創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

303.小室 直樹 (著) 新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす

2010年02月14日 03時12分28秒 | 創価学会
新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす
小室 直樹 (著)
光文社文庫
1990/08/20 第1版(カッパビジネス1981年5月)
02/14読了。

 創価などがいう日蓮仏法布教や祈って実現する平和、池田氏の名前で度々SGI提言されている国連主導の平和構築、こういった幻想から解き放ってくれる良書です。ものの見方が創価学会的、宗教的な妄想から、歴史などの検討や分析、調査、理解、、、等々、現実的になります。
 池田先生でしか、創価学会でしか、日蓮仏法でしか(あるいは、宗教でしか)平和を築けないと錯覚している人は必読。

 池田氏のSGI提言は表面的に国連主導とはいいますが、具体的な問題指摘や具体的な対策も何も言いませんから中身がない事がよく分かります。(指摘あっても自己矛盾を無視した大まかな概論だけ。)そして何より、過去を見れば分かるとおり理想を言う提言だけで何も行動しないのも事実です。
 末端学会員を見捨てた日顕氏日如氏をトップとする正宗も平和とはかけ離れてますね。

独歩さんの”「祈る」だけの無責任”を思い出しました。
犀の角のように独り歩め:「祈る」だけの無責任

SGI提言と小室 直樹氏などの書籍や意見との比較検証ができるといいけど。。。。。。
あとそれと、創価学会をみんなで考えよう、創価学会をみんなで考えよう(臨時板)を読むと、既に創価の平和論や行動がちゃちなことがわかります。

あたりまえですけど、平和を祈ったら駄目だ、なんて私は言いません。
でも祈って平和になるなんて妄想です。

以上。
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

302.各教団トップを証人喚問すべき

2010年02月11日 17時45分49秒 | 創価学会
 特に画期的とか目新しい事は書いていません。過去記事と重複します。

●どっかの大商人を証人喚問すべき。

 最近、どっかの大商人の滑舌が相当悪いようですが、はっきりしゃべれないのをこれ幸いとして証人喚問できませんかね?

どこかの正○さん 「先生!証人喚問の要請が来ています!」
どっかの大商人  「何!!お前、qあうぇdじk」(←大商人は怖くて必死に断っているが、はっきり言えない。)
どこかの正○さん 「さすが先生!勇気凛々!勇猛精進!言論の闘士!!」(←何言っているからよくわかんないから、歓喜しちゃってることにしよう。byどこかの正○さん)

 こんなふうに出来ませんかね?>共産党さん

●「多くの人が関わる」という大きな責任

 日本人が自分たちで考える戦争責任や平和についてですが、天皇に責任を問われなかった事は日本人にとってデメリット、メリット両方あるように私は考えています。一番のデメリットは心理、感情、言動、これらの優劣や成熟度(大人か子供か?など)ではなく、世の中を上手に渡っていけない様な気が私はしています。
 もちろんデメリットなどから失敗しても失敗の反省から次は成功する事ももちろんあり得ます。
個人の人生ならともかくとしても戦争や宗教は 「多くの人が関わる」 という点で大きな責任があると考えます。
(戦争論は別途記事予定。)

宗教法人という形であっても法人であり、教団組織の責任という点については度々記事にして問題にしてきました。創価も正宗も他者他人を誹謗中傷する程、否定するわけですが、トップ同士の 「責任ある”公開”法論」 は未だにありません。

●創価学会はなんと言ってきて、それを会員はどの様に理解してきたか?

----------------------------------------------------
87.麻薬で退会する夫婦と麻薬克服した元大リーガーを体験談にする創価 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/47e0d1f0075ad882373082e1dbd79d7b

功徳を受けさせる責任 - 創価王道
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20040927/p3 より。

 晴れやかな5.3「創価学会の日」、本当におめでとう。ともどもに、この記念の日を祝賀したい。また、婦人部の皆さまに対し、第1回の「創価学会母の日」を、心からお祝い申し上げる(大拍手)。

 この一年、私は、皆さまのご健康とご長寿、そして「弘教の道」「人生の道」が事故なく、無限に開いてゆくよう、御本尊に真剣に祈念してきた。それは、昭和35年の会長就任以来、少しも変わることがない。いな、近年、いやまして深く、強く、お一人お一人の「栄光」と「幸福」を祈念させていただいている。

 広布のため、日夜、弘教に奔走されている皆さま方こそ、無量の功徳を満喫しゆく“幸の王者”であってほしい。胸を張って闊歩(かっぽ)しゆく“人生の勝者”であってほしい。これが、御本仏・日蓮大聖人の御心であられると、私は確信する。また、牧口初代会長、戸田第二代会長の悲願であったし、私の切なる念願でもある。

 もしも、皆さま方が不幸になれば、それは、広布の指導者である私達の罪となってしまう。それほど、指導者の責任は重い。だからこそ私は、つねに真剣である。

 一瞬たりとも、時間を無駄にはできない。私にとって最も大切なのは、いかなる有名人、権勢の人よりも、広宣流布へとひた走る皆さま方にほかならない。

【5.3「創価学会の日」記念式典 1988-05-03  創価大学中央体育館】
-----------
 仏法指導者の責任は、かくも重いものか――。
----------------------------------------------------

小野不一さんも
> 仏法指導者の責任は、かくも重いものか――。
とかいってるけど。。。。????

(折伏は非仏教的な布教方法(アプローチ)だったけれど、正宗僧侶が何もせず学会側が布教やお金、無償労働に苦労してきたのは事実。)

●世間の常識として責任とは?

---------------------------------------------------
【新型インフル】「ご迷惑おかけしました」洗足学園高校長会見 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/life/body/090521/bdy0905210037001-n1.htm

>前田校長は、インフルエンザの影響を考えて、模擬国連への参加を中止することも考えたというが、「子供たちにとって、何にも代え難い経験と思い参加させた。このようなことになってしまい、わたしの不徳の致すところ。みなさんにご迷惑をおかけした、申し訳ありません」と陳謝した。

「参考」
洗足学園高、校長の潔さ - りゅうちゃんミストラル - 楽天ブログ(Blog)
http://plaza.rakuten.co.jp/ryujisato/diary/200905210000/

私も上記ブログにほぼ同感です。
---------------------------------------------------
---------------------------------------------------
ほかにもこんなのがあります。

トヨタ 副社長が陳謝…大規模リコール、初の会見(毎日新聞) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100202-00000018-maip-bus_all
トヨタ社長が会見し陳謝 プリウス問題やリコールで - 47NEWS(よんななニュース)
http://www.47news.jp/CN/201002/CN2010020501000466.html
---------------------------------------------------

洗足学園の場合、悪意が無く(あたりまえですけど)生徒のこと状況を考えて判断し責任をもって生徒を送り出した。
結果として不幸な結果にはなりました。

学校”法人”としてだけでなく、校長先生が社会人として、責任者として、大人として、生徒の”指導者”としてちゃんと謝罪をしています。たった二人であっても生徒と生徒が関わる世間一般の人の存在を考慮して会見を行っているわけです。
生徒が悪いとか誰も言わないでしょう。

私が言いたいのはトヨタの件も同じ文章の流れとなることです。

企業という”法人”としてだけでなく、社長クラスが社会人として、責任者として、大人として、社員や自動車業界の”指導者”としてちゃんと謝罪をしています。こちらは数が半端ではありませんが。
こちらは事故が起こって人命が失われると取り返しがつきません。

どちらもお仕事をこなしてお金を他人から頂く法人ですが、もちろん失敗したくて失敗したわけではないでしょう。
学校生徒やプリウスユーザー、その関係者、つまり他人や他者の不幸にしたかったわけではないでしょう。
失敗する以前の意志の問題です。問題や失敗は起きてしまいました。

どんな法人にも失敗があれば概ね次のような行動をとるでしょう。

1.失敗がなぜ発生したのかを明確にする。再発防止の意志表示(決意)と明確な対策を提示。
1.発生した被害に対して謝罪し、可能な限り補償を行う。

先生(I)から生徒(You)への教育はそれだけでもfor Youな幸福といえるのかもしれません。
学校(I)の場合は巣立った生徒がいずれ世の中(IではないALL)に貢献します。

間接的か直接的かどうかの違いだけで、高校の校長先生もトヨタの副社長、社長も何らかの発言したわけですから
「世の中、社会あるいは人」と「繋がり」「関わり合い」があります。
「世の中、社会あるいは人」(他者)へと良いか悪いかは別にして歩み寄りがあると感じませんか?
これらのことで、意志や気持ち、相互の心の距離が近くなると考えます。

どちらの法人にとっても信用の問題なわけですね。

 判断などの成功なのか失敗なのか技術的な安全性なのか危険性なのかの違いだけです。
世の中に貢献する自分でもあるけど、世の中、この「中」、他者のいる「中」で生きていく自分でもあるはずです。
日本人的発想かもしれませんが、世の中や他者のことをある程度 「配慮する、気に掛ける」 事が日本人社会では必要かと。
謝罪する/しないも言動の一つであり「配慮する、気に掛ける」などの良き関わりを持とうとするかどうか、という意味あいです。

これらのことをふまえ、発言すべき時に発言したり、謝罪すべき時にちゃんと謝罪できれば自分勝手とか自己愛的とか自己中心的とかは言われないでしょうね。

●改めて創価など正宗系の彼らは???

 宗教のアウトプットは人ですし、宗教の目的は人の幸福が目的のはずです。
創価など正宗系の信徒会員はストーカー行為など人のいやがる迷惑や嫌がらせをします。
何かの失敗や問題があっても創価など正宗系の教団トップ及び信徒会員は無視をしがちです。

 学会本部幹部、大石寺の正宗僧侶トップが末端の信徒会員をネット上で助けないのは 「無視」 無慈悲ではないですかね?
誹謗中傷合戦に荷担するのではなく、本名や役職などを明確にして、責任ある発言するべきかと。

 自分だけ幸福なら、それでいいのであれば大乗仏教としての矛盾があります。
他者、他人への問題や不幸を 「配慮する、気に掛ける」 言動が無いか少ないという事は非大乗仏教的、小乗仏教的であるでしょう。
大乗、小乗という区別は大乗仏教側から部派仏教に対し ”他者に関わらず救済せず自己中心的である” という軽蔑の意味を含めて小乗仏教と言うようになった様です。

 人の幸福は正しい信仰で絶対的に決まる、人の幸福は日蓮仏法が究極である、こういった鎌倉時代の妄想、日蓮を悪用した妄想がそもそもの問題です。
 他者、他人を「配慮しない、気に掛けない」彼らの言動はやっぱりダブルスタンダードだと私は思います。
 「世の中、社会あるいは人」と「繋がり」「関わり合い」がない、日顕氏、池田氏。(末端は創価の方が少しマシ。)

 池田氏や日顕氏などの教団トップは お互いに会いたくないか、会わない程度、程度と書きましたが、とっ~~~ても会いたくない!!のかもしれません。会わない程度に「配慮したくない、気に掛けたくない」のが事実でしょう。少なくともあの二人は仏道修行が足りてないようで。(笑)

  「永遠の”指導者”様である俺からしたら日顕ちゃんは信心足りなくて出来が悪い!
  しかし出来が悪いほど日顕ちゃんが可愛い!日顕ちゃんの不幸が気になって仕方ない!
  夜も眠れない!早く会いに行きたい!たくさん話がしたぁ~い!」

なんつってぇのがヽ(^o^;)ノ(笑)仏教者では?

 注意して欲しいのは、何時いかなる時でも発言する必要があるわけではありません。特に個人においては時には発言しない必要もあるでしょう。
 私が問題にしているのは先に書いたとおり、
個人の人生ならともかくとしても戦争や宗教は 「多くの人が関わる」 という点、
です。組織としての責任、法人としての責任、トップとしての責任です。永遠の”指導者”としての責任です。
人様他人様からお金を貰って豪華な生活をした池田氏日顕氏の責任を問うています。

 私が嘘を教えられたという 「不幸」 について正宗も創価も法論など何の責任も果たしていませんし謝罪もしていません。
仮に非仏教的に立場の上下関係があり僧侶が上で信徒会員が下ならば、なおさら僧侶には責任があります。

 創価などの正宗系信徒会員の言動は終始、他者への全否定が多いのも問題です。
日蓮仏法の悪用や無理解、感情などのMCが原因ですが、バリ活さんが過去の私を全く誰も肯定しないで、私が教えられた教学を「間違っている!」「分かっていない!」「不幸になるぞ!」「地獄へ行くぞ!」という話し方、アプローチ、説明の仕方しか出来ないetcetcこれらを考慮すると
日蓮と日蓮仏法そのものがカルト、あるいは危険思想と一般の人に思われても仕方がないと私は考えます。

非常識、迷惑、無慈悲、常に上から目線などの不健全、認知的不協和、そんな人ばっかり出来上がるわけですし。。。。。
日顕氏、日如氏、池田氏あたりが信徒会員にとって究極な存在ということになっていますから、
創価などの正宗系が教える歪んだ教団都合な日蓮仏法を極めるということは、非人間的人格、問題ある人格が形成されやすいかもしれません。

日顕氏、日如氏、池田氏あたりの教団トップの不健全や問題に魅力や意義を感じたり、信徒会員自身が自分の人生で「信仰による功徳があった」という思いこみ。。。。。こうしたことに早く気が付いて欲しいものです。

●まとめ

 266番のフィレンツェの件がきっかけになり、いくつかの点で色々と試行錯誤しつつ記事を書いてきました。
フィレンツェの件は日本人だけではなくとも、落書きの件がニュースになりました。。。。
 学会問題、正宗問題でも矛盾の有無に関わらず自身の過去の言動、未来になすべき言動、理想、目的、色々な立場としての責任etcetc。。。やはり色々と考えさせられました。。。。
わざわざフィレンツェ大聖堂へ落書きする為だけに行った人はいないでしょう。
落書きというのもそれ自体失敗ですが、批判をあびる(という躓き)と分かっていれば落書きしなかったのかも。

 日本人が成熟した民族なのか未成熟な民族なのかは比較対象を含め、今の私には分かりませんが、少なくとも極端な民族移動や戦争など歴史など様々な意味で慣れていない日本人にとっては新興宗教系は必ず問題を起こすのかもしれません。
もちろん日本人だけでなく多くの人がより良く生きよう、向上(人格や心理の成熟)しようと思っているはずです。
 神道、仏教、クリスマスなんでもアリアリでごちゃまぜで、”なんでもアリアリ何でも受け入れる”のが日本人の一つのメリットなのかも。島国だからこそ、”なんでもアリアリ何でも受け入れる”のかな?

 新興宗教系に限らず、宗教法人、つまり現代の教団というのは社会や人へのMCなどの悪影響が多く、弾圧ではなく衰退する方向への厳しい規制が必要なのかもしれません。
極端な提案かもしれませんが、例えば、、、ですが、宗教法人として勤行を提示したのにトップが勤行してないから法人剥奪とか。
弾圧すると反発するか、余計に人は宗教を求めるでしょうし。
「宗教者たちで決めた教団ルールを自分たちで明文化して自分たちで守らせる」のが大事な様な気がします。
守らなかった時点で解散か宗教法人変更、つまり教団あるいは人が教義を変える自由はあるけど、トップではいられなくなる、、、、、みたいな。
 政治や官僚、研究期間、警察がしっかりしていればいいのかもしれませんが、実際にはTBSの不祥事など問題や不幸が重なりオウムのテロが起きてしまいました。政治や官僚、研究期間、警察はどうしても対処は後手になります。
言っている事とやっている事に違いがあるなど、反社会的問題があれば法人剥奪しても問題ないでしょう。
宗教の自由に基づいて新たな教団をもてばいいだけです。

 本来は一般人や被害者を含め、末端の学会員や法華講が中心となりそれぞれの教団トップに集団訴訟を起こすべき問題だと思いますが。。。。。
 たかだか一新興宗教教団のトップぐらい証人喚問すべき。それでも後手の対処でしかありませんし、過去を含め何がどうなっているのか知る必要があるように私は思います。証人喚問が無いままだと池田氏とその取り巻きだけに好都合です。

以上。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする