創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

266.フィレンツェ大聖堂の落書きの件から学べる事。

2008年07月01日 19時16分34秒 | 創価学会
岐阜市立女子短大生6人、フィレンツェの大聖堂壁に落書き : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

岐阜市立女子短期大学・女子大生の愚行|☆ゲイと負け犬のセレブな日常☆

(検証画像)フィレンツェの大聖堂壁に落書きをしてきたのはあなたですか? - I CAN'T TELL YOU WHY(邦題:ニュース)

●フィレンツェ大聖堂の落書きの件。

 フィレンツェ大聖堂の落書きの件で色々と学ぶ事があります。

 フィレンツェ大聖堂の壁に落書きした人は色々な立場の人がいて大勢いるみたいですし、現段階で中には停学や立場を解任された人もいるようです。3つ目のリンクにある写真を見ると元々、落書きは多数あった(?)、外国人のもあるようです。でも日本人も多い気がします。
 困らせてやろうとか嫌がらせをしてやろうとか、教会を潰してやろうとかの悪意ではなく「赤信号みんなで渡れば怖くない」のノリで書いたんでしょうかね?
自己中心的、自分本位ということでしょうかね?まわりや相手、歴史を考える、他者の気持ちを考える(後述します。)etcetcが欠けていたわけですが。。。。

 同じ日本人として恥ずかしい事ですが、大聖堂側の返事や対応が素晴らしいので、またまた余計に恥ずかしい。。。。。。
同短大は修復費用の負担を申し出そうですが、大聖堂側から「謝罪してもらえば責任は問わない。費用負担は不要」と連絡があったのだそうです。

大聖堂側の対応は「大人の対応」ですね。

「謝罪すれば許します。」ということだそうで。悪魔だとか敵だとかレッテル張りも無ければ、ご供養しろとかの強制とかも言わないわけで。。。。。
一日本人としても大聖堂側から許していただけることでなんだか恐縮しちゃいます。厳しい事を言われなくてホントに良かったです。

元々、落書きは多数あった事や消す際の壁の材質、落書きされたインクなどの材質もあるでしょうから大聖堂側でやった方が手っ取り早いのでしょうが、「迷惑行為についての費用も不要。」、、、とはねぇ。

 例えば学生は大学に一時的にしか在籍していませんが、それでもちゃんとどちらの大学も学長が謝罪文を出しています。大学生を子供と見るか大人と見るかは難しいところですが、大学組織側は大人としての責任を果たそうとしています。(果たしました、とは書かないでおきます。)
 たかが落書きと軽く見ないで、各大学トップは謝罪しています。短大側は謝罪にも行くのかな?

●さて学会は?

ここでも色々と創価学会との比較が出来ます。

 私の所に迷惑行為を ”書き込んだ” 学会員は誰も謝らないで去ってゆくんですよね。最近でも01番記事を読んでいないのがマルワカリな学会員が多く迷惑なわけです。週刊誌の”書き込み”にあれだけ文句言ったり謝罪を求めるのにね。ずっと私に謝らなくてもつい最近、他のブログではきっちり他者に謝罪を求める学会員もいました。

 それから学会には明らかに社会の迷惑行為があるわけです。
 創価学会はドコモ盗聴や弓谷氏などの数々の不祥事があっても池田大作氏は全く内外共に謝罪しませんね。池田大作氏自身は「私は何も悪くない。」と言いたいんでしょうか?末端の会員もイラク戦争など「先生は何も悪くない」と教えられて(MCされて)そういいますし。それどころか原島嵩氏の動画にあった様に「今に見ていろ!」といったような恨みとか復讐の精神なわけです。なお、普通の人の負けじ魂と学会員の負けじ魂とは全く正反対、別物です。学会員のそれは不健全なケースがある。(これも記事に出来るかも。)


 落書きの謝罪の件は世間一般、社会一般の人々や物事であり、人や組織、物事は完璧な形やモノではないとしても、ルールがあったりある程度は「対等」と言えると思います。
「対等」だから当たり前の事として不祥事に「謝罪や礼儀が必要」と言えるでしょう。(個人的な意見とそううそ的な文章ですが。)

そうすると逆に考えるとどうでしょうか?

不祥事に「謝罪や礼儀がない」学会は世間一般、社会一般の人や組織、物事「ではない」。
世間一般、社会一般の組織ではないということはカルト社会、異常社会、自己愛人格な集団だから池田氏は内部の会員にも謝る必要がない、という特徴や傾向をもつのかな?
つまりは人間関係や組織において「対等ではない」創価学会(日蓮正宗、顕正会etcetcも)はカルトの師弟、カルトの組織関係であり、奴隷か服従なのかも。


学会トップが不祥事起こして折伏する際や普段の人間関係や信用構築に困るのは末端の会員のはずですから。(弓谷氏の事に言及した過去記事の通り。)
私一個人に嘘を教えた事もそうですし、裁判の負けも説明や謝罪が必要です。当然。
仮にどんな宗教(師弟)にもカルト性が必ず少しはあると仮定しても、カルトの薄い師匠や宗教であれば弟子の困る事は師匠から訂正、説明、謝罪があって普通かと私は思います。
不祥事を起こした末端の学会員は強制退会ですが、不祥事を起こしても池田氏、学会本部職員などは強制退会にはなっていないケースがあります。(ネットに書かれている事実や過去記事の通り。)

 創価学会内部的には名誉会長職は会則上や役職構造上、トップではありません。でも実質的な給与や永遠の指導者などのダブルスタンダードな会則などから池田氏が立場においても実質上トップです。末端の会員にとってカリスマ的存在、精神的な支え、人生の師匠、永遠の指導者ですからね。

隈部氏の裁判の件も池田氏は逃げているので彼は臆病者かと。学会組織を相手にした矢野氏だけでなくあともう一件二件、学会の大物幹部や元公明党員が池田氏相手に裁判しませんかね?
池田氏が表に出てこない事が記録になるとそれはそれで良いと思うんですが。秋谷元会長、裁判しないんですかね?

●学ぶ、とは?誰に学ぶべきか?

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂も名前はマリアですが、たぶんキリスト教を「学ぶ」ところ(祈ったりもする)でしょうし、大「学」も「学」会も同じ文字上は「学ぶ」です。

池田氏からは人格向上や人格形成において一体、何を学べるんでしょうね。
平和が大事、友情が大事、対話が大事、そんなの私でも言えます。
池田氏に刃向かうと絶対に許されない学会。
池田氏は批判者や敵対者に自分で面と向かって対話せず、自分の事を人にやらせて罵倒、誹謗中傷。
罵倒、誹謗中傷も言いたいのであればまずは彼自身、自分の口で言ってみてはどうでしょうか?
池田氏からは自己愛性人格的な「子供の対応」しか学べない気が私はしています。


 まさかと思いますが、邪宗だからこういう(因果応報で落書きされる)結果になったとか、邪宗の場所に行くから落書きの命が出てきて因果応報でこうなった、そう思ったあなた。最低では?

 ちなみに正宗の様に大御本尊をねつ造(再造)したり、学会の様に日寛本尊も文字を消した事も落書きの件に似ている気がします。学会の場合は白いペンで落書きか?(笑)本尊の彫刻や書写の許可とか宗門のルールとか化義とか難しい言葉の事を言っているのではありません。
 単純に迷惑行為という事もありますが、大聖堂の落書きはキリスト教を信じていないイタリア人や宗教を信じる人にとって嫌な気持ちになるでしょうし。それと同様に 「相手にとってどんな気持ち」 がするか?
 本尊一つの事だけでなく様々な事において 「相手の気持ちや心を無視する」 傾向が強い事。納得や理解の得られる説明や説得というのが正宗と学会(顕正会etcetc)に欠けている気がします。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂側が今回の件を大目に見て許してくれたのは色々と考えさせられる事でした。また学ぶべき事がありました。

以上。
コメント (13)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする