創価学会の信仰に功徳はあるか?

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中国天台宗の改ざんか?「四十余年未顕真実」原文は「四十餘年未曾顕実」

2015年11月24日 20時51分45秒 | 創価学会
中国天台宗の改ざん「四十餘年未顕真実」原文は「四十餘年未曾顕実」

大蔵経で「四十餘年未曾顕実」を検索

2011/08/19
犀の角のように独り歩め:日蓮墨筆を読む(516) 無量義経要文-四十余年四十餘年未曾顯實?

2013/01/17
「四十余年未顕真実」 天台流のトンデモ論法

2013/1/29
無量義經説法品第二に触れているヤフー知恵袋

2014/01/19
フランス・メディアの旅: 「四十余年未顕真実」の文は無量義経に 法華経の開経の意味を誤る戸田城聖

日付不明
法華経をめぐる経典成立の概略(涅槃経・無量義経)

2015/06/17
無量義は一法・・って。 | 大石寺系教団の掲示板

2015年6月24日水曜日
横野真史の学術的メモ帳: 有名なフレーズ・引用する文・故事は典拠を探して原文を確認する

http://anago.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1444225606/591,594-597
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日本仏教の歴史の中で何時頃「四十餘年未顕真実」と「四十餘年未曾顕実」が認識されたのでしょう?
日蓮さんは仕方ないと思いますが、戸田城聖や池田大作、学会本部連中、正宗の僧侶は、よくこれで他宗を誹謗中傷できましたね。

読み下し文は私にも不確かですが、無理して学会など正宗系に入信する必要は全く無いですね。


「四十余年未顕真実」 天台流のトンデモ論法
の内容が法華経と無量義経の解説があって一番わかり易い気がします。

以上
コメント (3)
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日蓮さんと三昧耶戒(三摩耶戒)

2015年11月18日 21時00分10秒 | 創価学会
2chの「日蓮って」スレでは三昧耶戒を日蓮さん(以下、日蓮)が受戒していないとの話があった。他宗の誹謗中傷をしたので日蓮は三摩耶戒を知らなかったのだろうとある方が推測していました。

推測の内容
>伝法潅頂はもちろんのこと、受戒すらも受けていないのでは?
>せいぜい素人の「なんちゃって真言僧」だったのでは?


犀角独歩さんのブログを見ると度々、「三昧耶」という単語は出てくる。
犀の角のように独り歩め:日蓮墨筆を読む(624)顕戒論縁起巻上(書写)10 最澄の密教潅頂

(書写)11にも最澄が密教の潅頂を受けていることがわかるので現代の日蓮系の真言批判が、まず成り立たない。

三昧耶戒とは(三摩耶戒・発菩提心戒・三昧耶仏戒) * 法楽寺 真言宗泉涌寺派大本山
また、三昧耶戒そのものは上のリンクによれば「どの灌頂にしても、まず受戒するのが三昧耶戒」(主旨)とのこと。
僧俗の誰もが守るべき、基本的な三昧耶戒というのが確実。秘密の三昧耶戒は存在し、もしかすると別名かもしれません。



他に秘密の三昧耶戒(おそらく真言密教の曼荼羅)がはっきりすれば、日蓮の歪んだ信仰を止めさせる理由になります。
先祖が真言だった人々を正宗系教団から真言系に戻ってもらう為、もしご存じの方がいれば、三昧耶戒の詳細を教えて下さい。
wikipedia、法蔵館の仏教学辞典の三昧耶戒は読んでいます。三昧耶戒をそのものを教えて頂く必要はなく、文献や論文など証拠があれば十分です。

犀角独歩さんのブログも法楽寺の記事だけでも日蓮信仰の必然性はないことがわかりますけどね。(笑)



以下は私の推測が含まれます。
密教僧侶としてトップクラスの伝法潅頂が無かったのは事実だと思います。

残念ながら日蓮には度牒(どちょう)や戒牒(かいちょう)の記録が無いのは現代までの仏教学の調査上の事実。なので日蓮さんが私度僧だった可能性は残ります。
同時代の僧侶には2つの牒があって、日蓮には記録がありません。(日蓮の直弟子には牒が有った記録がある。)

ただし、三(四)戒壇でなく、清澄寺の受戒それから大日如来、愛染不動など究極の伝法ではないかもしれないが、何かの潅頂はあったと思います。
12年?も比叡山延暦寺で度牒や戒牒が全く無く、無戒律なまま教えを受けることは不可能では?
今で言うところの、中卒や高卒のような、あるいは地方としての清澄寺の度牒や戒牒はあったのではないでしょうか?高野山、比叡山延暦寺で再度受戒もあり得ます。

日蓮宗の辞典によれば智證(ちしょう)に以下の様な記録があります。
---------------転載、引用を厳禁-----------------
「入唐第三年の斉衡二年(八五五)四月蘇州にて円載と会い、五月同行して洛陽に赴き、六月長安青竜寺に法全を尋ねて密教を学び、七月竜興寺にて円載と共に三摩耶戒、次いで胎蔵灌頂、一〇月には金剛界灌頂を受けた。そこで法全は両部大教阿闍梨位灌頂を授け、伝法の印信として五鈷杵五鈷鈴を施与した。」
---------------転載、引用を厳禁-----------------

あくまで私見ですが、日蓮の法華経による受戒制度を望んだのは法華僧だった自分を正当化するための受戒の場が欲しかったのかもしれません。
オレオレ受戒ですね。
もしそうであれば、日蓮は一体、誰を戒師にして受戒するつもりだったのでしょうかね?
逆の立場で日蓮自身が戒師であれば經典や伝統と異なり根拠が無いことになります。

日蓮さんの名前が今に残るのは在野の僧(聖僧)として正式受戒した僧侶に予言や祈祷や法論である程度勝ってしまったからかもしれません。
日蓮さんに現代から見た間違いは多くあっても歴史に名を残す説得(折伏)はしているわけです。
「「何もしていない学会本部、正宗、正信会、顕正会の各トップは恥ずかしくないんでしょうか?」」

經典に従わない僧侶や宗派、戒律をまもらない僧侶であれば「三摩耶戒」の対象外で批判対象になる、と日蓮は考えたのかもしれません。
きちんとした根拠があれば、根拠に基づき批判は可能です。現代でも鎌倉時代でも。

日蓮が三昧耶戒の存在を知っていたのは確実。僧俗の俗でも受ける三昧耶戒を受戒したかは記録がなく不透明。御義口伝に記載があるので日蓮も三昧耶戒を受戒しただろう、というのが今の私の見解です。
日蓮自身は受戒したけど、弟子には必要性を認めず教えなかった可能性もあります。

遺文には三昧耶戒はなく、「三摩耶戒」はある。


日蓮宗の辞典で「三摩耶戒」を調べ一部抜粋すると以下のとおり。
なおここから下は転載、引用を厳禁とします。

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●阿閦仏
五鈷杵を三摩耶形とする。

●威儀形色経(いぎぎょうしききょう)
表題には『法華曼荼羅威儀形色法経』、内題には「証成妙法白蓮華経王八葉蓮華上涌出宝塔中両足婆級鑁八大菩薩等及三重方壇 "三摩耶" 眷属妙威儀形色講願会方位款幟曼荼羅八平等大会成就法華三昧現世入初地決定証菩提法経」とあり、略して『威儀形色経』という。

●戒壇院
比叡山に最澄が創唱した円戒を受けるための円頓戒壇が弘仁一三年(八二三)に許可され天長四年(八二七)に義真によって建立されて、本朝四箇の戒壇が成立した。以後、三井に三摩耶戒壇が白河天皇の宣旨を得てつくられ、また唐招提寺にもつくられた。

●紫朱論(ししゅうろん)
曼陀羅には大曼陀羅、法曼陀羅、三摩耶曼陀羅の三種類ある

●大黒天
『大黒天神法』には「大黒天神は大自在天・堅牢地天の化身なり。伽藍に之を安じ、毎日炊く飯の上分をこの天に供養す、夢中の語詞の中に誓て云、もし吾を伽藍に安置し日々に敬供せば、吾寺中に衆多の僧を住せしめ、毎日必ず千人の衆を養はん、乃至人宅も亦しかなり、もし人三年専心に吾に供せば吾必ずここに来り供人に世間富貴乃至官位爵禄を授与せん。吾が体は五尺もしは二尺、もしは二尺五寸に作り、亦えて之に通免す、膚色は悉く黒色に作り頭に烏帽子を冠らしむ、悉く黒色也、袴を着けしめ駈寨垂れず、狩衣を著けしめ裙短に袖細くす。右手は拳となして右腰に収めしめ、左手に大袋をもたしめ、背より肩上にかけしむ、その袋の色鼠毛色となす、其の垂下の程臀上に余る。かくの如く作りおわって大衆食居におり礼供せば、堂屋房舎必ず自然に栄え聚集湧出せん。大黒天神は胎蔵界、普印を用い三摩耶形剣、青色にして三面六臂、前左右手横に剣をとり、左手に人頭をとり、右手に羊牝をとる、次の左右は象皮を背後に張り髑髏をもって瓔珞となす(次に仁王経良賁疏、南海寄帰伝を引き)師云く此法は最極秘密の法也、室に入らず、いまし名簿なきの人には伝受すべからず、千金莫伝、努々」とある。

●般若経
第九会能断金剛分は第五七七巻で、鳩摩羅什、菩提流支、真諦の三師がそれぞれ訳した『金剛般若波羅蜜経』各一巻と、笈多訳『金剛能断般若波羅蜜経』一巻、義浄訳『能断金剛般若波羅蜜経』一巻と同本である。第十会般若理趣分は第五七八巻で、梵文般若理趣百五十訶に相当し、菩提流支訳『実相般若波羅蜜経』一巻、金剛智訳『金剛頂瑜伽理趣般若経』一巻、不空訳『大楽金剛不空真実三摩耶経』一巻、施護訳『気照般若波羅蜜経』一巻、法賢訳『最上根本大乗不空三昧大教王教』七巻と同本である。

●蓮華三昧経
詳しくは『妙法蓮華三昧秘密三摩耶経』略して『蓮華三昧経』、または『無障礙経』(伝源信『真如観』等)とも呼ばれる。一巻。卍続一・三・三収。不空訳という伝説もあるが、中国撰述か、または日本撰述であることは島地大等『天台教学史』が既に論及したところである。

●智證(ちしょう)
(八一四-九一)字は遠塵。延暦寺第五代座主、また園城寺中興の祖、天台宗寺門派の派祖である。遺文中では「山王院」「後唐院」「證」とも呼ばれ、延長五年(九二七)一二月に智證大師の号を勅賜さる。俗姓は和気氏、香川県仲多屋郡金倉の人、童名は広雄、空海の俗甥という。一四歳家を去って京都に上り、翌年叔父僧仁徳に伴われて叡山に登り、座主義真に師事。天長九年(八三二)一九歳、年分度者の一人に加えられて受戒し、円珍と改名。翌年『大日経』の試業を経て甲科に上り、四月一五日延暦寺戒壇院で義真に菩薩戒を受けて比丘となり、一二年の籠山修行に入る。籠山中の承和九年(八四二)五月伝教大師が順暁から相承した三種悉地印信を徳円から受け、籠山満行の翌々年の承和一三年延暦寺大衆に推されて真言学頭となり、嘉祥二年(八四九)内供奉十禅師、翌年伝燈大法師位に叙する。仁寿元年(八五一)四月入唐求法の詔を得て京を出発し、太宰府に留ること足掛三年、仁寿三年七月唐商欽良暉の船に乗り、八月一五日福州連江県に着く。開元寺に宿泊、寺中で中印度僧般若怛羅に会い、梵字を習う。一〇月温州開元寺にて四分新疏等を受け、一二月台州國清寺にて物外に止観を聴き、また章疏三〇〇巻を書写。翌年二月禅林寺を訪れ、九月越州開元寺に行き、良畿に謁して天台学を聴く。入唐第三年の斉衡二年(八五五)四月蘇州にて円載と会い、五月同行して洛陽に赴き、六月長安青竜寺に法全を尋ねて密教を学び、七月竜興寺にて円載と共に三摩耶戒、次いで胎蔵灌頂、一〇月には金剛界灌頂を受けた。そこで法全は両部大教阿闍梨位灌頂を授け、伝法の印信として五鈷杵五鈷鈴を施与した。

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2018年1月8日追記。
上記は2015-11-18頃の私の考えです。
今現在は上記に加えて以下のとおり。

気楽に語ろう☆創価非活☆さんのツイート: ご意見ありがとうございます。 日蓮が私度僧で、阿闍梨号を持ってなかったという説もあり、確かなことは言えないのですが、弟子に阿闍梨号を授けてもいますし、論理的に考えて比叡山その他で日蓮は阿闍梨号を受けていたと考えるのは推察としてあり得ることかと思います。

行敏御返事で「日蓮阿闍梨御房」とある事から、日蓮という名前は阿闍梨号ではないかという説

感覚として池田の「仏法は厳しい」「◯◯を許さない」というのは忘れるべき。色々勉強するとわかりますが、江戸時代に神仏習合で仏教も神道も「ゆるゆる」。ですからそれ以前の鎌倉時代の儀礼などは遺文や経典に比べて分かりにくい。

度牒、戒牒は一代限りですので度牒、戒牒が遺文として残る方が稀。

日蓮さんは真言密教僧でした。真言の僧侶として受戒し僧侶となり天台に転向。天台の再受戒があったとは私は考えていません。日本仏教で転向(宗派替え)と最受戒の論文は見つけていません。

「高野山や天台山で学んでいれば日蓮が私度僧であったことは考えにくい」
「真面目な日蓮が全くの私度僧であって弟子を違法にとったとは考えにくい」

「弟子の六老僧たちも度牒、戒牒のない僧侶を師匠にしたいと思わないでしょう。日蓮さんは(仏教を間違えましたが)歴史に残る名僧です。他宗派の僧にも大勢、受戒を得て僧侶になっているので、この点でも考えにくいです。
弟子の日昭に度牒か戒牒かあったと記憶しています。

空海さんと最澄さんの時代から受戒はいい加減な面があり、当時から天皇や貴族は特例でトップに出世していました。祈祷能力や学問のレベルで僧侶として高位になるべきで血筋では駄目で「許されない」はずです。仏教教団の建前や「仏教は厳しい」「謗法は、◯◯は、許されない」は論拠の邪魔になります。正統派を名乗るにはトップからの相伝が必須ですが、文献や歴史上の建前が含まれていることがあります。(日蓮正宗の稚児法主)

日蓮さんの歩んだ街路や行ったお寺を考慮しても天皇家と関わりがあり、違法な僧侶とは考えにくい。

日蓮さんが正しく三昧耶戒を学んで知っていたのかはナゾ。
真言密教トップからの伝法灌頂は無かったと思われる。
天台法華トップからの伝法灌頂は無かったと思われる。

日蓮さんが授かったのは、次の2つ?
総合的な戒律でなく部分的な戒律。
最高位の秘法的な戒律でなく、誰でも授かるレベルの低い戒律。


2018年1月8日の追記は以上。

以上

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