適切なカテゴリーがないので、一般仏教にした。
前記事からの続き
●「お導き、おはからい、E−1」は現代の神道、仏教でかなり基本的
「お導き、おはからい、E−1、おまかせは安心との相互関係」「要点Bの要素があれば安心しておまかせする言動と心の動きが可能」と書きました。
本来、お導き、おはからい、E−1は、現代の神道でも仏教でかなり基本的なことです。
導きであれば、仏教なら空海さん(774年 - 835年4月22日)以前、神道なら日本書紀まで遡れると(私が調べた限りですが、もっと遡れたらごめんなさい。)考えています。
他宗の皆さんは「知っていて身に付いてます。」1300年以上経っても基本的な事が私は出来てなかったわけです。
私は日蓮遺文以外の仏教や神道の読書もしていたので「お導き、おはからい」の話になった時にすぐに気がつきましたが、E−1、おまかせはピンと来てませんでした。
日蓮遺文にはE-2の語意も記述されているのにも関わらずです。
日蓮宗では以前(古く?)から言われている安心立命を私が書いた以後も正宗系界隈で、誹謗中傷等が収まらなかったのは日蓮遺文の読みの甘さや教える側の無能さが明確に出ていると思います。
注意の為書いておきますが、他宗では一々「お導き、おはからい、E−1」を口にして発狂するような喜び方をしません。ごくごく普通です。
要点Bの要素が分からなければ、創価や正宗に居続けるのも仕方ないかもしれません。
どうぞご自由に。私は知りませんよ。
●私の過去の肯定
今回の一連の記事で、安心立命とお導き、おはからい、E−1、おまかせを「体験ともに結びつけて」書けてよかったと思います。
もくじ1の頃から正宗系の誹謗中傷、暴言、喧嘩、悪口罵詈(あっくめり)、冷笑等を止めるように何度書いたか分かりません。もくじ1の01番記事を何度追記、修正したことか。
●書き方について
「お導き、おはからい、E−1、おまかせは安心との相互関係」「要点Bの要素があれば安心しておまかせする言動と心の動きが可能」と書きました。
「お導き、おはからい、E−1」が特に該当すると思いますが、普通はこうした書き方は誰もしません。基本的すぎるのと簡単なので例えば学者はテクニカルタームを並べて意義付けの為に難しく書くと思います。
私自身は創価や正宗に入信と活動した大失敗に比べれば恥ずかしくありませんね。(笑)
正宗系の人は意味不明や不可解、不自然に思うかもしれませんが、逆です。こうした事を書かないと元創価、元正宗、元顕正会の止めた人であっても危険なままか頭おかしいままだと世間一般の人々に思われて当然か自然です。
宗教者からか、神仏からの安心を経験したほうが、より迅速な脱カルトになる可能性があります。
但し、宗教者が宗教的に清貧、有能であることが必須です。(真面目や思いやりなど)
安心とは逆の不安さや怖さ等を理由に正宗系の人は嫌われたり気持ち悪がられるのですよ。わかりますか?
仏教でも神道でも仏様や神様が、正宗系の人がよくする誹謗中傷、暴言、喧嘩、悪口罵詈、冷笑等を最優先したり推奨するはずがありません。
●今も安心立命や「お導き、おはからい、E−1、おまかせできる安心」を実体験しているかもしれません。
私自身も「お導き、おはからい、E−1、おまかせできる安心」をよく分かっていませんでした。
JSCPRで安心立命を理屈だけ学んでも意味がない。
日蓮宗の文献で安心立命などの宗教語彙の理屈だけ学んでも意味がない。
大事なのは、安心立命や「お導き、おはからい、E−1、おまかせできる安心」を過去に実体験し、今後も体験可能かもしれない点です。
これはかなり重要な事で私が死ぬまでのテーマになるでしょう。
●自分の祈りは変わるのか?どう変化するのか?
これも私自身の死ぬまでのテーマになるかもしれません。
ブログ立ち上げ後しばらくしてから一般的な神社仏閣には参拝しています。
また日蓮宗など現代の他宗を馬鹿にしていませんでした。
これらが良くて神仏のお導きでCさんに出会えたのかもしれません。
Cさんの祈祷(祈り)は専門職の祈祷です。
私は専門職でありませんし、どの教団でも一般信者です。
特定教団によらず多くの神仏に向き合い専門職でない普通の祈りが人並みに復活するのかもしれません。
●ふと思ったこと1
体験と元に幸福を実感した後、日蓮遺文を思い出しました。
行道文庫
「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき、来らぬ福やあるべき。」
昭和定本
「今又法華経を信人はさいわいを万里の外よりあつむべし。今又法華経を信人はさいわいを万里の外よりあつむべし。」
日蓮さんは神仏を信じるだけでなかったので、確信的に言えたのかもしれません。
私が主張したい「何か」は法華経や曼荼羅本尊、題目ではありません。
●ふと思ったこと2
現代の浄土宗でどれだけ拡大解釈されているかわかりませんが、「安心してお任せ」は死後を任せる阿弥陀仏思想と部分的に一致すると思いました。
現代だと生きている間でも阿弥陀仏に安心してお任せなのでしょうか?
(主旨)阿弥陀仏が我々に向かって「私に任せなさい、あなたを必ず救うから安心して生きなさい」とあるみたいです。
(続く)
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●「お導き、おはからい、E−1」は現代の神道、仏教でかなり基本的
「お導き、おはからい、E−1、おまかせは安心との相互関係」「要点Bの要素があれば安心しておまかせする言動と心の動きが可能」と書きました。
本来、お導き、おはからい、E−1は、現代の神道でも仏教でかなり基本的なことです。
導きであれば、仏教なら空海さん(774年 - 835年4月22日)以前、神道なら日本書紀まで遡れると(私が調べた限りですが、もっと遡れたらごめんなさい。)考えています。
他宗の皆さんは「知っていて身に付いてます。」1300年以上経っても基本的な事が私は出来てなかったわけです。
私は日蓮遺文以外の仏教や神道の読書もしていたので「お導き、おはからい」の話になった時にすぐに気がつきましたが、E−1、おまかせはピンと来てませんでした。
日蓮遺文にはE-2の語意も記述されているのにも関わらずです。
日蓮宗では以前(古く?)から言われている安心立命を私が書いた以後も正宗系界隈で、誹謗中傷等が収まらなかったのは日蓮遺文の読みの甘さや教える側の無能さが明確に出ていると思います。
注意の為書いておきますが、他宗では一々「お導き、おはからい、E−1」を口にして発狂するような喜び方をしません。ごくごく普通です。
要点Bの要素が分からなければ、創価や正宗に居続けるのも仕方ないかもしれません。
どうぞご自由に。私は知りませんよ。
●私の過去の肯定
今回の一連の記事で、安心立命とお導き、おはからい、E−1、おまかせを「体験ともに結びつけて」書けてよかったと思います。
もくじ1の頃から正宗系の誹謗中傷、暴言、喧嘩、悪口罵詈(あっくめり)、冷笑等を止めるように何度書いたか分かりません。もくじ1の01番記事を何度追記、修正したことか。
●書き方について
「お導き、おはからい、E−1、おまかせは安心との相互関係」「要点Bの要素があれば安心しておまかせする言動と心の動きが可能」と書きました。
「お導き、おはからい、E−1」が特に該当すると思いますが、普通はこうした書き方は誰もしません。基本的すぎるのと簡単なので例えば学者はテクニカルタームを並べて意義付けの為に難しく書くと思います。
私自身は創価や正宗に入信と活動した大失敗に比べれば恥ずかしくありませんね。(笑)
正宗系の人は意味不明や不可解、不自然に思うかもしれませんが、逆です。こうした事を書かないと元創価、元正宗、元顕正会の止めた人であっても危険なままか頭おかしいままだと世間一般の人々に思われて当然か自然です。
宗教者からか、神仏からの安心を経験したほうが、より迅速な脱カルトになる可能性があります。
但し、宗教者が宗教的に清貧、有能であることが必須です。(真面目や思いやりなど)
安心とは逆の不安さや怖さ等を理由に正宗系の人は嫌われたり気持ち悪がられるのですよ。わかりますか?
仏教でも神道でも仏様や神様が、正宗系の人がよくする誹謗中傷、暴言、喧嘩、悪口罵詈、冷笑等を最優先したり推奨するはずがありません。
●今も安心立命や「お導き、おはからい、E−1、おまかせできる安心」を実体験しているかもしれません。
私自身も「お導き、おはからい、E−1、おまかせできる安心」をよく分かっていませんでした。
JSCPRで安心立命を理屈だけ学んでも意味がない。
日蓮宗の文献で安心立命などの宗教語彙の理屈だけ学んでも意味がない。
大事なのは、安心立命や「お導き、おはからい、E−1、おまかせできる安心」を過去に実体験し、今後も体験可能かもしれない点です。
これはかなり重要な事で私が死ぬまでのテーマになるでしょう。
●自分の祈りは変わるのか?どう変化するのか?
これも私自身の死ぬまでのテーマになるかもしれません。
ブログ立ち上げ後しばらくしてから一般的な神社仏閣には参拝しています。
また日蓮宗など現代の他宗を馬鹿にしていませんでした。
これらが良くて神仏のお導きでCさんに出会えたのかもしれません。
Cさんの祈祷(祈り)は専門職の祈祷です。
私は専門職でありませんし、どの教団でも一般信者です。
特定教団によらず多くの神仏に向き合い専門職でない普通の祈りが人並みに復活するのかもしれません。
●ふと思ったこと1
体験と元に幸福を実感した後、日蓮遺文を思い出しました。
行道文庫
「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき、来らぬ福やあるべき。」
昭和定本
「今又法華経を信人はさいわいを万里の外よりあつむべし。今又法華経を信人はさいわいを万里の外よりあつむべし。」
日蓮さんは神仏を信じるだけでなかったので、確信的に言えたのかもしれません。
私が主張したい「何か」は法華経や曼荼羅本尊、題目ではありません。
●ふと思ったこと2
現代の浄土宗でどれだけ拡大解釈されているかわかりませんが、「安心してお任せ」は死後を任せる阿弥陀仏思想と部分的に一致すると思いました。
現代だと生きている間でも阿弥陀仏に安心してお任せなのでしょうか?
(主旨)阿弥陀仏が我々に向かって「私に任せなさい、あなたを必ず救うから安心して生きなさい」とあるみたいです。
(続く)