創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

175.フルナさんの初期経典についての講義を希望します

2007年01月31日 07時19分55秒 | 創価学会
 Libra師匠と私、そううそ、で(Leoさん、みれいさんも来てね。(^^)/ )フルナさんから初期経典についての講義講義していただければありがたいです。

Libra師匠からも、

一日も早く無事に復帰される事を心よりお祈りいたします。

(主旨)とのことです。もちろん私も同じ気持ちです。んで。。。なんでこの事を記事にするかというと、メアドを知らないし、どなたかリアルで、もしお見舞いに行く人がいれば伝えて欲しいのです。

早く元気になって欲しいなぁ~。。(^o^)
コメント (10)
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174.ブログの方針変更や私の考え方。

2007年01月30日 20時49分07秒 | 創価学会
 まず最初にお詫びする事から始めなければなりません。ここのところ色々なブログを読んだり、多くの人と話して気が付いたのですが、自分にも間違いはありますね。

○ブログ記事を遡って修正。

nanaさん、tabukenさんのことです。
tabukenさんのspam攻撃以後にも私は時々、お二人の名前を挙げてきました。
これを一切止める事ですね。

お二人はもう読んでいないと思いますが、改めてspamHP削除以後もハンドル名をあげた事””「だけ」!””をお詫びします。まぁ、なんというか、、、今だから出来る修正、削除ですかね?

spamHPが消える前は絶対に反省してないはずですのでハンドル名は修正しない。
spamHPが消えた後は私の自分勝手な判断でハンドル名は修正する。頭文字かイニシャルかな?

というわけでしばらく、この修正と草稿記事修正などはのんびりとやります。。。。彼らは反省していないかもしれませんが、

”自分自身が創価学会と同じ事をしている事に気が付いたからです。”
”決着が付いて終わったのにいつまでも思い出して書いていた”

 まぁ、なんというか、、、、、それだけ印象が深かったのでしょうが。改めてこうした事を書くのはnanaさんtabukenさんの良い所がなかったか?ということです。

○公平に扱う(nanaさんtabukenさんの良い所がなかったか?)

1.nanaさんはコメントで2,3度でしたが折伏しました。
2.tabukenさんはいきなりメールを寄越すのではなく、仲介者を置きました。
3.Neilさんはたしか一番最初に私に「お題目をあげては?」と言って頂きました。そうしたお気持ちはやはり今でも私は忘れていません。(1.2.3.は私自身が過去記事やコメントに書いてきた通りです。)

 ゆっちさんにも過去に色々と応援コメントを頂いています。そうした事はやっぱり忘れていません。heck×ゆっちさんの事では今でもゆっちさんが正しいと思います。

 私が一番したい事は今でも創価学会員?なLibra師匠に学ぶ事と、ガンと闘っていらっしゃるフルナさんのお帰りを待つ事です。つまり宗教にもとらわれません。実際、キリスト教徒なメメさんのおかげでMCが一つ解けましたし。(笑)(^_^;A

 ですから、例えばにっしーさんとは信じる物は違いますが、メメさんのブログでコメント一つ一つにお返事を頂けました。('07.02.01追記) 一つ一つお返事を頂けた事は良かったと思います。(2度の議論のうち、道楽猫さんの仲裁で私がにっしーさんにお詫びした事もご記憶にある人もいると思います。)gizmoさんとは「やっちゃえ、やっちゃえ」という記事には今でも反対ですが、「私は君の意見には反対だが、君が意見をいう権利は死んでも守る。(ヴォルテール)」などいくつかのご意見にも賛成です。


ではここから一般論です。
○プライバシー

 私は過去記事において21番記事以外は極力、プライバシーは避ける様にしています。21番記事は事実ですが事実に乗じて罵倒や誹謗中傷しているのではなく、「不幸や残念な出来事ですがこういう事実がありますよ?」と公共性と大多数の人に向けて学会員でない日本の9割以上の人に呼びかけています。

 nanaさんの件でもプライバシーで削除要望があったので消しました。私がお詫びしてその時は和解しています。
ネット上に存在するtabukenさんの住所も第三者の人がコメントに書きましたが消しました。tabukenさんのお父さんの名前や顔まで知っていますが、別に罵倒する気もなければ罵倒もしていません。ご家族の事を攻撃しても私の人や性格が疑われるだけです。

 133番などで愛人云々と書いていますが例えであり自分で考えた例えです。私や私の知人の体験ではありません。

プライバシー攻撃をする事は創価学会のしている竹入攻撃と同じです。

○なりすまし

 今後もなりすましなどのネットのトラブルが在れば、やはり誰が成り澄ましをしたのかを探すと思います。
 加害者被害者どちらでもアンチ創価、一般、学会員には関係ないと思います。133番記事に既に書いた様に、被害者の成りすまされた不幸を考えれば、加害者を疑う事は卑怯でも誹謗中傷でもダブルスタンダードにもならないでしょう。
 創価はダブルスタンダードですが、ネットにおける創価学会界隈だけ、ネットマナーを特別扱いにする必要もないでしょう。普通に調べても問題ないと思います。
 つまり、ネットにしろリアルにしろアンチ創価、一般、学会員には関係なく、公平に扱っていきたいと思います。

私自身が成り澄ましをされたら「嫌ですから」。
今回、ほしのしずくさんのなりすましを探した事で、しずくさんやできたよさんには、今度、自分が困った時に助けて頂けるかもしれません。

○ネットトラブル

 また、私のブログでトラブルが続けば出来るだけ、一対一で話す様にした方が良いのかもしれません。コレはケースバイケースで判断したいと思います。
-----------------------
アンチ創価の人、今こそHELP!
>先のリンクではアンチ、創価にかかわらず、絶対にnanaさんへの中傷誹謗は書かないで下さい。出来ればコメントも避けて下さい。私とnanaの会話です。邪魔になります。
-----------------------
 ブログ開設当初からの私の姿勢ですが一対一で話す事も在れば、皆さんの意見を聞く場合もあるでしょう。heck問題の時にも人を限定したのは皆さんご存じの通りかと。

私が、アンチ創価ブログにおけるアンチ創価の多数派による単純な囲い込みだけを目的にネットしてない事はおわかり頂けると思います。

喧嘩する為にネットしていません。目的ではありません。
議論する途中経過に喧嘩やバトルはあるかもしれませんが。

○正統派

日蓮正宗と日蓮宗 どっち正統派?

日蓮正宗と創価学会 どっち正統派?(笑)

○日蓮の良い所、悪い所(いずれ記事にまとめます。)

 立正安国論にはじまって立正安国論に終わる、といわれています。今の段階の私の感想ではテーリーガーターに近い物として感じられます。
悪い所は、、、
 釈迦とだいぶ違う。(笑)無熱地さんやチョンガーさんのサイトにある様に鎌倉時代の哲学やテロっぽい所。

○なぜ、アンチ創価でありながら創価の良い所も書くのか?

というわけで、私はこうした一般人、創価、アンチ創価でも評価には公平でいたいし、良い所も悪い所も書いていきたいです。

なぜか?またMCに陥るからです。

-------------------------------
私のカルト体験
>もう一度、過去を書き出す
>ここでは、ハッサン氏が「カルト時代の体験を全部、書き出すこと…自分の体験を完全に見極める作業として、私はすべての元メンバーにこれをすすめる」と書いた奨励に従って、過去の経験を記そうと思っています。
-------------------------------

 創価学会員一人の体験談一つで創価の全てを信じる可能性があります。私も病気を抱えていますが、同じ病気の人で直った人がいたら、又MCされてしまうかもしれません。(^_^;A それだけまじない信仰には魅力があるのでしょう。
 自分の悩み事に目の前が対象がピン!と来るとMC影響を及ぼすものに近くなるということでしょうか?

 私にとってネットは問題解決や楽しむ所、などなどでしょう。。。きっと他にも意味があるかと思います。ネットショップとかも当たり前になりましたしね。。少なくとも私は喧嘩を売る為にネットはしていないです。ましてやこのそううそのブログでは創価学会関連ブログですから「何度も何度も何度も何度も何度も」書いている通り罵倒には飽きました。

友岡氏の書籍やLibra師匠から学んで一層その気持ちは強くなりました。

 ああ、そうそう、罵倒したいのであれば、良い所を知っています。創価学会というところがお勧めです。私14年間体験したので罵倒したいのであればお勧めですよ。(笑)

過去記事に書いてきた通り、敵を見つけては次々と攻撃しますから。
乙骨正生氏、日顕氏、コーヒーカップ裁判、竹入氏  etc、etc、、、、
日顕氏などにはトップとして悪い所もあるのかもしれませんが。。。。

創価学会は問題を新たに起こしても解決させるという事が少ない気がします。

上記の4つもいつまでたっても解決しませんね。>創価

あまり今までの方針と変わっていませんが、結論としてブログの方針変更は常に考えつつ、柔軟に対処したいと思います。

人からの受け売りの言葉なのですが、、、、、、、

私は出来るだけ大勢の人と仲良くやっていきたいと思います。
創価問題をお互いに新たに認識しあい注意し合っていく(=仲良く)です。

以上

'07.02.01追記
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-7.師匠達との対話。その6

2007年01月30日 20時45分35秒 | 創価学会
★そううその質問
【日蓮における一念三千の位置づけと「文底」】 (そううそ) 2007-01-17 22:56:48

────────────────────
寿量品に云く「然我実成仏已来無量無辺」等云云、大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり
(「三大秘法禀承事」、全集、p. 1023)
────────────────────

★質問1
「然我実成仏已来無量無辺、久遠若斯」は釈迦の言葉では無いと考えます。

この久遠を肯定する事は仏法=宇宙生命論を肯定しやすいです。宇宙は人間にはよく分からないけど遙か昔から続いていてこれからも永遠に続く。(非科学的です。)仏法、つまり釈迦の命、宗教概念も凡人(凡夫)にはよく分からないけど遙か昔から続いていて永遠に続く。

仏法≠宇宙生命論ですから久遠も否定されるべきでありこの箇所は受け入れにくい箇所ではないでしょうか?
「然我実成仏已来無量無辺」は法華経筆者の信仰心及び、「信じたい気持ち」なのではないでしょうか?

★質問2
縁起、無常、無我、空、一念三千これらが「同等の物」を指しているのは理解しますが、
言葉が違うのですから厳密には違うと考えます。日蓮には 縁起、無常、無我という知識や言葉はあったようですが、釈迦仏法が縁起、無常、無我を重視したのを理解していたのでしょうか?

また、先のコメントにも書きましたが、
1.釈迦の修行方法
2.天台の修行方法
3.日蓮の修行方法 

日蓮の場合は 三大秘法である本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目ですから修行の仕方はコレでしょう。
1と2は修行の仕方はどうなのでしょうか?

>────────────────────
>(「兄弟抄」、全集、p. 1087)
>────────────────────

これも上記の通り否定的に解釈されます。

>────────────────────
> 日蓮がこのように理解したのは、次の2つの命題を信じたから。
>  A.釈尊が五百塵点劫の当初に証得した法門は仏教における最深の法門である。
>  B.仏教における最深の法門は一念三千である。
> これら2つの命題は、(ア)釈尊を絶対視しつつ、(イ)現実の仏教史を発展史として捉える
>────────────────────


日蓮がこのように考えたのは私も同意します。

(ア)釈尊を絶対視するのであれば、釈迦と言動を重視すべきでしょう。言葉と行動と言う意味で。
(イ)現実の仏教史を発展史として捉えるのは、五時八教が崩れていますから無理でしょう。否定されるべきです。

>(ア)釈尊御領観
>────────────────────
>(「一谷入道御書」、全集、pp. 1327-1328)
>────────────────────

これを読めば、釈迦の弟子としての日蓮の立派な言葉だとは思いますが、

創価学会に悩むすべての人へ 釈迦を超えた、日蓮の仏教
http://blog.goo.ne.jp/kim_jung_nam/e/8d4458bf59655e77290ed27060fe4676
日蓮は色々間違えていますので、御本仏などではないし、釈迦を超えてはいないでしょう。

>(イ)発展史観
>──────────────
>内証は同じけれども法の流布は迦葉阿難よりも馬鳴竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ天台よりも伝教は超えさせ給いたり、世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり
>(「報恩抄」、全集、p. 328)
>──────────────

これも五時八教が崩れていますから無理でしょう。否定されるべきです。

>日蓮は、「もっともすぐれているのは釈尊である」という大前提の下に、インド・中国・日本の三国における現実の仏教史を発展史観でとらえたのでした。このような日蓮の視点に立って寿量品を読んでみますと、たしかに、「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」ということになるとおもいます。

>《五百塵点劫より已来ずーっとこの娑婆世界で説法しつづけている釈尊》というのは、日蓮にとっては、まさに『法華経』そのもの


日蓮がこのように考えたのは自然な事だと思います。間違っているとは思いますが。


★【唱題という行為は虚空会の儀式への参加を意味する】 (そううそ) 2007-01-17 22:57:26

>曼荼羅(御本尊)というのは、虚空会の儀式の表現です。
>──────────────────────
>(「新尼御前御返事」、全集、p. 905)
>(『仏教哲学大辞典 第三版』、創価学会、2000年、p. 457)
>──────────────────────
>1.で書いたようなことをきちんと理解しておかないと、「曼荼羅に向って題目を唱える」ということの意味(虚空会の儀式への参加)も正しく理解できないとおもいます。


 理屈はこの通りだと思いますが、つまり、日蓮自身に戸田城聖氏と同じ「仏法=宇宙生命」「仏=生命」体験があったということでしょうか?虚空会の儀式そのものが人間革命の中で戸田氏の「仏法=宇宙生命」「仏=生命」体験として書かれているのですが。。。。

>虚空会の儀式に実際に参加して、

 これは非現実的ですね。実際の現証が日蓮正宗と創価学会なのですから疑問としか言いようがありません。
やはりもうここまで来ると「信じる」「信じない」のお話になってしまうのでしょうか?

>釈尊に合掌し、五字につつまれている智慧(一念三千)を釈尊から授かる

 Libraさんも法華経や題目について、(妙法とは縁起のことであるという)如何に釈迦に近いか(蓮華など遠い部分もある)を説明されていますから、突然ここで唱題によって勉強もしていないのに智慧を授かるというのは矛盾してしまいます。

>──────────────────────
> 曼荼羅本尊というのは、宗祖が法華経の中に入り込んで体験された《虚空会の付嘱の儀式》を表現されたものだと私は思っています。
>(「創価学会をみんなで考えよう」での発言[ 3 ]、http://fallibilism.web.fc2.com/kangaeyou_03.html)
>──────────────────────


こうした所がLibraさんの信仰なのですね。こうしたところは「人として良い事」なので私も否定出来ません。
ここでも同じ質問になってしまいますが、日蓮自身に戸田城聖氏と同じ「仏法=宇宙生命」「仏=生命」体験があったということでしょうか?

>「妙法の二字に一念三千がおさまっている」という日蓮の主張の妥当性についても、少しくらいはお認め

少しどころか妙法という「言葉」が出来た理由は100%妥当だと思います。逆に蓮華はよく考えたら、華、つまり花の名前なので日本で言うなら、オーム真理教が言い出せば、

南無真理桜花経、南無真理桜花法、南無真理菊花経 経でも法でも菊でも桜でもなんでもいいですが、これが宇宙の真理だとか釈迦が言ったとかは思えません。別に

南無縁起桜花経、南無縁起桜花法、南無縁起菊花経 縁起でも無常でもなんでもいいでしょう。
よく考えたら、妙法や正法というのは曖昧な言葉なんですね。

真理でオーム真理教を思い出して嫌悪感があるならば、真法でもいいとおもいませんか?(^_^;A

>「妙法の二字には縁起説がおさまっている」といえる

言えると思います。同感です。今の創価や正宗には一欠片もありませんが。
法華経には縁起が説かれているのは肯定します。

 仏教であるならば、密教的な本尊や唱題に意味があるとは思えません。
法華経非仏説というのはやはり大きな壁というか、日蓮仏法を肯定出来ないですね。

釈迦がサダルマプンダリーカ(妙法蓮華)と””言って””重視したなら良いのですが。



【現在の創価学会の教学に対する批判】 (そううそ) 2007-01-17 22:58:55

>池田名誉会長は、勤行の意義を「大宇宙と自分の生命の交流の儀式」などと説明
>残念ながら、本日の回答1と2に書いたようなことは理解しておられない


 論外ですね。もっと具体的にわかりやすく説明出来ないと駄目だと思います。ネット上にも池田氏批判の中に宇宙生命論をあいまいに論じて逃げている、と書かれています。くだらないのでリンクしませんが。

>説明も日蓮本仏論に毒されており、正確な説明にはなっていません

 私は日蓮本仏論も否定的です。但し、日蓮も釈迦も仏だと思って良いと思います。条件付きですが。プンニカーおばさんが仏なら創価のおばさんでも日蓮宗でも他の宗派の人でも「仏」だと思います。友岡氏の書籍を読んでから特にそう思います。

 本仏かどうかは知りませんし証明出来ません。しかし少なくとも日蓮の様に間違える御本仏なんていないでしょう。
原点の師匠、ぐらいですかね?もう、それも危うくて釈迦が師匠でないと駄目だと思いますが。



【文底について】 (そううそ) 2007-01-17 22:59:42

>経典に向かうものは熟練した潜水者であることが必要(増谷文雄)
>http://fallibilism.web.fc2.com/084.html


誰でも成仏出来るという大乗仏教の否定ですね。
もう大乗仏教、と言う定義すら私は否定的です。大乗仏教が小乗仏教の否定しただけの単語でしょう。
この私の理解や考え方の上で文底=南無妙法蓮華経というのは否定的です。

ましてや仏教であるならば、密教的な本尊や唱題に意味があるとは思えません。



【釈迦もチギも日蓮も法が本尊】 (そううそ) 2007-01-17 23:01:13

>釈迦も、『法華経』の作者も、チギも、日蓮も、根本的には、法が本尊です。

仮に縁起の法が本尊だとしても、日蓮は三大秘法として新たに教義を作ってしまったのですから逸脱では?

>日蓮の場合、仏教における最深の法門である一念三千がつつまれている「題目」が本尊です。

ここについては
>最深の法門である一念三千がつつまれている「題目」

妙法=縁起とするのは良いと思いますが、

>仏教における最深の法門である一念三千がつつまれている「題目」が本尊

これは仏教ではないと思います。密教(における最深?)の法門である(一念三千がつつまれている?)「題目」が本尊と言う事でしょうか?


○『法華経』の作者の考え:「法師品」
────────────────────────────
(松濤誠廉・丹治昭義・桂紹隆訳『法華経Ⅱ』〔中公文庫〕、中央公論新社、2002年、p. 13)
────────────────────────────
○チギの『法華文句』
────────────────────────────
(『法華文句』、大正蔵第34巻、p. 143c)
────────────────────────────
○日蓮の『法華文句』解釈
────────────────────────────
(「宝軽法重事」、全集、p. 1475)
────────────────────────────


 たしかにそうですが、これも釈迦が”妙法蓮華”、特に蓮華に一切言及していないのですからおかしいでしょう。無自性、空ならば蓮華にこだわる事がおかしいです。経文自体に名前を付けては駄目とか、蓮華が尊くないとか尊いとかそういう事ではないでしょう。御書や創価の書籍で、「蓮華を~名付く。」「~を蓮華と名付く。」としていますが、くだらないとしか思えなくなってきました。

「釈尊のダンマの悟り」を得られるならば現代人に合う他の教典でも良いでしょう。

○日蓮の本尊観
────────────────────────────
 問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、〔中略〕其の故は法華経は釈尊の父母諸仏の眼目なり釈迦大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり

(「本尊問答抄」、全集、p. 366)
────────────────────────────


これは法華経仏説が前提なのではないでしょうか?

────────────────────────────
 答う普賢経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり三世の諸の如来を出生する種なり」等云云、〔中略〕、此等の経文仏は所生法華経は能生仏は身なり法華経は神なり
────────────────────────────


法華経を否定するわけではありませんが、この程度の文章であれば他の教典もいくらでも自画自賛していそうです。

>如来を出生する種なり
>此等の経文仏は所生法華経は能生仏は身なり法華経は神なり


法華経解釈として意見が分かれると思いますが、法華経は他の経文を否定していない、とする考え方もあるし、創価の法華経最第一、とする概念もあります。

フルナさんのおっしゃった、「法華経は神話的多仏信仰時代の仏教の救命ボートのようなもの」ガイドブック、入り口でもいいのではないでしょうか?

人の幸福感や人生を一つに定義出来ない(無常、空、無自性)のですから、法華経も現代では絶対視出来ないと思います。
法華経自体が釈迦の教えを含んでいる事やそのままの事が書かれている事は否定しません。
釈迦に原点回帰していると思います。

ですが、やはり経文を読んでいて、100%釈迦の教えではないでしょう。
矛盾を含まれている物の 題目を唱える事が尊いとは思えません。

釈迦を久遠仏としてしまう後付の概念もあるわけですから、それすら危険思想になる(場合もある)と思います。

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-6.師匠達との対話。その5

2007年01月29日 20時12分01秒 | 創価学会
★そううその質問

★日蓮が「密教は非仏説であり、なおかつ思想的にも全く正反対」と言う事を知らなかったと思いますがどうお考えでしょうか?

 日蓮の本尊を必要とする”宗教観”と釈迦の本尊は不要とも取れる?”宗教から限りなく遠い思想”と言う解釈を私がするので 「全く正反対。」 ということです。どこまでも自由なのが釈迦でどこまでも限定的、厳しいのか日蓮だと感じるのです。ここは友岡氏の書籍を読んだ私なりの解釈になります。P78~P95あたり。

--------------
"友岡氏の書籍では釈迦は 祭壇や本尊、「戒壇などの壇など」?を否定している?この2つは日蓮に自覚はあったのか?無かったのか?許容したのか?"
創価学会の信仰に功徳はあるか?法華経非仏説 覚え書きメモ
--------------

もちろん友岡氏は日蓮の本尊や題目を否定していません。あくまで私の感想としてなのですが、友岡氏の書籍を読み、またここ数日、法華経を読んでいるとどうしても

”どちらかというと本尊否定、題目否定”

と考えてしまいます。学会本部を見ても正宗を見てもどちらも ”自分自身の何かこだわる””何かの自利にこだわる”というのでしょうか? そもそも本尊に題目を唱える事自体が本尊への供養である。という学会精神?(経文にある?)と言う事をどこかで学んだ気がします。

★私はアビダルマを限定的に肯定します。

 例えば、癌になった病気の人がいて、その癌を無常、無我、無自性だからといって放っておいたらその病人は死んでしまいます。癌が常に変化していく事。癌が常に大きくなろうとする事を認める事は出来ないと思います。例えば医学的に癌を徹底的に遺伝子レベルまで調べ、物理的か投薬かはともかくとして、治療する、完治するという変化(無常、無我、無自性、空)を求めてアビダルマや自性をとらえて ”人の幸福に役に立つ” ということは無意味ではないと思います。

個人的に円融三諦に反していないと思っています。

★円融三諦(縁起=空)を一念三千として展開する意義について

>修行方法として有効だと考えたからです。

YesともNoとも言えないです。。。。。。
1.釈迦の示した修行
2.天台の修行方法
3.日蓮の修行方法

これらは同じ物でしょうか?違うと思います。2と3は思想は限りなく近いと思いますが。やはり天台+密教=日蓮かな?

★日蓮の読んだ経文の題名や種類は研究されているのでしょうか?サンスクリット、漢文のどれでしょうか?


回答(2007.01.11-01) (Libra)
2007-01-11 02:16:16
【文底について】
 文底については、昨日(←日付が変わってしまったので)の回答1をお読みください。しかし、その前に、一般論として以下の資料をまず読まれたほうがよいかもしれません。

  経典に向かうものは熟練した潜水者であることが必要(増谷文雄)
  http://fallibilism.web.fc2.com/084.html

【日蓮と密教】
 日蓮の時代には、天台宗はすでに密教化していました。日蓮はその密教化した天台宗から出発しています。したがって、日蓮には密教からの影響が確実にあります(ないほうがおかしいでしょう)。しかし、密教は、日蓮の中心思想として取り込まれているわけではありません。せいぜい形式面における影響だとおもいます。

 わたしは、日蓮の中心思想を支持しますが、日蓮の思想のすべてを支持するわけではありません(以下のところで表明したとおりです)。

  法華経について
  http://freett.com/leo020503/bbslog3_002.html

 密教にかぎらず、日蓮の主張のうち、現代においてはもう通用しないような部分は、弟子の責任として、きちんと修正していく必要があるとおもいます。日蓮じしんが「師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間仏法の道理によるべきなり」(「曾谷殿御返事」、全集、pp. 1055-1056)といっています。

────────────────────
 もちろん、日蓮の思想のなかには、いまでも立派に通用するすばらしい部分があるとわたしは考えています。現在においてもきちんと通用することに依拠つつ、「今一度、日蓮思想の多様性の中から主体的に現代思想として重要な視点を再選択する作業」[*8]こそが、日蓮の弟子として現代に生きるわれわれに与えられている最も大きな課題であるとわたしは考えます。

(日蓮考察、http://freett.com/leo020503/bbslog3_004.html
────────────────────

 あと、日蓮が読んだのは、ほとんど漢文の仏典だとおもいます。

【アビダルマについて】
 アビダルマにもいろんな内容のものがあるのでしょう(わたしは読んでいないのでよく知りません)。もちろん、円融三諦に反さない部分は肯定してもよいとおもいます。ちなみに、龍樹が批判している有部の考えについては、スマナサーラ長老も同じく批判的なようです。

──────────────────────────────
(47) パーり語仏典の法無我について(2002.10月)http://www.j-theravada.net/qa/qahp47.html

説一切有部ー
この方々が考えている「三世実有」論はPali聖典に全くも異質なものです。私さえもさっぱりその意味は解りません。Pali Abhidhammaでも諸々の法の本質、実質は何ですかと説明しますが、それは一つの法を別の法から区別して理解するための努力です。
しかし、全ての法は瞬間で消えて行くという立場ですので、三世実有思考とは関係がありません。(自性と言う言葉がAbhidhammaでは必ずも使います。乳にそれなりの特色があってチーズには乳にはない自分だけ持っている特色があります。それが「自性」ということです。ですから、自性は区別認識の働きです。それは三世実有だと言われると乳はチーズになれないのでは?と思ってしまいます。)
説一切有部との同じ点は「自性」(svabhava)と言う単語を使うとことです。異なる点はその自性は瞬間だけのことだと言うところです。
Pali仏教では三世実有論は邪険だ、正見ではありませんと詳しく論じてあります。
Abhidhammaの中にあるKathavatthuppakaranaと言うテキストの第五章-Sabbamatthikathaをお読みになってください。
──────────────────────────────



回答(2007.01.11-02) (Libra)
2007-01-11 02:17:38
【人の幸福とは】
 たとえば、物質的に満たされたときに感じる幸福とか、健康であることや健康になることに対して感じる幸福などもたしかに幸福といえるでしょう。しかし、実際には、これらは宗教でどうにかできるものではありません。諸天善神は物語の中に出てくる架空の存在であって、リアルに実在するわけではないのですから。また、初期経典にも、「ブッダが『超人的な力で病を治した』などとは書かれていない」のですから(以下の資料を参照)。

  『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
  http://fallibilism.web.fc2.com/016.html
 
 しかし、これらとは全く別種の幸福というものがあります。たとえば、「人類の運命や世界のなりゆきについて」、自分が「せめて石ころの一つでも貢献した」と思えるような時に人が感じる幸福です。

──────────────────────────────
 死んでから結ぶ果などというものは、どうでもよいではないかという者もあるかもしれないが、それはあまりに見解のせまい、まったく現実的で、利己主義な考え方だとしなければなるまい。そんな考え方では、結局、真に生きるに値するような人生は送れるはずがないのである。けだしわたしどもには、みんな子供もあるし、隣人もあるし、同胞というものもある。わがなきあとには、そんなものはどうなってもよいという訳のものではあるまい。
 さらに、眼をあげていえば、わたしどもは、いかに微力であろうとも、なおかつ人類とか世界とかの運命と、まったく無関係ではないかもしれない。わたしは与謝野晶子さんの歌一首を感銘ふかく記憶しているのであるが、それはこうである。
  劫初より造りいとなむ殿堂に
  われも黄金の釘ひとつうつ
 人類がはじまってからこのかた、ずっと続けて造りいとなんできた殿堂とは、晶子さんの意味するところでは、たぶん、文学というものであろうかと思われる。その殿堂のすぐれた造営
のために、わたしもまた黄金の釘ひとつでも貢献したいという。それが晶子さんの願いというものであり、また意気ごみであったにちがいあるまい。
 そんな能力はわたしにはないけれども、なおかつ、わたしだって、人類の運命や世界のなりゆきについて、まったく無関心ではありえない。それをもまた「劫初より造りいとなむ殿堂」ということをうるならば、たとえ「黄金の釘」ではなくとも、せめて石ころの一つでも貢献したいものと思う。それが、この歌一首によせる私の感慨なのであり、この心あって人ははじめて、真に生きるに値する人生を見出だすことをうるであろうと思うのである。
 とするならば、わがなきのちに結ぶであろう果こそ、もっとも心しなければなるまいと思えてならない。

(増谷文雄『業と宿業──新しい自己の発見のために』〔講談社現代新書244〕、講談社、1971年、pp. 74-75)
──────────────────────────────

 仏教を信仰することによって得られる幸福というのは、このような種類の幸福だろうとおもいます。物質的に満たされることとか、健康であること(健康になること)などを求めるのであれば、むしろ、宗教活動なんてやめておいたほうがよいとおもいます。牧口初代会長の以下のようなお考えも参考になるでしょう。

  英雄は四面楚歌の苦境に堅忍奮闘して漸く勝利を得る(牧口常三郎)
  http://fallibilism.web.fc2.com/026.html

 また、日蓮も、「心の財をつませ給うべし」と言っています。

──────────────────────────────
蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし

(「崇峻天皇御書」、全集、p. 1173)
──────────────────────────────

【『法華経』にノンフィクション的な記述を求めるのはそもそも無理】
 『法華経』のようなファンタスティックなドラマの中に、『テーリーガーター』のようなノンフィクション系のものに見られる「具体的な体験談」の記述を求めるのはそもそも無理があります(断言します)。「具体的な体験談の記述がないものには価値がない」とお考えの方には、『法華経』は向かないでしょう(断言します)。そのような方には、ノンフィクション系のものをおすすめいたします(断言します)。

【日蓮の発展史観の行き過ぎ】
 日蓮が「三諦偈は法華開会の三諦を説いていない」と言っているのは、発展史観(昨日の回答1を参照)の行き過ぎだとおもいます。「龍樹の『中論』よりも、チギの『摩訶止観』のほうがすぐれている」という認識が、あのような表現になったのではないでしょうか。



回答(2007.01.11-03) (Libra)
2007-01-11 02:19:38
【釈迦もチギも日蓮も法が本尊(1/2)】

 日蓮の本尊(曼荼羅)について正しく理解すれば、これはお分かりになるでしょう。まず、昨日の回答2をお読みください。その後に、以下をお読み下さい。釈迦→『法華経』の作者→チギ→日蓮の順に発言等を引用しておきます。釈迦も、『法華経』の作者も、チギも、日蓮も、根本的には、法が本尊です。日蓮の場合、仏教における最深の法門である一念三千がつつまれている「題目」が本尊です。

○釈迦の考え:『サンユッタ・ニカーヤ』第一集、第六篇、第一章、第二節
────────────────────────────
二 そのとき尊師は、ひとり隠れて、静かに瞑想に耽っておられたが、心のうちにこのような考えが起こった。──「他人を尊敬することなく、長上に柔順でなく暮らすことは、やり切れないことである。わたしは、いかなる〈道の人〉またはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活したらよいのだろうか?」と。

三 そのとき尊師は次のように思った、──「まだ完全に実践していない戒めの体系を完全に実践するために、わたしは他の〈道の人〉あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活したいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、〈道の人〉やバラモンや神々や人間を含めての生きもののうちで、わたしよりも以上に戒めを達成し実践している人なるものを見ない。──わたしは、その人をこそ尊び敬いたよって生活したいのであるが。

(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、pp.87-88)
────────────────────────────

────────────────────────────
七 まだ完全に体得していない〈われは解脱したと確かめる自覚(智慧と直観)〉の体系を完全に体得するために、わたしは他の〈道の人〉あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活したいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、〈道の人〉やバラモンや神々や人間を含めての生きもののうちで、わたしよりも以上に〈われは解脱したと確かめる自覚〉を達成している人なるものを見ない。──わたしは、その人をこそ尊び敬いたよって生活したいのであるが。

八 むしろ、わたしは、わたしがさとったこの理法を尊び、敬い、たよって暮らしたらどうだろう。」

九 そのとき世界の主・梵天は、尊師が心の中で考えておられることを知って、譬えば力のある男が、屈した腕を伸ばし、あるいは伸ばした腕を屈するように、梵天界のうちから姿を隠し、尊師の前に現われ出た。

一〇 さて世界の主・梵天は、一方の肩に上衣をかけて、尊師に向って合掌し、尊師に向って次のように言った、──

一一 「尊いお方さま! そのとおりでございます。そのとおりでございます。過去にさとりを開き、敬わるべき人々であった尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよっておられました。未来にさとりを開き、敬わるべき人々である尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよられることでしょう。また現在さとりを開き、敬わるべき人(単数)である尊師も、真理を尊び、重んじ、たよるようにしてくださいませ。」

(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、pp.88-89)
────────────────────────────

○上記の第八に対する中村先生の訳注
────────────────────────────
これは仏教の立場を示す非常に重要な文句である。〔中略〕この箇所ではダルマはブッダよりも上位に位置する最高原理と見なされている〔中略〕。仏教は本来ダルマに準拠する教えであり、ブッダを崇拝することは付随的に遅れて成立したという基本的性格がここにはっきりと示されている。

(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、pp.339-340)
────────────────────────────




回答(2007.01.11-04) (Libra)
2007-01-11 02:20:24
【釈迦もチギも日蓮も法が本尊(2/2)】

○『法華経』の作者の考え:菅野先生の解説
────────────────────────────
 このように、釈尊の根本の悟りについて、原始経典には、ダンマを悟り、ダンマを尊敬することを明らかにしています。ダンマに正しいという意味の形容語を付けたものがサッダンマであり、正法と漢訳されます。
 『法華経』のサンスクリット語のタイトルはサッダルマプンダリーカ・スートラ〔中略〕といい、竺法護訳では「正法華経」、鳩摩羅什訳では「妙法蓮華経」といいます。釈尊の悟りの原点であるサッダンマをそのまま経典のタイトルに用いていることに気がつきます。名は体を表わすといいますが、タイトルはたいへん重要なものです。『法華経』という経典が釈尊のダンマの悟りを何よりも重視していることがわかります。

(菅野博史『法華経の出現─蘇る仏教の根本思想─』、大蔵出版、1997年、p. 18)
────────────────────────────

○『法華経』の作者の考え:「法師品」
────────────────────────────
また、だれかがこの最高の菩提を求めて、満一劫ものあいだ私に合掌し、幾コーティ・ナユタもの多数の詩頌をもって面前で(私を)賛美するとしよう。〔一二〕
彼は私を賛美して喜びを生じ、そこで実に多くの福徳を得るであろう。他方、だれかが、かの(この経典の受持)者たちを讃えて説くとしよう。その人は、前者よりもいっそう多くの福徳を得るであろう。〔十三〕

(松濤誠廉・丹治昭義・桂紹隆訳『法華経Ⅱ』〔中公文庫〕、中央公論新社、2002年、p. 13)
────────────────────────────

○チギの『法華文句』
────────────────────────────
法是聖師能生能養能成能栄莫過於法。故人軽法重也。

〔法は是れ聖の師。能生・能養・能成・能栄、法に過ぎたるは莫し。故に人は軽く法は重きなり。〕

(『法華文句』、大正蔵第34巻、p. 143c)
────────────────────────────

○日蓮の『法華文句』解釈
────────────────────────────
天台云く「人は軽く法は重きなり」〔中略〕、人軽しと申すは仏を人と申す法重しと申すは法華経なり

(「宝軽法重事」、全集、p. 1475)
────────────────────────────

○日蓮の本尊観
────────────────────────────
 問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、〔中略〕其の故は法華経は釈尊の父母諸仏の眼目なり釈迦大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり、問う其証拠如何、答う普賢経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり三世の諸の如来を出生する種なり」等云云、〔中略〕、此等の経文仏は所生法華経は能生仏は身なり法華経は神なり

(「本尊問答抄」、全集、p. 366)
────────────────────────────

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-5.師匠達との対話。その4

2007年01月29日 20時11分01秒 | 創価学会
読者サービス (Libra)
2007-01-07 20:21:01
 顕正居士さんの解説(今でも教科書にはそのように書いてあるのでしょうから「通説」といってもよいでしょう)のうち、わたしが賛成できない点を2つあげます。もっとも、わたしは、顕正居士さんと議論するつもりなんて全くありません(そんな力、わたしにはありませんから)。以下は、読者のみなさまへのサービスとして書きます。

1.三論宗は「正規の中観系」ではないとおもいます
 松本史朗先生や伊藤隆寿先生の議論に賛成します。わたしには、三論宗が「正規の中観系」だとはどうしてもおもえません(たしかに彼らの自己解釈はそうだったのでしょうが)。もっとも、松本先生はチギまで含めて「正規の中観系」ではないとお考えのようですが、チギは「正規の中観系」だとおもいます(そううそさんに対する回答の中ですでに説明したとおり)。

───────────────
結論より言えば、インド中観派の「空の思想」は、厳密な意味では、中国には正確に移入されなかったのである。換言すれば、中国系の仏教には、「空の思想」の正確な理解は存在しなかったということである。
 ナーガールジュナの『根本中頌』は、確かに青目の註釈を伴った形で、羅什によって、五世紀初頭に、『中論』として漢訳され、この『中論』と『百論』『十二門論』の思想を研究する人々が三論宗という有力な学派を形成し、彼等がいわば、中国における中観思想、「空の思想」の継承者となったのである。しかるに、彼等三論宗の人々の「空」の理解は、根本的な誤解を含んでおり、そのために、インド中観派の「空の思想」は、中国には正確に伝わらなかったのである。
 〔中略〕驚くべきことに、インド中観派の「空の思想」の継承者たるべき三論宗の大成者とされる吉蔵(五四九-六二三)でさえも、如来蔵思想を積極的に容認し、〔中略〕「有の思想」を説いたのである。

(松本史朗『チベット仏教哲学』、大蔵出版、1997年、p. 412)
───────────────

  中国仏教の底流─万物一体の思想(伊藤隆寿)
  http://fallibilism.web.fc2.com/081.html

2.正規の中観にも主張はあります
 「正規の中観は〔中略〕積極的な立論というものはない」という発言にも違和感を感じました。たしかに『廻諍論』の第29詩節にはそんな感じのことが書いてありますが、この部分は、「正当化可能なものとしての主張などはわたしにはない」というように理解するしかないとおもいます。なぜなら、「ものが他によって存在することが空性の意味である、とわれわれはいうのである。他による存在に実体はない。」(『廻諍論』第22詩節、梶山雄一『空入門』、春秋社、1992年、pp. 138-139)というように、龍樹は明確に《主張》しているからです。龍樹に主張があることはあまりにも明らかです。たしかに、龍樹は、主張を積極的に正当化(自立論証)できるとはおもっていなかったとおもいますが、龍樹に主張がなかったというのは事実として誤りだとおもいます。

 龍樹に主張があったということはあまりにも明らかなので、それをあたりまえの前提として、「主張を積極的に正当化(自立論証)できるとはおもっていなかった」という意味で、顕正居士さんが「正規の中観は〔中略〕積極的な立論というものはない」といわれたのでしたらその通りだとおもいます。





2.煩悩即菩提と初期仏教の思想的距離 (そううそ)
2007-01-08 22:45:08
Libraさんのコメント
---------------------------
2.煩悩即菩提と初期仏教の思想的距離

 煩悩即菩提というのは、《煩悩を乗り越えていく絶えざるそのプロセスがまさに菩提である》ということでしょう。煩悩を離れて菩提というものが別にあるわけではないと。

 さて初期仏教ではどうでしょうか。三枝先生はシャカの「ニルヴァーナのプロセス」を「たえざる否定と二重否定とのうちに、どこまでも上昇し、あるいは深化する」「立体的な螺旋」と説明されています(以下を参照)。
  生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
  http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

 友岡さんの「常に自らを相対化し、自らの立場を突破しつづける」というのも同じことではないでしょうか。
  『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
  http://fallibilism.web.fc2.com/016.html

 こう考えると、煩悩即菩提と初期仏教は思想的には遠くないとおもいます。遠いですか?
---------------------------

★そううその質問
---------------------------
>煩悩即菩提というのは、《煩悩を乗り越えていく絶えざるそのプロセスがまさに菩提である》ということでしょう。煩悩を離れて菩提というものが別にあるわけではないと。

 よく考えると”創価学会の教える”煩悩即菩提はまじないに近いと思います。自身の努力も必要でしょうがどうしても祈るという願うという行為に没頭しがちです。実際に私がそうでしたし。単純に”創価学会の教える”煩悩即菩提を”強調する”ということは煩悩があっても良い、ということであり、まじないになりやすいと思います。もちろん、創価学会でもまじないだけではなく、「常に自らを相対化し、自らの立場を突破しつづける」という解釈も指導もあります。両方あると思います。

ある人を煩悩即菩提=煩悩を乗り越えていく絶えざるそのプロセス にする為には、となる為には、ということを””祈りではない””テーリーガーターの様な具体的、体験談が必要ではないでしょうか?

あくまでも議論する為に、祈る事と仏法教義解釈を切り離して(宗教行為として祈る事自体は否定しません)Libraさんが「2」の回答を書いていると思うのですが、

A.法華経”執筆者”は菩薩行としての具体的な利他の行動を重視する。
B.法華経”執筆者”は御本尊に祈る行動を重視する。

ABどちらか一方でしょうか?両方でしょうか?
どのように理解し、捉えていらっしゃいますか?

釈迦時代にはテーリーガーターの様な具体的、体験談が存在しますが、
法華経”執筆”時代にテーリーガーターの様な具体的、体験談が存在するのでしょうか?(経文内の比喩しかない?)

>生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
>『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
>遠いですか?

上記に書いた通り、法華経”執筆者”が、祈りだけ、つまりまじないだけ、という意図ならば、遠くなると思います。
テーリーガーターのような具体的行動であれば煩悩即菩提と初期仏教の思想的距離は近いと思います。

法華経”執筆者”だけでなく、Libraさんご自身は「創価」と「三枝氏友岡氏」どちらよりの事として書かれているのでしょうか?「3.成仏かまじないか」の記述からしてやはり後者ですか?それとも両方なのでしょうか?


回答(2007.01.09-01) (Libra)
2007-01-09 01:20:57
1.『法華経』は菩薩行を重視します
 『法華経』は別名「教菩薩法」ですから菩薩行を重視します。ですから、A.です。しかし、信者獲得のために、「お題目を唱えるだけでも祈りは叶う」的なことも書いてあります。このことを以下のように表現しました。

───────────────
 「お題目を唱えるだけでも祈りは叶う」的なことは、たしかに法華経の「陀羅尼品」に書いてあるわけですが、それは法華経のメインテーマではないとおもいます。「陀羅尼品」は別にあってもなくてもいい章だとおもいます。

(「法華経非仏説 覚え書きメモ」、創価学会の信仰に功徳はあるか? 法華経非仏説 覚え書きメモ
───────────────

2.法華経には作者たちの体験および誓願が演劇的に表現されているとおもいます。

3.わたし自身は「お題目を唱えるだけで祈りが叶う」なんて、全くありえないと思っています。このことを以下のように表現しました。

───────────────
 「お題目を唱えるだけでも祈りは叶う」なんて、ありえないでしょう。法華経の内容も無視して、意味も無視して、それをただくりかえし唱える(発音する)だけで何かが起こるなんてこと、ありえません。冷静に考えたらわかります。

  題目は呪文ではない
  http://fallibilism.web.fc2.com/z024.html

 お題目を唱えることによって苦しみが滅びるということがもしあるとすれば、それは、お題目に凝縮されている縁起の思想の力のなせるわざでしょう。

(同上)
───────────────


★そううその質問
★一念三千は日蓮宗であればどの宗派も肯定するでしょうが、文底は日蓮宗全体なのでしょうか?

回答(2007.01.10-01) (Libra)
2007-01-10 19:21:38
【日蓮における一念三千の位置づけと「文底」】

 日蓮の主観においては、「一念三千の法門はチギによって発明されたものではなくて、釈尊が五百塵点劫の当初に証得したものである」ということになっています。「チギは一念三千の法門を妙法蓮華経の五字の中から取り出した」というのが日蓮の理解です。

────────────────────
寿量品に云く「然我実成仏已来無量無辺」等云云、大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり、今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり

(「三大秘法禀承事」、全集、p. 1023)
────────────────────

────────────────────
 されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事一代聖教の肝心ぞかし、仏法漢土に渡つて五百余年南北の十師智は日月に斉く徳は四海に響きしかどもいまだ一代聖教の浅深勝劣前後次第には迷惑してこそ候いしが、智者大師再び仏教をあきらめさせ給うのみならず、妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり

(「兄弟抄」、全集、p. 1087)
────────────────────

 日蓮がこのように理解したのは、次の2つの命題を信じたからでしょう。

  A.釈尊が五百塵点劫の当初に証得した法門は仏教における最深の法門である。
  B.仏教における最深の法門は一念三千である。

 これら2つの命題は、(ア)釈尊を絶対視しつつ、(イ)現実の仏教史を発展史として捉える、以下の日蓮の考えに対応するとおもいます。

(ア)釈尊御領観
────────────────────
娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり、大地虚空山海草木一分も他仏の有ならず、又一切衆生は釈尊の御子なり、〔中略〕又此の国の一切衆生のためには教主釈尊は明師にておはするぞかし〔中略〕此の国の人人は一人もなく教主釈尊の御弟子御民ぞかし、〔中略〕国主父母明師たる釈迦仏を捨て乳母の如くなる法華経をば口にも誦し奉らず是れ豈不孝の者にあらずや

(「一谷入道御書」、全集、pp. 1327-1328)
────────────────────

(イ)発展史観
──────────────
内証は同じけれども法の流布は迦葉阿難よりも馬鳴竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ天台よりも伝教は超えさせ給いたり、世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり、例せば軽病は凡薬重病には仙薬弱人には強きかたうど有りて扶くるこれなり。

(「報恩抄」、全集、p. 328)
──────────────

 日蓮は、「もっともすぐれているのは釈尊である」という大前提の下に、インド・中国・日本の三国における現実の仏教史を発展史観でとらえたのでした。このような日蓮の視点に立って寿量品を読んでみますと、たしかに、「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」ということになるとおもいます。

─────────────────────────────────
一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり

(「開目抄上」、全集、p. 189)
─────────────────────────────────

 ちなみに、《五百塵点劫より已来ずーっとこの娑婆世界で説法しつづけている釈尊》というのは、日蓮にとっては、まさに『法華経』そのものなのでした(以下の資料を参照)。

  日蓮は『法華経』=釈迦仏と主張(末木文美士)
  http://fallibilism.web.fc2.com/120.html




回答(2007.01.10-02) (Libra)
2007-01-10 19:22:35
【唱題という行為は虚空会の儀式への参加を意味する】

 曼荼羅(御本尊)というのは、虚空会の儀式の表現です。

──────────────────────
今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給いて世に出現せさせ給いても四十余年其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品属累に事極りて候いしが

(「新尼御前御返事」、全集、p. 905)
──────────────────────

──────────────────────
こくうえ【虚空会】 法華経説法の会座の一つ。法華経説法の場所(処)と会座を二処三会といい、二処とは霊鷲山と虚空、三会とは前霊鷲山会・虚空会・後霊鷲山会をいう。すなわち法華経見宝塔品第十一から嘱累品第二十二までの十二品は虚空会、前後の十六品は霊鷲山会、合して三度の会座となる。

(『仏教哲学大辞典 第三版』、創価学会、2000年、p. 457)
──────────────────────

 1.で書いたようなことをきちんと理解しておかないと、「曼荼羅に向って題目を唱える」ということの意味(虚空会の儀式への参加)も正しく理解できないとおもいます。

 曼荼羅に向って唱題するということは、虚空会の儀式に実際に参加して、釈尊に合掌し、五字につつまれている智慧(一念三千)を釈尊から授かるということなのです。

──────────────────────
 曼荼羅本尊というのは、宗祖が法華経の中に入り込んで体験された《虚空会の付嘱の儀式》を表現されたものだと私は思っています。私が曼荼羅本尊に向かって唱題するのは、宗祖とご一緒に《虚空会の儀式》に参加して〔中略〕、釈尊から五字(ご承知のとおり、五字というのは法華経のエッセンスを表わしたもので、そこには釈尊の因行果徳の二法が具足しているとされます)を授かるためです。
  
(「創価学会をみんなで考えよう」での発言[ 3 ]、http://fallibilism.web.fc2.com/kangaeyou_03.html
──────────────────────

──────────────────────
一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う

(「観心本尊抄」、全集、p. 254)
──────────────────────

──────────────────────
法華経の肝心たる方便寿量の一念三千久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり

(「唱法華題目抄」、全集、p. 13)
──────────────────────

 そううそさんは、一念三千説が縁起説の発展形態であるということをすでにご理解なさいました。だとすれば、「妙法の二字に一念三千がおさまっている」という日蓮の主張の妥当性についても、少しくらいはお認めになられるのではないでしょうか。なぜなら、「妙法の二字には縁起説がおさまっている」といえるのですから(以下の資料を参照)。

  『法華経』と釈尊の思想
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html





回答(2007.01.10-03) (Libra)
2007-01-10 19:24:00
【現在の創価学会の教学に対する批判】

 池田名誉会長は、勤行の意義を「大宇宙と自分の生命の交流の儀式」などと説明されていますので、残念ながら、本日の回答1と2に書いたようなことは理解しておられないのだろうと思います。

  勤行─大宇宙と自身の生命交流の儀式(「やさしい教学」『聖教新聞』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/063.html

 ちなみに、曼荼羅が虚空会の儀式の表現であることは『大白蓮華』でも説明されていましたが、残念ながら、その説明も日蓮本仏論に毒されており、正確な説明にはなっていませんでした(以下を参照)。

  本尊観について
  http://freett.com/leo020503/note006.html


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-4.師匠達との対話。その3

2007年01月29日 20時08分01秒 | 創価学会
★空(=無自性)と縁起は同じなのでしょうか?
★密教と”空(=無自性)、縁起”は同じなのでしょうか?


回答(2007.01.06-03) (Libra)
2007-01-06 16:28:15
 「一念三千 及び 空 文底」についてはすでに回答しましたので、残りは、わたしが解読できなかった質問(2.)と「密教論」ですね。あるいは、2.はすでに終了?

 「密教論」については、今回、先回りしてコメントしておきたいとおもいますが、その前に、「空=縁起」について補足しておきましょう。

Ⅰ.空(=無自性)と縁起は同じ
 「空(=無自性)と縁起は同じである」ということは、先に示した「自性」についての3つの資料を読みさえすればお分かりになると思います。これらの資料が分かりにくいのであれば、以下の、佐倉さんの説明を読まれることをお勧めします(二章の前半部分だけでもよいでしょう)。

  空の思想(一章 自性論)
  http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html

  空の思想(二章 縁起論)
  http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku02.html

Ⅱ.「密教論」について(先回りコメント)
 「もし一切が空であり、本性をもたず縁起しているならば、何ものか一者から一切が生ずるということ」などはありえません。しかし、密教では「一切万物の展開する根源である」ところの「絶対者」を妄想します(そして、それと自己との合一を妄想します)。この時点ですでに仏教(縁起説)ではなくなっています。「空を言説の及びえない、神秘的なもの、特殊な行法によって直接体験されるのみの深遠なる真理、と見なすことはむしろ我々には易しい」のですね。「その時、もはや言葉は及ばないのであるから「空」が何を意味していたのかは捨象されてしまう。それは空と呼ばれなくともよい。或いはそれが一切法の根源ともなれば、「空」と呼ぶことはむしろ躊躇され」ましょう(以下の資料を参照)。ようするに、無内容をありがたがるような、そんな宗教になってしまうわけです。

  タントラ仏教はブラフマニズム的宗教(吉水千鶴子)
  http://fallibilism.web.fc2.com/022.html

 「龍樹の空性というのはそのようなことではないのです。私たちの存在、生滅変化している存在は、なにひとつ自性をもって生じたり、滅したりしているものではないということが空性ということであって、生じもしない滅しもしないような、なにかわけのわからない真実在があり、その基盤のうえに生滅変化する私たちの存在があるというようなことではないのです。」(以下の資料を参照)。

 「不生不滅の法性」─「空」についての大きな誤解(小川一乗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/052.html

 無内容な「根源」を妄想し、それと自己との合一を妄想してしまうというのは宗教の典型的なパターンの一つともいえます。日本の新宗教もすべてこのパターンです(以下の資料を参照)。

  新宗教における生命主義的救済観(対馬路人 他)
  http://fallibilism.web.fc2.com/041.html

 しかし、「根源的生命」などは妄想であり、作り話でしょう(以下の資料を参照)。少なくとも、仏教(縁起説)とは両立しません。矛盾します。

  密教の即身成仏は作り話(小川一乗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/061.html

 だから、仏教(縁起説)は、「根源的生命」などを説かなかったのです(以下の資料を参照)。

  原始仏教における生命観(高橋審也)
  http://fallibilism.web.fc2.com/059.html


★縁起と空で言葉が違います。なぜ言い換えたのでしょうか?
★縁起を空で言い換えた意義は?
★チギにとっての「諸法の真実の様相(実相)」とはなんでしょうか?

回答(2007.01.06-04) (Libra)
2007-01-06 18:27:41
1.縁起を空と言い換える必要性
 龍樹が縁起を空(無自性)と言い換えて、それを強調したのは、当時の一般的な仏教理解の誤りを的確に指摘して、批判するためだったとおもいます。

──────────────
アビダルマ論師たちによれば、存在を構成している諸々のダルマには必ず自性があり、〔中略〕自性は、原因もなく無条件的にダルマに存在し、未来・現在・過去を通して存在する恒常的かつ不変的な何かです。ここには、まさに、ナーガールジュナが批判する自性の恒常性、不変性、不滅性、自立自存性などの性質が明らかに認められます。

(佐倉 哲「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第一章 自性論」、http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html
──────────────

  「自性・無自性について」「2005年12月25日 01:32」
  http://freett.com/leo020503/bloglog3_001.html

2.円融三諦(縁起=空)を一念三千として展開する意義
 天台大師チギが円融三諦を一念三千として展開したのは、その方が具体的なイメージをつかみやすいので修行方法として有効だと考えたからです。自分の一瞬の心を例にとって観るわけですから、これ以上の具体論はないでしょう。
 一念三千説の付随的な効果としましては、より「深い宗教的な反省につなが」りやすいということがあるとおもいます。

──────────────
 十界のなかで人界は中間的な存在です。地獄界と仏界の中間にあるからです。その人界のなかに、他の九界が存在しているということは、他の九界の存在を架空の神話的な存在と見るのではなく、自己自身の心のあり方として見るということです。
 心はめまぐるしく変転しますが、自分の心のあり様はいったい十界のどの界に位置するのかを考えることは、深い宗教的な反省につながり、さらに最も尊い仏界を自己の心に実現する道に直結しているのではないでしょうか。

(菅野博史『法華経の出現─蘇る仏教の根本思想─』、大蔵出版、1997年、p. 221)
──────────────

3.チギにとっての「諸法の真実の様相(実相)」とは
 「諸法実相を把握することこそが成仏することである」というのがチギの考えです。諸法実相を把握するための実践修行が「止観」であり、その「正行」を解説する中で一念三千説は説かれています。

──────────────
諸法をどのように見るかということによって、衆生の十法界のあり方が規定されるという考え方は、実は後に述べるように、諸法の真実ありのままの様相、すなわち諸法実相を観察、把握することが仏道の究極の目的であるとする『法華経』の思想に強く動機づけられた智■〔豈+頁〕の思想の大きな特色である。智■〔豈+頁〕はこの諸法実相を究め尽くすことがとりもなおさず成仏することであると考え、本来言語表現を越える諸法実相をさまざまな仕方で表現しようと努力している。上に述べた中道もその一つであり、また、空、仮、中道の三者が一体となって円融しているとする三諦円融もそのような表現の一つである。そして、これから考察する一念三千説もこの諸法実相の内実を表現したものなのである。

(菅野博史『一念三千とは何か』〔レグルス文庫 204〕、第三文明社、1992年、p. 38)
──────────────

 チギにとって、諸法実相とは円融三諦です。この円融三諦は、内容的には縁起と等しいのです。このことは、以下の記事の中ですでに述べたとおりです。

  『法華経』と釈尊の思想
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html



★法華経の読み方、その他。


回答(2007.01.06-05) (Libra)
2007-01-06 18:29:17
1.『法華経』は単純に楽しめばよいと思います
 『法華経』は演劇だと思って、まずは単純に楽しまれたらよいと思います。たとえば、『マトリックス』とかのSF映画をみるみたいに。すると、出てくる仏教用語とかにも自然と興味が出てきます。勉強は後からついてくるでしょう(私の体験談)。
 しかし、そもそも、みたくない映画を無理にみることはありません。ドキュメンタリー映画(初期経典)が好きな人はそっちをみればよいとおもいます。また、いったん『法華経』をみはじめたとしても、おもしろくなければ途中で退席すればよいとおもいます。実際、『法華経』では、本題に入る前に、いきなり五千人が退席します。その退席を釈尊は無言で許した後、彼らが去ったことは良かったことであると言います。

2.わたしはできるだけ断言し批判していきたい
 そううそさんにとっては、「断言しない」ということは褒め言葉のようですね。しかし、わたしにとってはそうではありません。ここでいう「断言する」とは、すなわち、自らの主張を「主張命題として明確に表明」するということです(以下の資料を参照)。

  真実ならざることは真実ならざることとして否定しなければならない(袴谷憲昭)
  http://fallibilism.web.fc2.com/011.html

 もちろん、自らの主張が誤りであると分かれば、それを気づかせて下さった方に感謝しつつ、主張を改めます。その時、わたしは、真理に一歩近づいたことになります。

 また、「批判しない」ということも、わたしにとっては褒め言葉ではありません(もちろん、「批判」と「誹謗」は全く異なります)。

   日蓮と批判精神2
  生かして生かされて生きる 日蓮と批判精神2

──────────────
  どんな理論であれ、その理論がたしかに真であるということを確実に根拠づける(正当化する)ことなどは不可能だとわたしはおもいます。しかし、それでも、知識の探求には意義があるとおもいます。わたしたちは、だれひとりとして真理を所有することなどできませんが、自分たちが誤っている可能性が常にあるということを深く自覚しつつ、みんなで協力して、おたがいに理論を厳しく批判しあっていくことによって、無限に真理へ接近していくことができると信じるからです。

(「真理について」、
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-2.html仏教と批判的合理主義 真理について
──────────────

 スマナサーラ長老がおっしゃるように、「仲良く楽しく批判しあうことによって、どちらも成長する」ことができるのではないでしょうか。

──────────────
世界は親分と子分で構成しているものではありませんので、人々は自由に自分が観察したものを公表するのです。
その意見に反対であるならば、具体的に異論を立てる自由が人にはあります。
「オレが嫌だ」というだけでは、もの足らないと思います。
キリスト教を批判しているのは、こちらだけではありません。イスラムの人も、何をいわんやキリスト教信者の人も批判するのです。
しかし、教会が腹を立てたという話は聞いたことがないのです。仲良く楽しく批判しあうことによって、どちらも成長するのではないかと思います。

http://www.j-theravada.net/qa/qahp62.html
──────────────



★そううその質問

>ちなみに、日蓮は、龍樹も一念三千の法門を知っていたといっています。

とのことですが、これは日蓮の宗教的な想像や賛嘆、思いこみ(宗教的な結果オーライなど)なのではないでしょうか?龍樹は一念三千ではなく、「空」の法門を知っていたのでは?
★一念三千と言う理解ではなく、(一念に三千あると言う議論はしたと思いますが)ではなく「空」の法門という言葉と理解なのではないでしょうか?一念三千という見方を龍樹はしたのでしょうか?


回答(2007.01.06-06) (Libra)
2007-01-06 19:51:06
1.龍樹の空の思想はチギの一念三千を含意する
 龍樹の空の思想は、理論としては、チギの一念三千を含意します。すでに説明しましたように、空と一念三千は、一般論と具体論の関係にあるからです。

 たとえば、「人間は必ず死ぬ」(一般論)は「ソクラテスは必ず死ぬ」(具体論)を含意します。「人間は必ず死ぬ」ということを知っている人は、「ソクラテスは必ず死ぬ」ということを知っていることになります。

 そういう意味では、龍樹は一念三千を知っていたといえるでしょう。龍樹は一念も空であることを知っていたわけですから。

2.日蓮の一念三千説に対する評価
 具体論として、一念を観察の対象とする修行方法をあみ出したのはたしかにチギの功績です。日蓮はこの功績を高く評価しており、龍樹とチギは「内証は同じ」だけど、説明はチギの方が優れていると理解しています。

──────────────
内証は同じけれども法の流布は迦葉阿難よりも馬鳴竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ天台よりも伝教は超えさせ給いたり、世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり、例せば軽病は凡薬重病には仙薬弱人には強きかたうど有りて扶くるこれなり。

(「報恩抄」、全集、p. 328)
──────────────

 学問は進化していくものですから、そういう意味では、日蓮の理解は一般論としては妥当だといえるでしょう。しかし、日蓮には行き過ぎた表現がみられます。たとえば、日蓮は、『中論』の三諦偈は「法華開会の三諦」を説いていないと言っています。

──────────────
竜樹菩薩の流天竺に七十家あり七十人ともに大論師なり、彼の七十家の人人は皆中論を本とす中論四巻二十七品の肝心は因縁所生法の四句の偈なり、此の四句の偈は華厳般若等の四教三諦の法門なりいまだ法華開会の三諦をば宣べ給はず。
 疑つて云く汝がごとくに料簡せる人ありや、答えて云く天台云く「中論を以て相比すること莫れ」又云く「天親竜樹内鑒冷然して外は時の宜きに適う」等云云

(「撰時抄」、全集、pp. 267-268)
──────────────

 『法華玄義』の「莫以中論相比」(大正蔵第33巻、p. 713c)という個所をこのような文脈で引用することが妥当といえるのか非常に疑問ですが、百歩譲って、そのことはなんとかこじつけることができたとしても、日蓮の主張はやはり行き過ぎでしょう。というのも、チギじしんが、一心三観(法華開会の三諦)は『中論』の三諦偈に説かれているとはっきり言っているからです。しかも、チギがそのことを明言しているのは、日蓮じしんが「一代聖教の肝心」と評価した『摩訶止観』においてであり、しかも、その中でも最も重要な第七正観章においてです。以下にその個所を菅野先生の現代語訳とともに引用しておきます。日蓮が『摩訶止観』を高く評価している部分もあわせて引用しておきましょう。

●『摩訶止観』の原文
──────────────
若一法一切法。即是因縁所生法。是為仮名仮観也。若一切法即一法。我説即是空空観也。若非一非一切者。即是中道観。一空一切空無仮中而不空。総空観也。一仮一切仮無空中而不仮。総仮観也。一中一切中無空仮而不中。総中観也。即中論所説不可思議一心三観。

(『摩訶止観』、大正蔵第46巻、p. 55b)
──────────────

●菅野先生の訓読
──────────────
一法一切法なるが若きは、即ち是れ「因縁所生の法、是れ仮名と為す」にして仮観なり。一切法即ち一法なるが若きは、「我れ即ち是れ空なりと説く」にして、空観なり。非一非一切の若きは、即ち是れ中道観なり。一空一切空にして、仮、中として空ならざる無きは、総空観なり。一仮一切仮にして、空、中として仮ならざる無きは、総仮観なり。一中一切中にして、空、仮として中ならざる無きは、総中観なり。即ち中論に説く所の不可思議の一心三観なり。

(菅野博史『一念三千とは何か』〔レグルス文庫 204〕、第三文明社、1992年、p. 266)
────────────────

●菅野先生の現代語訳
────────────────
一法が一切法であるというのはとりもなおさず「因縁によって生じた法は仮名である」であり、仮観である。一切法はとりもなおさず一法であるというのは、「私はとりもなおさず空と説く」であり、空観である。一でもなく一切でもないというのは、とりもなおさず中道観である。一空は一切空であり、仮の中に空でないものは無いのは、総空観である。一仮は一切仮であり、空の中に仮でないものは無いのは、総仮観である。一中は一切中であり、空仮の中に中でないものはないのは、総中観である。(これらは)とりもなおさず『中論』に説く思議を越えた一心三観である。

(菅野博史『一念三千とは何か』〔レグルス文庫 204〕、第三文明社、1992年、p. 191)
────────────────

●日蓮の『摩訶止観』に対する評価
────────────────
されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事一代聖教の肝心ぞかし

(「兄弟抄」、全集、p. 1087)
────────────────




★そううその質問 2007-01-06 20:48:53

>龍樹は一念三千を知っていたといえる
>龍樹は一念も空であることを知っていたわけですから。

---------------------
Philosophy of Emptiness 1 (Self-Existance)
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html

条件として生起しているから、思惟の対象も自性が空であり、一方、思惟もまた自性が空である。(同上61注解)
---------------------

★もう「空」そのものに疑問はありませんが、補足として教えて下さい。Libraさんのご意見は上記の文章が近い内容ですが、一念と思惟の違いだけなのですが、どうでしょうか?さらに近い文章か、あるいは、「龍樹は一念も空であることを知っていた」文章をLibraさんはご存じでしょうか?


回答(2007.01.06-07) (Libra)
2007-01-06 21:44:54
 佐倉さんが引用されているように、龍樹は「ものはすべて自性が空である」と言っています。空でないなにものもありません。ものはすべて空(無自性)ですから、当然、「思惟」だろうと、「一念」だろうと、すべて空(無自性)です。このことを龍樹は知っていたでしょう。

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173.ブログの方針変更に悩む

2007年01月27日 02時41分19秒 | 創価学会
 Libra師匠の記事を整理整頓中で止まってますが、今HTMLがわからずに(^_^;A<blockquote><P>ってなんだ?って状態です。優しい人教えて下さい。(笑)色を付けるとかどうやるんでしょうか?まずは整理整頓して色づけはあとにするかな?gooは出来るのかな?

●議論の仕方

 最近、メールで私の”ブログに怪しい雰囲気や危険も感じる。”と注意して頂きました。たぶん、最近のではなくずっと「過去の騒動」だと思いますが。んもー、それならそうと早く、やんわりとやさーしく、やさーしく、(*´3`)チューってな感じで女子高生(笑)の様に可愛く注意してくれれば良かったのに。んもー。どんな風に可愛い?人なんだろう?(笑)

 たしかにLibra師匠との対話で罵倒なんか一切ありません。私も以前から本物の議論はこういう事だと認識があります。
http://fallibilism.web.fc2.com/z021.html
 お互いの意見や見解、資料をあげ、合意、あるいは見解の違い(高いレベルの平行線)に至っています。全く脱帽です。

 議論の仕方とはこうありたい物です。きちんと項目分けされていて一つ一つが収束し(難しい仏法議論ですから)結論が出て、解決とは言わないまでも問題収束、結論に至っています。Libra 師匠対話がまとまると顕正居士さんのいらっしゃる場所で文底、密教、(三論宗)。。。。もう、密教だけで良いか。。。を勉強するかな?

Libra師匠の講義以降、わめさんのところの瓦解さんとわめさんの議論などが理解できるようになったり師匠のHPが理解できるようになりましたね。

私の考えとしては疑問、不明、分からない事は質問するしかありません。
私は質問しか出来ないアホアホですから、せめて”丁寧に質問したい”です。
私も分からなければ、直接、Libra 師匠に聞くか、顕正居士さんにお伺いします。当たり前ですけど。

●過去の騒動

 過去にコピーペースト、引用削除でさんざん学会員と問題になりましたが、それはやはり自分に非があるから消して欲しいのでしょう。内容が罵倒な訳ですから。

 Libra師匠やLeoさん、フルナさん、みれいさんあたりとは真剣に仏法教義を語っていますからなんの問題にもなりません。 いわゆる”そんなことはどうでもいいから”です。 ”わからなければ良く読んで下さい 私の意見を何度も読んで下さい” ”むしろ私の意見を残しておいて下さい”な訳です。佐倉哲さんのHPにもリンクや引用なんて好きにしてくれ、許可なんて時間の無駄だ!って感じです。当然かと。

 「仏法議論」であれば残しておく事に意味があります。では個人の意見の場合はどうでしょうか?記事やコメントはケースバイケースでしょう。最近ですと、はったり特急でみみちゃんさんから長文のコメントの引用許可を頂きましたが、当然、こうしたコメントは今後も許可を頂きます。
 学会員とトラブルになったので最近はきちんと許可を頂く様にしています。忘れている事や後から問題になる場合があるかもしれませんが、その時は注意して頂くか、メール頂ければ幸いです。

●仏法議論、創価教学

 如何に私の創価(日蓮正宗)教学が歴史的裏付けのない仏法教学か?と言う事です。私と師匠のは議論ではなく、一方的に私が教わっているだけです。ある意味において学会教学、日蓮正宗の教学の敗北な訳です。宇宙生命論を日蓮正宗が肯定しているかは知りませんが、戸田氏池田氏と続いているので、少なくとも許可していたのでしょう。「創価と教義は違う!戸田氏、池田氏が勝手にやっているんだ!」というならば、お金が欲しいばかりに許可していたのに違いありません。こんな宗派に興味が持てるはずがありません。

 私も過去記事に書いた通り大石寺に登山した事のある人間ですから、正宗の人が私をサポートして下さっても良かったはずです。ところが誰も「私は正宗ですが教学的にほとんど等しい創価と正宗です。過去には一緒に登山して隣の席にいたかもしれません。教えて差し上げますよ」とは言いませんでしたね。今更、正宗系HPに一方的に読みに来い、とか言われても行くわけ無いじゃん!


「分からない所は何処ですか?」という感じでLibra師匠は来てくれました。まさに友岡氏の書籍にある様に「ブッダは歩む、ブッダは語る」のようにブッダが来てくれたのです。

日蓮正宗は「いいからこっち来い!」です。


 一応、コメントでは丁寧にこちらを読んで頂けませんか?とありますが、”全く空気読めてない”ですね。過去記事の通りです。呼ばれて気軽にいけるHPではありませんでした。

 必ず創価は邪宗!あいかわらず「他が間違っているから我々は正しい!」と言う切り口です。罵倒が大嫌いの私に。です。確かに日蓮正宗が正しい事実もあるのでしょうけれど、言い方という物があるでしょう。ホバーの可謬主義などの師匠と全く本質が逆です。批判だけしていればOKという物ではなく、肯定と批判が必要なのです。犀角独歩さんのHPを知っている私が行くわけないじゃん。。。。。

 知らなかったとは言え友人や親に嘘(の教学)を言って、しかも、「絶対!」「正義!」「勝利!」とか言っていたわけですから、自分の人生、信用を創価に滅茶苦茶にされて今更、積極的に入信したくて話が聞けるはずがありません。心の整理整頓ですよ。。。。。

●ブログの方針変更

 ”怪しい雰囲気や危険”、つまり荒れる雰囲気を防ぐ為、メールの通り、もっと私のブログルールを厳しくするべきなのかもしれません。。。。

 先日もルールを厳しくしようと考えて、サザゴンさんに厳しくコメントしてしまいました。。。。。。ですが、今後も厳しくするかは、まだ迷っています。1-21を書いた頃と違って、いとも簡単に罵倒する日蓮正宗、創価学会員に言い負ける様な不安感はもう一切ありません。もうほとんど興味ないし。スルーでもいい気がします。そうした罵倒などを、日蓮正宗、創価学会が書けば書くほど、一般の人に嫌われるでしょう。

 学会員が一般の人になりすまして書けば、明らかに矛盾し異常なわけです。とっとと入信しない方が変です。こういうのは今後放置しようかな?●過去の騒動の際にも「一般の人」の皆さんの忌憚無い意見は創価学会員にとって手厳しい物だったので有効でした。ほとんどマナーの話ばかりでしたけど。。。。

 やっぱりケースバイケースかな?あまり一般の人、アンチ創価の言いたい事や意見を禁止するのは得策で無い気がします。マナーがあれば良しという、、、、当たり前のレベルかな?

 私自身が常にマナーとはどういうことか?を注意するしかないか。。。。

'07.01.30
少なくともこれからは
1.罵倒する人間であれば、ROMはともかくとして擁護、援護は不要。
2.普通の人から普通にコメントを頂く。アンチ、一般、創価などの立場は問わない。

以上
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-3.師匠達との対話。その2

2007年01月25日 22時38分34秒 | 創価学会
★「天台・日蓮が中観派に近い。」というのがわかりません。
★空は煩悩即菩提から遠いのではないでしょうか?
★空と(祈れば願いは必ず叶う)まじない、日蓮や法華経はそれぞれどちらを強調していたのだろうか?

回答(その1) (Libra)
2006-12-14 02:14:41
1.チギと日蓮はともに中観派
 龍樹の説を支持し、『中論』をよりどころとする学派を「中観派」
といいます。

 チギ(天台大師)は「龍樹師に稽首〔帰命〕したてまつる」とい
っていますから、当然、龍樹の説を支持しています(以下を参照)。

  http://fallibilism.web.fc2.com/122.html#2
 
 チギは、他の宗派を批判するときに、「龍樹に違う」という言い
かたをしています。ということは、自分は「龍樹に違」わないとい
う認識なのでしょう。実際、内容の面でも、チギは「縁生はすなわ
ち主なし」というように、龍樹と同じことをいっています。「主な
し」というのは「自性を有していない」ということです(以下を参
照)。

  一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
  http://fallibilism.web.fc2.com/122.html

 いちおう、「自性」の説明もあげておきます(いちばん上が最も
簡単な説明で、一番下は専門的な説明)。

  「自性」「性」「本性」(『岩波仏教辞典』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/088.html

  「自性」の否定─『根本中論偈』の「自性の考察」(小川一乗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/086.html

  『中論』における「自性」の二つの語義(松本史朗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/087.html

 チギは、『中論』をよりどころとして、円融三諦説を説いていま
す(以下を参照)。

  http://fallibilism.web.fc2.com/123.html#2

 以上から、チギは中観派といってよいとおもいます。

 日蓮はチギの説を支持していますから中観派でしょう。

2.煩悩即菩提と初期仏教の思想的距離
 煩悩即菩提というのは、《煩悩を乗り越えていく絶えざるそのプ
ロセスがまさに菩提である》ということでしょう。煩悩を離れて菩
提というものが別にあるわけではないと。

 さて初期仏教ではどうでしょうか。三枝先生はシャカの「ニルヴ
ァーナのプロセス」を「たえざる否定と二重否定とのうちに、どこ
までも上昇し、あるいは深化する」「立体的な螺旋」と説明されて
います(以下を参照)。

  生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
  http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

 友岡さんの「常に自らを相対化し、自らの立場を突破しつづける」
というのも同じことではないでしょうか。

  『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
  http://fallibilism.web.fc2.com/016.html

 こう考えると、煩悩即菩提と初期仏教は思想的には遠くないとお
もいます。遠いですか?

3.成仏かまじないか
 同じことをもう一度書きます。『法華経』においては、「如来の
唯一の仕事」は《如来の知見を衆生たちに得させること》です(寿
量品の最後の言葉も思い出してみて下さい)。《超人的な力で衆生
の欲望を満たすこと》は如来の仕事ではありません。で、「如来の
知見」の中身は「縁起=空=無我」です。

  一大事因縁(『法華経』)
  http://fallibilism.web.fc2.com/130.html

  『法華経』における縁起と空
  http://fallibilism.web.fc2.com/129.html

 「お題目を唱えるだけでも祈りは叶う」的なことは、たしかに法
華経の「陀羅尼品」に書いてありますが、それは法華経のメインテ
ーマではないでしょう。それと、「陀羅尼品」というのは、「法華
経を受持する人は菩薩とかが守ってくれますよ」というお話なので、
宇宙生命との交流がどうとかいうお話とは全く関係がありません。

 日蓮の場合には、「じぶんは法華経をこれだけ受持してるのに、
なんで守られないのか」と悩みに悩んだ末、「天もすて給え諸難に
もあえ」と言い放っております。守ってもらいたいがために法華経
を受持してるわけじゃないんですね。

  ────────────────────────────
  詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん

  (「開目抄下」、全集、p. 232)
  ────────────────────────────

 「日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり」
(「四条金吾殿御返事」、全集、p. 1169)という発言もあります。



★一念三千と空は同じ物でしょうか?一念三千が具体的説明だったので日蓮は素晴らしいと思った?釈迦は「空」に気が付いていたのだろうか?


回答(その2) (Libra)
2006-12-14 02:15:55
4.一念三千と空は同じ
 一念三千というのは、一念を例にとって、空(無自性)を説明し
たものでしょう。ちなみに、『摩訶止觀』の別のところには、「一
念即空即仮即中」(『摩訶止觀』巻第一下、大正蔵第46巻、p. 8c)
とあります。

  ────────────────────────────
   この一念三千説は、本来、諸法の真実の様相とは何かという
  問題意識の下で、諸法と言ってもあまりに広大、漠然としてい
  るので、諸法の中から自己自身の一瞬の心に的を絞って、その
  真実の様相を三千世間として明らかにしたものである。

  (菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、
    大蔵出版、1993年、p. 87)
  ────────────────────────────

 一念には固有の本性のようなものはありません(無自性)。縁に
よって変化します。縁によっては仏にもなれます。ようするにそう
いうことです。わたしたちにも仏になるチャンスがありますよとい
うのが一念三千説の希望的な側面です。

 「わたしたちにも仏になるチャンスがありますよ」というだけで
は「理の一念三千」だと日蓮はいいます。どうしたら現実に仏にな
れるのかというところまで明かさないと「事の一念三千」ではない
ということでしょう。法華経に南無することによって仏になれるん
だから、「南無妙法蓮華経」が「事の一念三千」なんだというのが
日蓮の考えだとおもいます。

 ちなみに、日蓮は、龍樹も一念三千の法門を知っていたといって
います。

  ────────────────────────────
  一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、
  竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者の
  みこれをいだけり

  (「開目抄上」、全集、p. 189)
  ────────────────────────────


★宇宙生命論は釈迦仏法として問題や矛盾はないのか?


回答(その3) (Libra)
2006-12-14 02:17:05
5.仏教と宇宙生命論は矛盾する
 仏教と宇宙生命論は矛盾するというのがわたしの考えです。「万
人に共通する生命の基盤」とか、そういうことを言わないのが仏教
の特徴だとおもいます。たとえば、以下を参照。
  
  原始仏教における生命観(高橋審也)
  http://fallibilism.web.fc2.com/059.html

6.日蓮と大日如来
 「大日天王」と「大日如来」は分けてかんがえたほうがよいでし
ょう。で、結局のところ、日蓮は、大日如来を重視していません。

 大日如来にもいろんなのがいるけど、その親分は法華経の多宝如
来だと日蓮はいっています。で、その親分の多宝如来でさえも、寿
量品の教主釈尊の子分にすぎないといっています。

  ────────────────────────────
  大日如来〔中略〕は我等が本師教主釈尊の所従等なり。〔中略〕
  大日経・金剛頂経の両界の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左
  右の左右の脇士也。例せば世の王の両臣の如し。此の多宝仏も、
  寿量品の教主釈尊の所従也。

  (「法華取要抄」、全集、p. 333)
  ────────────────────────────

  ────────────────────────────
  月氏には教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を・あつめさせ給て
  大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉
  りて教主釈尊は北の上座につかせ給う、此の大日如来は大日経
  の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり、両部の
  大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ
  給う此れ即ち法華経の行者なり天竺かくのごとし

  (「報恩抄」、全集、p. 310)
  ────────────────────────────

 寿量品の教主釈尊は、菩薩の修行をしてある時点で仏になってい
ます。これは経文からはっきりしています。だから教主釈尊は宇宙
生命とかではありません。宇宙生命が菩薩の修行をして、ある時点
で仏になったりとか、そんなのありえないでしょう。

  ────────────────────────────
  釈尊が菩薩の修行をして成仏したと説かれているように、『法
  華経』成立の歴史的段階では、後に形成された法身仏のように
  理法そのものを仏と見立てた仏の観念(この法身仏は無始無終、
  すなわち、過去も未来も永遠とされる)はまだ成立しておらず、
  そのような意味では、仏は必ず菩薩の修行をして、ある特定の
  時間点において成仏した存在と考えるべきであるから、釈尊の
  寿命も無限ではなく、単に長大な時を表現しただけなのかもし
  れない。

  (菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、
    大蔵出版、1993年、p. 224)
  ────────────────────────────

 そういうわけで、此土に有縁深厚である仏がおられるのは「五百
塵点の当初より以来」だというのが日蓮の認識です。

  ────────────────────────────
  寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁
  深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり

  (「三大秘法禀承事」、全集、p. 1022)
  ────────────────────────────

 「本有無作」という用語にひっかかる人は、以下のところでした
説明を参考にしてみてください(「2006年08月05日(土) 07:55」で
検索をかければ見つかります)。

  これから元気でBLOGの記録
  http://freett.com/leo020503/nblog.html

 ちなみに、『法華経の智慧』には、以下のような記述があります。

  ────────────────────────────
  名誉会長: さあ、そこで「寿量品」です。寿量品の「発迹顕
   本」にこそ、「人間・釈尊に帰れ!」という法華経のメッセ
   ージが込められているのです。ここでは、このことを少し考
   えてみよう。

  (池田大作他『法華経の智慧』第四巻、聖教新聞社、1998年、
   p. 50)
  ────────────────────────────

  ────────────────────────────
  斉藤: 大聖人は、常に「釈尊に帰れ!」と叫ばれました。大
   日如来を崇める真言宗に対しても、「大日如来は、どのよう
   な人を父母として、どのような国に出現して大日経をお説き
   になったのか」(御書一三五五㌻、趣意)と破折されていま
   す。

  (同上、pp. 68-69)
  ────────────────────────────

 とりあえず、以上がわたしからの回答です。いちおう全部の質問
に回答したつもりですが、抜けている部分がありましたらご指摘く
ださい。



★日蓮は、日蓮の曼陀羅に大日天王(大日如来?)がある事から諸天善神として取り入れて肯定している。釈迦や法華経を書いた人はどういう見解なのだろうか?


大日如来と大日天は別の存在 (Libra)
2006-12-16 13:13:35
 「本尊は天王で御書は如来」というのは誤りです。両者は別の存
在です。

 実際、日蓮は、曼荼羅において、「大日如来」と「大日天」を書
き分けています。以下を参照。

  平賀本土寺蔵の大曼荼羅
  http://www.lbis.jp/gohonzon/018.htm

 「大日如来は教主釈尊の子分」というのが日蓮の理解。教主釈尊
は修行して仏になっていますから、宇宙生命とかではありません。
このことはすでに書きました。



こちらも次回のコメントは遅れるとおもいます (Libra)
2006-12-17 11:38:04
 こちらこそ、スローペースでお願いします。

 日蓮の真蹟曼荼羅のうち、「大日如来」と書かれているものは2
幅くらいしかなかったとおもいます。つまり、「大日如来」という
文字がない曼荼羅のほうが圧倒的に多いということになります。

 日蓮は、法華経の多宝如来を「両部の大日如来を郎従等と定めた
る多宝仏」といっており、そこでは、多宝仏のことを「此の大日如
来は…」といっています。曼荼羅でも、大日如来の親分として多宝
如来を書いているのだとおもいます。

  ────────────────────────────
  月氏には教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を・あつめさせ給て
  大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉
  りて教主釈尊は北の上座につかせ給う、此の大日如来は大日経
  の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり、両部の
  大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ
  給う此れ即ち法華経の行者なり天竺かくのごとし

  (「報恩抄」、全集、p. 310)
  ────────────────────────────

回答(2007.01.06-01) (Libra)
2007-01-06 09:35:59
 そううそさん、おはようございます。

 2.については、そううそさんの質問の文章を読解できず、質問の内容を把握できませんでした。もう一度、質問しなおして頂ければさいわいです。

 法華経の「陀羅尼品」は原始仏教からは遠いと思います。

 残された問題は、2.と「一念三千 及び 空 文底」ということでよろしいでしょうか。


★空と一念三千が言葉が異なるのに同じ事なのでしょうか?
★空と一念三千の関係が分かりません。
★法華経の文底とは?


回答(2007.01.06-02) (Libra)
2007-01-06 09:58:14
1.同じ事を異なる言葉で表現するということはありえる
 ある一つの事を言葉で表現しようとする場合であっても、それをなしうる言葉が常に一通りしかないということはないとおもいます。たとえば、「x-1=0」と「x=1」は表現は異なっていますが、別のことを表現しているわけではないとおもいます。ですから、「言葉が違う」からといって、その言葉が表現しようとしている事態(内容)に「違いがある」ということには必ずしもならないでしょう。

2.空と一念三千の関係
 一般論と具体論の関係です。「一切は空である」というのが一般論としての「空」。「一切」といっても漠然としているので「修行者の一瞬の心」に的をしぼって観るのが一念三千。

────────────────────
 この一念三千説は、本来、諸法の真実の様相とは何かという問題意識の下で、諸法と言ってもあまりに広大、漠然としているので、諸法の中から自己自身の一瞬の心に的を絞って、その真実の様相を三千世間として明らかにしたものである。

(菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、大蔵出版、1993年、p. 87)
────────────────────

────────────────────
一念三千説とは、我々の一瞬の心に三千世間〔中略〕として示される、生命体の取りうるあらゆる可能性、たとえば地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏となる可能性を備えるという思想である。

(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、岩波書店、2001年、p. 106)
────────────────────

3.文底について
 「文の底にしづめたり」というのは、要するに、ドラマ的な表現の底に流れているテーマとして読み取れるということでしょう。作者のねらいといってもよいでしょう。

 たとえば、「諸教の統一・諸仏の統一」も『法華経』の「文の底にしづめ」られているとおもいます(以下の資料を参照)。

  『法華経』のねらい──諸教の統一・諸仏の統一(菅野博史)
  http://fallibilism.web.fc2.com/131.html

4.「ほとんど断言をされないLibraさん」?
 これはわたしの自己解釈と異なります。そううそさんの誤解ではないでしょうか。

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-2.師匠達との対話。その1

2007年01月25日 22時08分58秒 | 創価学会
そううその質問文が最も分かり難いので整理整頓しました。Leoさん、みれいさん、Libraさん、コメント有り難うございます。
★が私、そううその文章です。
-------------------------------

そううそさん、こんばんは。 (Leo)
2006-12-13 03:08:24
Libraさんの前座でちょこっと出てみます。

★「天台・日蓮が中観派に近い。」というのがわかりません。

>「又仏になる道は華厳の唯心法界・三論の八不・法相の唯識・真言の五輪観等も実には叶うべしともみへず、但天台の一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ」(開目抄P234ページ)

(大乗仏教の八宗の祖といわれる)龍樹は『中論』を著し中観派の祖でもあります。
天台の仮・空・中の三諦は龍樹の『中論』の以下の部分から来てます。

「どのようなものであれ縁起なるものは、われわれはそれを空性と呼ぶ。それは仮説であり、また中道である。」
(中論)

天台の一念三千は三千法界の一切の現象を凡夫の一心に空・仮・中の三諦円融の観法をもって観心することだそうです。

釈尊(縁起)→龍樹(中観)→天台(一念三千)→伝教大師(日本天台)→日蓮(妙法)

のように思想が継承・発展されているのではないでしょうか。


★釈迦は「空」に気が付いていたのだろうか?もし気が付いていたとするならば、あまり役に立たない事を知っていたのでは?

初期仏教の経典で「空」が出てくるところはこのようなところです。
(空を観ずるのは自我に固執する見解をうち破るためです...)

「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。
 そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は見ることがない。」
(スッタニパータ)


★こうした事を考えると経文は経文なので、学ぶべき所があるし、いくらでも新しい言葉や概念を言えるので、学問や信仰の拠り所にするのは構わないが、絶対視するのはもう疑問だ。法華経のみを最高視出来ない。

私は(も)法華経経文から学ぶことはあっても絶対視はしないです
(学ばせていただいたことに感謝する気持ちはあります)。




Unknown (みれい)
2006-12-13 13:44:54
わお、ちょっと懐かしいものがっ
あらためて一緒にお勉強させていただこうと思います。

私が空を説明するのもおこがましいのですが、
空は、まずは縁起と捉え、縁起を消化すると無常、無我が捉えやすくなる気がします。
ただし学会で説く「縁起」は一般的な解釈とはちょっとちがうらしく。
チョンガーさんともお話したのですが、密教よりの解釈がしっくりくるようで。
曼荼羅、呪詛、祈祷の要素などはまさにそうですね。

空は、現実を曖昧にするものではなく(これだと、自分はからっぽの空、虚しいの空になっちゃいませんか。それは悪しき空と思います)、
すべてが関わり合っているということ。

例えば、時計に例えて、
時計の部品の一つ一つが関わり合って「時計」を成している。たった一つを部品も軽んじてはずせば、その時計は機能しない。
また、他の一つ一つ部品の働きによって、私という部品は時計の一つの機能を担うことが出来る。
両方あって空。

私は空=無欲とも思わないし、煩悩即菩提とも特に反していないと考えます。
(学会でこれをどう説明しているのかわかりませんが)
煩悩あってこそ菩提と考えます。

日蓮聖人は中観派というのは、私もピンとこなくて、Libraさんに説明いただくと、やはりとてもすばらしく再構築されて中観派に収まっているのだな、と思いました。
鎌倉の祖師達が学んだように大智度論まで遡り、近代仏教理解をみれば、Libraさんの解釈も違和感がなくなる、と考えています。

あと、法華経「勧持品」「安楽行品」に加えて、
見逃されてるのが「常不軽菩薩品」。
実に傲慢な学会員さんをみてると、この解釈がいったいどうなっているのだ?とおもいます。





Unknown (みれい)
2006-12-13 22:32:41
>こんばんは。みれい師匠。(笑)

こんばんは、そううそ師匠(笑)

いんや~、私こそ師匠でもなんでもないので、
隣に座って一緒にLeo師匠、Libra師匠の授業受けさせてください。

★無常無我と空はそれなりに理解は出来る様になったつもりです。しかし空自体に今更感を感じてしまいます。

空の感じ方もそれぞれなのかもしれませんね。

★お縋り信仰系の縁起だと思います。もっと俗物的な縁ですね。

いわしの頭も信仰、みたいなイメージでしょうか。
仏教伝来以前の日本も、祈祷や呪詛は行われていますね。
むしろそういうのがメインの国だったようですね。
あと、仏教伝来後にも観音信仰(法華経の観世音菩薩普門品)がありますね?
わたしは、おすがり信仰も否定はしなくてもいいと思っています。
そのかわり、それが絶対の信仰だ、仏教の終着点だ、と言われても、納得はしませんけどね。
あくまで方便の範囲だと思っています。

あと、創価学会の「縁起」ですが、学会公式サイトでは梅原猛さんの仏教の本が紹介されていました。
梅原さんの本はまだほとんど読んだことはないですが、
ひょっとすると日本古来の信仰観に基づいた縁起観なのかな、とも思います。
学会は(昔はともかく今、)梅原さんの縁起観に近づけようとしているのかなと。こっそりと。

梅原猛 - Wikipedia


★釈迦は中諦を説いていなかったけど龍樹がといた、ということでしょうか?

釈迦はそこまであれこれは話していないと思われます。
原始仏典などにあるとおりではと。
中観派は竜樹、三諦は天台の智者大師らしい。
一念三千という言い方は、各宗派共通ではないです。
摩訶止観の天台と日蓮系だけではと。
空に関しては、日蓮宗と浄土真宗以外は般若心経の空観になります。
(昔、般若心経を呪いのお経だと思っていたけど、ぜんぜん違ったwどこで覚えたんだ?)

竜樹に学ぶという時点で、すでに大乗カラーが入るわけで、
原点に戻った哲学的な仏教は、こちらのサイトがオススメです。
掲示板なども空についての議論が展開されています。

マニカナ・ホームページ

★無欲は無常無我の表れの一つでは?なので、空=無欲とも思わない、というのは良いと思います。

それはどこの教えなのでしょうか?
無常無我=無欲は聞いたことがないです。

煩悩を私流に例えると、
植物の芽が伸びますね。
家庭菜園のトマトなんかは、右へ左へ芽が伸びますが、
脇の芽を摘むと、お日様に向かって上にまっすぐ伸びていきます。
煩悩は、伸びようとするエネルギーで、それが脇に伸びれば煩悩に振り回される状態、上に伸びれば菩提。
どちらも根源は同じものと考えます。
欲をなくす、のではなく、欲の方向付けが大事であると。
その方向付けが無我、伸びる時間を与えるのが無常。
お日様が法。法に暗かったり、法に背いたり、インチキな法に照らされれば、伸びる方向も誤ります。
そんなかんじでいかがでしょうか?
説明になっているだろうか(汗)
かくいう私はまだ芽が出たての「もやしっこ」でございます。


★大智度論まで遡り、あう、そこまで勉強が必要ですか。。。。

うんにゃ、私もそこまで勉強はしておりませぬ(^^;)
そこまでいくと、さすがに独学ではどうにもならないと思っています。
ただし日蓮さんが学んだものを検証されている方々の意見はおおいに参考にしてます。
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172.Libra師匠有り難うございます。今後も勉強させて下さい。

2007年01月25日 00時45分54秒 | 創価学会
 Libra師匠、今回、Libraさんから学会退会者である私に仏法を教えて頂き、本当に有り難うございます。
どの様に感謝して良いのか分かりません。
m(_ _)mm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m

 真夜中にまでお返事を頂いたり、こんなにもスピーディにお返事頂いて感謝感激です。
 今後も勉強させて下さい。創価学会、本尊、題目にはもうほとんど興味はありませんが、法華経や日蓮の立派な行動や考え方は学んでも損はないと思います。

私の意見は自分で思いついた物ではなくて、結局は友岡氏の書籍や
創価学会に悩むすべての人へ
ここと、
大歓喜
日蓮思想・創価学会批判
ここの意見を合わせた物です。

 Libraさんの書き込みは全て貴重な物ですので、全部、特別に採番をしてトップに残しておきたいと思います。私の質問文は駄文や日本語になっていない所が多数あるので、改変させて頂く事をお許し下さい。>ALL。(^_^;A もちろん、やりとりのログ自体はきちんと残しておきたいと思います。

 私が一番したい事はLibra師匠に学ぶ事と、ガンと闘っていらっしゃるフルナさんのお帰りを待つ事です。(Libra師匠も早く帰ってきて(^_^;A(^_^;A(笑))両師匠には会いたいな。。。。フルナさんのご回復を待ち、ご回復状況次第で半年先でも一年先でも良いのでゆっくりと待ちたいですね。

 自分自身も病気を抱えていますし、フルナさんの事を考えれば、それ以外の事は、”そんなことはどうでもいいから”ですかね?

 コメントにも書きましたが、Libra師匠のお話を聞いて、ずいぶんと楽な気持ちになれましたし救われました。「我々以外は他は一切、邪宗である!」「我々が正統派なんだ!」という排他的な創価と正宗ですが、彼らとは全く逆に、慈悲というか、マイルドさというか暖かさを感じる事が出来ました。
 おそらく、退会者の私にここまで教えて下さる日蓮系の人はもういないでしょう。

 今のところ、Libra 師匠のサイトには一言も罵倒、罵詈雑言が見あたらない事も素晴らしいことです。私にとって「師匠とは考え方、信じる物が違っても師匠の事を尊敬し、とても大好き」ですね。

今は暇な時に法華経を読んでいます。例の本はまだ買っていません。

ではでは
師匠、失礼いたします。
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教育基本法と創価学会 (教えるとは?)

2007年01月12日 00時02分07秒 | 創価学会
 まず、最初にお詫びなのですが、キリスト者として今を生きるのstarstoryさんとのTBやコメントなどのやりとりで、創価学会、及び公明党は池田大作氏の提言と違う方向に歩んでいる事に関してご質問などを頂きました。
 私自身もすぐに思いつく事があり、草稿を書き始めていたのですが、ネット上のトラブルがあったり、メールで忙しかったりと、また自分から仏法講義をお願いしている以上、そちらの優先順位をあげざるを得ませんでした。記事完成が遅くなって申し訳ありません。

 新聞に掲載される池田氏の提言は比較的マトモというかマイルドな物です。一般の方にもその逆を行く教育基本法を応援する公明党と創価に疑問を抱くのは普通の事かと。 キリスト教の方には仏法者が言っている事と行動が違う事が疑問なのでしょう。当然の疑問かと思います。

●簡単な結論

なぜ、こうして池田大作氏の提言と違うのか?
一言で言えば、ダブルスタンダード。または本音と建て前なのでしょう。

 創価学会には権威主義や上意下達主義、全体主義があります。池田氏が無謬である、池田氏の言う事は絶対と言う体質もあります。会合で池田氏が「1000万票を取ろう!」「選挙に勝つぞ!」「法戦だ!」「戦うぞ!」と言うのは活動家学会員の間では有名です。私のブログで「上意下達」で検索して頂くのも良いかと。 仏法には師弟と言う概念があり、師の言う事について行く、師の言う事は絶対である。という解釈される事があります。(純粋な仏法の師匠の悪用と考えて下さい。)
 あるいは、133番、144番記事や公明党や創価学会のリーダーと責任 その1~8を読んで頂くのがいいのかもしれません。

これだけでは他の創価学会員と結論に変わりがないので、創価の「教育」をちょっと書いておきます。

●教育基本法ですから創価の「教育」とは?

 師(学会本部や池田氏)が正しい事を弟子(過去の私)に教えればいいのですが、創価の場合はそうではなく、今日現在(1月10日)の私からLibraさんへの質問の中で、「私の創価学会の仏教学や創価学会精神」は数多く間違っている事が分かります。仏教の歴史などは知らない事が多いです。

法華経(ほけきょう)の教えは創価では釈迦が説いた事になっているが、実際はそうではない。
仏教は宇宙生命論を説いていない。戸田2代会長、池田氏も仏教は宇宙生命を説いている、としています。
仏教と密教は相反するが日蓮は仏教として取り入れ、密教的な本尊を秘法としている。etcetc

 こうした内容はキリスト教の方には分からないかもしれませんが、仏法教義ですら末端の創価学会員には訂正される事は一度もありません。知らないうちに変わっている、というが実際です。ですから、今日現在でも間違った仏法教義で布教している人は多くいると思います。

仏法教義ですら都合の悪い所は訂正や謝罪を何も言わずに突然引っ込めて、都合の良い所を”強調する”という体質です。
ですから権力保持の為には池田氏の提言を無視して、学会員や一般の人には都合の良い池田氏の提言を”強調する”という体質です。

創価学会では教団内に権威主義が保持されている(島薗進)

 こうした事はどの政党もそうかもしれませんが、公明党に限っては”仏法を知っている人なのだから悪い事はしない”という信用があったのですが、その神話は崩れています。163.創価教育、創価思考の現証(結果)が目黒区議団 宗教者らしからぬでしょう。なので創価学会内部でも、公明党のアピールをするのに都合の悪い所は訂正や謝罪を何も言わずに、都合の良い所を”強調する”という体質です。

池田氏がイラク容認したのは宗教者の感覚ではなく、政治家の感覚だというのは過去記事公明党への投票依頼の断り方の通りです。

 また、末端の会員が自分で考えずに学会本部の言う事を鵜呑みにして疑わない事も原因の一つです。
創価学会の精神として幹部の言う事は「素直に信じなさい」「疑ってはいけません」「疑わない事が信心です。」というのもあります。選挙においても学会本部、つまり幹部が主導で進めますから疑いません。いえ、疑ってはならないのです。仏法教義ならばともかく政治活動すら。です。それが創価の「教育」、教えです。

 自民党や民主党にも宗教団体の支援はありますが、普通の感覚としての下からの要望や突き上げはあると思います。ところが創価公明は宗教の絶対性が政治の意見、考え方にも絶対性を持つので、かなり危険だと思います。こうした池田氏を絶対視する全体主義者の集まりが公明党政治家であり、その人達が自民党と一緒になって作ったのが先の教育基本法です。

 公明党議員で池田大作氏を師匠と仰がない人は一人もいないでしょう。無謬であるかどうかの感覚は人それぞれだと思いますが、無謬であると言いきる人がいたら、あまりにも危険でしょう。

ブッダは歩むブッダは語る 感想その6 (師匠とは?) 創価学会員は面と向かってなかなか会えない、距離の遠い、一方通行な池田氏を絶対的な師匠とする傾向にあります。

キリスト教の方には上記のようなことはどの様な印象や感想をお持ちでしょうか?
コメント (6)
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(-5の補足.) Libra師匠の「龍樹以降の中観派の話」

2007年01月09日 07時31分23秒 | 創価学会
メールでの質問に対してLibraさんから頂いた回答(原文の一部は省略)
この記事はLibraさんの許可無く無断転載禁止です。

----------------------------
●龍樹以降の中観派の分裂の話
●龍樹の後継者たちの中で、どういう人たちを「正規の中観系」とみなすか?

 龍樹に始まった中観派は、のちに「自立論証派」と「帰謬論証派」の2つに分派したというのが通説的な整理です。両者のちがいは論証のやり方です。「自立論証」というのは積極的に自らの主張を根拠付ける(正当化する)ことです。「帰謬論証」というのは要するに背理法のことです。わたしも、「龍樹は、主張を積極的に正当化(自立論証)できるとはおもっていなかったとおもいます」と書きました。
 ちなみに、正当化の不可能性の自覚というのは批判的合理主義と共通するところがあると思います。

  ほらふき男爵のトリレンマ──論証は正当化をなしえない(小河原誠)
  http://fallibilism.web.fc2.com/109.html

●『中論』のオリジナルは現存しません

 『中論』は龍樹の作ですが、じつは、龍樹が作った『中論』じたい(オリジナル)は現存していません。そのかわりに、『中論』を注釈した注釈書が何本か伝わっています。注釈書には龍樹が作った『中論』が全部引用されていますので、それらから『中論』じたいを抽出できます。しかし、抽出できるといっても、注釈書によって微妙にちがいがあり、完全な形の抽出は困難です。また、すべての注釈書が中国に伝わったわけではありません。チギが用いているのは「青目」という人が作った注釈書です(訳者は羅什)。青目という人がどういう人であったかはよく分かっていません。

───────────────
 一言であらわすならば、青目についてはまったくわからない。もともと青目註(釈)とするテクストは、あまたの漢訳仏典のなかで、この『中論』を除いては、ほかにただの一点もない。

(三枝充悳訳注『中論(上)』〔レグルス文庫 158〕、第三文明社、1984年、p. 47)
───────────────

●月称(チャンドラキールティ)とはどんな人か

 月称(チャンドラキールティ)は論証方法で分類すれば帰謬論証派といえそうです。そこだけを見れば、「正規の中観系」のようにも見えますが、そのような理解が誤りであることはすでに松本史朗先生によって論証されました。論証部分は省略して結論の部分だけを以下に引用しておきます(引用中の「離辺中観説」という用語は《誤った中観理解》とでも理解しておいてください。「バーヴィヴェーカ」は自立論証派の代表みたいな人です)。

───────────────
 さて、バーヴィヴェーカの「離辺中観説」は、チャンドラキールティによっても、基本的には全く変更を受けることなく継承された。両者の思想的立場については、従来一般にバーヴィヴェーカは自立派〔中略〕であり、チャンドラキールティは帰謬派〔中略〕であって、両者の立場は異なるとされてきた。このような理解は、主としてツォンカパを祖とするゲルク dGe lugs 派系統の様々の学説網要書〔中略〕やツォンカパ自身の著作における中観派に関する学派分類にもとづき、さらに遡れば、それを生じる原因ともなった『明句論』第一章におけるチャンドラキールティのバーヴィヴェーカ批判にもとづくものであろうが、筆者は基本的に、このような理解は正しくないと考えている。つまり、筆者より見れば、これら二人の中観思想家の間に、空性論証の方法においても、二諦説においても、根本的な相違は全く認められない。むしろ彼等は、ツォンカパによって批判される「離辺中観説」を主張した点で、軌を一にしていたと見なされるべきである。もし強いて彼等の相違を言えば、チャンドラキールティの方が、バーヴィヴェーカよりも一層単純に「離辺中観説」を主張したため、より実在論的傾向が強いということであろう。従来、チャンドラキールティの〝帰謬派〟という思想的立場に対しては、筆者自身をも含めて〝空性の徹底化〟というような高い評価がなされることが多かったが、こうした評価がいかに誤っているかは、以下の論証によって示されるであろう。

(松本史朗『チベット仏教哲学』、大蔵出版、1997年、p. 347)
───────────────

 (中略)月称の解釈じたいが「インド中観派の正確な理解とはいえない」(中略)。三論宗が「インド中観派の正確な理解とはいえない」のは、「中国的思考から脱することはできなかった」からでしょう(以下の資料を参照)。

  中国仏教の底流─万物一体の思想(伊藤隆寿)
  http://fallibilism.web.fc2.com/081.html

●「月称釈」とは『プラサンナパダー』のこと

 とはいえ、月称(チャンドラキールティ)が作った『プラサンナパダー』という注釈書は、サンスクリット本とチベット訳があり、両者はよく一致しています。サンスクリット本が残っているのはこの注釈書だけであり、龍樹のオリジナルがサンスクリットで書かれたのは間違いないので、『プラサンナパダー』が重要な資料であることはたしかです。しかし、『プラサンナパダー』から抽出されるものがオリジナルと一致するのかといえばそうはいえません。

───────────────
『プラサンナパダー』中にふくまれる偈頌を抽出して、それをいちおう『中論』のサンスクリット本として扱っている。しかし、これがはたして龍樹のものと同一であったか否かは、確定できず、むしろ否定的な意見のほうが強い。

(三枝充悳訳注『中論(上)』〔レグルス文庫 158〕、第三文明社、1984年、pp. 18-19)
───────────────

 (中略)「第24章第18偈(三諦偈)」に限って言えば、チギが用いた青目釈(羅什訳)と『プラサンナパダー』とで意味が異なっているわけではありません。チギの理解はこの三諦偈に基づきます。よって、「月称釈は中国に伝わらなかった」という理由だけから、チギの理解を「インド中観派の正確な理解とはいえない」と結論することはできないとおもいます。

 以下に、三諦偈を引用しておきます。

○青目釈・羅什訳の書き下し
───────────────
  衆因縁生法 我れ即ち是れ無と説く
  亦た是れ仮名と為す 亦た是れ中道の義なり

  (第24章第18偈、三枝充悳訳『中論(下)』〔レグルス文庫 160〕、第三文明社、1984年、p. 650)
───────────────

○三枝先生の訳注
───────────────
この「無」はサンスクリットに s'u-nyata- とあり「空(性)」とあるべきもの。つぎの長行冒頭には「空」、また燈論偈(漢訳)も「空」となっている。中観論疏(吉蔵)をはじめ、中国仏教者はみな「空」と読む。そのうえ、この第18偈は「空仮中」の三諦偈と呼ばれて、中論のなかで最も名高い。

(三枝充悳訳注『中論(下)』〔レグルス文庫 160〕、第三文明社、1984年、p. 651)
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○『プラサンナパダー』からの三枝先生の訳
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およそ、縁起しているもの、それを、われわれは空であること(空性)と説く。それは、相待の仮説(縁って想定されたもの)であり、それはすなわち、中道そのものである。

(三枝充悳訳注『中論(下)』〔レグルス文庫 160〕、第三文明社、1984年、p. 651)
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●三論・四論について
 (中略)
『大智度論』が龍樹の作かどうかは研究者の間でも意見が分かれており、未解決の問題だとおもいます。
 (中略)少なくとも、わたしは、今回の説明において、『大智度論』に基づくチギの議論を一度も引用していません。チギはその中心思想である一心三観について「『中論』に説く思議を越えた一心三観」とはっきりいっています。

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171.池田大作氏の法華経の智慧と妙法蓮華経開結

2007年01月06日 01時59分31秒 | 創価学会
●Libraさんの講義と池田氏の講義

 池田大作氏の法華経の智慧を読む際に必要を感じて妙法蓮華経開結 創価学会版(2002年版)を以前、購入したのですが、当時と今とでは読む所が全く違いますね。

 今手元に開結はありますが、当時の大白蓮華や書籍が見つからないので記憶だけをたよりに書くと法華経の智慧を読んだ後は、常に「前進!」「勇気!」「勝利!」「折伏!」「(創価学会の選民思想としての)地涌の菩薩!」「新聞啓蒙!」「(意味不明な)前向きだ!」とどのつまり「よーし活動やるぞ!Σс(゜Д゜с」という傾向が強かったですね。(「師弟不二!」と思ったのかはよく覚えていません。)

 こうした教学の場合、創価は嘘を付いていると言うよりは都合の悪い所を隠して都合の良い所だけを”強調する”んですよね。もちろん不軽菩薩の講義もあったはずなので池田氏の講義に全く学ぶ所がなかったわけではありません。

Libraさんから勧められて読む箇所は部派仏教(下手をすると創価学会?)の否定とも取れます。
仏教と批判的合理主義 『法華経』と釈尊の思想
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>サンガに対する供養も三輪清浄の財施といいうるものであればすばらしい行為(菩薩行)のようにもおもえます。しかし、「そんなことはどうでもいいから経典を受持せよ」と『法華経』は言っています。

『法華経』を信仰する団体を自称している教団が必死になって信者に「サンガに対する供養」を奨励しているとすれば、これほどヘンなことはないということになります。『法華経』を信仰していると自称している人たちが、必死になって「サンガに対する供養」を他の人たちと競い合っているとすれば、これほどヘンなこともないでしょう。もっとも、そのような場合には、そもそも三輪清浄の財施といいうるかどうかさえ怪しいと思いますが。
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”そんなことはどうでもいいから”

 そんなことはどうでもいいから、という行には笑ってしまいました。つまり、財務だけでなく、折伏、新聞啓蒙、選挙、などの数の成果主義、数信仰の否定でしょう。

 折伏と新聞はちゃんと仏法を語って喜んで帰ってくればそれでいいのですが、14年間常に「数という成果が上がらない」という悩みが常につきまとうのでした。男子部幹部は「そうではないよ」とは言ってくれますが、やはり数成果の上がる人には組織は居心地が良く数成果の上がらない人は肩身が狭い(笑)のが学会組織です。

 過去ログを遡ってもほとんど断言をされないLibraさんがめずらしく断言されるのですから、そういう意味でも ”笑ってしまいました。”

●創価学会嘘つき

 法華経開結を全部ではありませんが、漢文でなく訳文を読んでみてちょっと楽になった気がします。但し罪悪感もあります。また怒りもあります。
 リアルでもとある宗教者の人たちと話したのですが、

”友人に五時八教、法華経仏説などの嘘を教えてしまった事です。”

 私の友人はほとんどが大卒で上は東大がいますし創価大学に行った某君もそうだし、比較的国立、私立など大学行く様な人が多かったです。(私はそれほど良い大学を出ていませんが。(笑))
 私から見ただけでも、こうしてネットでの創価学会の教学や罵倒する人々を見れば如何に低俗な人たちなのか?ということが改めてよく分かります。池田氏の勲章祭りには、分かる人には私のブログを読むまでもなく呆れていると思います。私から見ただけでも、、、、つまり、、

”私より頭のいい人達は創価の嘘が絶対に分かると思うんですがどうでしょうね?”

 教学に関しても青年教学2級を持っていましたが、実際にLibraさんの講義に私、そううそがついていけていないではありませんか?私の頭の中には創価が教えた学会精神や創価教学しかありません。

 一体全体、創価の人でバリ活、罵倒する人、2世3世の人や学会本部の世間知らずな人、この人達は 14年間の間、公明党教科書無料配布の嘘や創価教学の嘘をどうフォローしてくれるのでしょうか?

友人に嘘を言ったという罪悪感をなくす為に一緒に謝罪してくれるとでも言うんですかね?私が感じている罪悪感を学会本部や池田大作は感じてくれているとでも言うのでしょうか?

 友達を失っているのですが、責任もって返してくれるんですかね?(過去記事にも書いた通り、私は不幸中の幸いにして友人を罵倒するようなことはありませんでしたが。)

 そもそも嫌われる池田氏と言う事自体が会員の負担になるのでは?それを法難だとか俗衆増上慢(ぞくしゅぞうじょうまん)・道門(どうもん)増上慢・僣聖(せんしょう)増上慢とかいうのは疑問です。在家なんですから。それとも本音は僧侶にでもなったつもりなのでしょうかね?大商人の生まれ変わりでしたっけ?


法律上意味のない見せかけの選挙の為だけの署名運動が始まったそうです。
Release Heart | 署名をするは何のため?君よ、それを忘るるな!
人を馬鹿にするのもいい加減にして欲しいですね。
法華経を読んでみて、人を馬鹿にする様な態度や姿勢は限りなく薄いと思います。
(但し、それでも現代では通用しない人間差別が一部あります。)

 またこれもとある宗教者の人たちとリアルで話したのですが、日蓮仏法で人を救いたいのであれば、やはり御書の翻訳はきちんと五時八教などの間違いも含めてされるべきだと思います。

 Libraさんもつい先日書かれていた様に「初期経典を含めて、著名な経論の現代語訳に誰でも簡単にアクセスできるというような時代が、そう遠くない未来にやってくるでしょう。」とのことです。
 全く同感です。テーリーガーターも既にネットに翻訳がありますし、友岡氏の書籍もそうした解説書の一つだと思います。今後は仏教と言えば、限りなく釈迦に近いモノ(物ではない)が求められるでしょう。

 本仏論ですら頭の悪い私が問題を感じるのですから、池田教や池田氏の永遠の指導者や師弟不二ではお話になりません。ましてや罵倒などもっとお話になりません。頭が悪い場合はそれを補うなどの幸福感がより求められるのであり、幸福にはほど遠いでしょう。

07.01.09 誤記及び追記 題などを入れた。
コメント (10)
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旧朝銀破綻処理、公的資金41億円追加投入へ

2007年01月04日 19時08分26秒 | 創価学会
http://www.asahi.com/national/update/1227/TKY200612270371.html
旧朝銀破綻処理、公的資金41億円追加投入へ

 在日朝鮮人系の金融機関だった朝銀東京信用組合の破綻(はたん)処理をめぐり、預金保険機構は、41億8000万円余の公的資金を28日に追加投入する方針を決めた。ある男性が架空名義で預金した脱税資金を払い戻す必要が生じたことが原因。脱税行為は7年以上前ですでに時効が成立しており、今秋、払い戻しを命ずる判決が最高裁で確定した。

 訴訟記録によると、東京都内でパチンコ店を経営する男性(81)は、長年にわたり飲食店やパチンコ店の収入の一部を裏金にして脱税し、朝銀東京に設けた架空名義の口座に預金。その残高は50億円を超えた。

 朝銀東京は99年に経営破綻し、預金の一部を男性に払い戻したが、02年4月以降は架空名義だったことを理由に男性への払い戻しを拒否。同年12月、架空名義預金は整理回収機構に引き継がれた。

 これに対し男性は03年12月、34億円余の払い戻しを求め、整理回収機構を提訴。預保機構は「脱税資金を貴重な公的資金で払い戻すのは正義に反する」と反論したが、今年9月、最高裁で原告の勝訴が確定した。

 整理回収機構は、二審判決のあった今年5月に、遅延損害金6億7000万円を含む41億円を男性に仮払いした。これに訴訟費用などをあわせた41億8400万円を補填(ほてん)するよう今月21日に預金保険機構に申請した。朝銀東京の損失穴埋めにはこれまでに公的資金2060億円が投入されたが、申請が通れば、2102億円に膨らむ。
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いい加減にして欲しい。朝鮮人。
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1167393257/
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祝!アンチ道 一周年

2007年01月03日 08時19分13秒 | 創価学会
↑by[華]さん

あけましておめでとう御座います。本年も宜しくお願いしますね。m(_ _)m>ALL

華さんにわがままを言って一周年と色を修正して貰いました。
華さん有り難う。(^^)/
コメント (16)
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