創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

イラクに116億円の緊急無償資金

2007年02月23日 22時32分36秒 | 創価学会
時事ドットコム
イラクに116億円の緊急無償資金


良いとも悪いとも言えない。116億もの資金、他の事に使うべきでは?
過去記事に書いたとおり、赤字カウンターを知っている私としては非常に疑問。
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182.一念三千、法華経、文底、題目、本尊 の議論

2007年02月22日 19時36分12秒 | 創価学会
●空に関連して、一念三千論、及び文底論

○文底の起源

>一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり(「開目抄上」、全集、p. 189)

上記の文底は理解済み。

私の理解
 御書に書かれている数々の文底文底の議論の覚え書き。検索結果 は未だに疑問です。伝わるか伝わらないかそんな微妙な物を翻訳したとは思えません。

仏法原理/第二部
今週の法話 「本因妙抄」は偽書である

質問
 法華経梵本を読んで文底があったという人がいるのでしょうか?文底の概念が出てきたのは鳩摩羅什以降なのでは?あるいはもっと後?文底を言い出したのは誰なのでしょうか?日蓮でしょうか?天台でしょうか?

○文底を本当に言った(書かれている)のか?曲解では?

 梵本法華経(創価学会版法華経も一部しか)を読んでいませんが、文底というものが梵本に存在したとも思えません。翻訳の問題はないのでしょうか?つまり、梵本には文底という解釈は無い、あるいは解釈不可能だが、鳩摩羅什訳には翻訳の都合上、文底が生まれてしまうとか?

書くという視点から。。。

法華経の作者が一人であるにせよ複数であるにせよ、違和感があると思います。

質問
 HPやブログをたくさん書いて書籍もたくさん読んでいる皆さんは疑問に感じませんか?文底という隠し事を法華経作者がすると思えません。法華経を読んであれだけ似た様な文章やくどくどと繰り返し功徳や受持読誦の必要性が繰り返されて強調されているのに不自然すぎます。久遠仏や仏法=宇宙生命論と同じく、宗教的な想像や賛嘆なのではないでしょうか?

 梵天勧請を持ち出すくらいの原点回帰が重要ならばそれと正反対の文底という隠し事はおかしいです。文底は「馬鹿でも誰でも成仏出来る大乗仏教」を根底から否定していないのでしょうか?

 難信難解であればダイレクトに書かれるべきです。法華経をちょっとだけ読んでも実践しても功徳があるというのに文底という隠し事は疑問です。むしろ馬鹿を見捨てると言う立場や解釈の結論が文底かと。

難信難解だから、様々な比喩や様々な体験談や様々な賛嘆文になって、法華経自身28品もの膨大な量になっていないのでしょうか?

 実際、日蓮は隠し事として(?)観心本尊抄を書いている事を考えると法華経自体に裏付けが無くてはなりません。観心本尊抄にはそうした裏付け(こじつけ)があると思いますが、法華経自体に伝わらない事を文章、経文にするのは疑問です。過去記事ブッダは歩むブッダは語る 感想その5にも書いた通り、伝わる事が経文です。伝わる事に成功するのが経文です。ただでさえ、釈迦は自ら「難信難解」といっているのに更に法華経作者が「隠す」のでしょうか?

○文底などというものが正確に伝わるのだろうか?

伝えるという視点から。。。。

だれでも成仏出来るという可能性が無常、無我、縁起、一念三千とします。
人の生命や心は無常、常に変わる。成仏出来る可能性がある。
人の生命や心(一瞬の一念)に三千もの生命状態があり、縁によって(縁起)仏の声明が出てくるので、成仏出来る可能性がある。

 ところが日蓮が文底秘沈(もんていひちん)の大法という本尊、題目を示さないと誰にも伝わる事はありませんでした。(題目自体は日蓮以前から唱えられていたようですが。)そんな伝達に失敗するような危険な文底があったとは思いません。成仏出来るという可能性が失われてしまいます。法華経作者が文底とすることで法華経時代から日蓮時代までの多くの人々を見捨てた事になります。法華経作者にはそうした意図は感じられません。

●では「文底」と呼ばれる「法華経の本門寿量品の文の底」、つまり「題目」が法華経を要約して本尊になりえるのか?要約は縁起の法や一念三千だけでは?

 大乗仏教は誰でも成仏できるという概念や法華経にも受持読誦で成仏できると書かれています。法華経で誰でも成仏できて欲しいという

「日蓮の願いや慈悲や優しさから法華経28品受持読誦(じゅじどくじゅ)よりも本尊という簡単な手軽な形式で法華経受持読誦とした」

のではないでしょうか?

学会の携帯本尊ならぬ、携帯法華経か?
本尊というのは物のない時代の携帯法華経?略式法華経?形式法華経?(^_^;A
(戦前戦中戦後を生きた祖父母の話を聞いた記憶からすると「物がない」ということにも切実に感じられるし。)

現在の本尊(大御本尊など)だけを大事にしすぎるという事は日蓮宗全体の像法みたいなものか?(笑)

同じ和紙と墨であれば、法華経の方が量も多いし内容もある。
現代では法華経は書籍であり、本尊ばかりが和紙と墨になりやすいので尊ばれそうだけど。現代人が陥りやすい錯覚だと思います。

●本尊の内容

「日蓮の願いや慈悲や優しさから本尊という簡単な手軽な形式で法華経受持読誦とした」とすると、Libraさんの

「曼荼羅」は宗祖が命をかけて表現された「法華経の肝要(エスプリ、エッセンス)」でしょう。もちろんエッセンス中のエッセンスは「題目」。

という事にも矛盾しない様な気がしてきました。

「崇拝対象」という意味で「本尊」
「チギは法(法華経)を「本尊」にした」(智、また、湛然の文献のなかでは「本尊」語の用法は無いので語弊があるかもしれない。)

 これらは、なぜか「崇拝対象」が未だによく分からないが、「チギは法(法華経)を崇拝対象にした」ということは少し?理解できたかな?これもなんとなく矛盾していないと思うようになった。

 本尊という事に疑問なのは”本尊とは根「本」を「尊」仰する”という創価の教えなどから誤解して間違えているのだろうか?本尊が宇宙生命論や宇宙のリズムなどとはもう思っていないが、生命論、十界論は肯定しているし。。。。

法(法華経)を「本尊」、法(法華経)を崇拝対象ということは、虚空会の儀式が本尊には描かれているが、無常、無我(一念三千)や菩薩行、両方の法則を尊ぶという事か?

友岡氏の書籍の「釈迦が戒壇の壇をどちらかというと否定したこと」に近くなっていく気がします。

 133番記事の矛盾が起こりますが、日蓮聖人が「信徒にもなんとかして法華経を受持読誦させてあげたい。」というお気持ちであれば、人の幸福のための矛盾ですから私も肯定せざるを得ないですね。ただし僧俗どちらにも限りなく”羽の軽さ”が維持されないといけない気がします。根拠は一応、法華経の「受持読誦」による功徳でしょうね。

 日蓮は(門下の弟子僧侶においても)むしろ本尊よりも法華経(の精神)を重視?
同じ弟子でも信徒は本尊でも許容したという事でしょうか?
法華経の一部でしかない本尊、あるいは一部だけな本尊でも、それでも信徒に持たせてあげたかったのでは?

犀角独歩さんの

 日蓮には(真蹟遺文から読み解くと)戒壇堂に曼陀羅本尊を祀る考えはなかったらしい。日興には本門寺に大曼陀羅を奉懸する考えはあったでしょうが、戒壇堂に懸ける考えは見えない。その門下では戒壇堂には曼陀羅図のように仏像群を造立するという考えがあった。、とのことらしい。。。

こうしたことも、かなり矛盾無く肯定できそう。

本尊よりも法華経を重視?なのか同等なのかは全く不明。


文底を強調した理論はやはり理解不能。文底というのは行間、趣旨ぐらいか。
やはり文底秘沈の大法という理論、特に大御本尊は非常に疑問だ。

ところで秘沈って御書の何処にもねぇぞ!(笑)(六巻抄が最初か?)



○””つまり創価学会員は私の様に空をさっぱり理解出来ていない????””

 実際に創価学会員は法華経を漢文として読んでいるので私の様に10年以上たっても意味を完全に理解していない人がいると思います。Libraさんも仏教に正しい理解が必要、との立場であれば「受持読誦」というのは現代日本語文に翻訳された文章の事ではないでしょうか? 解決済み 師匠達との対話。その6

(事の一念三千は密教を前提とした鎌倉仏教における必要悪か失敗だったのでは?::密教論で改めて質問します。)

頭悪くてホントすいません。
学会員時代にこうした事を話せる人は身近に全くいなかったですね。。。OTL

2007-02-22 追記
2007-02-18 追記
2007-02-16 20:32:00 追記
2007-02-14 00:32:00 追記
2007-01-06 13:51:07
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181.大御本尊、法華経は誰の物か?日蓮正宗の良いところ?

2007年02月21日 21時42分52秒 | 創価学会
 数ヶ月前に、大御本尊の検証サイトである仏教再考―犀角独歩を見ていました。価値[再]創造こちらでも最近記事が書かれていて私も同じ印象を持ちました。

 私も大御本尊が日禅授与本尊に限りなく一致していると思います。(違いがある気がしますが、写真が一部不鮮明で、よく分からないところもありますね。)

 最近、文底が疑問になり、文底から御書の真偽を調べようとあちこち見て回ったけど、日興上人に本仏論が無かった事や戒壇堂に曼陀羅本尊を祀る考えはなかったらしい。日興上人には本門寺に大曼陀羅を奉懸する考えはあったかもしれないが、戒壇堂に懸ける考えは見えないらしい。こうしたことや一念三千 及び 文底 の議論 完成記事(^_^;A この記事からして

 色々考え合わせるとどうしても「本尊にこだわる」というのは非常に疑問です。

 「本尊にこだわる」理由としては創価学会の場合、「御本尊は命」だからでしょう。御本尊は宇宙生命であり、根「本」を「尊」仰(尊崇だっけ?)するので本尊。御本尊は一度受け取ると”あなたの生命であるから返す事が出来ない”。生命、霊力が宿る。こうした事が間違っていると理解できるようになりました。久遠からの宇宙生命は南無妙法蓮華経というのも疑問に思えます。一家4人家族の場合は誰の生命が宿るんでしょうか?日蓮なのでしょうか?

 そうすると大御本尊にこだわる、というのも非常に疑問です。

 大御本尊を入信してお金を払わないと拝めないのはビジネス宗教として成り立っている社会ですので、ある意味仕方ないのかもしれません。

風塵舎さんによれば、大御本尊を疑う創価学会員は創賊らしい。大御本尊を信じている学会員も創賊なんでしょうかね?

 私も創価学会を退転して去年、独歩さんのHPを読んで大御本尊を疑っていますから、私にも当てはまるでしょう。元創賊(元暴走族みたい。(^_^;A)なんでしょうね。元々私一個人に向けられた言葉ではありませんでしたが、後悔するどころか

風塵舎さんを読んだ時に、「あーー、日蓮正宗に行かなくて良かったな。」と思いました。

●さて疑問です。

 法華経を読んでいて気がついたのですが、法華経に今のところ「誰々の物」「ある特定教団の物」という記述は見あたりません。つまり、誰の物でもなく皆さんの、人類の遺産でしょうね。(宗教は人類の負の遺産という人もいます。)信じる人の所有である事には違いないのですが、信じていない人や信じる事の出来ない人のためにも説かれているはずだと思いました。法華経も日蓮の御書に劣らず膨大な量です。そのせいか人を救おうと心を込めて一生懸命に書かれているような気がしますが、私だけでしょうか?

本尊や大御本尊は誰の物なんでしょうかね?

日蓮聖人御本尊集ここをみるとあちこちに日蓮は本尊を残していますね。鎌倉時代は現代と違って旅するにも命がけだったようですから、日蓮は弟子や門下に本尊を渡す時に心を込めて一生懸命に書いたような気がします。本尊と(仮に存在したとしても)大御本尊で差をつけたとは思えない気がするんですが私だけでしょうか?

大御本尊が一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ:全世界の人々全て)の御本尊であることは私も知っていますが、それにしては日蓮宗の人に「どうぞこちらにおいで下さい」と呼びかけた話を聞いた事がないですね。

創価学会の人が日蓮正宗に行く事があるのは過去記事に書いたとおり私も知っていますし、ネットにも多く書かれていますね。

●日蓮正宗の良いところ?

 これも書いていなかったので書き加えておきます。

大御本尊を信じる人は拝む事が出来る。
公明党の選挙活動がない
書籍や民音がない
創価班(?のようなもの)がない?
新聞啓蒙がない

法主絶対論があるが、日顕氏から日如氏に法主の座が渡されているので、創価学会の言う絶対性が薄れた。むしろ死んだ人や池田氏を永遠の指導者とするあたり、

法主絶対論よりも創価の名誉会長絶対論、明らかに危険と言えるでしょう。

 創価学会員は池田氏を師匠であるといいますが「永遠」とするあたりに大きな疑問を感じます。名誉会長という役職にこだわっているのは池田氏とバリ活ではないでしょうか?言葉が違いますが、”誰々の言う事を聞きなさい、聞け!”という意味では同じでしょう。永遠に池田氏の言う事を聞く必要がある創価はカルトでしょう。

○悪いところ?

ご供養や会費?がある?
本仏論、十界論がある。

生命論、宇宙生命論がある??

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-8.師匠達との対話。その7(法華経に人を罵倒してはいけないという記述)

2007年02月18日 21時08分48秒 | 創価学会
回答(2007.01.18-01) (Libra)
2007-01-18 04:08:35
 やはり、わたしには、そううそさんを満足させるような説明はできないようです。今日の回答(これも、おそらく、そううそさんに響くことはないでしょう)を最後にさせて頂くことをどうかお許しください。

 そもそも、興味のない映画(『法華経』とか日蓮)を無理に観ようとする必要はありません。そううそさんは、わたしとちがって、初期経典だけでも立派にやっていけるのではないでしょうか。


【「我実成仏已来無量無辺」はフィクションの中に出てくるセリフです】
 『法華経』はフィクションですから、その中に出てくるセリフというのは、フィクションの中のキャラクターが発しているセリフであって、歴史上の釈尊(以下、「釈迦」と表記します)がその通りの発言をしたということではありません。わたしは、はじめから、『法華経』はフィクションだといっています。その上で、そこに表現されている思想の中身を問題にすべきだと主張しています(以下を参照)。


  『法華経』と釈尊の思想
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html

 わたしは、寿量品の思想が釈迦の思想に反するとはおもいません。初期経典の記述の中から、寿量品の内容(永遠に説法し続ける釈尊)に相当するものを挙げるとするなら、以下の2つになるかとおもいます。

──────────────────
アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない、『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである。

(「大パリニッバーナ経」、第六章第一詩。中村元訳『ブッダ最後の旅』〔岩波文庫〕、岩波書店、1980年、p. 155)
──────────────────

──────────────────
また比丘たちよ、たとい比丘が、わたしを去ること百由旬(由旬 yojana とは距離の単位、四十里または三十里、あるいは十六里にあたるという)のかなたに住すとも、もし彼が、はげしい欲望をいだかず、欲望のために激情をいだくこともなく、瞋恚をいだくこともなく、よこしまの思惟にかられることもなく、不放逸にしてよく知解し、道心堅固にして、よく一境に心をとどむることをうるならば、則ち彼は、わたしの近くにあるのであり、またわたしは、彼の近くにいるのである。そのゆえんは何であろうか。比丘たちよ、かの比丘は法を見るものであり、法を見るものはわたしを見るからである

(増谷文雄『仏陀 その生涯と思想』〔角川選書─18〕、角川書店、1969年、http://fallibilism.web.fc2.com/085.html
──────────────────

 たとえ釈尊の肉体が滅びても、その教えを弟子たちがしっかりと守り伝えていきさえすれば、釈尊が説いた教えはなくならないので、《法を見る者が見る釈尊》は生き続けます。これは、わたしにとってはあまりにも明らかなことなのですが、そううそさんを含め、多くの人はこの説明に満足しないようです。たとえば、三枝先生の以下のようなご説明も、わたしにとってはあまりにも明らかなことなのです。

  生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
  http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

 しかし、このようなことは、すでにご紹介した拙文の中で説明していることですから、このような説明は、決してそううそさんに響くことはないでしょう。

  法華経について
  http://freett.com/leo020503/bbslog3_002.html




回答(2007.01.18-02) (Libra)
2007-01-18 04:14:17
【縁起の法をさとり、それを衆生のために説き続ける存在──久遠仏】
 もし縁起の法が普遍的な真理であるとすれば、この宇宙で最初にそれを悟った知的生命体が、《地球にお生まれになったあの釈迦》であるという可能性は限りなく0に近いでしょう。そういう感覚は、おそらく釈迦にもあったんだろうとおもいます(以下の資料を参照)。

───────────────
一一 「尊いお方さま! そのとおりでございます。そのとおりでございます。過去にさとりを開き、敬わるべき人々であった尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよっておられました。未来にさとりを開き、敬わるべき人々である尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよられることでしょう。また現在さとりを開き、敬わるべき人(単数)である尊師も、真理を尊び、重んじ、たよるようにしてくださいませ。」

(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、pp.88-89)
───────────────

 寿量品では、諸仏を統一するために、久遠仏という概念を提示します。これは、《縁起の法をさとり、衆生のためにそれを説く存在》の全体を一つの人格として表現したものということができるとおもいます。そして、その久遠仏を釈迦の人格で代表させようとするのが寿量品です。このような内容が釈迦の思想に反するとはわたしはおもいません。宇宙生命論を肯定することになるともおもいません。


【宇宙生命と久遠仏のちがい】
 久遠仏というのは、宇宙がはじまって、いくらか時が流れてから、ある時点で成仏しています。久遠仏の成仏よりも、宇宙の誕生が先です。ですから、論理的には、かならず宇宙生命論と矛盾します(このことはすでにご説明いたしましたので、この説明も、そううそさんに響くことはないでしょう)。戸田第二代会長のような宇宙生命論者は寿量品を理解されていないとおもいます。

 日蓮は「久遠仏が五百塵点劫の当初に証得した法門は一念三千である」と理解していますから、そこには具体的な内容がきちんとあります。戸田第二代会長は「空」も「一念三千」も理解されていないとおもいます(以下の資料を参照)。また、「虚空会の儀式」の意味も理解されていないとおもいます。宇宙生命論は、思想としては無内容だとおもいます。
  
  タツノコさんとの対話2─戸田先生の宇宙生命論について─
  http://fallibilism.web.fc2.com/z016.html

 したがいまして、「久遠を肯定する事は仏法=宇宙生命論を肯定しやすい」ということは、論理的にはありえないとおもいます。




回答(2007.01.18-03) (Libra)
2007-01-18 04:18:10
【日蓮は釈迦が無常無我を重視したのを理解していました】
 日蓮は釈迦が無常無我を重視したことを理解していました。これは以下の発言から明らかです。

───────────────
人の師と申すは弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候なり、例せば仏より前の一切の人天外道は二天三仙の弟子なり、九十五種まで流派したりしかども三仙の見を出でず、教主釈尊もかれに習い伝えて外道の弟子にてましませしが苦行楽行十二年の時苦空無常無我の理をさとり出してこそ外道の弟子の名をば離れさせ給いて無師智とはなのらせ給いしか、又人天も大師とは仰ぎまいらせしか

(「開目抄」、全集、p. 208)
───────────────


【釈迦と天台の修行方法】
 釈迦は縁起の法を理解して、その思想に苦を滅する力があると信じたのでしょう。それで、人々にもすすめたのでしょう。釈迦が縁起の法を理解する以前に行っていた修行は、「集中して心を落ち着けて考える」というものだったのでしょうが、縁起の法を理解した後は、それが意味するところをもっと深く考えること、および、考えたことを人に話すことだったとおもいます。

 すでにご説明しましたように(これも伝わっていないようです)、天台の修行方法は「止観」であり、「一念三千」です。


6.現実の仏教史と五時八教
 「現実の仏教史を発展史として捉えるのは、五時八教が崩れていますから無理」というのは、わたしには意味がわかりません。釈尊の縁起の思想は、『法華経』に空思想として継承されています。『法華経』の内容が初期経典に劣っているということはないでしょう。
 
 釈尊の縁起の思想を龍樹は空思想として発展させました。それをチギは一念三千という具体論に発展させました。五時八教が崩れようが崩れまいが、このように現実の仏教史を発展史として捉えることは可能だろうとおもいます。




回答(2007.01.18-04) (Libra)
2007-01-18 04:22:50
【釈迦も日蓮も神ではない】
 釈迦も人間ですから色々間違えているでしょう。日蓮も同様です。


【「唱題によって勉強もしていないのに智慧を授かる」???】
 わたしはそのようなことは言っていませんが(以下の資料を参照)、これも伝わっていないようです。

  題目は呪文ではない
  http://fallibilism.web.fc2.com/z024.html

 日蓮はたしかに「常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし〔中略〕愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず」といっています。日蓮の時代に、ふつうの庶民全員に仏教学を勉強しなさいなどというのは現実的ではなかったでしょう。それでも、日蓮は、「其の志あらん人は必ず習学して之〔一念三千〕を観ずべし」といっています。

────────────────────
常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏多宝仏十方諸仏一切の諸菩薩二乗天人竜神八部等心に随うべし愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。

(「唱法華題目抄」、全集、p. 12)
────────────────────

 そもそも、唱題だけで智慧を授かれるというのであれば、『法華経』を毎日読んだり(勤行)、十如是の文を三転読誦したりする必要なんてないとおもいます。日蓮は「勤行なんてしなくてもいい」などといっているでしょうか。

────────────────────
さんてんどくじゅ【三転読誦】 法華経方便品第二の「所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等」([法]一五四㌻)の十如是の文を、三種の読み方の意義を踏まえて三遍読むこと。法華玄義巻二上([大正]三十三巻六九三㌻)には空転(是相如、是性如などと読むのは空の義)、仮転(如是相、如是性などと読むのは仮の義)、中転(相如是、性如是などと読むのは中の義)を表すとある。

(『仏教哲学大辞典 第三版』、創価学会、2000年、p. 603)
────────────────────




回答(2007.01.18-05) (Libra)
2007-01-18 04:54:53
【曼荼羅本尊は虚空会の儀式】
 日蓮の曼荼羅が『法華経』(フィクション)に描かれている「虚空会の儀式」を表現したものであるということは、「信仰」ではなく「事実」です。これは、すでにお示しした日蓮の遺文からそういえるとおもいます(日蓮じしんは、「虚空会の儀式」をフィクションとはおもっていなかったでしょう)。

 一方、そこに描かれている「虚空会の儀式」(フィクション)にわたしが感動を覚えるのは、たしかにわたしの信仰です。わたしは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読むと涙がでます。しかし、全く同じものを読んでも何も感じない人がいます。中村元先生は『般若心経』を毎日読誦されていたそうですが、わたしは『般若心経』に感動したことはありません(「四弘誓願」には感動しますが)。それと同じことでしょう。

────────────────────
東洋思想研究の世界的権威として知られた中村元博士は、仏陀の教えに深く帰依し、私生活において毎朝欠かさず「三帰依文」「般若心経」「四弘誓願」、浄土真宗で唱える「生活信条」を読誦し続けていたことが死後に明らかにされた。これが中村博士の「日課経」として印刷され、会葬者に配られた。遺言にしたがい、遺影を前にして参列者全員が声をそろえてこの「日課経」を唱えたとき、会葬者は中村博士の温もりのある息づかいに触れる思いを味わった。

(2001年3月15日付『中外日報』の社説)
────────────────────


【「密教的な本尊や唱題」???】
 「本尊」という用語を用いているだけで密教になるということはないでしょう。

──────────────────────
礼拝の対象として尊崇する仏・菩薩・曼荼羅などをいう。もと、密教の経典である大日経や瑜■〔示+氏〕経に説かれ、それが諸宗それぞれの崇拝対象を呼ぶのに用いられた。

(中村元 他編『岩波 仏教辞典』、岩波書店、1989年、p. 751)
──────────────────────

 そううそさんに伝わらなかったことは申し訳なく思いますが、日蓮の本尊の内容についてはすでにご説明いたしました。本尊は三大秘法の一つですが、内容的には全く密教ではありません。

 題目の意味は『法華経』を読みさえすれば理解できます。それは、すなわち「縁起=空」です。そのもっとも発展した形態(一念三千)において日蓮は題目の意味を理解しているだけのことですから、間違いではありません。題目は無内容ではありません。

 三転読誦により円融三諦(=縁起)を毎朝毎晩確認し、題目を唱えてくりかえし『法華経』の肝心(=一念三千=縁起)を復習するということが、なぜ「密教的」だということになるのでしょうか。そのようなことはわたしにはさっぱり理解ができません。
想像するに、わたしは、密教の説明すらろくにできなかったということになるのでしょう。なんとも、なさけないかぎりです。

 以上で回答は終了です。

 結局、わたしは、ほとんど何もお伝えすることができなかったようです。伝わらなかった原因は、すべて、わたしの説明の悪さにあるとおもいます。申し訳ありませんでした。長時間お付き合い下さってありがとうございました。











Libra師匠からメールで頂きました。

★法華経を読むには漢文形式ではなく、現代人には読み下し文が良いのではないでしょうか?
★法華経の中でも不軽菩薩の話以外に相手を罵倒してはいけないという記述はあるのでしょうか?

 罵倒してはいけないというのは日蓮も言っていますし、釈迦は自明でしょう。但し私は日蓮自伝考を読んでいないので日蓮には慈悲とテロっぽい両面がある。と思っています。人として日蓮に怒りがあるのを肯定しています。普通の人として。ね。

参考 日蓮の優しさと厳しさ 日蓮は今で言う創価学会退会者に本尊を渡したらしい?

-------------------------
 以下、そううそさんの2つの質問にお答えしておきます(ブログの方にコピペして頂いてもかまいません)。

 『法華経』を「漢文形式で読む事に無理があるのではないでしょうか?現代人には読み下し文が良いのではないでしょうか?」とのことですが、まず、現代語訳を入手して、漢文の内容を確認すべきだろうとおもいます。勤行については、内容をきちんと理解した上で、頭の中で訳を思い浮かべながら、口では漢文のままで読むのがよいと個人的にはおもいます(自然に漢文の勉強になります)。教義的なことをあれこれ自分で考えたりする時には、現代語訳をたよりにすればよいとおもいます。

 「法華経の中でも不軽菩薩の話以外に相手を罵倒してはいけないという記述はあるのでしょうか?」とのことですが、安楽行品に以下のような記述があります。

───────────────
「さらにまた、マンジュシリーよ、如来が完全な涅槃にはいったのちの時代、のちの時節、のちの五百年において、正しい教えが消滅しつつある(末法)とき、この法門を説きひろめようと欲する菩薩大士は、安楽な境地にいる(住安楽行)。彼は安楽な境地にいて、身体に宿るか書物にあらわされるかした教えを説き、他人について語るばあいも、彼は激しく欠点を言いつのることはないし、他の説法者の比丘たちの悪口を言うこともなく、非難することもなく、咎めだてすることもない。さらに、他の声聞の道に属する比丘たちの名をあげて、非難することもなく、咎めだてすることもなく、彼らに対して敵対心をいだくこともない。それはなぜかというと、いうまでもなく彼は安楽な境地に安住しているからである。彼は法話を聞きたいといって次々にやってくる人々に、ねんごろに親しみ深い態度で教えを説く。口論にはしるようなこともなく、質問されても彼は声聞の道によって答えるようなことはせず、ただしかし、なんとかして仏陀の知をさとるように(と願って)答えるのである」

(「第十三章 安楽行品」、松濤誠廉・丹治昭義・桂紹隆訳『法華経Ⅱ』〔中公文庫〕、中央公論新社、2002年、p. 69)
───────────────
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180.公明党 広島市議団 政調費で自動車購入

2007年02月17日 23時16分01秒 | 創価学会
Yahoo!ニュース より。

政調費で自動車購入=広島の公明党市議団

またですね。その辺のバリ活が末端の公明党は悪くない、悪いのは党本部だ!(笑)とか言いそうですね。

公明、政調費で車購入/広島市監査委 不正357万円返還勧告

異常

'07.03.09 タイトル変更
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179.創価学会の数字好き、勝利好き

2007年02月17日 02時49分56秒 | 創価学会
Iraq Body Count

(T_T)(-_-)(-_-)(-_-)(-_-)(-_-)

 12月上旬には5万弱、49000人だったか、それが今ではMin 56468、Max 62189
日本とアメリカのリアルタイム赤字カウンター イラク反対!!!
イラクの死者は最低でも5万人。。。。
 今年中には7万人に達してしまうのでしょうか。。。。。。。。。(-_-)(-_-)(-_-)わずか、2ヶ月半の間に約7000人の方が亡くなっています。

●創価学会の数字好き、勝利好き

1000万の連帯、550万部の維持、190カ国、203の名誉称号、(世界の対話北朝鮮の金正日の父、つまり金日成主席)その他に、

○新聞報告
内部購読”数”、外部購読”数”、外部購読ポイント”数”(ポイントとは購読期間の1ヶ月=1ポイント)

○座談会報告
出席者人”数”。部別(壮年・婦人・男子・女子・未来部)で集計。
期間内に何らかの会合に参加した人”数”。

○折伏報告
現場”数”(幹部が入って友人と対話した数)、入決”数”(入会希望カードに記入した友人の数)、御本尊授与”数”

○選挙報告
ZU:統監上の有権者”数”、NU:実際に居住している会員の有権者”数”、マルK:投票依頼をした内部会員の”数”、K:本人が投票意志を表明した会員の”数”、マルF:知人に投票依頼をしてくれた友人の”数”、F:投票意志を表明した友人の”数”、Z:不在者投票”数”

創価学会は多くの人が信仰している事を”数”で誇っています。とある宗教に多くの人が健全に信仰するのであれば、確かに良い事であるとおもいます。

 ですが、最近ブログコメントやメールで何人かの学会員の人と話して「勝利」とか「正義」とか改めて疑問に思えます。池田氏の勝利、創価の勝利、たしかにそう言う面はあるのでしょうけれど、、、、人の幸福が宗教の正邪判定とする事に問題は無いと思います。ですが最近はさらに違和感を感じています。ただ単に「勝てばいい」のでしょうか?「勝ちまくればいい」のでしょうか?

●数が好きな某宗教団体、某政治団体、某大商人

数が好きな某宗教団体と、某政治団体ですから、某大商人は

「大勝利おめでとう! 62189人達成!お疲れ様」

とか伝言してくれるんですかね?選挙が終わるたびに支部幹部や圏幹部にこうした伝言を某大商人はくれますが、こうした数は自分たちだけの独りよがりな数信仰であり、独りよがりの幸福ですね。

 法華経の会座(えざ)で本化(ほんげ)の地涌(じゆう)の菩薩が、それぞれに六万恒河沙(ろくまんごうがしゃ)の多くの眷属とともに、、、、、、、、、なんて言うくらいです。某宗教団体ではありませんが、某宗門では六万人登山しようということでやったみたいですね。「六万 登山 正宗」で検索してみてください。某宗門は某政治団体とは今では関係が薄いですが、某宗門もそうした数字が大好きという事は分かってもらえると思います。

 この六万人登山を様々に罵倒していたのが某宗教団体です。信仰する事を罵倒していたわけです。主に某宗門が信徒が登山する際にトイレが無いだの不手際が多いとか、供養をむしり取るという批判が大半でしたが。。。。。

●創価学会は数字だけでなく、記念日も好きです。

私事ですが他にもこんな体験がありました。

 内得信仰時代に某君は池田氏の入信記念日8月24日に私を入信させたかったようです。8月24日の2,3日前だったか一週間ぐらい前だったのかは忘れましたが、「是非池田先生の入信記念日に入信して欲しい」という事を言われました。よく創価学会では「折伏の決着をつける」といって入信を急ぐのです。

 当時は病気が既にありましたし、悩み事の一つが親との人間関係でもありました。

 ところが両親の創価入信への反対もあったので、入信したい気持ちと悩み事が増えるジレンマがありました。こうしたことを彼には全部打ち明けていたので、当然彼は全部知っていました。自分としては「池田氏の事はほとんど何も分からない、日蓮や仏法について学んでいるだけで精一杯」「とにかく悩み事のために題目をあげたい」そんな気持ちしかなかったと思います。ですから、全然訳も分からない池田氏の入信記念日8月24日を持ち出されて怒った覚えがあります。「お前は俺の病気や悩み事と入信記念日とどっちが大事なんだ?」という感じで聞いた覚えがあります。怒ったからよく覚えているのでしょう。そのときの答えは、「そううその悩み事の方が大事」という事でしたが、あの時に感じた違和感を”友人だから”ということで許してしまったのがいけなかったですね。

”明らかに彼は自分の事しか考えていなかったような記憶があります。”

創価学会は数字だけでなく、記念日も好きです。まるで○朝鮮ですね。日蓮の行動の記念日や歴史であれば記憶したり宗教行事はあっても良いでしょうが、池田教と言われる所以はこうしたところにもありますね。

●妙法の5字7字

 南無妙法蓮華経というのが、南無妙法蓮華経で7字、妙法蓮華経で5字なので、5とか7とかも結構某教団は好きでしょう。イラクで7万人、あるいは7万5千人亡くなったら某大商人は選挙が終わった時みたいに御伝言を頂けるのでしょうかね?某政治団体の立派な成果(結果、現証)でしょうね。良い成果か悪い成果はよく考えてください。>某宗教団体

イランの件も何かあると、アメリカに同調する自民党の後押しをしてしまうのでしょうか?

以上
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池田氏は質素な生活?

2007年02月13日 18時48分24秒 | 創価学会
150 名前:北条時輔 ◆ACiNmI6Dxs [] 投稿日:2007/02/13(火) 13:40:37 ID:4PAa048f
 話は変わりますが、十数年前「四月会」が結成されて、池田氏への
国会証人喚問の動きがありましたが、私個人としては堂々と国会へ
出て欲しかった・・・。

いずれにせよ、池田氏は一般の学会員からは程遠いところにいる。
「師弟不二」を力説したところで、しらけるばかりです。

ウチの両親は池田氏は質素な生活をしていると言ってましたが、
眉唾ものです。私は「人間革命展?」という催しで小説「人間革命」
を書いたとされる万年筆をそこで見ました。「モンブラン」の万年筆でした。
「モンブラン」の万年筆といえば、普通は黒色ですが、何とそのモンブランは
ゴールド製でした。これで「庶民、庶民」って叫んでもむなしいです。

何だか、取りとめの無いレスで申し訳ありません。

---------------------------------------------
http://society5.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1168879740/
私が2chで創価公明板で唯一ROMし続けているのがここだったりします。
ここで相談してブログ開設に至りましたからね。

驚きましたね。ゴールドの万年筆だなんて。
さすがは大商人の生まれ変わり。
万年筆については買ったのではなくてどうせ外部の人か会員から頂いたとか言うんでしょうけれどね。。。。質素な生活とか庶民生活とは言い難いですね。
代筆している人は100円のボールペンですか?(笑)

私も入会前に折伏を受けた時、池田氏が質素な生活をしていると聞きましたけどね。

>池田氏は一般の学会員からは程遠いところにいる。

友岡氏の書籍の感想にも書きましたけど、やはり距離を感じるのは私だけではないようですね。2世3世の人がそう思うならば間違いないのかな。

そういえば、フランスからも私のブログにアクセスがあるんですよね。
日本人なのかどうかわからないのですが、日本語は読める人なんでしょうね。
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178.カルトとMC論と心理学論が纏まっていて欲しいですね。

2007年02月09日 21時13分33秒 | 創価学会
サブタイトル:いつもお願いばかりですが、カルトとMC論と心理学論を纏まっていて欲しいですね。。。

●カルトとは?

カルトには怒りをあおる、怒りを継続させる傾向があります。
常に敵を作って敵を倒せば功徳がある、とするのが学会です。

過去記事に書いてきた通り、敵を見つけては次々と攻撃しますから。
乙骨正生氏、日顕氏、コーヒーカップ裁判、竹入氏  etc、etc、、、、

 常に敵を見つけて攻撃するのは、学会は功徳がある、という言い方をします。
また、悪を倒して功徳がある、とは言わないで、正当性だけを主張する場合もあります。
私も「誰々が間違っているから我々は正しい」ということを
折伏の際に言ってきましたから。実際に私も創価班会や男子部の会合などで

学会の素晴らしさ正当性を語ろう!、宗門の悪逆を訴えよう!
宗門を許すな!

こうした教育(MC)を受けていましたから。
その正当性は創価学会(の会合)にしかないし聖教新聞の活字にしか書かれていない、、、、ということです。

 ところが、正当性を主張だけで”その場”で実際に人が救われているのか?という命題や”人の幸福が正義や正当性といえる”というのが私には抜けていましたね。

 特に学会本部と宗門トップというだけでなく、地区でもそうした法論があった、という話を一度も聞いたことがないので、今考えると正当性は非常に疑問です。

 ネットには創価学会員と正宗の人の(過去記事にも書きましたが)法論対決の動画がありますが、創価側はかなりお粗末な動画もありますね。会合や新聞で会員間にだけ通じる正当性、つまりローカルな正当性では駄目でしょうね。

 こうしたことを考えると、リアルであったことも無い人の攻撃をすることが正当性や人の幸福があるとは思えません。これは私のブログ過去記事にも書きましたが、

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創価学会の「悪」「仏敵」とは何か?創価の勘違い。

ブッダは歩むブッダは語る 感想その4

> 友岡氏も善と悪にきっぱりと分けることは出来ないそう書いてありますし、「白と黒がそれぞれ1色なのに対し、中間のグレーには無限の諧調がある。」これはkousanだったかな?(^_^)(笑)私の思いついた、お酒の1/1000、1/1000000の主張と同じ物を指します。

------------------------------

 少なくとも創価学会は一対一の膝詰めによる対話、ということを同時中継などでも言いますから、学会員自身が一人一人に会うなり、対話するなりして行動していただきたいモノです。

 学会本部は宗門の住所もTELもメールアドレスも知らないのでしょうかね?
これは宗門にも言えますが。宗教者であるならば、誠実にしていただきたいモノです。

 池田氏はこういう事をしないので弟子である学会本部職員や末端の会員も出来ないのかもしれません。そう言えば私も学会員に送った質問メールの返事が来ませんね。私の紹介者である某君も全く連絡はありません。もう私から話す事は何もないですが。冷たいものです。

 こうした独りよがり的な特徴があるのがカルトなのかもしれません。特に創価と日蓮正宗のトップ同士では公に話し合ったビデオとかありません。末端の法論ばかりがネットにあります。トップは平気なんですね。異常です。

●カルトとMC論と心理学論

 これを書こうと思ったんですが、MC論と心理学論が書けません。

1.学会本部は怒りを煽って(日顕宗を打ち倒そうetcなどの怒り)信仰を継続させる?
1.その場合、信仰には怒りの祈りも含まれるんですよね。。。。怒りの祈りなど明らかに不健全ですが。
1.「誰々が間違っているから我々は正しい」
1.敵を倒せば(まじない信仰としての?)功徳がある。死ぬまで攻め抜け、、、etc。

───────────
創価班、牙城会、学会幹部の断り方。
> 過去記事にも書きましたが、学会のほんの少しの良いところを肯定して(言われたからと言って)学会のすべてを安易に肯定する事は危険です。錯覚しないでくださいね。
───────────

やはり、私では体験による箇条書きが精一杯です。

 広義な論理でなくても、初心者向け、家族が創価学会に入りそう、入ってしまった、人向けのMC論と心理学論、(状況?or心理?)説明や対策って書いていただけないのでしょうか?私のリンク集にはカルト論とMC論、脱カルト教会などのHPもありますが、全部どっぷりとつかってしまっているケースのような気がします。。。。勘違いでしょうか?状況?or心理?の説明が不足のような。。。。入信直前、直後の人の人、あるいは退会後の残留しているMCとかね。

私も未だにハンドル名、犬のメメさんのおかげでMCが見つかっていますから意味があると思います。

 皆さんに(軒ちゃんさんとみれいさんにもお願いしたいけど駄目ですか?私も一緒に考えさせて頂きたいくらいですが。。。。)にオネガイしたいです。(笑)(^_^;A(^_^;A(^_^;A  初級編、中級編、上級編があるといいかも。記事数はお任せします(笑)

むしろ自分の得意分野を書いていただくのがいいでしょう。
心理主義についてどんどん、バンバン書いて欲しかったり。(^_^)/
今あるリンクを纏めて頂いても良いでしょう。

 私のリンク記事には昔から「私のカルト体験」や軒ちゃんさんやMC論リンクのみれいさんからの紹介リンクはあるんですが、ブログ形式ではないので議論や問い合わせが出来ないんですよね。。。。本を買えばいいのですが、余り出費もしたくはないし(^_^;A

いつもオネガイや教えていただくことばかりですいません。>ALL

●では自分の認識は?

これだけだと余りにも人任せすぎで酷い(笑)ので私も実体験を書こうと思います。

自分は学会を退会してブログを書いている途中でカルトと気がつきました。
1-21番記事を読むとわかりますが、結構、創価学会を肯定的に書いています。
これらの記事はどちらかというと幸福論、自己責任論から創価を否定しています。断り方が一番の言いたい記事な訳ですが、

よく確認して納得できたら、自己責任で入れば?
よく確認して納得できたら、まじない信仰でも良いから入っちゃえば?

という結論にもとれます。もちろん入信して欲しくて書いているのではなくて、1-21を書いたときにはああいう否定の仕方しかできなかった。ということです。一年前はMCが残っていてあの記事になった、という事だと思います。学会員時代も「オームは犯罪するのでカルトだが、自分たちはカルトじゃない。」「創価学会員の犯罪は一部だけ。」という例によって例のごとく

”良いとこ取り、善意の解釈、結果オーライ主義”をしていました。おそらく第3者から見れば1-21にも同じ傾向があるのでしょう。現在も私の中にMCがあると思います。

「誰々が間違っているから我々は正しい」
自分たち創価も同じ事をしていないか?という疑問がない。
以前は明らかにまじない信仰に魅力を感じていた。
”人の幸福が正義や正当性といえる”というのが私には抜けていた。
創価も宗門も偉そうなことや難しいことを言う割にはちっとも助けてくれない。
人助けをしないのです。むしろ搾取する。

後になって気がつくと言う事でしょうか?また、MCは脱却した後が結構、罪悪感がありますね。

●私のブログにもMCはあります。

過去記事に書いたとおり、

良ければ池田先生のおかげ、悪ければ池田糞豚の所為、ですから。
悪ければ、MC、洗脳です。良ければ、教育、教え(釈迦や日蓮の教え)。

例えば、なり澄ましを調べたとします。
一般論として当たり前ですが、調べる事は当然、人を疑わねばなりません。
ですが、被害者には嬉しかったり、助かります。
加害者にとっては、調べられる事が不愉快でしょう。

良ければそううそのおかげ、悪ければそううその所為、ですから。
良ければ池田先生のおかげ、悪ければ池田糞豚の所為、ですから。

第3者であれば、なりすましを探す事や池田氏悪く言う事などどうでもいい事かと。
一口に疑うと言っても、日蓮や教義や組織、池田氏を疑うこともアンチ創価にとっては良い事であり、学会員にとっては疑う事は悪い事です。

過去記事にも書きましたが、(はったり教、そううそ教がある。)やはり、はったり特急教、そううそ教、友岡教、みれい教、チョンガー教、池田教もあるのです。。。いや、マテ、いけね。断言はよしておこうか?(笑)(^_^;Aあると思います。(笑)

いやですよ?某教団のように怒っちゃ。w

●私のブログはあくまでも私の実体験に基づく一個人のアドバイスです。。。。

私は正式な手順を踏んでなったカウンセラーでもなく、相談員でもありません。

 相談メールを頂いた場合、”創価学会を脱会した経験者として”自分なりにわかる範囲で精一杯に誠実にお返事させて頂く、、、としか言いようがありません。今までも気持ちはそのつもりではいましたが、明確に文章に残しておきたいと思います。
 創価学会員も悩み事があれば相談に乗りますよ?といいますし、私も同じ事(相談に乗っても良いですよ?)を言っています。

----------------------------

生かして生かされて生きる チェック

>■二つめ。資格試験を経ず、カウンセラーを自称する人は疑ってかかる。

----------------------------

状況に応じて、お医者さんか正式なカウンセラーなどに言って頂くのが一番の解決方法ですね。

●私。

 人を不幸にしたり、人を巻き込むような攻撃的なMCは私には元々の性格上、あまり無いと思いますが、明らかに創価のMCと思われる物がまだあるようです。少なくとも折伏という行為はしていたので私の善意の気持ちはともかくとして学会員と同じ問題行動があったのは間違いありません。

 師弟不二の造語は危険ですが私も多少強調や造語をしています。良いとこ取り、善意の解釈、結果オーライ主義、創価思考、(創価スイッチ、これは誰が言い出したのだろう?(笑))。。。。。。。。。。

 最近、友岡氏の書籍やみれいさんLeoさん、Libra さんから仏法を教えていただいて、気が楽になりましたし、法華経の何処何処を読んで”創価はおかしい”って”笑えること”、”楽になったこと”が、やはり大事なのかもしれません。

 自分ではまだよくわかっていないのですが、もしかするとLibraさんの(本尊論などの)意見を否定しつつ、Libraさんの意見を勉強したいと思う事は良い事なのかもしれません。学会員時代は「池田先生の言う事はすべて正しい。」で発展的な勉強はしませんでした。御書は勉強したいとは常に思っていましたが、ある種の必要に迫られる気持ちや認識はありませんでしたからね。。。。

 皆さん一般人のブログで普通の人と普通に話せることが大事だと考えています。また創価学会員の人と話をする事にも抵抗はありません。むしろそれが理想と考えます。私にとって良い人なのか悪い人なのか?という違いだけです。良い学会員が来て普通に話してくだされば、私の性格や意見の裏付けにもなるでしょう。

 なにしろ私は 創価学会員 → アンチ創価 → 一般人 と一般人になりたいのですから、三九郎さん、starstoryさん、犬のメメさん、道楽猫さん(一般の人?)と普通に話したいと私が思うのは当然のことでしょう。自分自身をチェックするのにありがたい存在な訳です。

MC、カルト思考が強ければ強いほど、創価のように排他的になるでしょう。

実際、創価学会は世界宗教者平和会議に参加していませんし。(過去記事に書いたので検索してください。)

以上


'07.02.13 修正 太字
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177.創価班、牙城会、学会幹部の断り方。

2007年02月06日 20時30分20秒 | 創価学会
 ちょっと急ぎの緊急記事。追記があれば目次横に日付を記載します。

 ちょっと以前にメールで相談された事と少し重なるのですが、学会を疑問に思っていないのであればともかく、疑問があれば幹部なども断った方が良いかと思います。

 MC論や心理学論(草稿中)と関わるのですが、私が学会から受けたMCや学会精神は創価班大学校や創価班会に多いです。
 創価班大学校や創価班会で(牙城会も同じと思われます。)教え込まれた「敵を倒して功徳がある」「敵を粉砕」「敵に勝つ仏教学」「敵を攻撃する仏教学」「宗門が間違っているから」。。。という内容なので今となっては非常に疑問です。これはブログを読んで頂いて創価の矛盾を感じ取って頂くより他はありません。

では、ラインの幹部はどうかというと、もう自己責任かと。。。。

 幹部になれば矛盾を感じていても例えば「公明党を応援しよう!」といわないといけないかも。
 良い人や良い先輩がいる場合、幹部の要請があった場合、断りにくいでしょう。人間革命にも「幹部就任を断ったから罰が当たった。」という有名な記述がありますよね。罰論で説得する幹部もいるかも。「幹部になれば福運がつく」と説得する場合もあるでしょう。

 学会には確かに人助けをしている面も無いわけではありません。部長会(地区リーダー会)などで部員さんの不幸を何とか解決できないか?折伏をしている人を助けられないか?という相談や打ち合わせの会合になる場合があると思います。実際私も病気が酷いときに部長会で私の名前が挙がり、同じ病気の人や良い医者はしらないか?という話題がたびたび出て、心配して頂いたようです。
 そうしたことは今でも感謝はしていますが、実際は究極のところにくると「逃げる姿勢」というか、「関わり合いにならない」という面もあります。

 また、上記の部長会は本部、区の幹部、圏幹部次第です。男子部であれば、区男、本部長、区青年部長が部長会などで「会員さんの困った事をサポートする」という議題がないと全く扱われないと思います。選挙戦に突入したらそうした事は少なくなるでしょう。

───────────
創価学会の信仰に功徳はあるか? 体験談や男子部の数は多いの?少ないの?
───────────
 ここの地方B男子部、というか区の男子部ではそうした事が習慣化されていましたが、他のところでは直接、部長や本部長が個々に上の幹部に相談しない限りありませんでした。つまり幹部次第でありケースバイケースなのです。明確な規定はありません。

 過去記事にも書きましたが、学会のほんの少しの良いところを肯定して(言われたからと言って)学会のすべてを安易に肯定する事は危険です。錯覚しないでくださいね。
 特に今は年度末で引っ越しがあると、選挙の前でもあるので幹部などをかなり強引に押しつけられる面があると思います。
 先に書いた創価班大学校、入卒式もこの時期です。今年は選挙があるのでかなり前倒しになっているかもしれません。

●絶対に断れないのか???

 絶対に断れないという事はないと思います。
 実際に私は健康が思わしくない場合、青年教学を二度、地区リーダー、創価班の任務、創価班会もたびたび断っています。やはり地方B男子部でしたね。

問題は上の幹部に話して理解を得られるかどうか?、、ですね。

 ニューリーダーぐらいなら名前だけで未活動家なんていくらでもいましたし、地区リーダーや福地区リーダー、部長あたりでは名前だけ、未活動家は少なくなっていきますが、家庭の事情、仕事、健康などが理由で断る人はいます。創価班や牙城会をやめて一般の男子部に戻る人はいますよ。

───────────
妻はアンチ、夫はバリバリ。
───────────
華さんの旦那さんも創価班幹部を断ったみたいです。(詳細リンクがわかりません。華さんにご迷惑になるといけないので問い合わせではなく「創価班」「S班」「班」で検索してみてください。)

 ラインの幹部であれば、「私はイラクを肯定した公明党は絶対支援しません。幹部になったら部員に同じ事を言いますがいいですか?」とか言えれば諦めるのでは?(笑)自信がないとかいうと、幹部は就任してからが目標であり立派な○○○(地区リーダー、創価班、牙城会など)になってください。」とかうまい事言われますよ?

 家族の反対はケースバイケースで、未入信の家族や恋人だと「だからおまえの信心が足りない、学会理解者に早く説得するように」とか言われるかも。家族が全員学会員の場合はやはり断るのに大変でしょう。

君には使命があるんだ!
学会に受けた恩があるじゃないか?
我々は創価家族じゃないか?

とかね。池田氏を持ち出す事もあるでしょう。。。。。

 ””やはり一番は個人の事情でお断りする。コレが一番だと思います。。。””

 婦人部幹部や新聞配達員などもおそらくは個人の事情でお断りする。。。コレが一番かと。
おぉ!なんだか久々に記事らしい記事を書いた気がします。(笑)ホッ(*^_^*)状況次第や思い出す事があれば、記事に追記します。

以上
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176.創価学会員とのやりとり その9

2007年02月03日 11時38分18秒 | 創価学会
 過去に創価学会員のメールを晒した事があります。

 最近、そのことに関連して、ある人からTELにてご注意を頂けたのと、別の人から一般論として、「どこからどこまでがプライバシーといえるのか? 問題解決の為、事例の列挙する事と言えるか?」という議論をしました。質問などが2つ重なったので今の考え方を書いておきます。 記事番号としては92、107、108、109がそうだと思います。簡潔に書くと


荒らし行為があった。マナー違反

学会員のブログに抗議文書を貼り付けた。nanaさんが忘れるといけないので備忘録

別の学会員Bが来てやはりマナーを守って頂けない。

上記の事にも某学会員Aは注意しない

”私から先に”対話を継続するメールを某学会員Aに3度も送付。

私からのマナー方針に了解して頂き、病気の責任が取れない事に同意して頂いた。A

またも荒らし行為。マナー違反

「がたがたぬかすんじゃねぇ」という暴言。マナー違反

出入り禁止

出入り禁止にした私の人が疑われると嫌なのでメールを公開。B

gooより一方的に削除要請(gooに抗議しても覆らない)C

学会員のメールを主旨に変更して今に至る。


というわけで、Aの時点で問題人物と約束させる時にはメール公開の同意が必要か????。。。
01番記事の厳守をしてもらうよりほかないが。。。。。
---------------------------
創価学会に功徳はあるか?を書く前に。
>○1-2.メールについて
 受け取ったメール内容に問題が有り、抗議しても妥当なお返事が頂けなければ、ブログ上に晒します。更に酷ければプロバイダなど正式に抗議します。
---------------------------

 B、Cの時点で学会員Aにメールで和解か抗議、同意を得ても良かったかもしれないが、思いつかなかったですね。TELでご指摘頂いた様に今後は

「メール公開の同意を可能な限り得る様、」

気をつけたいと思います。トラブルの場合にはケースバイケースですね。

○言い訳

いきなりやってきて罵倒、など最初からマナーの問題がほとんどである。(仏法対話らしい対話はほとんどしていない)
躁鬱病の人に来て貰っても対処に困る。
こちらから3通もメールで和解を促し約束し、折伏もコメントも許可した。
問題のあるメールが来た時には公開する。(01番記事)
「和解と約束のメール」は問題解決といえる。
「和解と約束のメール」を表に出す事は私の信用維持に繋がる。(出さないと信用を失う)
学会員A、B共にマナーの話しかしていない、マナー違反ばかりしているのに、自分に都合の悪い所だけをgooに頼るのはいかがな物か?

「和解と約束のメール」を公開する事は、なによりも今後の荒らし対策になる。

というわけで私にも失敗はありますね。今後はBとCに気をつけるしかないですね。

○今後

「どこからどこまでがプライバシーといえるのか? 問題解決の為、事例の列挙する事と言えるか?」

やはり、軽々に”判断する事””判断出来る事”の方が危険ですね。
ケースバイケースで慎重な判断が必要ですね。

こうした事を思い返すとネットの学会員に必要以上に親切にするのは無駄なのかもしれません。

 1万5000文字も書いて、アンチ創価が創価を擁護する苦労という物が無駄になった様な気がします。そういう人と友人でいると私も疑われてしまうでしょう。
私の恥であり、失敗であり、人を見る目がなかったわけですが、きちんと残しておきたいと思います。

 なお、多くの相談者からメールを頂いていますが、ご了解を得てメールの一部公開したのはチョココさんの件だけかな?。なぜか8割が結婚と恋愛相談ですが。。。。。全部一般論として、私の意見として記事にしていますから問題ない様に気は遣っているつもりです。

なお、メール公開も建設的な人であれば、チョココさん、Libraさんのように「どうぞどうぞ」と言って下さいます。

以上
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