人にとって適切かどうかは全然別の話です。


例えば、汚染物質を垂れ流しにして環境破壊をしている会社があるでしょう。
その会社や社員の幸福や希望の為には 売り上げがあがる事です。
環境破壊対策をしたら利益が減るでしょう。
自分たちの会社の売り上げが良くなり続けるという変化は確かに希望です。
しかし他人の不幸を生み出す一面があります。

国や地域住民などの他者、他人から「環境破壊対策をする」という変化を求められる場合もあります。
会社の欲求、幸福とは方向が違います。


●常にケースバイケースで考えるしかない。

ですから何がカルトで何が宗教なのか?常にケースバイケースで考え、自分の責任で選択するより他にないのです。
私の責任の取り方の一つとして ”退会” ということがあったのでした。
先に挙げた学会員さんの場合は責任に言及しているので、まずは大丈夫かと思いますが、それを読んでいる学会員が誤解する可能性がありますね。

実際、私の病気は何も良く変わる事はありませんでした。

ですから過去に何度も書いているとおり、創価学会員でもカルト思考の強い人、無い人がいるでしょう。
日蓮正宗も同じかと思います。
もちろん、日蓮宗にもカルト思考の人がいるでしょう。

当然、池田大作氏が絶対、日蓮本仏論、創価学会が絶対などと思っている人が”多い”のが創価学会であり、あるいは少し違うけど日蓮正宗系です。

人の幸不幸が大事でありその延長として、ニーバーの言葉を皆さん学んでいるのを、とある創価学会員さんはよく分かっていないようですね。希望を持つ事だけなら、宗教者じゃなくても出来ます。
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215.ブッダは歩むブッダは語る 感想その7 (ちょっとだけ否定)

2007年10月08日 15時43分37秒 | 創価学会
 地獄論やカウンセリングを受ける前に、などの草稿記事をいくつか書いていたのですが、横道に逸れる記事をいくつか書く必要が出てきました。

 まずは、友岡雅弥氏の 「ブッダは歩む、ブッダは語る」 について一部反論することから。。。。
アホのそううそが友岡氏の書籍を反論しても反論になっていないかもしれませんが、これから先の話の筋道上、必要だと思うのでやはりこれも書いておきます。

●「仏法は勝負」ってなんなのでしょうか?

 またまたプンニカーおばさんの登場です。(笑)(^_^;A 詳しくは過去記事を読んで下さい。
友岡氏は、バラモンとプンニカーおばさんの会話のやりとりについて、
 「バラモンさん、もう水に入ることなんか止めたら?体をこわしちゃうよ?」(P22 主旨)
この様に書かれています。そしてそのすぐ後の行に

「勝負あり!」

と書かれていますね。カルト論、MC論などを学んで、そこから創価学会の言動を考えると、常に 「仏法は勝負」 という事を”池田氏や学会本部”に教えられ、学会員は口にすると思います。なので、ここで創価学会員は 「確かにプンニカーおばさんは勝った。」 そう思う可能性が大きいのかもしれません。
説得しようとしたプンニカーおばさん、つまりは折伏側の人が言い勝った。。。。
学会員にとっては微妙なニュアンスや誤解を生む可能性があると思います。

確かにプンニカーおばさんが「水浴びを続けると体をこわす」「水浴びを続けても天国に行けない」という論理が正しいのですが、改めて考えて欲しいのは、人の立場やおかれた状況はどうだったのでしょうか?

論理が正しいという事と、人の立場やおかれた状況、それぞれ別だと思います。


 (過去記事に何度も書いてきたとおり創価学会員は言動において何もかもごちゃ混ぜにして話をする傾向があります。それは小説人間革命が原因のような気がします。日蓮の伝説や、実際の歴史、宗教の解釈、学会員の体験談、(場合によっては実在した人物がモデルになっていたりします。)牧口氏や戸田氏の人生体験で本当の事も書かれているでしょうし、池田大作氏の数々の嘘も書かれているでしょう。
この様に小説人間革命にごちゃ混ぜに書かれているからではないでしょうかね?)


 さて、話を元に戻すと、「水浴びを続けると体をこわす」などの”論理が正しい”、のです。では、人の立場やおかれた状況、はどうだったのでしょうか?

 バラモンさんは水浴びを止める事で体をこわす可能性が低くなりました。また、”水浴びを続ければ汚れを落とすかのように悪業を洗い流して天国に行ける”という思想も変える事が出来ました。

 つまり、プンニカーおばさんの優しい?親切な?慈悲のある?言葉で具体的に人生の立場や状況を変える事が出来たのは、バラモンさんなのです。

 創価学会では「幸福を勝ち取れ!」「人生勝利!」とか嘯きますが、家庭訪問にしろ、折伏にしろ、そしてブログ訪問にしろ、創価学会員は指導にありがちな「言いきれ!」「言いきって来い!」「これだけは言っておく」というのがありますね。学会員と折伏や仏法対話をした一般の人で聞いた事のある人もいるでしょう。そして「これだけは言っておくが、あなたは地獄に堕ちるから」(私は勝った。私は成仏する、私は天国に行く、という裏返しやニュアンスにもとれる。)

 (あまり創価思考を書きたくはないのですが)「幸福を勝ち取った」のはバラモンなのでは?

プンニカーおばさんはバラモンさんを勝たせてあげたのではないでしょうかね?

 もちろん、●「友岡氏の書籍をよく読めば自明」なんですが、学会員には「言いきれ!」「言いきって来い!」「これだけは言っておく」というのが見え隠れします。最近の学会員さんは私の幸福体験だけは言い切っておきます。ということでしょうかね?

おかしな話です。私、そううそが退会してから得た幸福やキリスト教などの他宗の人の幸福を否定するんですかね?それとも人間革命や宿命転換などの「変わる事」は創価学会でしかできない?変わる事は学会員でなくても可能です。

言い切る、というこの言い方自体、特に年明けから春にかけて問題に感じていました。というのも会話終了だからです。
言い切る、ということは、言って、そして、切って、終わり?人を切って終わりなんですかね?宗教者側からの会話の断絶は問題です。これは別途記事にします。

最近は日蓮仏法を再考している、とあるブログでも 「仏法は勝負」 という誤解を解く事が書かれています。
私も同感です。

 「”水浴びを続ければ汚れを落とすかのように悪業を洗い流して天国に行ける”」というのは、現代では通用しないでしょう。
現代においては「常識」であり「道理」だと思います。常識や道理という議論の内容や方法でどちらが正しいのか?という事だと思います。
「仏法は勝負」つまりは敵味方扱いや、ねじ伏せるかのような言い方は仏法ではないでしょう。

常識や道理で相手を勝たせてあげる、相手がより幸福感を得られる、、というのが仏法であり、宗教者なのでは?

 友岡雅弥氏がどの様なつもりで勝負あり、と書いたのかは不明ですし、書籍のトータルな主旨からしてその様には読めませんが、学会員によく見られる「私が勝った!」「創価が勝った!」という創価思考、カルト思考を念の為に否定しておきます。

「仏法は勝負」ということに”話を絞って”一つ記事を書きました。上記の通り「言い切る」は別途記事にします。また「仏法は勝負」という創価思考ですが、勝負には相手が必要です。この宗教的な思想として「勝たせる相手」、「相手」という事も別途記事にします。

●「友岡氏の書籍をよく読めば自明」

 P23より主旨。
ブッダの教えが彼女にもたらした物、それは寒い時に水浴びをするバラモンを見てそれを自分の事のように感じられる感性。
自分が苦しい目にあった分、他人のつらさ苦しみが分かる心です。

 この上記の感性も最近の学会員さんには全くないですね。独りよがりと言うか自分中心、自分視点、「自分が」言い切ればいい、ということなのでしょうか?
もしも最近の学会員さん達に「相手」という視点があるならば相手の話を良く聞くでしょう。例えば、私であれば本物の仏法対話をする人ならばブログを良く読むようにするでしょう。

 良く読めば当然、1-21の記事を読んで、「人の悩み事を聞く事が出来ればその折伏は出来たも同然だ」という創価の指導を知っている私ですから、普通の感覚の持ち主であれば、創価学会を信用していない私、そううそが悩み事をネットで学会員に話すはずもありません。

一方的に学会員が体験談や自己主張を書いて去ってゆくのは、01番記事を読んでいないのにコメントを書きました、というのがよく分かります。
あるいは一度も活動をした事のない未活動家であり、ネット弁慶なだけの学会員なのでしょう。

私の「ブログ訪問」して仏法対話でなく「創価カルト思考対話」をする前に私のブログで「家庭訪問」で検索して読んで頂きたい物ですね。
それから仏法対話がどういうことであるか?というあたりから批判的合理主義に基づいてお互いに思索しましょう。

●「師弟不二」

 師弟不二、ということも学会員の創価思考、カルト思考で根強いですね。
私のブログで学会精神や学会正義、師弟不二は何度も否定してきました。「正義」や「師弟不二」で検索するかリーダー論の記事を読んでみて下さい。

友岡雅弥氏の 「ブッダは歩む、ブッダは語る」 にも師弟不二が書かれていますね。(P184)

アーナンダの言葉として「未曾有の道を切り開いた偉大な師ですから、、、」と書かれています。創価学会でも池田大作氏を「未曾有の道を切り開いた偉大な師」として日蓮大聖人の生まれ変わりだとか、仏法を世界中に広めたとか、つまりは ガンジーやキング牧師と同列の偉人、ノーベル平和賞間違いなし!というカルト思考です。
友岡氏の本では池田氏=未曾有の師とは書かれていませんが、学会員は普通に池田氏を想像するでしょう。

池田氏を偉大な師匠、人生の師匠、と思うのは一学会員、一個人として良き思い出があるのでは?そんな気がします。
しかし思い出のない場合、”距離の遠い師匠”がどこまで師匠といえるのでしょうか?過去記事の通りです。

キリスト教も絶対神を説いてはいますが、歴史的に見ても人類の絶対的幸福ではありませんし宗教によって戦争も起きました。。。それでもマザーテレサの様な人物達が出ています。キリスト教的な良い師弟や良い教えが受け継がれたのでしょう(不二)

もうネットに書かれていますが、同時中継ではカットされている所で日蓮正宗僧侶を罵倒したり、秋谷氏を罵倒するのが池田氏です。末端の会員も日蓮正宗や退会者を罵倒しています。罵倒という事では末端の学会員は良く池田氏と師弟不二していると思います。

友岡氏自身が創価学会員に分かる言葉として「師弟不二」を使い、創価の池田氏崇拝、池田氏絶対なカルト思考を否定したのか、それとも池田氏を肯定する「師弟不二」なのかは私には分かりません。
しかし私が友岡氏の書籍を読んでいると過去記事やコメントに書いたとおり、現在の池田大作氏の言動はバラモン的、カルト的だと思います。

というわけで、友岡氏の書籍について「勝負あり!」や「師弟不二」についてちょっとだけ批判してみたりしました。トータルとしては肯定しているのが分かると思いますが、どうでしょうか?

以上。

'07.10.14 誤記訂正 赤文字
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214.ニーバーの祈り(言葉)

2007年10月04日 21時09分35秒 | 創価学会
ラインホールド・ニーバーという人の祈り(言葉)です。
--------------------------
神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
---------------------------

 ニーバーの祈り(言葉)は、カート・ヴォネガット・ジュニアの「スローターハウス5」(ハヤカワ文庫)に出ているそうです。

 相手にせよ、自分自身にせよ、変わっても良いし変わらなくても良い。。。どちらでも良い気がします。(^o^)
人間革命とか言って最終的に創価入信などの創価学会ストーリーありきで変化を求める事はおかしいですよね。

●「自分が変われば、相手も変わる」という視点

 「自分が変われば、相手も変わる」という創価思考の幸福があります。この視点は一方的すぎて、自分が幸福、勝利を得る事はもしかすると相手の敗北を生んでいるかもしれないのです。

 経文、題目、本尊も受け入れても受け入れなくても良いと思います。
元々、順序が逆であり、「経文、題目、本尊を受け入れないから地獄行き」なのではなく、人の苦しみや不幸という地獄を解決するための思想、哲学、経文(現代の書籍)だと思います。

つまり、地獄の中に宗教者が入っていって地獄にいる人を救う事かと。

経文、題目、本尊はその人を「ほんの少しだけ」救う事が出来る”かもしれない”アイテムの一つ、でしょう。

「おまえは謗法!」「おまえは地獄に行く!」という決めつけはカルト論やMC論の決めつけであり、”言葉だけで宗教者として人を救う 行動はない”ということでしょう。

Release Heart | ”自分が変われば、相手も変わる”は本当か? ここで紹介されていました。

コーチング|ニーバーの祈り
( 注意!: 07.10.05 00:53追記 このHPにもカウンセリング論がのっていますが、あくまでも検索をして見つけたリンクです。JSCPRや宗教カウンセリングや私と個人的な関係はありません。)

●どこまでが宗教?、どこからカルト?

>そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
>識別する知恵を与えたまえ。

私的に言うと、

どこまでが宗教であり、どこからカルトなのか識別する知恵を与えたまえ!

宗教であるものと宗教でないもの(カルト)とを識別する知恵を与えたまえ!

ということですね。

創価学会の信仰に功徳はあるか? 二極思考(すべては白か黒か)の否定 (MC論)

//////////////////////////////
○不軽菩薩
どんな人間にも仏性がある。下種をするんだ。というのが”建前の”学会の教えです。
本来の教えからすると、非難してくる人、暴力をふるう人ですら敬う精神が不軽菩薩なわけです。
(中略)

どんな人でも成仏の可能性を否定しないで敬うのは良いことです。
ここまではCMCではありません。

ところがいつの間にか、ネットの創価学会員を見れば分かるとおり、一般人、
アンチ創価(MC論からはこの言い方はダメなのですが。)退会者には学会員からの罵倒が見受けられます。

法華経の精神とは逆に敬わないわけです。
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創価学会の信仰に功徳はあるか? MCされる過程や順番 ”自分から嘘やCMCに飛び込む????”

●人

創価でも日蓮正宗でも日蓮宗でも、カルトで無い人とカルトな人は両方いるとおもいます。創価学会組織はカルトの色が濃いのは間違いないかと。

創価の人でも私に色々教えて下さったりした方々は、Neilさん、kousan、Libraさんなど今でも感謝しています。
まだ会っていないNeilさんやLibraさんなど一度もリアルであった事はありませんが会ってお礼が言いたいですね。

反対にアンチ創価であっても暴言ありき、話し合いが続かないなどの人がいたことも事実です。
私の知り合いの学会壮年部の人で発言などに常に問題を感じる人もいます。その人がいい人である、という事とカルト思考は別問題なのです。

もちろん池田大作氏には問題しか感じません。

'07.10.13 赤文字追記
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