MC(マインドコントロール)に至る過程。
宗教や新興宗教はMC(マインドコントロール)だと言う意見には私だけでなく、一般的にあっても不思議ではないと思う。創価学会に限ってどうしてこの様な一般の人から見た違和感(MC)の特徴を持つのだろうか?
●MCの一般的な考察や定義
MCの一般的な考察や定義などは割愛させて頂く。創価学会を断りたい人、退会したい人の質問やリンク先。ここの「●宗教対策一般」のリンク先が良いかもしれない。
仮に創価学会に限ってMCがどういう物なのか?というと、僧侶である日蓮の遺文や法華経を基準にすれば宗教であり、学会精神などの独断で有ればMCということかもしれない。私的には宗教自体がMCであり、日蓮自体も法華経仏説という教え、教育(言葉は何でも良い。)MCが有ったと思う。但し、日蓮の誠実さや真面目さなどは私も認めざるを得ない。日蓮の優しさと厳しさ また、「日蓮は真剣な「仏教徒」であった」私は「日蓮本仏論」を信じないというご意見もあり、同意出来るところがある。
では、一般的にどういう過程を得て私の様なMC被害者が出来たか書いておきたい。
○入信過程
人によって悩んでいるから入信する場合もあるし、2世3世は悩み事が無く入信する事になる。出発点が違う。結婚で嫌々入信した人もいるだろう。当然MCの度合いも違う。
先にも書いた通り、私の場合は病気と人間関係に悩んでいたので、
「どんな願い事でも叶う。」
「病気が治ります。」
というMCがある。日蓮の遺文にもこの文章はある。どうしてもMCを受け入れやすい。MCかどうかは最後まで読んで欲しい。
また人間革命の嘘も多いのも問題だ。小説に出てくる一般会員の体験談は証拠がない。人間革命のここの体験談は私の、あるいは私の家族の体験です。というのを聞いた事があるだろうか?もし、あるならば今頃創価は得意になって、”こうこうこういう実証があった、”などと大いばりになっているはず。でもそんな事はない。後述するが、一般的な歴史、学会の歴史、日蓮正宗の歴史、日蓮の生涯などをごっちゃにしているので「上の幹部になってからはともかく、池田大作氏の入信前から入信後までの伝説なども嘘がある。」という事も全く知られていないようだ。
人間革命の嘘も折伏の際に本を読まされて一般的な歴史、学会の歴史、日蓮正宗の歴史、日蓮の生涯、仏法の解説などをごっちゃにしているから、一番問題となる、創価学会の歴史と個人体験に嘘がある事が見抜けない。「読んでどうだった?」と聞かれれば「(日蓮の生涯が素晴らしくても)良かったです。」って答えて自然と自分も思いこむ可能性がある。実際、私がそうでした。特に体験談は聖教新聞の体験談と同様、本当の事として受け止めました。
「宗教なんだから嘘をつくはずがない」ってね。
読ませる方もここは嘘でここは本当なんて折伏の際に言いますか?やはり人によってはどうしても人間革命の嘘というMCを受け入れやすい。
なお、創価の歴史に詳しいサイトはリンク集にもあるが、ここ。価値[再]創造。ではその人間革命はどういうものか?
○人間革命や創価の歴史
小説家でない私でも感じ取れるのだが、新人間革命は明らかに人間革命著者とは違う人物が書いていると思われる。どちらも池田氏の小説ではなくゴーストライターが書いているらしい。
実際に「新人間革命第14巻」は1970年頃を中心にあの「言論出版妨害事件」が書かれているそうだが、上意下達で組織トップや公明党竹入氏や池田氏が関わっていたのは間違いない。ところが人間革命には一部の青年が暴走したと書かれているらしい。(笑)呆れる。例によって例のごとく自分の喧嘩を部下にさせていた事になります。宗教団体には株式会社のような監査もないので、責任も問われません。池田氏の独裁なのでしょう。
「嘘も100回言えば真実になる」(byヒトラーの宣伝相ゲッペルズ)池田氏もこのノリ?
私の持っている人間革命には戸田城聖氏が「後年、借金完済した」(主旨)と書かれていますが、実際は 創価学会の信仰に功徳はあるか?:極右評論:スクープ!創価学会二代目会長、借金踏み倒し!そうではない。
○学会のMCのやり方、2つの教義
最近の同時中継で池田氏が秋谷会長に御書(日蓮の遺文)の拝読をさせたとか。数ヶ月前に話題になった秋谷氏の、あの「池田名誉会長に信伏随従する」(主旨)という発言を池田氏が聞いたんでしょうかね?
ここでも上手に会員をMCしている。今、あちこちで問題になっている「師弟不二」「永遠の指導者」論だ。私が実際に聞いたわけではないが、ある学会員さんの発言からすると「根源の師とは大聖人である。」(主旨)との言葉だったそうな。
「師は大聖人である。」が一番の問題だ。 学会には教義が2つある。大勢いる前で「師は大聖人である。」と言っておきながら、教義的におかしい「師弟不二」「永遠の指導者」という新聞での活字を絶対に引っ込めたり禁止したりしていない。これからもしないだろう。これが学会のMCのやり方だ。これからも確実に「師」というのは池田氏を指す言葉があちこちに出てくるでしょう。
それとも今日から変わります、2度と出しません。とでも言うのだろうか?もしそうなら、この記事を見せ消しで残した上で本記事の当確箇所についてお詫びしますよ?
信仰は皆、手前勝手に好き勝手に解釈したがる傾向がある。宗教だけでなく、一般的に自分の人生から得た幸福感なのでこれを否定する事は難しいからだ。創価の人でもみんな信仰観は人それぞれある学会員さんは自分なりに苦しんで悩んで疑って、「根源の師とは大聖人である。」という言葉を聞いて、おそらく、
「やっぱり先生は正しい」と思ったり「ホッとしてしまった。」etc、etc、のでしょう。
日蓮を師と仰ぐ人にとっては「根源の師とは大聖人である。」を。
カルトな人や青年やアイドル好きな婦人には聖教や大百、創価班などの会合か””個人指導””で「師弟不二」「永遠の指導者」論を。
聖教新聞も同時中継も「公(おおやけ)」である、と書いたのは過去記事の通り。
本当は座談会や一般の会合も公なんですけどね。だから、とある勇気ある創価の人は「日顕氏の死を祈りましょうだなんておかしい!」と発言されたのでは?どういう会合なのか知りませんが。
○池田氏の問題?
大問題に発展すれば、「師弟不二」「永遠の指導者」は一部の青年が暴走した、という事になるのだろう。波田地氏のクビも個人の暴走として扱われた理由がこれまで書いてきた理由にも当てはまるということか?実に矛盾が少なくなる。自分の喧嘩を他人にさせたり裁判のような事を部下にさせるが、自分は責任問題の表に出ない。
多くの副会長クラスの人がクビになっている事も辻褄が合う。
池田名誉会長自らTVのインタビューに答えて「宗門問題には対話を継続する。」(主旨)という発言を覚えている人もいるだろう。私もその一人。ところが実際には聖教新聞や創価新報では日顕氏や僧侶の問題行動の隠し撮りや罵倒攻撃を一切やめようとうとはしない。対話の証拠はどこにもない。
「師弟不二」「永遠の指導者」も「宗門問題」も解決出来ないのに池田氏は何の責任もない。そもそも問題として扱われていない。一部の青年が暴走した、という事になるのだろう。
いつも必ず池田氏は一般会員から見て公側、建前側にいる。
仮にここで善意の解釈をして池田氏が「聖教新聞、大百蓮華に目を通さない」「会員からの手紙を読んでいない」となると、池田氏は割り切っているのであり、これは明らかに宗教ビジネスであり政治結社であり、つまり、年を取って衰えたが、
「池田氏は全部、意図的にやっている。よくMCする側、される側の心理を理解してやっている。」事になる。
「師弟不二」「永遠の指導者」も聖教新聞、大百蓮華に問題があれば普通の人なら、キチンと進路変更をするはず。もうこれは男とか女とかの問題でもないし一般的な仕事経験の有無の問題でもない。何も知らない裸の王様という批判があるが生ヌルイという事に。波田地氏や弓谷氏の処分の違いを考えると年寄りっぽくなっているのかもしれませんが、こりゃ、池田氏の頭脳はボケていない?むしろ年を取って性格が強調されている????
ちなみに「聖教新聞、大百蓮華に目を通していて」「一部でも会員からの手紙を読んでいる。」と池田氏は極悪人ということに。仏法の仇でしょ。もう前者だけで当てはまる。宗門問題一つとっても16年目ですよ?16年間も問題をほおっておくトップってどういうトップですか?師弟不二、永遠の指導者ももう何年目になるのだろうか?
○学会本部、側近の問題?
仮にここで池田氏は悪くなく、側近が悪いとすると、やっぱりYesマンしかおかない池田氏に責任があるし、管理能力が無いという事になる。
だがそれは無い。(中傷して申し訳ないが、)頭の悪い婦人部にも、これまで学会は難解な仏法をわかりやすく説明してきた。実際に上記の一会員さんだけでなく、多くの一般会員を 「秋谷会長に御書を読ませる事で納得させている。」 なのに、秋谷会長以下の側近は理解や納得が出来ないのか?そんな筈は無い!秋谷会長以下側近の幹部も同時中継を見ていないならともかく、見て、新聞に掲載し、「先生は凄い!」などのアピールを盛んにしている。同意しているのだ。表でする指導と裏でする学会本部職員にする指導は違うかもしれない。もしそうなら、厳しくするならともかく、甘やかしているか意図的に2つの指導がある証拠ではないのか?学会本部の組織もピラミッド型になっていたはず。池田氏だけがまともでいきなり秋谷会長以下、側近全員「師弟不二」の間違いを犯していると?不自然すぎる。弓谷氏も波田地氏も問題があれば、ちゃんとクビになっているんだからワザとやっていると考えるのが普通だ。言葉を良くして言えばちゃんと了解の元に行っている、ということか?
自分たちが池田氏を理解出来ていないのに何がどう凄いんだ?どう説明している??やっぱり学会には教義が2つある。
例によって例のごとく、善意の解釈、結果オーライ主義、ナイーブ(純粋)。今回の事で「先生と秋谷氏は仲が戻った、仲良しになった」(笑)「先生と会長の師弟(不二:不二は有っても無くてもそう思った人が絶対にいたはず。どちらが正しいのかはここでは問いません)が復活した」とか思った人がいたのでは?善意の解釈、結果オーライ主義、ナイーブ(純粋)は止めたら?
過去記事に書いてきた通り、師弟不二という言葉は御書のどこにもないし、元々、師は大聖人という教義だったのでは?
今の学会本部には大御本尊も否定しないが、拝みに行ってはいけない、でも信じても良い、という、ここにも2つの教義があります。場合によって使い分けているんでしょう?
○善意の解釈、結果オーライ主義、ナイーブ(純粋)
やはり、善意の解釈、結果オーライ主義、ナイーブ(純粋)というのは必ずつきまとう。 創価には「信がないと始まらない」(主旨)という教義もあるし、結果として宗教にありがちな「人を信じる」「疑わない」という善意解釈が常に結果オーライ主義やナイーブな人を生む。宗教自体がそのように人間を信じる事から相手に布教を始めるので良い事でもある。だが、上記のように良い事の2つの解釈を許す場合があるし、悪いと創価学会員の必殺(笑)の短い言葉が心に浮かぶだろう。( 2つの解釈というのは 「根源の師とは大聖人である。」と「師弟不二」「永遠の指導者」。)
信心で受け止めよう
きっと意味がある
御仏智だ
先生の言う事だから
今自分に抱えている不幸の宿命転換と一緒に学会も変えていこう
先生は一切悪くない
先生は絶対
この信心は絶対
大聖人は絶対
ご本尊は絶対
負けない、負けてはいけない
南無妙法蓮華教
幸福を勝ち取るんだ!!!!!!!!!
あの時の体験が私を支えている!!(これには自分の幸福体験が含まれている)
これらは最初に書いた通り、長い経文や説明では無い。短い学会精神や本人の意志や解釈という傾向が強い。僧侶である日蓮の遺文や法華経を基準にすれば宗教であり、学会精神などの独断で有ればMCということかもしれない。経文も切り出せば短くなるがそういう話では無い。
MCと言ってもマインドコントロール、訳すと「心の制御」自分で心の制御すれば、信じる。という事であり、心の制御される、ということは一般的な解釈として悪い意味でのMCという事だろう。これには当然、能動自発もあるが他者からの受動もある。4つ有る事に?。MCはこの様に言葉にすると短い事が多いのかもしれない。
○あの時の体験が私を支えている(これには自分の幸福体験が含まれている)
そしていつも私が書いているこの問題。創価学会員は実に様々な問題をごっちゃにして折伏、議論する。前述した、一般的な歴史、学会の歴史、日蓮正宗の歴史、日蓮の生涯などをごっちゃにしている。過去にどこかの他人のブログで 一般仏教、日蓮仏法、日蓮正宗、公明党、学会精神、歴代会長、個人の体験 これらをごっちゃにして議論をする、とコメントした覚えがある。詳しく書くと
釈迦仏教、法華経
日蓮仏法、御書、日寛教学、今の日蓮正宗教義、大御本尊の真贋、
創価学会の歴史(正宗が神札を受け取り創価が神札を断った事)、歴代会長の人生、創価学会の歴史、聖教新聞、公明党(選挙活動)、宗門問題、上記のような池田氏の同時中継、個人の体験。
他にもあるかもしれない。これらのどこかに正義やハッピー体験があれば自分の信仰体験として受け入れてしまう。体験そのものや受け入れる事は悪い事ではない。だが創価学会員は自分の複雑さに全く気が付いていない事がほとんどだ。だから数少ない自分の信仰体験を理由に多くの事を持ち出して議論や折伏、選挙依頼もする事になる。本当に信仰の功徳かどうかは不明だ。
先生が作った公明党だから
先生(学会)が素晴らしいから公明党を応援して
と、まぁ、これは実際に私も何度か言った事がある。m(_ _)m。。。OTL。。1度や2度じゃありません。政策ではなく情熱や良心、善意の問題になってしまう。例えば、
池田先生は絶対!!だから私は~をする、信じる、します、決意します。。。。。
仏法が絶対だから公明党を、応援する、応援して。
という「奇妙な心理(MC)に至る過程」が納得出来るか、あるいは、MCの危険がある、という事がおわかり頂けますか?
○あとがき
MCの良し悪しや定義は出来るだけ避けたコメントをお願いします。特に最初のコメントではお断りします。コメントは無条件に掲載しますが、私からのコメントが無いかも。出来るだけ過程やその理由あるいは原因(きっかけ)やMCの目的やその結論(目標や到達地点)で反論して下さい。この記事では一個人の人生上の幸福体験を否定したりMCだとは言い切っていません。過程や理由を問題にしています。
ちなみに私のこの記事には「穴」があります。気が付いた人は反論どうぞ。法華経や人の弱さなど人間個人個人に焦点を当てるという意味では書いていない事が存在する。それは別途記事にする予定。ただし上手く書けていない。
実を言うと、”地域幹部に個人指導を受ける”という観点からもMCを書くつもりでしたが、複雑怪奇になる為(笑)に除外しました。この記事が約7600文字になったという理由もあります。
御書をちゃんと読めばMCなんかされないのでは?、個人指導も(絶対にとは言わないが)受ける必要がないのでは?、などと創価の人は言及していますが、実際は池田氏の同中に出れば、それが指導だし、新聞も指導では? 人に個人指導を受けた事が無いというのは別の問題を感じています。人間個人個人に焦点を当てる問題になります。これを書くには人間学、心理学の勉強が必要かなぁ。。。。。
実際に同中を見て御書で池田氏に指導され、聖教新聞で指導を読み、一個人が御書を読めばそれだって指導でしょう。御書を読めばMCはされない、というよりは教え、教育、信じる、学ぶ、学習する、ということがMCと同質の物である。ということがおわかり頂けたでしょうか?
仏教再考―犀角独歩 そうそう、ここのサイトも昔から知っていましたが、このブログを始める前でもあり、学会員だった為、「そんな馬鹿な事があるはずがないと信じて」ほとんど読んでいませんでした。今読むとなんと、学会員さんのHPだったのですね。(^_^;)(^_^;)(^_^;) 前は日蓮宗の人かと思いました。あなたはこれを読んで、
どうMCしますか?MCされますか?
どう信じますか?信じさせられますか?
創価学会がいかにあやふやな宗教か?ということですね。
以上
誤記修正
'06.10.30
宗教や新興宗教はMC(マインドコントロール)だと言う意見には私だけでなく、一般的にあっても不思議ではないと思う。創価学会に限ってどうしてこの様な一般の人から見た違和感(MC)の特徴を持つのだろうか?
●MCの一般的な考察や定義
MCの一般的な考察や定義などは割愛させて頂く。創価学会を断りたい人、退会したい人の質問やリンク先。ここの「●宗教対策一般」のリンク先が良いかもしれない。
仮に創価学会に限ってMCがどういう物なのか?というと、僧侶である日蓮の遺文や法華経を基準にすれば宗教であり、学会精神などの独断で有ればMCということかもしれない。私的には宗教自体がMCであり、日蓮自体も法華経仏説という教え、教育(言葉は何でも良い。)MCが有ったと思う。但し、日蓮の誠実さや真面目さなどは私も認めざるを得ない。日蓮の優しさと厳しさ また、「日蓮は真剣な「仏教徒」であった」私は「日蓮本仏論」を信じないというご意見もあり、同意出来るところがある。
では、一般的にどういう過程を得て私の様なMC被害者が出来たか書いておきたい。
○入信過程
人によって悩んでいるから入信する場合もあるし、2世3世は悩み事が無く入信する事になる。出発点が違う。結婚で嫌々入信した人もいるだろう。当然MCの度合いも違う。
先にも書いた通り、私の場合は病気と人間関係に悩んでいたので、
「どんな願い事でも叶う。」
「病気が治ります。」
というMCがある。日蓮の遺文にもこの文章はある。どうしてもMCを受け入れやすい。MCかどうかは最後まで読んで欲しい。
また人間革命の嘘も多いのも問題だ。小説に出てくる一般会員の体験談は証拠がない。人間革命のここの体験談は私の、あるいは私の家族の体験です。というのを聞いた事があるだろうか?もし、あるならば今頃創価は得意になって、”こうこうこういう実証があった、”などと大いばりになっているはず。でもそんな事はない。後述するが、一般的な歴史、学会の歴史、日蓮正宗の歴史、日蓮の生涯などをごっちゃにしているので「上の幹部になってからはともかく、池田大作氏の入信前から入信後までの伝説なども嘘がある。」という事も全く知られていないようだ。
人間革命の嘘も折伏の際に本を読まされて一般的な歴史、学会の歴史、日蓮正宗の歴史、日蓮の生涯、仏法の解説などをごっちゃにしているから、一番問題となる、創価学会の歴史と個人体験に嘘がある事が見抜けない。「読んでどうだった?」と聞かれれば「(日蓮の生涯が素晴らしくても)良かったです。」って答えて自然と自分も思いこむ可能性がある。実際、私がそうでした。特に体験談は聖教新聞の体験談と同様、本当の事として受け止めました。
「宗教なんだから嘘をつくはずがない」ってね。
読ませる方もここは嘘でここは本当なんて折伏の際に言いますか?やはり人によってはどうしても人間革命の嘘というMCを受け入れやすい。
なお、創価の歴史に詳しいサイトはリンク集にもあるが、ここ。価値[再]創造。ではその人間革命はどういうものか?
○人間革命や創価の歴史
小説家でない私でも感じ取れるのだが、新人間革命は明らかに人間革命著者とは違う人物が書いていると思われる。どちらも池田氏の小説ではなくゴーストライターが書いているらしい。
実際に「新人間革命第14巻」は1970年頃を中心にあの「言論出版妨害事件」が書かれているそうだが、上意下達で組織トップや公明党竹入氏や池田氏が関わっていたのは間違いない。ところが人間革命には一部の青年が暴走したと書かれているらしい。(笑)呆れる。例によって例のごとく自分の喧嘩を部下にさせていた事になります。宗教団体には株式会社のような監査もないので、責任も問われません。池田氏の独裁なのでしょう。
「嘘も100回言えば真実になる」(byヒトラーの宣伝相ゲッペルズ)池田氏もこのノリ?
私の持っている人間革命には戸田城聖氏が「後年、借金完済した」(主旨)と書かれていますが、実際は 創価学会の信仰に功徳はあるか?:極右評論:スクープ!創価学会二代目会長、借金踏み倒し!そうではない。
○学会のMCのやり方、2つの教義
最近の同時中継で池田氏が秋谷会長に御書(日蓮の遺文)の拝読をさせたとか。数ヶ月前に話題になった秋谷氏の、あの「池田名誉会長に信伏随従する」(主旨)という発言を池田氏が聞いたんでしょうかね?
ここでも上手に会員をMCしている。今、あちこちで問題になっている「師弟不二」「永遠の指導者」論だ。私が実際に聞いたわけではないが、ある学会員さんの発言からすると「根源の師とは大聖人である。」(主旨)との言葉だったそうな。
「師は大聖人である。」が一番の問題だ。 学会には教義が2つある。大勢いる前で「師は大聖人である。」と言っておきながら、教義的におかしい「師弟不二」「永遠の指導者」という新聞での活字を絶対に引っ込めたり禁止したりしていない。これからもしないだろう。これが学会のMCのやり方だ。これからも確実に「師」というのは池田氏を指す言葉があちこちに出てくるでしょう。
それとも今日から変わります、2度と出しません。とでも言うのだろうか?もしそうなら、この記事を
信仰は皆、手前勝手に好き勝手に解釈したがる傾向がある。宗教だけでなく、一般的に自分の人生から得た幸福感なのでこれを否定する事は難しいからだ。創価の人でもみんな信仰観は人それぞれある学会員さんは自分なりに苦しんで悩んで疑って、「根源の師とは大聖人である。」という言葉を聞いて、おそらく、
「やっぱり先生は正しい」と思ったり「ホッとしてしまった。」etc、etc、のでしょう。
日蓮を師と仰ぐ人にとっては「根源の師とは大聖人である。」を。
カルトな人や青年やアイドル好きな婦人には聖教や大百、創価班などの会合か””個人指導””で「師弟不二」「永遠の指導者」論を。
聖教新聞も同時中継も「公(おおやけ)」である、と書いたのは過去記事の通り。
本当は座談会や一般の会合も公なんですけどね。だから、とある勇気ある創価の人は「日顕氏の死を祈りましょうだなんておかしい!」と発言されたのでは?どういう会合なのか知りませんが。
○池田氏の問題?
大問題に発展すれば、「師弟不二」「永遠の指導者」は一部の青年が暴走した、という事になるのだろう。波田地氏のクビも個人の暴走として扱われた理由がこれまで書いてきた理由にも当てはまるということか?実に矛盾が少なくなる。自分の喧嘩を他人にさせたり裁判のような事を部下にさせるが、自分は責任問題の表に出ない。
多くの副会長クラスの人がクビになっている事も辻褄が合う。
池田名誉会長自らTVのインタビューに答えて「宗門問題には対話を継続する。」(主旨)という発言を覚えている人もいるだろう。私もその一人。ところが実際には聖教新聞や創価新報では日顕氏や僧侶の問題行動の隠し撮りや罵倒攻撃を一切やめようとうとはしない。対話の証拠はどこにもない。
「師弟不二」「永遠の指導者」も「宗門問題」も解決出来ないのに池田氏は何の責任もない。そもそも問題として扱われていない。一部の青年が暴走した、という事になるのだろう。
いつも必ず池田氏は一般会員から見て公側、建前側にいる。
仮にここで善意の解釈をして池田氏が「聖教新聞、大百蓮華に目を通さない」「会員からの手紙を読んでいない」となると、池田氏は割り切っているのであり、これは明らかに宗教ビジネスであり政治結社であり、つまり、年を取って衰えたが、
「池田氏は全部、意図的にやっている。よくMCする側、される側の心理を理解してやっている。」事になる。
「師弟不二」「永遠の指導者」も聖教新聞、大百蓮華に問題があれば普通の人なら、キチンと進路変更をするはず。もうこれは男とか女とかの問題でもないし一般的な仕事経験の有無の問題でもない。何も知らない裸の王様という批判があるが生ヌルイという事に。波田地氏や弓谷氏の処分の違いを考えると年寄りっぽくなっているのかもしれませんが、こりゃ、池田氏の頭脳はボケていない?むしろ年を取って性格が強調されている????
ちなみに「聖教新聞、大百蓮華に目を通していて」「一部でも会員からの手紙を読んでいる。」と池田氏は極悪人ということに。仏法の仇でしょ。もう前者だけで当てはまる。宗門問題一つとっても16年目ですよ?16年間も問題をほおっておくトップってどういうトップですか?師弟不二、永遠の指導者ももう何年目になるのだろうか?
○学会本部、側近の問題?
仮にここで池田氏は悪くなく、側近が悪いとすると、やっぱりYesマンしかおかない池田氏に責任があるし、管理能力が無いという事になる。
だがそれは無い。(中傷して申し訳ないが、)頭の悪い婦人部にも、これまで学会は難解な仏法をわかりやすく説明してきた。実際に上記の一会員さんだけでなく、多くの一般会員を 「秋谷会長に御書を読ませる事で納得させている。」 なのに、秋谷会長以下の側近は理解や納得が出来ないのか?そんな筈は無い!秋谷会長以下側近の幹部も同時中継を見ていないならともかく、見て、新聞に掲載し、「先生は凄い!」などのアピールを盛んにしている。同意しているのだ。表でする指導と裏でする学会本部職員にする指導は違うかもしれない。もしそうなら、厳しくするならともかく、甘やかしているか意図的に2つの指導がある証拠ではないのか?学会本部の組織もピラミッド型になっていたはず。池田氏だけがまともでいきなり秋谷会長以下、側近全員「師弟不二」の間違いを犯していると?不自然すぎる。弓谷氏も波田地氏も問題があれば、ちゃんとクビになっているんだからワザとやっていると考えるのが普通だ。言葉を良くして言えばちゃんと了解の元に行っている、ということか?
自分たちが池田氏を理解出来ていないのに何がどう凄いんだ?どう説明している??やっぱり学会には教義が2つある。
例によって例のごとく、善意の解釈、結果オーライ主義、ナイーブ(純粋)。今回の事で「先生と秋谷氏は仲が戻った、仲良しになった」(笑)「先生と会長の師弟(不二:不二は有っても無くてもそう思った人が絶対にいたはず。どちらが正しいのかはここでは問いません)が復活した」とか思った人がいたのでは?善意の解釈、結果オーライ主義、ナイーブ(純粋)は止めたら?
過去記事に書いてきた通り、師弟不二という言葉は御書のどこにもないし、元々、師は大聖人という教義だったのでは?
今の学会本部には大御本尊も否定しないが、拝みに行ってはいけない、でも信じても良い、という、ここにも2つの教義があります。場合によって使い分けているんでしょう?
○善意の解釈、結果オーライ主義、ナイーブ(純粋)
やはり、善意の解釈、結果オーライ主義、ナイーブ(純粋)というのは必ずつきまとう。 創価には「信がないと始まらない」(主旨)という教義もあるし、結果として宗教にありがちな「人を信じる」「疑わない」という善意解釈が常に結果オーライ主義やナイーブな人を生む。宗教自体がそのように人間を信じる事から相手に布教を始めるので良い事でもある。だが、上記のように良い事の2つの解釈を許す場合があるし、悪いと創価学会員の必殺(笑)の短い言葉が心に浮かぶだろう。( 2つの解釈というのは 「根源の師とは大聖人である。」と「師弟不二」「永遠の指導者」。)
信心で受け止めよう
きっと意味がある
御仏智だ
先生の言う事だから
今自分に抱えている不幸の宿命転換と一緒に学会も変えていこう
先生は一切悪くない
先生は絶対
この信心は絶対
大聖人は絶対
ご本尊は絶対
負けない、負けてはいけない
南無妙法蓮華教
幸福を勝ち取るんだ!!!!!!!!!
あの時の体験が私を支えている!!(これには自分の幸福体験が含まれている)
これらは最初に書いた通り、長い経文や説明では無い。短い学会精神や本人の意志や解釈という傾向が強い。僧侶である日蓮の遺文や法華経を基準にすれば宗教であり、学会精神などの独断で有ればMCということかもしれない。経文も切り出せば短くなるがそういう話では無い。
MCと言ってもマインドコントロール、訳すと「心の制御」自分で心の制御すれば、信じる。という事であり、心の制御される、ということは一般的な解釈として悪い意味でのMCという事だろう。これには当然、能動自発もあるが他者からの受動もある。4つ有る事に?。MCはこの様に言葉にすると短い事が多いのかもしれない。
○あの時の体験が私を支えている(これには自分の幸福体験が含まれている)
そしていつも私が書いているこの問題。創価学会員は実に様々な問題をごっちゃにして折伏、議論する。前述した、一般的な歴史、学会の歴史、日蓮正宗の歴史、日蓮の生涯などをごっちゃにしている。過去にどこかの他人のブログで 一般仏教、日蓮仏法、日蓮正宗、公明党、学会精神、歴代会長、個人の体験 これらをごっちゃにして議論をする、とコメントした覚えがある。詳しく書くと
釈迦仏教、法華経
日蓮仏法、御書、日寛教学、今の日蓮正宗教義、大御本尊の真贋、
創価学会の歴史(正宗が神札を受け取り創価が神札を断った事)、歴代会長の人生、創価学会の歴史、聖教新聞、公明党(選挙活動)、宗門問題、上記のような池田氏の同時中継、個人の体験。
他にもあるかもしれない。これらのどこかに正義やハッピー体験があれば自分の信仰体験として受け入れてしまう。体験そのものや受け入れる事は悪い事ではない。だが創価学会員は自分の複雑さに全く気が付いていない事がほとんどだ。だから数少ない自分の信仰体験を理由に多くの事を持ち出して議論や折伏、選挙依頼もする事になる。本当に信仰の功徳かどうかは不明だ。
先生が作った公明党だから
先生(学会)が素晴らしいから公明党を応援して
と、まぁ、これは実際に私も何度か言った事がある。m(_ _)m。。。OTL。。1度や2度じゃありません。政策ではなく情熱や良心、善意の問題になってしまう。例えば、
池田先生は絶対!!だから私は~をする、信じる、します、決意します。。。。。
仏法が絶対だから公明党を、応援する、応援して。
という「奇妙な心理(MC)に至る過程」が納得出来るか、あるいは、MCの危険がある、という事がおわかり頂けますか?
○あとがき
MCの良し悪しや定義は出来るだけ避けたコメントをお願いします。特に最初のコメントではお断りします。コメントは無条件に掲載しますが、私からのコメントが無いかも。出来るだけ過程やその理由あるいは原因(きっかけ)やMCの目的やその結論(目標や到達地点)で反論して下さい。この記事では一個人の人生上の幸福体験を否定したりMCだとは言い切っていません。過程や理由を問題にしています。
ちなみに私のこの記事には「穴」があります。気が付いた人は反論どうぞ。法華経や人の弱さなど人間個人個人に焦点を当てるという意味では書いていない事が存在する。それは別途記事にする予定。ただし上手く書けていない。
実を言うと、”地域幹部に個人指導を受ける”という観点からもMCを書くつもりでしたが、複雑怪奇になる為(笑)に除外しました。この記事が約7600文字になったという理由もあります。
御書をちゃんと読めばMCなんかされないのでは?、個人指導も(絶対にとは言わないが)受ける必要がないのでは?、などと創価の人は言及していますが、実際は池田氏の同中に出れば、それが指導だし、新聞も指導では? 人に個人指導を受けた事が無いというのは別の問題を感じています。人間個人個人に焦点を当てる問題になります。これを書くには人間学、心理学の勉強が必要かなぁ。。。。。
実際に同中を見て御書で池田氏に指導され、聖教新聞で指導を読み、一個人が御書を読めばそれだって指導でしょう。御書を読めばMCはされない、というよりは教え、教育、信じる、学ぶ、学習する、ということがMCと同質の物である。ということがおわかり頂けたでしょうか?
仏教再考―犀角独歩 そうそう、ここのサイトも昔から知っていましたが、このブログを始める前でもあり、学会員だった為、「そんな馬鹿な事があるはずがないと信じて」ほとんど読んでいませんでした。今読むとなんと、学会員さんのHPだったのですね。(^_^;)(^_^;)(^_^;) 前は日蓮宗の人かと思いました。あなたはこれを読んで、
どうMCしますか?MCされますか?
どう信じますか?信じさせられますか?
創価学会がいかにあやふやな宗教か?ということですね。
以上
誤記修正
'06.10.30