創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

321.その気持や行動のクセはどんな集団どんな理由で学んだのですか?(320続き)

2011年06月14日 01時29分42秒 | 創価学会
最近、忙しくて記事をかけませんでした。

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Unknown (米山士郎)2011-05-17 06:49:07

結論だけ言うと、助ける、助けない、どちらからも、自由でいていいのです。自分で決めていいと思います。

大切なのは自由さや柔軟さです。

昔カルトで人助けしていました。
今は気がついて人助けしません。

いやはや。たしかにそうなのです。
が、一歩だと思います。

昔は”人助けする”に「縛られて」いました。
今は”人助けしない”に「縛られて」います。

「縛られて」は「信じて」でもいいでしょう。
本来は、人助けする/しない、どちらとも自由なはずです。
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●人を「助ける」その気持ちは宗教からも学べますが、どんな場所や集団で、どんな理由から学びましたか?

 コメントで誤解が少なくなるよう書きましたが、助ける、助けない、どちらにも自分との適切な距離や自分や他者への理解や適切な距離が必要だと私は考えてます。

正宗系の問題集団(教団)にいると、集団の価値観にどうしても引きずられる(影響される)ことが多々あります。

集団心理も度々取り上げてきましたが、学会の場合を見ても座談会、会館の会合など集団で集まって少数のトップから折伏、新聞啓蒙、選挙の号令がかかります。
いつの間にか集団の中にいないと満足できない人、イベントに参加しないと満足できない人が出来上がるんじゃないでしょうか?
会合、つまりイベントが終わって一人になった時、
「今日一日、新聞啓蒙、頑張ったな。」
「今日一日、選挙活動、頑張ったな。」
こうした満足感を得るわけです。学会員ぽく言えば「今日も戦った」(笑)なわけです。
これが結果的にカルトサーフィンや、あるいは学会ぽく「常に誰かを吊るし上げないと気が済まない」という人を育てている気がします。

人助けしているんだから正義の戦い。
(池田先生の哲学は、日蓮仏法は、学会は)正義の戦いなんだから人助けになる。

前の記事でも人助けは良いこと、と書きましたが、正宗系の問題集団では、嘘や不健全を人様他人様に与えているにすぎません。
そして学会だけでなく、正宗系の問題集団(教団)では、法華経や日蓮遺文の理解や実践の度合い(信仰の深さや度合い)ではなく、どの組織に属するかで正邪が決まります。
つまり
”集団であることが前提として当然か必須”
なわけです。

正宗系の問題集団で学べる、人を助けよう、集まろうっていうwantってホントに思い込みや操作、不健全はないんですかね?

●正宗系の問題集団(教団)の集まろう!という意識と世間一般の集まろう!と独り、という意識

日本の社会では「和」「皆」が重んじられますが 必ずしも「孤独でいる」でいることは不健全ではないと私は考えています。
日本の社会では「孤独でいる」ことで損する点が多いかもしれません。
では逆に「皆でいる」ことが必ず不健全かと言えば、そうではありません。

今はみんなと一緒にいたい。
今はひとりでいたい。

TPO(時と場所と目的)に合わせ自分の内面や相手の内面、どちらも尊重しながら有意義に時間を過ごすことが大切かと。

最初に答えを書いておくと「正宗系の問題集団(教団)」おおよそ一つのポイント毎に一つのmustしかないが、
世間一般はそうではなく、助ける、助けない、どちらにも正解もあり間違いもあり、両方あることもあるでしょう。
世間一般はそうではなく、「皆でいる」、「孤独でいる」、どちらにも正解もあり間違いもあるでしょう。

◯問題点はなんなのか?

正宗系の問題集団(教団)の集まろう!という意識、これは元気でないとやっていけません。
男子部(創価班、牙城会)なんかでは会合の最初に「元気ですかっ!!!」って幹部が聞いてっ会合参加者が「ハイッ」って言わされるでしょう?
幹部が満足するまで言わされるわけです。
衛星中継などで池田氏が会合参加者に聞いて「ハイッ」って言わされるでしょう?
(↑学会としてはもう過去ですかね?過去を振り返らないのが学会ですから。結構なことで。そんなに師弟不二したければ池田氏と一緒にあの場所に旅立つのも結構なことかもね。)
ノリノリなわけです。
学会のオバチャンたちの「せんせー!」とか会合のワー、パチパチ、とかもノリノリですよね。

正宗系の問題集団(教団)の問題点は、「ハイッ」って言わないと許されない、元気を出さなければならない、許されない、ノリノリでないといけないわけです。

元気を出さなければならない、許されない、元気を出すのが当たり前、集団が当たり前、この内のどれか一つが最初ではなく、お互いに関係しあって意識が変わり人が変わっていきます。
これは私の体験からしても断言してもいいと考えています。
元気を出すのが悪いことでないのは自明です。

このノリノリってどういうことなんでしょうね?

●ノリノリ集団と自己愛性人格障害、自己愛性神経症

過去記事にも度々取り上げてきましたが、ノリノリってのは不健全の度合いが過ぎると自己愛性人格障害、自己愛性神経症などと呼ばれるようです。

以下のリンクは何度か取り上げてきました。
境界例と自己愛の障害からの回復

ここからはネットや書籍で興味があれば勉強して欲しいのですが、
自己愛的な患者さんには鈍感な (thick-skinned). 人々と敏感な (thin-skinned)人々がいることが分かっているようです。

thin-skinned(thin-skin type)は、面の皮が薄い、傷つきやすい。引きこもりはこっちらしい。
thick-skinned(thick-skin type)は、面の皮が厚い。

某永遠さんは両方で分裂ぎみということ?もしそうなら滅茶苦茶だなぁ。
自分はすごく傷つきやすいのに他人の傷つきには平気ってのはかなり酷い人格なのかも。
自分(達)が傷つくと「池田先生は矢面にたっている。」「宗門問題において学会は被害者」
矢野氏竹入氏日顕氏など「許すな!」「カタキを取れ!」なんですよね。
会員が学会活動できなくなると見捨てるのもこの辺の思考、人格、生活パターンに問題がありそうな気がします。

上のリンク先のDSM-IVを見て一部抜粋すると、

自己の重要性に関する誇大な感覚
限りない成功、権力、才気、美しき、あるいは理想的な愛の空想
自分が特別であり、独特
特権意識が強い。または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待。
傲慢な態度

こういったところが実に学会ぽい、顕◯会ぽい正宗ぽいんじゃないですかね?

この「自己の重要性に関する誇大な感覚」というのがノリノリに近いと思います。
客観的に日蓮が間違えた点や池田氏が嘘を言った点とかは関係なく、当人(自己)にとって日蓮さんや池田氏は重要であって、誇大な感覚、「ハイッ」「ワー」パチパチなわけです。

◯thin-skinned(thin-skin type)だからノリノリなケース。

ネットの学会員を見てもわかるとおり、一言だけで去って行く場合が多数ありますよね。
彼らの信念や宗教からしたら、絶対であって説得できるはずなのにそう(説得)はしません。
言い負けて切れちゃう場合とかも。
ちょっとでも自分が傷ついたり、損したり、恥ずかしい目にあいたくないので自分と意見の違う人とは話せない(説得できない)のでしょう。
こうした場面ではノリノリではいられません。
自分が可愛いだけ、自分だけ、自分が「傷つきたくないthin-skinned(thin-skin type)」だけなのかもしれませんね。

会員が学会活動できなくなると見捨てるのは、やはり、この辺が大きそうです。

こうして意見の同じ人、同じ集団の人としかノリノリで喋れなくなっていくのでしょう。
だから学会員、顕◯会、正宗法華講のBBSは閉鎖的なのでしょう。
そこではノリノリでいられます。
(元気出しましょうね。頑張りましょうね。)
言い負けると自分の歪んでいるアイデンティティが壊れるので余計、誹謗中傷や罵詈雑言が増えるのでしょう。
世間一般にもノリノリも過剰もありますが、正宗系信徒会員の彼らのそれは常に尋常じゃない、ってことなんでしょう。
お釈迦さんが言った「みんな燃えている」(主旨)ってやつですね。

本来、世間一般では自分と意見の合わない人と無理して一緒にいる必要もありません。自由です。その人の状況や能力(スキル)に応じて自由です。
が、本来宗教(者)とは、意見の違う人が好き、人間が好き、意見の違う人でも不軽菩薩のごとく大切にしたい、っていうくらいじゃないと健全とは言えないのかもしれません。
世間一般では言い負けるのは、有り得る話であって、負けても自分のアイデンティティは壊れませんし、誹謗中傷や罵詈雑言は必要ないでしょう。

学会員、顕◯会、正宗法華講の集団というのは「自分が独りぼっちになる」のが怖いだけかもしれません。
特に学会の場合、矢野氏の裁判を見てもわかるとおり、集団対一人、集団対一家族ですよね。
池田氏からの会員に対する脅しでもあり警告でもあるのでしょう。
「逆らったらこうなるぞ」と。

学会員、顕◯会、正宗法華講の集団と「無自覚に」関わろうとするのは、自分で自分に歪んだ自己愛的人格を与えているだけだと私は考えます。
過去記事にも書いてきたとおりです。

なお、thin-skinned(thin-skin type)だから必ずノリノリではありません。そういったケースもある、と考えてください。

●無自覚について

I、自分、私、今日一日自分がどんな言動をしたか?そういったことに無意識、無自覚な場合はどうなんでしょうね?

時々、脱カルト、脱創価している過程の人がサラッと「私は今人助けしてません。」「私は今、集団にいません。」って ””一言だけ”” 書いていると私はちょっとドキッとしてしまいます。
それって「私は今折伏で人助けしています。」「私は今日、会合参加してきました。(集団にいます。)」ってちょっとだけアピールしてる学会員と一見、変わりが無いように見えてしまいます。
私には、ですけど。


本当は
自分を知ってもらう
他人を知る
こうした人間関係構築はゆっくりだとか長い時間だとか会話だとか笑顔だとか人柄だとか趣味だとかetcetc様々な中で理解し合い出来上がるわけです。
過程が様々ですから結果も様々(ケースバイケース)で友人が全員、等しく親友にならないのは自然です。


ですからメールやSNSで””一言だけ”” あるいは短い文章というのは、どうなんでしょうね?
一言だけで去ってゆく学会員にちょっと似ているかも?
ネットがダメだなんて言っているわけではないのは解ると思います。
日本人には「一を聞いて十を知る」「暗黙」「無言」「空気を読む」っていう理解がお互いにありますから、それはそれでいいのかもしれませんが、脱カルト、脱創価する過程の人は自分にも他人にもちょっとだけ気を使いたいですね。
「私は今人助けしてません。」「私は今、集団にいません。」って無自覚でかつ言えない人よりは言えるほうがずっといいでしょう。
ちょっとしたきっかけですよね。2世3世の人が子供との会話で気がつくのもいいかと。友人でもいいし、学会員が別の学会員の一言で学会の異様さに気がついてもいいでしょう。夫婦恋人の会話でもいいわけです。(古い過去記事に書いたこすとこさんのケースなど。)
以前にも書いたとおり私の記事も”私はちょっとドキッとした、”という「私の主観」にしかすぎません。参考にはなりますけど。一世の人よりかは二世三世の人には当てはまりにくいでしょうし、私は90年代より前のことを調べて書くことはできても体験的に書くことは不可能です。

自分の愚痴や喜怒哀楽やその日の出来事を言える人がいた方がいいのかもしれませんね。

もちろん一言だとか、少しの印象だとか、一目惚れがあってもいいわけです。「あの歌手、一目見た時から大好き!」芸能人とか恋人候補とかでも。
それぞれ、それなりのギブアンドテイクなら結果もそれぞれです。
でも、そこを勘違いしたファンがストーカーしたりファンレターの返事がなくてショックで自殺したりするわけです。

話をもとに戻しますが、末端会員が池田氏を見ただけとか「わかっているよ、わかっているよ」とか言われて、お互いに深く理解しているという意識(誤認)は客観的には気持ち悪い事のはずです。使命とか縁とか巡り合わせだった、先生と会ったから境涯革命出来た!!とか。
ですから芸能人をみて「キャーッ」となるのはあり得ても、池田氏と末端会員では不健全としか言えないでしょう。誰かとあえて感動!とは違い、誇大な妄想、誇大な感覚でしょう。

例えば日本人で年頃の女の子のアイデンティティとして「友達といたいです。」「彼氏といたいです。」「寂しがり屋なんです。」って自覚して他人にサラッと言えるなら素直で可愛い性格と言えるんじゃないでしょうか?
サクッ、サラッと自分の欠点を言えること、かと。
普段の言動、前後の言動とかが大事で、普段の信用とかも大切なんでしょうね。


ナマズさんからもしばらく前、日本仏教に戒が無い欠点を指摘していただきましたが、仏教者でない私、意見の違う私にこうしてサクッ、サラッと書籍紹介をしていただいています。
Libraさんも度々、日蓮さんの問題点やご自身で反省って言葉を用いています。仏教者でない私、意見の違う私にサクッ、サラッと何度も親切にしていただいています。
仏教者でない私ですけど、独歩さん、問答迷人さん達、FBIさんなど皆さんから今でも仏教学を教わったりしています。
信心が足りないって言われて怒られたことや追い返されたことないです。(笑)

学会や池田氏が他者の欠点を必要以上に指摘して盛んに自分たちが無謬であることをアピールするのとは逆です。

◯ティクナットハンさんの意識や自覚は私には分かりませんが。。。。。。

ハンさんの説法は相手に合わせる説法らしいので、相手をよく知る必要があるでしょう。「どうしてますか?どうしてる?いまどうなの?」って感じなのかも。
友岡 雅弥氏の書籍にあった問いかけと似ているのかもしれません。
ティクナットハンさんも何らかの理由で相手の宗教には無頓着なのでしょう。相手の宗教に自由なのかも。
ティクナットハンさんは相手の宗教(思想や習慣)が違うことは、よく自覚して、よく理解してるんじゃないでしょうか?
つまり、ハンさんは自分の組織や相手の組織にも無頓着といえるのかもしれません。
相手に合わせる説法といってもハンさんは何時もノリノリなんでしょうかね?否定や反論や拒否されることがあるかもしれないのに????

2chだけでなくネットで、私だけでなく2世3世の人で脱創価した人や様々な人が「カルト、反宗教は組織的。依存的。マトモな宗教は個人的。自立的。」こうした意見がずいぶん以前から多数あります。
お釈迦さんも「あなた一人で人を救ってらっしゃい」(主旨)って言った様ですし。他にも「犀の角のように独り歩め」(主旨)という原始仏典の記述があります。

●まとめ

世間一般にある組織、集団心理、集まりたい心理には、健全も不健全も自由も不自由もある。半分自由も半分健全もあります。もっと曖昧なのもあるでしょう。自分で見分けることが必要。でも自身の健全な成長もあり得る。
世間一般にある「孤独でいたい」にも同様のことがいえる。

問題宗教団体の組織意識、問題ある集団心理、集まりたい(want)心理、こうした結果からほとんど何一つ得るものが無い。
学会などの場合、怒りと恐怖を与えていますから、それなりに脅迫観念や強制があるでしょう。会員が使命だと思っているそれです。いつまでも不安ですからいつまでも満足することはありません。
ノリノリでないとゆるされない会合参加で自分と同じ、気の合う仲間でしか盛り上がれません。
こういう人間って進歩を求められる会社や組織で長い目で見たとき役に立つとは思えません。少なくとも「柔軟でない」「許されない」「縛られている」これらは明らかです。
本人や家族に何らかのリスクがあるのでしょう。

どこで縛られていて、どこで自由なのか?こうした思考パターンは過去記事にも書いてきましたが、私も皆さんも何処かで何か、誰かで ふっと、気がつけるといいですね。

組織や変な何かに縛られている人、ご愁傷さま。お気の毒。>創価学園、創大の皆さん。そして公明党の皆さん、とても迷惑です。

◯その他。

お医者さんの意見を踏まえ、他人の体験、意見、それと自分の体験や意見からこの記事を書きました。問題がないように書いたつもりですが、カウンセラーやお医者さんでない素人の私が断定的すぎる点があるかもしれません。
それでも普通の人が家庭の医学の本を読んでお医者さんへ行くことはあります。ネットでうつ病の相談など患者同士で支えあったり、理解し合ったりしていますよね。
診断はできなくとも素人でも理解することや気をつけることは出来ます。

「人間の精神状態は普通は1人でいる際、本当の状態が見れます。」ということらしいです。
例えば「一人でいられない」で検索すると色々と病名などが出てきますね。本当の自分と向き合えないケースなのかも。
何度も言う様ですが、淋しがり屋さんな人は居ても問題ないですし、誰でもどこでも寂しい時があって問題ありません。勘違いしないでくださいね。

今まで読んだ心理学系、カウンセリング系の書籍の中で紹介できるか、他に良い参考になる書籍が見つかれば、また紹介したいと思います。
どなたかぴったりの内容をご存じの方がいらっしゃいましたら、教えて頂きたくよろしくお願い致します。
当ブログで紹介した書籍であってもなくてもネットでもOKです。
コメント (6)
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