創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

2024年4月8日月曜の朝8時半過ぎに起きた神秘体験

2024年04月24日 00時05分04秒 | 他宗の勧請/祈祷
☆2024年4月8日月曜の朝8時半過ぎに起きたこと。

しばらく自宅を不在にするのと8日月曜は雨が降るのが分かっていたので南側の雨戸を閉めたまま部屋のLEDライトはつけていました。

出かける前にいつものように唱え言をすると、とある物体が短い時間光って見えて、その光は右目に入ったのだと思います。

ものすごく驚いて辺りを見回しても雨戸を閉めたまま部屋のLEDライトはつけたまま。左後ろを振り返っても台所に通じる部屋への扉が半分だけ開いているので北側の部屋の光は入りようがない間取り構造です。
本当かどうか確かめたい、それと再現できないか?と考え、その場から一歩下がって前に進んで元に戻っても、その場から一歩右斜め後ろに下がって元の位置に戻っても再現しないので自分の立ち位置とLEDライトの反射光ではないと考えています。

念のために今日の朝23日も曇りだったので雨戸を閉めたまま試しに同じ位置に立ってもやはり再現しなかったです。

お導きかお計らいか(日蓮遺文にもある単語でナイショ)か吉兆か私には分からないのですがその時も今もすごく嬉しく思ってます。

(複数ある)信仰対象さまや祈祷師Cさんや準じる能力の方々と出会ってから今まで、神秘体験や準じる能力から出る言葉、普通ではあり得ない体験からすると、私自身は信仰対象さまからのお力をいただいているか見せていただいているのだと考えてます。
自身が体験したか体験してないに関わらず聞いたものを含めると神秘体験や準じる能力者から出る言葉、普通ではあり得ない体験は20ケースを超えていると思います。

創価学会員時代は嘘話かあるいは0ケースでした。

読者の皆さんがどう考えるかはもちろんご自由にしてください。ただし悪口、批難はもちろん安易な批判ですら危険かと思いますが、仮にしたとして私は何があっても知りませんよ。

☆数年前に見えた体験との違い

一番の違いは見えている時間かもしれません。前回は見えている最中に目を瞬きしても顔を横に向けて元に向き直しても、まだしばらく見えていました。時間は夕方でした。
今回は一瞬で朝8時半過ぎでした。

☆2024年4月5日と2023年に起きたこと

4月5日午後に駅で私と同じ状況にある人と隣になりました。
2023年にも2度駅で私と同じ状況にある人と隣になったので、これで3度目ですぐに偶然ではないと感じました。3度目ともなるとお導きかお計らいか(日蓮遺文にもある単語でナイショ)か、それとも全てなのか私には分かりませんが「クヨクヨするな」などのメッセージ性があるのかもしれません。どんな会話をしたかは書きません。

Cさんに出会ってから割とすぐに気がついたのですが、信仰対象様はお引き合わせというか出会いというか巡り合わせが得意のように感じています。正確な数を数えていませんが、その数は30をとっくに超えてます。そのくらい幸せか幸せにつながる出会い、またはメッセージ性あることが多いです。

☆祈っていただき私は幸せ者

とある物体と後ろにあるものは祈祷師Cさんにご祈祷していただき、Bさん(Cさんを私に紹介してくださった二人のうちのお一人)が使っていたものです。
私の吉事のお祝いとして一年ほど前にBさんからお譲りいただきました。
Bさんも力のある方です。

4月5日夕方にはBさんからメールが来ました。
「こんばんは。xxおよびxxの件で(中略)米山(メールでは本名)さんのことをお願いしています。今、米山さんの所にあるxxはCさんが御祈祷されたものです。だから安心して下さい。」(趣意)

最近、私に色々なハードルがあってそれらのことで祈っていただいてます。
複数ある信仰対象さまに感謝していますし、Bさんや教団関係者や他の方々に祈っていただき私は幸せ者です。

☆右目の網膜剥離ではないのか?

網膜剥離は左目で15年以上前に経験していて網膜に問題があると雷のような光が走ります。これは医者の見解でもあり私の経験でもあります。
今回はその光とは違います。
先週、右目の眼底検査をしましたが網膜剥離はありませんでした。

☆右目に作用したのか?

神仏の力が頭に作用した結果、神経を通じて右目に光を感じたかもしれません。あくまで私の想像であり分かりません。

☆今回のことの感想

もしかすると今回一番喜んでいるのは祈祷師Cさんや私でなくBさんかもしれません。

自分にこんな体験ができるとは思っていませんでしたし願ってもいませんでした。
自分に直接影響ある体験としては上の方に来る体験です。
しかも強烈だと感じています。

どの宗派のお坊さんでも祈祷できるか祈祷師を師匠に持つか祈祷を知っているか祈祷学問のセンスを有する人ならば、私が過去と今回と体験してきたことを話せば一目置かれるか驚かれるレベルだと考えています。

他にも書かずに触れてないことがあるのですが、ブログではここまでにします。
伏せてあることを明らかにしないと信じてもらえない部分があり、また話の流れがヘンテコなところがあるのですが、正宗系の人は全く気が付かないでしょう。
勧請/祈祷を知っていて坊さんがすべきことがわかっていれば、正宗系教団なんかとっくに辞めていると思います。祈祷僧とその信徒や伝統講は別かもしれません。

以上
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日蓮と弟子たちの傾向は祈祷僧でなく教理教学の学問僧

2023年11月30日 00時18分59秒 | 他宗の勧請/祈祷
●日蓮さんの祈雨祈祷前後の時系列

(1)唱法華題目抄(昭和定本)文応元(西暦1260)年五月二十八日

但法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず。
(日蓮遺文には「如来秘密神通之力」などいくつか出てくる。)
日蓮はあくまで法華第一であって、真言密教や天台密教の祈りの叶わない点をいくつも強調しています。

(2)母梅菊の蘇生 文永元(1264)年10月

母梅菊の蘇生を祈祷か末期の水か不明だが母梅菊に与えて、息を吹きかえし更に4年寿命を延ばした伝承がある。
本尊書写などに使う炭を祈祷し水に溶かしたか直接水に祈祷したかは不明。

なお旧人間革命で戸田城聖は法主しか作れないはずの御秘符を受け取った後に更に祈念しています。受け取った御秘符を戸田が祈念した記述について問題あるかないか賛否両論あると思いますが、私は祈祷の破壊だと思います。故・池田大作は気がついてないのか知らないのか人間革命を書いて残しています。

(3)祈雨の祈祷 文永8(西暦1271)年6月ごろ
下山御消息(昭和定本)の記述。

(4)佐渡に流罪 文永8年11月 西暦1271年

(5)初めて法華曼荼羅を図顕 文永10(西暦1273)年7月8日

日蓮が佐渡流罪中に佐渡始顕本尊(さどしけんのほんぞん)を図顕した。

(6)日蓮身延入山。文永11(西暦1274)年5月17日

幽閉と思われる。

(6)元寇 文永11(西暦1274)年10月5日

日蓮は蒙古調伏の祈祷を国家からおそらく依頼されず、犯罪者扱いだった。

●疑問点

私が創価学会に在籍した時代だけでなくこの30年で学んでないことは以下のとおり。

「神仏」
「勧請と祈祷」
「祈りは必ず叶う」(幸せがもたらされる、幸せが振りまかれる)
の定義と関係が不透明です。他に結界など場所も。

●各時間軸で日蓮の問題点

まず(1)の時間軸で日蓮の勉強不足が明確になると思います。
歴代天皇の宗教。
歴代天皇の宗教的立場や役割
歴代天皇と「勧請と祈祷」
歴代天皇や日本国民にとって幸せがもたらされたのか

これらの歴史的調査があまりも無さすぎる点が問題です。
真言密教と天台密教の調査も足りてません。現代人から見れば全く足りないです。

日蓮さんの視点では、天皇自身や皇族、公家、政治家などが立場は違えど祈祷を命じたか祈祷師だった可能性がまるきり抜けています。
祈祷の歴史を法隆寺の法華経伝来まで遡るのか、それとも法隆寺開創以後、だんだんと祈祷が広まったのか、東大寺などの本門三戒壇からなのか又は空海さんの金剛峰寺から画期的に祈祷がなされたのか、祈祷の変遷は私もよくわかってません。真言、天台、神道、修験道、他には現代だと念仏系、禅系もあります。念仏は平安期から祈祷があったようです。道元さんも一度祈祷した記録があります。

現代人の我々から見て、持ち物、服装、儀礼、祭壇、一番問題になりそうなのが祈祷の修行内容と達成度合い、読経の祈祷が問題になりそうです。

●天皇と大石寺勅使門と勅願寺

天皇の意思を直接伝える使者のことを勅使と言います。大石寺は勅使門しかありません。今現在、大石寺が勅願寺になったと私は聞いてません。xx僧は維持されているのかもしれませんが。

日本の勅願寺の一覧 - 寺社仏閣 - 施設 - 建物・施設 - 固有名詞の種類

勅願寺 - Wikipedia

>具足山 妙顕寺 (日蓮宗、京都市上京区) - 後醍醐天皇
>建武元年(1334年)には後醍醐天皇より綸旨を賜り勅願寺となり、正式に宗派として公認された。

天皇自身や皇族、公家、政治家などが立場は違えど祈祷を命じた信頼の置けるお寺の祈祷施設や、祈祷僧は歴史の中に多くいたのでは無いでしょうか?
天皇自身や皇族、公家が巫女や神官だった歴史も日蓮さんは見落としていると思います。
天皇、皇族がお寺を建立し初代住職になったケースで日蓮系統だった事例はあるのでしょうか?無いのでは?

にもかかわらず、佐渡以降になりますが天照大神や八幡大菩薩などを法華曼荼羅に勧請した点は私は疑問に思えます。日蓮は痛いやつ、馬鹿な奴としか私は思えません。

五時八教や法華経仏説がただしけれれば日蓮さん学問僧として大正義でよかったのかもしれません。

●日蓮とその後の弟子たちの発言傾向は祈祷僧でなく教理教学の学問僧

日蓮さんは祈祷僧ではなく学問僧だと思われます。
(1)の時間軸とは関係ありませんが補足します。
その後の大石寺の争いや誹謗中傷はひどいです。門流の争い、三鳥日秀らの三鳥派の争い、法主獲得の争いなど、全く祈祷をして仏菩薩を感見して記録して感見記に残せなかったのは大きな大きな大石寺系の失敗だったと思います。
(他に日蓮宗の不受不施派の弾圧など)

日蓮遺文が祈祷僧の言葉ではない指摘の違和感について、ようやく理解出来るでしょうか?
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558.「利根と通力とにはよるべからず」の不確かさ

2023年11月25日 07時18分34秒 | 他宗の勧請/祈祷
●利根と通力とにはよるべからず

唱法華題目抄(昭和定本)西暦1260年
但法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず。
文応元年〔太歳庚申〕五月二十八日 日蓮 花押 於鎌倉名越書畢

よるが依るなのか寄せるなのか別の漢字なのかわかりません。

若い時の日蓮さんは真言密教を問題を感じてやめたのか超能力のような勧請/(加持)祈祷の能力がなく挫折したのかわかりません。

鎌倉時代でも現代でも祈る内容は在家信者は、何を祈っても構わないでしょう。宗教ってそうしたものでしょうし。仕方ないと思います。

祈雨、雨やみ、五穀豊穣、鎌倉時代の戦の戦勝祈願は坊さんがすべき仕事だと思います。
日蓮さん坊さんがする勧請祈祷のできることできないことが不明瞭なままだと思います。

在家信者には、なんでも叶うよ、なんでも祈りなさい、と思いやりで言うのはいいとしても、教理教学と他宗批判の理屈として語っていいかは非常に疑問です。

よるのどの漢字なのかわかりません。

唱法華題目抄は対告衆の宛名がないだけでなく、他の記録もないので真蹟をだれが受け取ったか分かりません。

1.天台密教や真言密教で修行し能力を持った僧侶が勧請/祈祷すべきである。
2.モノマネでもいいから僧侶が勧請/祈祷すべきである。
3.在家信者も能力を持つ修行をし勧請/祈祷すべきである。
4.在家信者もモノマネでいいから勧請/祈祷すべきである。
5.日蓮法華曼荼羅を必要とする場合とない場合それぞれで法華経を読誦し神仏を信じれば、修行せずとも誰でも自動的(automatic)に勧請出来て祈りは叶う。

鎌倉時代は現代文明も消防や警察や医療もなかったので現代人に想像できない不幸はたくさんあったと思います。
なぜ日蓮さんが毎日、勧請/祈祷し多くの人を救わなかったのかか私は疑問です。
日興から日顕までの法主にも言えることです。

●他宗祈祷師と信仰対象でしかできないこと。

創価員時代はなんでも叶うとの指導でした。
邪宗の祈りは叶わない、正宗と創価だけが祈りは叶うと。
内得信仰時代、バルサン焚いたら日蓮法華曼荼羅が真っ白になり慌てて題目をあげたら文字が戻った。諸天善神が出ていくのを見た体験が創価の指導でありました。
洗濯機が故障して祈ったら手に入った体験は私が脱会する少し前にも創価学会の外合で語られていました。過去記事にも書いてあります。

他宗祈祷師と信仰対象から私が学べることは、何でもかんでも祈りは叶わない。
しかし他宗祈祷師と信仰対象でしかできない超能力のようなことができる。

●信仰者が「困った人のところへ行く」とは?

一般的に宗教でよくある「困った人のところへ行く」そんな思想や教えがあります。

祈雨、雨やみ、五穀豊穣、鎌倉時代の戦の戦勝祈願をブログ記事で私は取り上げています。

日照り、大雨や台風、凶作、戦争など人にとって困ったことが起きたら、僧侶がその場に行って解決すばいいではないでしょうか?もちろんお寺にこもって祈祷するスタイルも否定しませんが。

僧俗どちらでも信仰者が困ったことが起きたら神仏に来て欲しい(勧請や招来、来迎など単語はなんでもいい)、困ったから勧請と祈祷し、日蓮法華で必要なのが本尊や諸天善神を文字にすることでは?

●他宗祈祷師とその教団の信仰対象が一番

 祈祷師は複数いて各宗派にいることは再三再四書いて来ました。
他宗祈祷師と「準じる力を持った方々」はTPO次第で、どの神社仏閣でも行ってます。

私にとって他宗祈祷師と信仰対象が一番なのは言うまでもなく読者にわかると思います。
過去記事に書いた通り、聖職者はどの教団の修行でもすべきだと考えており今でも変わってません。
加えて自分自身も(全く選ばないわけではないですが)古いお寺や神社など本尊や神仏を調べた上でなら、どの教団の神仏を拝む必要があるか、どこへ行ってもいいと考えています。
結界を重視するので創価や正宗には絶対に行きたくありません。
私の意見と行動は、もう標準的とか日本国内の教団の信仰ではなくなってます。


(再掲載)川島 清秀「宝劔 日蓮大聖人の教義」P63以降
548.勉強用資料 正法華経、妙法華経の十羅刹女、本地垂迹 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?

日蓮さんの様々な諸天善神を拝む思想が曼荼羅に証拠として残っています。

正宗信者がよく言う他宗は邪宗なんですかね?
正宗信者がよく言う他宗信仰者は邪師なんですかね?
法華経が釈迦直説で五時八教も正しかったら、それで良かったんでしょうけど。

日蓮さんがとても真面目に勧請と祈祷し、諸天善神の来迎を各々見て確認し、諸天善神の名前を書いたとは思えません。
日蓮さんに思いやりはあったと思いますが、諸天善神各々を見た記録はありません。
諸天善神各々を見た記録が無理だとしても、諸天善神各々が「幸せを振りまいた」記録もありません。

下山御消息の祈雨勝負には、祈雨勝負した!雨が降った!祈りがかなった!幕府要人や念仏僧はひどい!としか書いてありません。
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557.勧請/祈祷 水の扱い、祈雨、雨やみ、五穀豊穣

2023年11月24日 00時04分08秒 | 他宗の勧請/祈祷
●水を媒体として神仏の力を宿す勧請/祈祷の形式は真言密教だけでなく各宗派に存在する。

日蓮正宗の御秘符(注1)で水を使う。水を媒体として神仏の力を宿す勧請/祈祷の形式は真言密教だけでなく日本の各宗教に存在します。

1.医療行為として清浄な水を使う。
2.病人などに飲ませるために祈祷した水を与える。
3.他
先祖信仰で水が備えられるケースと備えられないケースの2つは除外します。

本記事や勧請/祈祷では2のケースがテーマになります。
真言でも天台でも密教を邪宗呼ばわり亡国のレッテル貼りするのは日蓮さんが異常としか私は思えません。

仏教各派で祈祷用途で水が祭壇や仏壇に備えられます。

●日蓮が御符を認め清い水で母の口に含ませた事例

ご母堂の蘇生について 高橋俊隆

日朗さんの文章も残っているそうなので一部始終は事実んだと思います。日朗遺文を私は読んだことがありませんが伝承が奇跡を含む事実かは私もよくわかりません。
祈祷なのか単なる末期の水なのか不明瞭だと思います。
現代医学のように病名はわかりません。

●日蓮遺文は思いやりか?祈祷による幸せの実証があるのか?

 単なる思いやりなら問題ないが、絶対とか英語のMUST(しなければいけない)とか強制、脅迫、喧嘩に使われる場合は問題になると思われる遺文があります。

諸法実相鈔(昭和定本)
剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。

祈祷鈔(昭和定本)
仏説なればいづれも一往は祈となるべし。但法華経をもていのらむ祈は必祈となるべし。

大地はさゝばはづるるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出(い)づるとも、法華経の行者の、祈(いのり)のかなはぬ事はあるべからず。法華経の行者を諸の菩薩・人天・八部(はちぶ)等、二聖(にしよう)・二天・十羅刹(じゆうらせつ)等、千に一も来りてまほり給はぬ事侍らば、上(かみ)は釈迦諸仏をあなづり奉り、下(しも)は九界をたぼらかす失(とが)あり。

聖人御難事(昭和定本)
よ(善)からんは不思議、わる(悪)からんは一定とをもへ。

前の記事でも取り上げた遺文です。
困った時は「よ(善)からんは不思議、わる(悪)からんは一定とをもへ。」
祈りが叶わない時は「よ(善)からんは不思議、わる(悪)からんは一定とをもへ。」
このように解釈することができてしまいます。必ず祈りは叶う遺文と矛盾しています。

経王殿御返事(昭和定本)
いかなる病さはりをなすべきや。鬼子母神十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいはいは愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし。
(中略)但し御信心によるべし。つるぎなんども、すすまざる人のためには用事なし。法華経の剣は信心のけなげ(勇)なる人こそ用事なれ。鬼にかなぼうなるべし。日蓮がたましひをすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ。

この遺文も創価員時代の私は好きでしたけど、なんの根拠もない思いやりか日蓮さんの妄想だと考えています。
「但し御信心によるべし」は勧請/祈祷を教えない教団トップには信者を騙し信仰心や教団活動を煽るもってこいの言葉だと思います。

●僧侶の祈祷、祈雨、雨やみ、五穀豊穣、戦勝祈願など

 坊さんのする祈祷を調べると、例えば個人の病気治療や悩み相談だけでなく、国家においては祈雨、雨やみ、五穀豊穣、戦勝祈願などがあります。

100回勧請/祈祷して100回勧請と祈祷の成就できる日蓮さんだったと私は考えていません。

祈雨、雨やみ、五穀豊穣、戦勝祈願など人の不幸や悩み事が何かあるたびに日蓮さん自身が勧請/祈祷すれば、評価はうなぎのぼりだったのは間違いありません。
就職活動のために書いたと説がある立正安国論を書く必要もなければ、あの文章内容にならず「私、日蓮は仏を見ました。勧請/祈祷できます。勧請/祈祷をやって見せます。」
幸せの結果が得られれば天皇陛下が採用し誰もが信じたでしょう。

祈雨、雨やみ、五穀豊穣、戦勝祈願などは力ある祈祷師の仕事です。
在家信者の仕事ではありませんし、こうした困りごとや悩みごとを祈っても構わないと思います。しかし、在家信者が修行や知識もなしに"俺は勧請/祈祷できる"と考えたらダメだと思います。

曼荼羅になんとなく諸天善神の文字を記載して「はいこれが勧請/祈祷ですよ」てのが私は異常なんだと思います。弟子僧侶や信者への思いやりのお守りやお札程度と捉えるなら問題ないと思います。

●勧請/祈祷僧を教えず、創価学会が教えてきたこと

本尊に魔が入っている
大石寺は魔の山だ
創価学会を否定した天魔日顕
本尊の優劣
信者に対する呆れた誹謗中傷。信心が足りない、お題目が足りないなど。

創価学会だけでなく日蓮正宗でも次のような感じの指導があります。

御本尊様に御題目を真剣に唱えれば祈りが必ず叶います。
しかし御本尊様への絶対的な確信がなければ祈りは叶いません。
少しでも気持ちに不信や疑い怠慢があると絶対に叶いません。

絶対とか言ってる時点でダメだと思います。

「強情な信仰で功徳を頂きなさい、あなたは信心や題目が足りません」と在家信者に言うケースはあっても、創価学会本部職員や正宗の坊さんが「お金を受け取っている僧侶や職員が功徳を積みなさい」と言われたら都合が悪いことは再三再四、過去記事で指摘してきました。

なぜ功徳を積まないのか坊さんにアンケートとります!とか論文書きます!とかあるはずありません。坊さんの収入が減るだけですからね。
勧請/祈祷の能力も同じです。日蓮の馬鹿さ加減や低脳がバレる論文や意見交換や議論があるはずがありません。

坊さんは勧請/祈祷の説明はしたくないでしょう。
「但し御信心によるべし。」とだけ言って在家信者にお布施させる方が楽です。

信者の悩み事や相談事、願い事は日蓮さんか坊さんが勧請/祈祷を行い、その結果を信者が受け取るのが望ましいと考えます。
原始仏教でもお釈迦さんの功徳は絶大だから、その功徳の一部を回向したり信者が受け取りなさい、とした思想は一応ですがあります。
在家信者が祈って願いを叶えた、それはそれでいいことだとは思いますが、偶然か勧請/祈祷かは誰にもわかりません。

●注釈

(注1)
日蓮正宗のかたに質問いたします。今でも御秘符はあるのですか?むかしか... - Yahoo!知恵袋

池田大作の御秘符の教えは長年の間にわたり間違っていたそうです。
いつ間違え初めていつ訂正されたのか私は知りません。
第二次宗門問題以後も、食紅で誰かが本尊を書きそれを水に溶かして創価員に与えた、という噂はありました。事実かわかりませんが食品衛生法違反や坊さんでない宗教的問題があると考えます。

長くなりすぎたので後で色々加筆訂正するかもしれません。

次回の内容は未定。

2023/11/23 23:54:38
から
2023/11/24 00:04:08
に変更
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556.仏教各派と祈祷師の勧請/祈祷から日蓮遺文を考察する

2023年11月23日 00時36分10秒 | 他宗の勧請/祈祷
556.仏教各派と祈祷師の勧請/祈祷から日蓮遺文を考察する

●「勧請祈祷の成立には能力者または勧請僧/祈祷僧の存在が重要」

 ここまで書けば気がついている読者が数人はいると思います。

☆大きな問題点「勧請祈祷の成立には能力者または勧請/祈祷僧の存在が重要」と私は考えています。

この三十年以上の間、kさんを除いて日蓮門下僧や在家信者で誰もこれを指摘した創価員、法華講員との出会いはありませんでした。

 私は仏教各派が出した全ての創価学会批判や日蓮正宗批判の書籍を読んでいルわけではありませんし正宗以外の日蓮宗、真言、天台など各宗派のお坊さん全員にアンケートや意見交換した訳ではありません。しかし上記の結論しかないと考えています。

●日蓮は本当に勧請/祈祷の超能力を持っていたのか?

 日蓮は密教系統の勧請/祈祷の儀礼を行なった後か、行ないながら本尊を書いたのでしょうか?
私はなんとなく弱いインスピレーション(感応力)があって、不明瞭な儀式のまま書いた可能性があると考えています。

一番最初の曼荼羅本尊である佐渡始顕と日蓮晩年の日蓮宗宗定臨滅度時曼荼羅本尊が同じ勧請/祈祷の儀礼だったのか、諸天善神である各々の神仏を勧請しつつ書いたのでしょうか?

本尊を書く以前に、諸天善神である各々の神仏を1尊1尊(仏様菩薩様の数え方)、1柱1柱(神道の天照大神など神様の数え方)を勧請し幸せを振りまく結果があったのでしょうか?
「幸せを振りまく結果」があれば勧請/祈祷出来たとみていいのでしょう。
そんな日蓮さんの事実があれば直弟子や孫弟子の記録がないと変です。
記録があれば本尊の数や諸天善神の数からして空海さんを超える大偉業です。
すぐに天皇の御付きの護持僧になれたと思います。でもこうした結果も記録もありません。

神仏を呼べた勧請/祈祷の元祖は日蓮であり、神仏を呼べるのは日蓮以前にない、などと言う人はおかしいでしょう。
不動愛染感見記の記録しかありませんから勧請は不動愛染しかないと思います。

●大事なポイントは?

 勧請/祈祷の能力があれば「神仏がする幸せへのお計らい、導き(ナイショ)」がある
祈祷の結果は「神仏がする幸せへのお計らい、導き(ナイショ)」なので幸せを振りまくのは当然です。

幸せを振りまく結果があれば、不毛な議論や破門や絶縁はする必要が全くありません。五老僧の退転だの、五一の相対だの、お前の教理教学が違うだの、そんな結論にはならないと考えています。これらは私には馬鹿馬鹿しいです。

これは私の体験からくる考えです。
勧請/祈祷の能力があれば「神仏がする幸せへのお計らい、導き」がある。
神仏のおっしゃる幸せへの導きなどには逆らえない、信者にとって逆らう道理がない、と言う方が近いでしょうか?

●重視すべきは坊さんの役職ではなく言葉や態度、勧請/祈祷の能力でしょう。

 祈祷できないどころか重視すらしない又は教えない坊さんに「逆らうな!」とか正宗系信者に言われてもアホとしか思えません。
後述予定ですが、第一次、第二次宗門問題で創価学会は「神仏と勧請/祈祷、能力者、本尊」で正宗の一部を味方につけることも批判することも出来なかったから、全て失敗したともいえるでしょう。
戦中戦後に護持僧祈祷僧がいたのですから、伝統講でもない何も知らない在家信者集団の末端信者とか教団執行部とかの方針やあり方などの批判や提言を、正宗トップが聞くわけないでしょう。
どっちもどっち両者どちらの思い上がりも甚だしいと思います。

日蓮正宗が神仏の存在を教えることができず、勧請/祈祷も教えず、勧請/祈祷の能力者も教えないのも言うまでもなく大失敗です。
ここまで読めば、日蓮から阿部日顕まで私がクソ坊主呼ばわりすることが、なんとなくわかりますかね?

ネットで在家信者がちょっと教理教学を勉強したくらいで「俺の言うことは正しい!俺に逆らうな」とか発狂している人々を見ると、どうしようもないアホかと思います。

●祈祷の形式や道具は?

 例えば、日蓮さんは道具を持っていたのでしょうか?
金剛杵・独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵が人間の勧請/祈祷能力の強さを決めるものでないと思いますが、ないと天皇、公家、政治家に「この人(日蓮さん)は本当に勧請/祈祷できる人なのかな?」と思われるのでは?

金剛杵・独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵

日蓮宗の祈祷の動画や画像、書籍を見るとお坊さんは手に密教の道具を持っています。鎌倉時代からそうだったのか私は知りません。

創価学会の一部の人なのか全員なのかわかりませんが、密教を邪宗とか不動愛染感見記を偽書とか言っていますが私はありえないと思います。むしろ密教を肯定すべきで日蓮さんの修行と勉学が足りなかった結果から今の誤解があるのでしょう。

他宗祈祷師はTPOに応じ中心となる信仰対象の勧請も他も勧請できる人です。手に持つ道具や服装は儀式の種類やTPOに応じ変わります。

2023/12/04 追記修正
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554.勧請師/祈祷師の言葉

2023年11月11日 00時32分42秒 | 他宗の勧請/祈祷
554.勧請師/祈祷師の言葉

●今現在の私の結論は今後も変わらないと思います。

 勧請/祈祷シリーズの他宗祈祷師Cさんに出会ってから知ったこと、気がついたこと、学んだことは様々にあります。それらの体験は出会いからすぐだった場合もあれば数ヶ月、半年、一年くらい一年以上経ってからなど様々な時期で異なっています。
他宗祈祷師の言葉や祈祷の結果と、準じる能力の方々からも影響を受け、今現在の私の結論があります。この数年間、思考や読書をして今後も変わらないと思うので書いてます。

●勧請/祈祷の説明をすると、

 日蓮遺文から読み取れる日蓮自身の祈り方や他人である信者の祈らせ方は、勧請/祈祷の観点から私が考察すると、勧請師/祈祷師の言葉ではないと考えています。

ブログ記事なので前提条件というか、教団や信仰として当たり前なので念のため書いておきます。
他宗祈祷師Cさんの教団においても信仰対象に頭を下げて手を合わせ唱え言をします。
唱え言は短いものもあれば長いものもあります。
他宗祈祷師Cさんがいない場合はそれを真似、他宗祈祷師Cさんと一緒に唱えることがあるわけです。

ですが能力のない私や他の信者さんが勧請/祈祷はできません。
神仏の存在を知りできるだけ祈祷師(Cさん)に教えられたとおりにしたい、ただそれだけです。自分一人で手を合わせる場合は信仰対象にお伝え出来たらいいと思う、ただそれだけです。
私に勧請出来ている意識や確信はありません。
過去記事に触れましたが他宗祈祷師Cさんが勧請されている状況を教えて頂くことは度々ありました。

創価など正宗系は「日蓮大聖人の御確信」とか「先生の大確信」とか確信という言葉が好きでよく見かけます。それらは勧請/祈祷の確信ではなく教理教学を指している場合が多いです。

●他宗祈祷師Cさんの教団の唱え言まとめ

他宗祈祷師Cさんの教団においては次の通りです。

信者も信仰対象に頭を下げ手を合わせ、他宗祈祷師Cさんと同じ唱え言をする儀式、作法があります。唱え言は短いものもあれば長いものもあります。
信者も信仰対象に頭を下げ手を合わせ、他宗祈祷師Cさんだけが唱え言をする儀式、作法があります。唱え言は短いものもあれば長いものもあります。

●勧請師/祈祷師は私に勧請祈祷の強制をしない

能力のない私や信者さんに他宗祈祷師Cさんは次のようなことは言いません。
「私(Cさん)と同じ能力を持った上で勧請/祈祷をしなさい」
「強情に祈りなさい」
「必ず祈りは叶う」
「何時間も唱え言をしなさい」などなど。

呵責謗法滅罪鈔(昭和定本)
「何なる世の乱れにも、各各をば法華経・十羅刹助給へと、濕木より火を出し、乾土より水を儲けんが如く強盛に申也。」

神仏に祈って信者が祈願成就をするのが普通の宗教と読者も思うでしょうし、過去の私も思っていました。おそらくは日蓮も。
はっきりと書きませんが神仏との繋がりを持てるのは能力のある有資格者だけです。どんな繋がりかは想像してください。

「私(Cさん)と同じ能力を持たずとも勧請/祈祷の真似事をしなさい」とは言われていません。
この私の文章説明は読者に誤解を招くかもしれません。
私、米山がする祈りと祈りの形式はあくまで勧請/祈祷の能力ない信者の祈りです。
信仰対象に同じ唱え言をしても厳密に他宗祈祷師と同じ勧請/祈祷ではありません。

(1)米山士郎(You側)はCさん(I側)に対して祈願成就のため信仰対象の勧請/祈祷のお願いする。米山はYou側。
(2)米山の依頼を受け、能力のあるCさんが勧請/祈祷する。CさんはI側。

●私が体験した勧請/祈祷について、日蓮は未体験か無理解だったのでは?

本記事のテーマは口で唱える唱題行を問題視しており心の中で唱える題目はテーマから外しています。

日蓮の法華曼荼羅が目の前にあってもなくても「題目を唱えれば諸天善神の加護がある」との教えは日蓮の希望的推測か祈祷の学問不足に基づくと私は考えます。

日蓮(I側)は遺文の相手が僧侶でも在家でも(You側)強情に祈れと書き残しています。ですから変だと私は考えています。
能力でなく思いやりなら問題ないでしょう。

聖人御難事(昭和定本)
「ただ一えん(円)にをもい切れ、よ(善)からんは不思議、わる(悪)からんは一定とをもへ。」

この遺文も日蓮が見仏や祈祷をよく把握してないから、出てきた文章だと私は考えます。
また、この遺文には読者側がすべき信仰あり方と心構えなど精神面の立て分けがないと考えています。法華経や題目を唱えれば仏天や諸天善神の加護があるのが前提ですから、私には立て分けがないように見えます。後述予定です。

日蓮が祈祷師だったならば「在家信者の貴方(You側)が、この私(I側)日蓮に悩み事を言いなさい。勧請/祈祷僧である日蓮が勧請/祈祷し願います!」こうでなくてはいけないのでは?

●創価学会の指導は?

創価学会の指導は
「在家信者の貴方(You側)がお題目が足りない。」
「在家信者の貴方(You側)が強情に祈れ!です。」

呵責謗法滅罪鈔の遺文で検索すると創価学会のネットページが出てきます。
創価ユースメディアと英語で書かれています。タイトルには、なんと「心の限界を超えて」とあります。諦めるなって言いたいのでしょう。

勧請/祈祷の能力を持たない人にこんな煽る文章で、1日1時間とか30分とか10時間唱題とか指導したら、心がぶっ壊れて精神病になると私は推測します。
日蓮遺文の題目は一回か二回であることは過去に書きました。

●問題点をいくつか。

☆大きな問題点「日蓮遺文には見仏した証拠が殆どない」

日蓮遺文か日蓮関係遺文と言われる不動愛染感見記しか感見した遺文はありません。
下山御消息は祈雨出来た祈祷の結果のみ。

日蓮さんは食料をもらって大喜びした遺文の記録が数多くあります。見仏していれば大喜びし、更に天皇や政治家に国家諫暁や自己主張をしたでしょう。

☆大きな問題点「日蓮遺文には日蓮門下僧侶や在家信者で見仏した証拠が全くない?」

富木常忍がもしかすると祈祷していたかもしれないと私は思います。本物の能力持ちではなく、マネごとだったかもしれませんが。中山法華経寺の早期からの祈祷の成立も、真似事か本物かは怪しいですが儀式はしたのでしょう。
日蓮死後の門下で祈祷儀式が成立した記録が今後出てきても私は驚きません。問題は能力の有無です。
日蓮系僧侶が「今私は勧請できました。今目の前に仏菩薩がいます。」そんな記録あるのでしょうか?

在家信者で見仏したケースは殆どないでしょう。

●あのお寺行けば安産祈願(など)ができる、そうした伝承まで私は否定しません。

全ての宗派において、正宗でも日蓮宗でも日蓮系のお寺があり、あのお寺行けば安産祈願(など)ができる、そうした伝承まで私は否定しません。怪しい話かどうかは個々に調べないとわからないと思います。

続く

2023年12月3日 追記修正
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553.私は正宗から祈祷師や祈祷、神仏の存在を教えられてない

2023年11月06日 06時53分02秒 | 他宗の勧請/祈祷
●創価など正宗系の僧俗がする私に対する誤解

私のことをスパイだとか正宗祈祷師を否定して退転、叛逆者とか謗法だとか発言しているらしいですね。

ひどい話でバカかと思います。
今の私は、正宗祈祷師の祈祷結果や能力だけを肯定しています。日蓮にも弱い能力があったと考えていますが、かなり弱〜い弱〜い力だったと思います。後述予定。

正宗祈祷師の情報提供者は日蓮正宗信者のkさんです。
数ヶ月前、彼に「なんでも話す。なんでも聞いて」と飲み会で言われましたが私は即座に断りました。
理由はいくつかあるのですが、そのうちの一つは、私が知ってしまうとブログに描きたくなったり他の人に話したくなったりするからです。

正宗祈祷師を知らず離れた人は、福運がないのか境涯が低いのか紹介がなかったのか、知らないまま死んでいくのでしょう。日蓮正宗の法主や僧侶が教えないのだから、私もそのまま死ねば良いのでは?としか。
日蓮さん自身が祈祷の分野で無能か低脳だったと私は考えます。だからこそ正宗系の人は、真言密教は邪宗だ!だの秘すべし秘すべしだのうっとりしているのでしょう。

私が若い時に正宗僧侶から祈祷師や祈祷、神仏の存在を教えられてないのに退転とか謗法とか、どういう発言ですか?おかしいでしょう。

●私は情報提供者kさんに、他宗祈祷師に関わる体験を三時間ぐらい話しています。

ただし私の経験や神秘体験や他宗祈祷師の言葉など色々ありますが、全てを話してはいません。

●正宗祈祷師の情報提供者kさんを羨ましいか?

正宗祈祷師や情報提供者kさんを羨ましいとか今からでも再入信したいとか数年前から今まで私は全く思ってません。

●情報提供者のkさんの性格は羨ましい

正宗祈祷師の情報提供者とは本当は正宗祈祷師や宗教抜きでもっと仲良くしたいです。タイムマシンに乗って小学生からやり直して遊び友達になるのが一番いいかな。(笑)

その人はすごく柔軟で明るい性格なのが理由なのか、知り合いのお医者さんから「数百万人に一人の割合で不健全や病気にならない」と言われたとか。その場に私がいて話を聞いてないので話の流れやニュアンスがわかりませんが、どうやらダブルミーニング(2つ以上の解釈や意味づけ)らしく彼に対する半分冗談、半分批判なのかもしれません。
でも精神医学や心理学の読書をしてきた私にとっては重要です。この30年近くそうした人に出会ったことはなく私にとって貴重な出会いなのかもしれません。こうした言葉を言われる人格性が創価など正宗系の僧俗に足りなさすぎると思います。

正宗祈祷師が情報提供者の人格を見て人を見る目があったかもしれないと考えています。

●正宗や日蓮宗や他宗の能力者(祈祷師)の人数

正宗の他の祈祷師や他宗の祈祷師も私に紹介されて能力を教えられれば、今後もケースバイケースで能力の内容や力の強さに応じて肯定し受け入れる可能性があると思います。

Cさんが所属する教団で祈祷師が数名存在する話を聞いています。今のところ行く気はありません。祈祷師同士の繋がりは当然あります。

正宗系では正宗祈祷師の噂しか知りません。
故人を含めても正宗祈祷師は近代と現代だけで三人ぐらいかもしれません。自称だけの祈祷師や有能な祈祷師がいたのではと考えています。

日蓮宗の祈祷師は数名だけ噂話を聞いています。

他宗祈祷師の他に「準じる能力を持つ方々」は約10名に増えました。これからも増えるかもしれません。
今まで「準じる能力を持つ方々」を定義して明記していませんでしたが、神仏の力を信じ念頭にいれ(色々できるCさんと異なり)限定能力や狭い範囲の力をおそらくは好きな時に使える人と私は勝手に定義しています。この説明で重要な点は書いていません。
「準じる能力を持つ方々」の再定義を無理やり宗教研究者でないアマチュアの私がすると「見返りを求めず無料で向こうから接してきてくれてアドバイスや友情、愛情を私に与えてくれた人々」です。

他宗祈祷師や勧請/祈祷がわからなくてもいいので、日蓮の言っていることは色々おかしい、穴だらけなのでは?と疑問を持ち、過去現在の「邪宗」の僧俗のいうことの方が整合性があるな、気づいて欲しいと思います。

「準じる能力を持つ方々」よりも不確定な運命や幸運などから出会いや巡り合わせが良い人たちが数名ですがいます。信仰はあっても意識しないまま、偶然か幸福に巡り会う人々です。「準じる能力を持つ方々」とは違い、さらに限定された巡り合わせのようなもの、と仮定できるかもしれません。私はある意味恐ろしいなと思います。一方的なお導きかもしれません。これも数年前に気がつきました。日時を記録してませんがCさんの出会い以後だったと記憶します。今はまだ未定義のままにしておきたいと思います。

●創価など正宗系の人たち

私はブログの過去記事で、創価など正宗系の人は学校の勉強の延長と仏道修行を勘違いしている、と何度か書いてきました。
記憶力や学歴はないよりあったほうがいいに決まってますが、彼らの勘違いが酷すぎてどうしようもないのかもしれません。

勧請や祈祷に無知無能なまま、記憶力や学力だけでリアルでもネットでも喧嘩する様は呆れます。こうした「争い事」を歴代法主自ら放置してきたのが日蓮正宗です。創価と正宗で裁判までしているわけです。
日蓮の勧請/祈祷の説明不足と理解不足と日々祈祷を成功させなかった過去が元凶と私は考えています。

私が記事で書いている「本物」の勧請/祈祷には説得力があります。
ブログ記事を読んでいるだけでは創価など正宗系の人は誰も理解できないことも承知しています。

勧請/祈祷を勉強だけでなんとか理解しようとすると間違いなくあさっての方向に行くでしょう。日蓮自身が勧請/祈祷を日々成功しておらず、失敗しています。

●やっぱり私は「後でどうなっても知りませんよ」ぐらいの弱い主張だけ

創価員や正宗系法華講員で、空理空論が好きな人、バトルした人、他宗の勧請/祈祷を肯定できない人や日蓮さんの勧請/祈祷を問題視できな人は脱会、脱法華講したほうがいいと思いますよ。誰もまともな折伏なんて出来ず無知な人を騙せるだけです。センスや調査能力がない。

ネットの創価員や正宗系法華講員でうつ病や統合失調症など精神病になっているか記憶障害になっている人が大勢いるじゃないですか。

私の勧請/祈祷記事は教理教学でなく体験でしかないので、やっぱり私は「後でどうなっても知りませんよ」ぐらいの弱い主張しかしませんが、その方針に私はなんの問題も感じていません。

2023年12月3日 追記修正
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552.正宗護持僧祈祷僧と他宗祈祷師と準じる力の持った方々

2023年10月24日 07時06分22秒 | 他宗の勧請/祈祷
552.正宗護持僧祈祷僧と他宗祈祷師と準じる力の持った方々

●正宗祈祷僧の祈祷以外の世間話

 正確な日付を逐一メモしてないのですが私はこれまでに日蓮正宗の護持僧祈祷僧の良い話はいくつか聞いていました。これらの時で祈祷結果の話は聞いてません。勧請/祈祷シリーズ記事の日蓮系でないCさん(以下、他宗祈祷師)に出会う前です。

私が護持僧祈祷僧の祈祷以外の世間話をいくつか聞いても「ふーん」って感じで白けているだけでした。日蓮正宗に戻りたくないし日蓮信仰したくありませんから。

●他宗祈祷師に出会った頃

 私が正宗護持僧祈祷僧の祈祷結果を聞いても同じく「ふーん」って感じです。祈祷結果を一つだけでしたが直ぐに理解し受け入れることができました。

それはおそらく20年ほどの前の本当の話で、護持僧祈祷僧にはそうした力の持ち主なんだな、と直ぐに理解しました。

今だから書ける理由ですが、他宗祈祷師に他の信者さんが依頼した祈祷内容と、護持僧祈祷僧の祈祷による幸せの結果は、ほぼ同一の願い事だったからです。どちらも幸せに関することです。

ただの偶然だと思いますか?どうぞご自由に。正宗や創価の人が教団に居続けた結果、私はどうなっても知りませんよ。

私が他宗祈祷師に最初に出会った時「すごい力の持ち主だ」と直ぐに理解できました。

●時期は大事なのですが

 私の他宗祈祷の信仰体験と護持僧祈祷僧の祈祷結果の噂話は、私の祈祷理解力のポイントになるので重要なのですが、護持僧祈祷僧の祈祷結果を聞いた日時を覚えていません。

他宗祈祷師が私にわざわざ他の信者さんの幸福体験を聞かせたのは、私に対してのお計らいやお導きだと考えることができます。
もう一つの理由として、こうしてブログ記事になっているからです。感謝と感激しかありません。
上で「同一の願い事」と書きましたが私はその内容について質問していません。他宗祈祷師から一方的にお話がありました。

●とても残念に思いました。

 正宗の護持僧祈祷僧の祈祷結果を一つ聞いて「ふーん」って感じです。白けはしませんでしたが、私はとても残念に思いました。

自分の悩み事や病気などを護持僧祈祷僧に祈祷してもらいたかったです。
内得(ないとく)信仰時代や創価員時代だけでなく、創価脱会前後に正宗法華講信徒も誰も教えてくれないし紹介もしてくれませんでした。

 護持僧祈祷僧を含め日蓮から阿部日顕に至るまで、勧請と祈祷と幸せをもたらす結果を私に全く教えていません。彼ら全員を私はなんて酷い坊主だと私は思っています。日如氏の評価は保留します。
護持僧祈祷僧の年齢から細井日達氏が法主当座する以前から活躍していたと推測されるからです。それだけではありません。後述するかは迷ってます。

なんども書いていますが、日蓮宗の僧俗の皆様方は、周囲の方から好かれるよう頑張ってくださいませ。

●他宗祈祷師だけでなく、準じる力の持った方々

 他宗祈祷師のお話から、祈祷師つながりがあり他にも祈祷師はいらっしゃいます。準じる力の持った方々がいることは過去記事で再三書いてきました。
仮に神仏の力を抜きにしたとしても、他宗祈祷師のお力と準じる力を持った方々の力の程を私に比較することはできません。

 初対面で準じる力の持った方々が私に力を使って、お導きお計らいをいただいたことはあります。初対面のケースもあればほとんど話もしてない方々です。それなのに気軽に私に近づいて頂き、話しかけて頂き、更には力を使ったかあるいは神仏との関係か、他の何かかわかりませんが色々と教えて頂きました。
神秘体験に近いものもあれば、仏教の目連など六神通(注釈*1)ような力と類似していると私個人は考えてます。

信仰対象の神仏がいらっしゃる場合か祈祷できる場所に近い場合などで私は準じる力の持った方々からアドアイスを受けています。

今も昔も宗教一般や祈祷などの学問や読書は心がけや気にはしています。以前からテクニカルタームを使いたくないと散々書いてきました。他宗祈祷師や準じる力の持った方々に出会ってからは日蓮正宗系のテクニカルタームや論争、法論、日蓮の教理教学は益々嫌いになりました。私のブログでの方針や試みは大成功でした。

宗教一般や祈祷などの学問や日蓮系でない他宗の教理教学に少しは興味が残っています。祈祷などの学問や教理教学をなぜ質問しないのか?と疑問に思う読者もいるでしょう。
私の過去や人生の困りごとにアドバイスを受けているのに、そんな軽率なことはできません。

創価など正宗系は日蓮系教理教学や指導を「重く」受け止める傾向にあります。荘「厳」、学会「厳」たり、創価班だの師弟の出会いや教えは「厳」粛だの、はっきりいって白けます。

●私の正宗護持僧祈祷僧に対する考え

 私は正宗護持僧祈祷僧の部分的な性格と祈祷能力だけを認めています。

 故・友岡雅弥さん著作の「大乗仏教ならば友が助けに行くべき」(趣意)とか一般的な仏教でも「仏菩薩は来迎する」とか「抜苦与楽」とか聞いて呆れ笑います。
能力者がいながら神仏菩薩の存在や力を教えておらず、正宗内で祈祷僧の存在を明言していません。正宗僧侶には過去に処分僧や離脱僧がいました。創価学会は数多くの問題や犯罪をしても、注意できていません。第二次宗門問題で創価学会大勝利と言ってますが終わってません。
日蓮正宗妙観講と正宗護持僧祈祷僧の意見方針の食い違いも私は大問題だと思います。

正宗や創価が一体、どれだけ金を巻き上げて多くの人が不幸になったことやら。
記憶障害や情緒不安定、うつ病、統合失調になっている子供や大人が大勢いると考えています。

続く

次は「米山士郎はスパイだ!」かな?

注釈*1
「仏教 目連 六神通」「仏教 目連 神通」などでインターネット検索してください。

2023年12月3日 追記修正
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551.鎌倉時代の日蓮と現代の日蓮宗と日蓮正宗における祈祷の違い

2023年10月22日 00時37分29秒 | 他宗の勧請/祈祷
●理解と誤解

 日蓮遺文しか読んでない人や創価学会など正宗系の在家信徒はほとんど勧請と祈祷の学問を知らず、祈祷体験もしてないと思います。
他宗の勧請と祈祷を私が知ったことで、創価学会員時代と異なり、神仏とそのお計らいやお導きや(ナイショ)の理解ができ誤解していたところもわかりました。

可能な限りテクニカルタームは書かず日蓮遺文名と遺文の内容だけに留める予定です。

●目的

これからいくつか記事を追加しますが、私の体験による個人的な見解にすぎません。

日蓮には弱い感応力、不動愛染感見記の感見くらいの力はあったのかもしれません。
今の段階で私の結論は
1)日蓮正宗の護持僧祈祷僧を含み、現代の日蓮宗と日蓮正宗における祈祷を肯定します。
2)鎌倉時代の日蓮の「祈祷だと誤解されている祈り」を私はほとんど全否定しています。私に肯定できる日蓮の祈りの成果は1%くらいでしょうか。日蓮さんを強く信じる人は必ず成仏できる、又は現世利益が100%必ずあると思っているかもしれません。

私の中で1と2は矛盾していません。こう書くと興味を持ってもらえるでしょうか?

日蓮って信心がなかったんだ(笑)、信心が足りなかったんだ(笑)
とか
日蓮の祈りって弱かったんだ
とか
日蓮の曼荼羅本尊に祈っても願いは叶わないか、祈願成就はかなり困難だ。
とか思ってもらえれば、目的を果たしたと言えるのかもしれません。
なお、日蓮さんの信徒に対する思いやりは否定しません。

続く

2023年12月3日 追記修正
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550.勉強用資料 他宗祈祷師

2023年07月08日 00時07分34秒 | 他宗の勧請/祈祷
●他宗祈祷師には教団トップの認可と許可免状がある

●他宗祈祷師だけでなく教団の両方において日本古来の神仏習合がある。

●創価学会など正宗系は裁判が多い。個人間のトラブルが多い。
他宗祈祷師と教団において、外部との軋轢や裁判は全く聞いてない。

●他宗祈祷師と信者さん

日蓮さんのような真言亡国、禅天魔、念仏無限、律国賊のようなレッテルばりはない。
信者さんの宗教経歴などを気にしない。
人格形成や危険人物かどうかのみ。(これには後日に重要な記事を一つ書く予定)

●他宗祈祷師の良き人柄と愛情と自己犠牲

自分は虐待を受けた過去から人格形成など問題があり、鈍感なのでうまく説明を書けない。

●他宗祈祷師は一度しか来てない人にも気軽に祈祷を授けている。一人や二人ではない。
●誰にも恨み言はない。復讐なんかあるわけがない。

●私の何が変わったのか?

無能な信者レベルの私でも勧請祈祷を知った結果で大きく変わったこと。
1.神仏の存在を知る。
2.無能な信者として手を合わせること。これで何の問題もない。僧侶や祈祷僧の真似事をする必要はない。
3.聖職者の真似した祈祷のふりをしない
日蓮ごっこ、日蓮信者ごっこなんて最悪だ。創価員などはやってるふりで気持ちよくなってるだけ。

●私個人の結論でしかないが、簡単な結論。

1)勧請されて来ていただける神仏が大事だと考える。
2)勧請されて救いや教えていただける神仏が大事だと考える。
3)悩み事相談を受け止めて頂きなおかつ勧請/祈祷できる祈祷師 が大事だと考える。

●日蓮系の問題点

日蓮さんは弱い能力があったと思われる。

以下省略
追記か別記事かは未定。
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祈祷の体験談10

2021年04月10日 23時59分13秒 | 他宗の勧請/祈祷
適切なカテゴリーがないので、一般仏教にした。ブログ読者にとって話1/100で受け取ってもらって構いません。

前記事からの続き
祈祷の体験談9(祈祷を受けた体験) - 創価学会の信仰に功徳はあるか?

●地水火風空など自然を尊ぶ

 Cさんの儀礼、Cさんと教団Aの儀式などから創価学会員時代には経験できなかったことが多数あります。
単語に無理やり置き換えると過去記事に書いた「吉事」がそうです。吉事は自然環境、地水火風空と関係が深いのです。

地水火風空についても部分的に私自身が経験したか、吉事を数多く呼び寄せやすい(Cさん以外の)信者さんが自然との関わりの深い吉事を経験してます。Cさんと信者さんも吉事を「素直に受け止め」喜び、学問的な地水火風空を気にしていません。

私も地水風だけは自分で見るか経験するか身近にいたかで、ある程度は経験できました。火は知識だけありますが吉事経験できるかは全くわかりません。
勧請・祈祷と同じ時間と空間で結びついている体験もあれば、勧請のない祈祷から離れた時間と空間(場所が異なる)の体験の場合もあります。
つまりは具体的に希望もせず祈ってもないのに「吉事が神仏の「お導き」「おはからい」か「E−1」か私には断定も推測もできませんが、目の前に現れるか或いはやってくる」事実があります。

私は「教団よりも神仏を直に尊ぶ」ことを優先したいと思いますが、普通の信仰心が人並み戻るか宿るかは未だにわかりません。
教団の教えや近代建物などの場所よりも、地水火風空に近い自然環境を大事にしたいと考える様になりました。
読者には私が自然原理主義ではないことを留意してください。文明や科学を否定していません。
神仏の学問的な「遍照(へんじょう)・辺照」は以前から知ってましたが、正宗系以外の他宗で知った時は私の立場は「宗教は否定しないが神仏否定派」でした。
今の私は神仏の辺照を重視しています。

地水火風を大事にしないのが創価学会だと私は考えています。正宗系の彼らは日蓮遺文や経典などから地水火風空の知識は少しありますが、仏壇、仏壇周り、結界、人、祈り、光に全てに問題を感じます。(創価の場合は他人の不幸を祈っている。日顕宗撲滅など。他人の不幸を見つけると嘲笑か激怒、罵倒しています。)正宗はどうかわかりませんが、特に創価は自然破壊を気づかずにやっています。私個人は、創価と地水火の関係に全く無縁だと考えています。一つ取り上げるとコピー本尊はその最たるものでしょう。

もう三つは光と音とHー1の経験ですが、勉強不足であまり知識が無く今までに書いてきた概要の説明すら出来ません。もう知識はなくても幸福体験があればそれで構いません。

●もし正宗系信者が上記内容を否定した場合

 創価員からオカルトと言われかねないので書いておきます。
もし正宗系信者が上記内容を否定すると、日蓮以前の仏と神の勧請、祈祷、地水火風空と周辺の思想、知識、文献を否定することになります。池田大作の(旧)人間革命に出てきた「ご秘符」はどうなりますか?ご秘符は水、炭(火)、和紙(地の樹木)、祈祷による仏の力を水という中間物に正宗の坊さんが仏力、法力を込めた、ということになっているはずです。その過去を否定することになります。

日蓮さんは日蓮生前の文献に学んでいるので日蓮以前の勧請、祈祷を否定するのは無理があります。別の観点から後述します。
日蓮さんが全ての仏教文献を読んだと書き残していますし、そう言われていますが祈祷と勧請の観点から考慮すると嘘どころか大嘘でしょう。

●Cさんの能力発揮

 Cさんの能力が発揮される個々の場合を私が見ていると、教団の決めた形式の祈る時、祈る対象(正宗系で言うところの日蓮曼荼羅)と場所、儀式、儀礼は存在します。しかし決まりから外れて必要に応じて柔軟に行われる場合も多々あります。その場合、縛り的な固定概念はありません。曖昧に書いているのでさっぱりわからないと思います。例えば道を歩いてる最中でもCさんの能力発揮はあります。

ずいぶん以前の過去記事に書いたのですが、私はニセ法主だった阿部日顕のコピー本尊と創価の改変コピー本尊しか正宗・創価時代に拝んでません。更にひどいのは信徒の分際で曼荼羅に優劣をつける非宗教なゴッコ遊びをしていた過去があります。バカバカしいと言うか痛々しと言うか。
正宗僧侶の修行内容と勧請や祈祷の能力に優劣をつけるべきでしょう。不幸の解決や相談、お願いをしてお金を払うのは信者側です。

コピー本尊が駄目とする日本の法律も仏法律もありませんが、勧請や祈祷を考えると望ましくないと考えるようになりました。
日蓮真筆曼荼羅の写真を印刷して拝む形式を肯定した時もありましたが、今はどちらかといえば否定的です。
コピー本尊を容認した正宗と創価のトップは勧請と祈祷に無知で修行の必要性すら感じてなかったと私は結論づけています。別の観点から後述します。

人様他人様の幸不幸や神仏について学問において(人助けするならともかく)笑ったり争ったりバカにしたりするのはどうかと思います。特に正宗系はこれが酷い。以前からこの考えでしたが、人の幸不幸、神仏の学問は神仏のお導き、おはからい、Eー1である可能性を考慮すべきとの理由からより強くなりました。正宗系で教団や教団トップでバンザイ主義な人がいますが、この数年で私は口をききたくなくなりました。

●複数の一般信者さんの場合

 聖職者ではない複数の一般信者さんで準じる能力を持つ方々について過去記事で触れました。同様に教団としてのきまりである場所(寺社)、儀式、儀礼はあっても、能力発揮に縛り的な(例えば日蓮曼荼羅を折りたたんで身に帯びるなどが必携で、そうでないと地獄へ行く等々)固定概念はありません。曖昧に書いているのでさっぱりわからないと思います。

聖職者ではない複数の一般信者さんが少し能力が高くても聖職者やCさん、他誰も「お前は生意気だ」みたいな発言などの嫉妬、怨恨、罵倒は一切ありません。
皆さん、思いやりや喜びやありがたさがあるだけです。

●仏教も神道も否定しない。

 日蓮系でなく禅宗系でもなく日本の宗教であることはわかると思います。Cさんは仏教も神道も否定していません。

どの宗派か明記しませんが、仏教だった場合、神道を否定していませんし神道だった場合、仏教を否定しないという意味です。
私個人はもう一方も大事にするようにCさんから言われています。

●Cさんの顔の向きや目線



目の画像は著作権フリー画像です。

(続く)

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祈祷の体験談9(祈祷を受けた体験)

2021年02月05日 07時06分40秒 | 他宗の勧請/祈祷
適切なカテゴリーがないので、一般仏教にした。

前記事からの続き
祈祷の体験談8 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?

本記事を書いていて気がついたのですが「祈祷の体験談」と書いたのは分かりやすい文章表現でなかったかもしれません。
私が「祈祷を受けた体験」です。
「祈祷の体験」と何度も書いていますが私が祈祷したわけではなく、Cさんが祈祷しています。

過去記事と一部重複します。

●信者さんの不幸と「欲をかかないこと」

 Cさんの祈祷の結果、信者さんの不幸や上手くいかない状況だとお金を受け取らなかったそうです。
「こういうことは欲をかかない」と。聖職者がお金をがめつく求めないの意味です。

●祈祷と瞑想は相反しないのか?

 祈祷と瞑想は相反しないのか気になる人がいるかも知れません。様々な吉事と祈祷を受けた体験とCさんのお話から、瞑想(密教の阿字観と禅宗の座禅)などを否定する考えは出てきていません。

私の中でも相反する結論とは逆です。瞑想と勧請は深い関係にあります。多くの他宗の古文書などからも断言できます。釈迦仏まで遡れます。
ただし、祈祷を調べると「因果を超えない」とか又は「因果律と矛盾しない」とか書かれてありますが、本当に祈祷できるお坊さんなのか、やや疑問です。
おそらくは荒唐無稽な願いを暗にお断りしてるのか、祈祷のマネだけなのか、良心から予め断りを入れる方針なのでしょう。

----------<ここから>----------
爾りと雖も文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。(行道文庫版)
----------<ここまで>----------
日蓮さんは「因果を超えて功徳(ご利益)がある、成仏の結果がある」(趣旨)と言っているので問題です。(お釈迦さんの修行成果と成仏はお釈迦さんだけのもの。十大弟子や在家信者と同じと思いますか?)経典を引用しあちこちで因果をわきまえろ、物事は因果律を超えない等々書いてますから矛盾しています。

私事でしかありませんが、教団A以外の他宗関係者で瞑想する知り合いが増えています。去年も一人増えました。過去記事で念仏禅、真言律を取り上げました。私が半々というより複数の宗派を気にかけていくかは未定ですし一生懸命に教団活動をする気はありません。
瞑想での神秘体験を聞くと羨ましく思います。

●勧請の説明パターン

 勧請についてCさんから説明されるパターンはいくつか存在します。

(1)儀式前後や最中
(2)旅先
(3)信者さんとの会話の最中

菅田塾で教わったことで話が横にそれますが、神道研究家の菅田正昭さんによると「過去の神道では神様がやってくると数多く拍手した」との説があるそうです。二礼二拍手一礼は明治以降の成立だとか。

創価学会ではどうかというと大きな会合で「池田先生がご入場されます」と司会がいうと創価員が皆で大拍手していました。神道と仏教で違いがあるとはいえ私は滑稽に思うようになりました。
私の記憶では池田大作(阿部日顕も)が「神仏を勧請出来ました」といったり書籍で書いた事例は一度もないとおもいます。祈祷や勧請によって信者さんに幸せや吉事を振りまいたり「神仏のありがたみと恐れを感じる事例」など一度もないと私は認識しています。

本尊に神仏名を書き現すのは日蓮さんの中では祈祷が出来て文字通り勧請だった可能性はあります。
現代では本尊のコピー又は墨筆で神仏名を書くだけで「勧請した」ことになっています。何のありがたみがあるのでしょうか?

●守る、守護

 Cさんは「私自身を守りなさい」といったことはありません。教団A以外で過去にお会いした他宗の僧俗の皆様も同じです。

「勧請の説明パターン」と関連するのですが、池田大作を拍手する必要は仏教的には皆無です。
それは会合として盛り上がらないから創価本部として困るのと、池田の自己愛性人格障害と思われる歪んた自己愛を満たすためでしょう。
アンポンタンな池田大作は「俺を守れ」といい様々な池田を守る組織体制があります。各会館の御祈念項目に「池田先生、奥様の御健康、御長寿」とありました。今でもあるのでしょうが、私個人はかなり恥ずかしく尚且はっきり言ってバカだと思います。皆さんがどう思うかは自由です。人間あるいは役職などの情報を大事にして拝んでいると考えます。

友岡雅弥さんが死んだ経緯を考えれば創価の本部職員や建物に関わりたいと思う一般人はいないでしょう。「友岡雅弥さんがあの様に死んでも退会したくない創価」とは異様、異常としか言いようがありません。これも結界として問題があります。

●切る

 Cさんは悪い何かを「切る」事ができ私は何度か受けています。

創価班の会合で創価班歌を歌う際に歌の指揮を取りました。創作ダンスというか創作指揮なわけですが「顔を怒ったような表情にして魔を切れ」と教えられました。ただそれだけです。修行も呪文も理解力、記憶力、どれも全く関係ありません。ただの腕振り人形です。今となってははっきりいって私は恥ずかしいです。

上の文章からは読者にCさんの「切る」事が説明になっておらず分からないでしょう。残念ですが仕方ありません。祈祷の体験談シリーズは話1/100とかで構いません。

池田大作や阿部日顕が信者さんの悪い何かを切ったことは一度もないと思います。

●結界

 祈祷を受けた私は創価の本尊、導師など建物、場所、服装、供え物、方角、時間、明かりなど様々に問題を感じるようになりました。

本尊が印刷コピーであることや魂入れなどの問題の他に仏壇周り(創価本部が悪いのか正宗が悪いのか仏壇屋が悪いのかはっきりしませんが。)など結界に数多くの疑問があります。

正宗の結界の考え方は調べたことがないのでわかりません。結界については昔調べたことがありますが、正宗も創価も両方とも今後調べる気はなくなりました。

●祈祷の前提条件

 祈祷を体験して致命的ミスと思えるのが「祈祷(祈願)の前提条件はxxxxであってxxxxではない」でした。
創価入信前か遅くとも大学生時代の20歳位で知りたかったです。

この点を正宗系は全く無知と思われます。
物議を醸すので文字数も適当にして伏せ字にしました。これを創価や正宗で教わったことなど一度もありません。
これが広まってないのは各宗教教団の営業問題になるからでしょう。日蓮宗や日蓮正宗でどうなっているのか両方とも今後調べる気はありません。

●因果や全知全能、万能など

 祈祷を受けた体験から私は、聖職者における祈祷の因果は小説や漫画の超能力ではないことや人間側の期待や妄想する形では無いと個人的に考えます。祈祷できない私からは窺い知れません。
また聖職者と祈祷の全知と全能は分けるべきだと体験から私は考えています。それぞれの回数と内容、経緯が異なるためです。

上記から日本人の宗教性として「お天道さまがみている」「地蔵菩薩が道にあり見られている」等々の信仰心を維持してほしいと思います。

●祈祷の結果と私の間

祈祷の結果と私の間は因果があり現実だけです。

●在家信者は祈祷が出来る必要性があるか?

----------<ここから>----------
又此曼荼羅能能信ぜさせ給べし。南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかなる病さはり(障)をなすべきや。鬼子母神、十羅刹女法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいはい(幸)は愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし。いかなる処にて遊びたはふるともつゝが(恙)あるべからず。「遊行無畏如師子王」なるべし。十羅刹女の中にも皐諦女守護ふかかるべき也。但し御信心によるべし。(行道文庫版)
----------<ここまで>----------

(曼荼羅と南無妙法蓮華経を)
信じれば必ず病気にならない
信じれば必ず諸天善神に守護される
題目を持つものを諸天善神は守護する

こうした日蓮さんの考え方は全く祈祷できない信者さん向けです。法華経や題目、本尊など信じるだけか保つだけでもすれば「御信心による」は成立し、良い結果は出るとの日蓮遺文です。

本ブログでは何度も書いていますが、現代では根拠のない宗教の思いやりでしかありません。
これだけならまだ宗教と言えるのでしょうが、正宗系はこの遺文を悪用して相手に喧嘩を売る、脅迫や強要する、見下す等々をしています。
本来は、法華経や題目、本尊などを「素朴に」信じるだけか保つだけの「有無」の「有」だけで「御信心はある」として問題ありません。池田大作や日顕を目指さないとダメな「レベルが高く」ないと「御信心がない」話になっています。教団トップに都合のいい奴隷根性のレベルが高い人が「御信心がある」となっています。

池田大作や阿部日顕は「祈祷の成就」を目指した「レベルが高い」人物ではないと私は考えます。ましてや池田大作は在家です。正宗僧侶も肉食妻帯しており、戒律や結界が問題になります。
正宗系で知り合った人や身近な人を罵倒しているケースは何らかのパーソナリティ障害を起こしています。特に1世よりも2世3世、気性の激しい人や気性の激しい人に関わった人、喧嘩の多い人、アップダウンの多い人など要注意です。

(在家の受戒は三聚戒、三聚浄戒です。現在、どの仏教教団でも在家向けに行われます。本門戒壇の大御本尊や三大秘法は坊さん向け、天皇向けでしょう。)

●吉事

 Cさんは吉事について「(自分がやったのではなく)信仰の対象がしたんだよ」(趣旨)と仰ったことがあります。更には「長年信仰をしてきたが初めてみた」(趣旨)とさらりと仰いました。これは幾つかの意味で私にとって衝撃的でした。後述するかは未定です。

池田大作は良い結果や成果は「俺がやった」(趣旨)とし選挙、裁判で勝てないなど悪い結果は全て「部下や創価員、正宗の坊さんなど誰かのせい、俺は悪くない」(趣旨)ですよね。呆れます。

●準じる能力を持つ方々。

 これを書くかどうかずっと迷っていました。

Cさんの祈祷能力ほどではないものの、準じる能力を持つ方々が複数います。
私には本当かどうかは見極める能力はありません。旅先で「話をしよう」と色々アドバイスを頂いた社長信者さん、他に吉事を感見できる信者さんが数名います。
具体的に吉事の状態を教えていただいて、とてもとても感謝しています。言うまでもありませんが信者さんの中でも一部の方々で、能力持ちと能力なしの信者さんの間で共依存や雇い主と奴隷関係、見下すような関係は全くありません。

上記は体験を詳細に書けば2000文字くらいかけると思うのですが具体的に書かないと思います。

能力の有無に関係なく信者さんには【恐れと有り難み】がベースになっていて身についています。この点は未調査な為と膨大になる為、具体的に書かないか書けないと思います。これが最も正宗系には理解不能でしょうから。

何も知らずに邪宗だの念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊と私は言っていたわけですから申し訳ないのと恥ずかしいとしか言いようがありません。
邪宗は正宗系でしょう。

(続く)

2021年2月6日 引用ー>悪用 他に一部修正

参考
二分法思考はいつ植え付けられるのか?~強迫性・自己愛性・境界性~ | リバータリアン心理学研究所
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祈祷の体験談8

2020年11月21日 23時59分45秒 | 他宗の勧請/祈祷
適切なカテゴリーがないので、一般仏教にした。

前記事からの続き

●勧請の神仏の数

 日蓮系でない他宗における私の祈祷体験であり尚且私の考えでしかありませんが、勧請の神仏は一つでも2つでも多数でも構わないと思うようになりました。

1.呼んだ神仏が来て下さる場合もある。
2.思いがけない神仏が来て下さる場合もある。
3.複数来る場合もある。

こうしたことを素直に喜べばいいと考え、特に一般信者の場合はそう思います。
来迎した仏の数が一つでも10でも一般信者は喜べばいい発想でしかありませんが。

私の創価員時代、朝の勤行をすれば諸天善神が(全て?)守るとか同生天、同名天など複数の諸天善神の守護がある、と教えられ妄想はしていました。
実際は、全く守られていなかったかもしれません。何一つ願いが叶わなかったからです。

実際は私は聖職者でなはく僧侶の修行や儀礼もないにもかかわらず諸天善神が来る、又は守ると考えていました。
一般信者が神仏勧請を願っても構いませんし幸福体験があっても構わないと思います。
ただし僧侶の修行や儀礼を考慮し、一般信者でもできそうな場所や結界、人、供え物等は配慮すべき問題になると思います。

●勧請と追い出し、来るな、又は大石寺へ行くな

 この項目は過去記事と部分的に重なりますが祈祷体験したことで以下のように変化し正宗系のあり方をより強く否定する結果です。

 曼荼羅の多角的な用途は富士門流信徒掲示板や犀角独歩さんのブログが詳しいです。

私の祈祷体験であり尚且私の考えでしかありませんが、神仏を勧請できていれば「出て行け」「誰々を追い出してスッキリした」「誰々を追い出すのは正義!勝った」とはありえないと思います。

「た行の言葉(Fー1)、た行以外の別の言葉(Fー2)」の要素を考えた上で勧請とは何か?を考えると一方で要素F群「来て下さい」もう一方で要素F群といえる「来るな。出て行け」は矛盾します。

 第二次宗門問題で「広宣流布しているのは創価学会(創価員の集まり)であり坊さんが折伏したのではない」との批判は視野の狭い正解といえるかもしれません。
「お導き、おはからい、Eー1」勧請、祈祷を双方全くわかっていません。これらの議論や創価、正宗間で議論は一切なかったと思います。
あれば教えて下さい。第二次宗門問題当時の資料と共に追記します。

●要素F群や祈祷を知らないと彼らは【恐ろしいことをした】と思考不可能

 私の祈祷体験でしかありませんが、一部願いはかなっています。後述するかも。

今の気持ちを率直に書くと
「今の私の祈りのレベルや良し悪しは客観的に評価できませんが要素BやCさんに感謝し出会えてよかった、ありがたい。」と思います。
「正宗、創価員時代の布教、選挙活動、新聞啓蒙は嘘や過ちの押し付け嫌がらせであり申し訳ない。」
「祈祷の理屈も見聞体験も幸福体験も祈ってない予想外の不思議な吉事」を知ることで、私は改めて要素F群に対し支離滅裂なカルト宗教言動をした訳ですから、なんて【恐ろしいことをした】のかと思います。

正宗トップが【恐ろしいことをした】と考え若手僧侶や信者に伝達出来ないのですから中間者として失格ですし、下が思うはずがありません。創価も同じです。

●脱カルトの説得を諦める結果

 祈祷の体験を色々書いていますが、正宗系の人は「祈祷の理屈も見聞体験も幸福体験も祈ってない予想外の不思議な吉事」も知りません。
再度書きますが、祈祷の体験談シリーズに他宗(彼らにとって邪宗)体験に意味がないのは当然だと思います。
【恐ろしいことをした】とは正宗系の人は今後も認識不可能でしょうから変わらないと思います。

祈祷を知ることで私の宗教学問と体験のレベルが上がり脱カルトの説得を諦める結果になってしまいました。
普通は、というか今までは新しい経験や知識は脱カルトに有用でしたが逆の結果になっています。
婦人部女子部向けに文章を書いていましたが祈祷の体験談シリーズから考え方の落差の大きさを考えると根本的に無理そうです。
祈祷もお導きもおはからいもE−1もF−1も根本であるのにもかかわらず残念です。

●私の戯言なので根拠ないです。

 来迎した仏の数が一つでも10でも一般信者は喜べばいいと書きました。
日蓮さんの曼荼羅の中で記載(日蓮曼荼羅に神仏名を記載することを日蓮系では勧請という。)が少ない仏菩薩や諸天善神がいます。
祈祷の体験からマイナーな仏菩薩や諸天善神でも、ありがたく拝めばいいと考えるようになりました。
メジャーな仏菩薩を軽視しろ、と言っているのではありません。
祈祷を知らないと本記事の内容も不明かもしれませんがTPOやケースバイケースでいいと思うだけです。

参考資料 川島 清秀「宝劔 日蓮大聖人の教義」P63以降に勧請した神仏の星取表があります。

サムネイル画像




諸天善神など記載数が少ない為、我々現代人から見て仏菩薩や諸天善神を日蓮さんが軽視したのでは?と考え余計にマイナーに見えるのかもしれません。
しかし、実際は信者さんが土地や先祖の縁から希望した仏菩薩や諸天善神だったかもしれません。
これは日蓮さんのFor youな慈悲だったのかもしれません。

遠沾院日亨(おんでんいんにちこう:正保3年(1646年)〜享保6年12月26日(1722年2月11日))は身延系僧侶。日蓮さんの真筆曼荼羅を書写しています。真筆の曼荼羅は焼失。

参考資料 藤井 教公「御本尊鑑 遠沾院日亨上人」

「御本尊鑑 遠沾院日亨上人」を60分ほど見てみましたが残念ながら、仏菩薩や諸天善神は活字化されていませんでした。
ここにも記載(曼荼羅に書くことを意味する勧請)が少ない仏菩薩や諸天善神がいるかもしれません。
我こそはと思う人は調べて記載が少ない仏菩薩や諸天善神をピックアップしては如何ですか?

日蓮さんのFor youな慈悲の裏付けになるかもしれません。曼荼羅の着地と土地神が一致すれば私の仮説(妄想)が当たるかも?いなかったらごめんなさい(笑)

日蓮さんの曼荼羅で記載数が少ないか記載しなかった神仏を軽視する考えは大きく間違っていると考えます。例えば天皇家の神道伝説の反逆になるからです。勧請がどういうことか考えればわかります。

(おぼろげな記憶ですが、日蓮さんが記載しなかった神仏(諸天善神)を日蓮宗含む日蓮門下で記載した僧侶が多く居たはずです。)

最も尊いはずの法華経が一部の神仏しか認められないのは、実に貧しい考え方かと思います。
神仏側からみて邪悪か低級神仏扱いされ祈祷も出来ないか知らない信者に「不要と言われる」訳ですから滑稽です。

各々の仏菩薩、諸天善神が居て一般人(衆生)が受戒得度し僧侶(日蓮さんや現代僧侶)となり修行、勧請、見仏等々、本尊の顕顕や書写、唱題など(戒律、儀式、儀礼)、祈祷(祈念)となります。その後になってようやく一般信者が祈祷を受け本尊を受け取る等々の順序があるのに正宗系の本尊の喧嘩や屁理屈は滅茶苦茶だと個人的に考えます。

藤井 教公「御本尊鑑 遠沾院日亨上人」 P24 第十二 胎蔵界金剛界大日等ノ御勧請


信仰のレベルや仏菩薩の違いによって行く先の浄土が異なります。
釈迦仏は霊山浄土ですが、各々の仏菩薩、胎蔵界金剛界大日如来も釈迦仏が存在する霊山浄土でいいのでしょうか?我々の娑婆世界に来てくださるのですから、仏菩薩(大日如来も)は自由自在に何処でも行けると解釈可能ですが、修行中の菩薩、如来がお釈迦さんのところへ行って良いのでしょうか?
成仏や悟りを本当に達成できたのはお釈迦さん一人だけ、との思想もあります。
池田のアンポンタンによれば「仏法は厳しい」のでしたね。w

8終。

(続く)

2020年11月23日 追記修正
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祈祷の体験談7(補足)

2020年11月12日 07時32分18秒 | 他宗の勧請/祈祷
適切なカテゴリーがないので、一般仏教にした。

前記事からの続き

●創価学会における、た行の言葉周辺の現代日本語訳1

「日蓮宗の祈祷に関するた行の言葉周辺の現代日本語訳は15件とも全く問題がないように感じた」と書きました。

創価教学研究室 (Tommyのブログ) 稲枝創価学会
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/

創価学会版のた行の言葉周辺の現代日本語訳は五大部十大部を含め多く間違っていました。
創価本部が出した日本語訳が元になっていると思います。確かめるのも、もうめんどくさいですが。
ネットなので、そのうち書き換わるかもしれません。
盗用・剽窃の上、更に現代日本語訳を間違え日蓮さんの「学びの苦労、頑張り、同等と言えないまでも他宗に通じる内容」を台無しにしています。

頭文字がhから始まる遺文名を調べると正しく現代日本語訳されている場合もあります。
つまり不統一があり、重大な問題と言えます。

日蓮に背く読み方をしていると私は思います。

●創価学会における、た行の言葉周辺の現代日本語訳2

https://www.amazon.co.jp/dp/4864502994
日蓮大聖人御書全集 上巻 現代語訳
北川 博通

十大部の一つを見てみましたが、上記URLと同じ間違いをしていました。
それ以上、読む気をなくしました。

●創価学会版 御書全集 戸田城聖の「発刊の辞」

>然るに大聖人唯一の正統であり大権威である日蓮正宗の発刊になる御書全集が皆無に近い現伏であり、やむを得ず巷間流布されている御書に拠っていたが、相伝なき流流・学者等の編纂した書は観心本尊抄を始めその他種種の重要なる御抄に於て大聖人の御真意に叛く読み方をなし

389.学会版御書全集 戸田城聖の「発刊の辞」の酷さと浅井要麟の「感謝の文」 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
https://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/a572927a30177c17fbb9194136e69e0c
より。誤字があったので後で389を修正します。

「大聖人の御真意に叛く読み方をなし」たのは戸田会長と池田会長(名誉会長)だと断言できます。
本記事のテーマは現代語訳だけですが、梵字省略と同じく現代日本語訳するのを無視し更に日蓮さんの意図を捻じ曲げてH−1の言葉に置き換える間違いをしています。

「坊さんは必要ない」と言ってしまった問題とか「池田大作や池田家は最上位の幹部なのに、なぜ祈祷しなかったのか?」とかの問題が浮上します。正宗僧侶も同じことが言えます。

●創価学会版 御書全集を元にした英文版御書

 問題が多いと考えています。大問題だと思います。これが世界広宣流布なんですかね?

●どういうことなのか?

 祈祷に関するた行の言葉(他もあり)周辺の現代日本語訳の間違いはどういうことなのか?

1.祈祷を学んでいないから、現代日本語訳を間違えた。
2.現代日本語訳を間違えたから、祈祷の重要性(日蓮さんの学び)を知ることが出来なかったのでしょう。
無限ループというか六道輪廻というか、1と2の繰り返しです。
本記事での祈祷の意は「お導き、おはからい、おまかせ、E−1」を含みます。

五大部十大部は日蓮宗などで大事だと言われています。創価や正宗はよく理解しないまま、のっかっているだけなのでしょう。

7終。

(続く)
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祈祷の体験談6(日蓮宗の文献から祈祷を調べる)

2020年11月10日 06時54分33秒 | 他宗の勧請/祈祷
適切なカテゴリーがないので、一般仏教にした。

前記事からの続き

●日蓮さんの祈祷に関する遺文内容と自身の体験

 教団Aの祈祷の方法やあり方について判明すると日蓮遺文で、とある語彙が気になりました。
語彙は複数存在しその内の一つは「た行の言葉(Fー1)」で、これを日蓮宗電子聖典で検索すると15件あります。五大部、十大部の中にも見つかります。
画像の上から二番目のS御書、一番下のI御書は関係ありません。

画像


これらの日蓮遺文を現代語訳と合わせて読み自身の体験と重ね合わせ次のような分類が可能でした。
私自身は祈祷は出来ず横で見ていただけです。その点は誤解しないでください。

(1)日蓮遺文内容と自身の体験が重なる箇所。
(2)日蓮遺文内容と比較し自身の体験から疑問に思える箇所。
(3)日蓮遺文内容から、本当に祈祷できたのか怪しいと思える箇所。

上記の日蓮遺文について遺文名と箇所を書く気になれません。
創価の昭和全集や正宗の平成新編に「日蓮遺文の誤記」があっても、教団をやめない人たちですからどうしようもないでしょう。(笑)

日蓮さんが若い時、真言密教僧として祈祷に関して知識や修行はあったが中途半端だったのかもしれません。一流だったのか疑問に思えます。
元真言密教僧であり祈祷に関して低いレベルの知識があった為の文章表現と思いました。
不動愛染感見記が日蓮真筆か日蓮関係文書だと思う点はこうした15件の「た行の言葉(Fー1)」、自身の体験が追加の理由として挙げられます。
祈祷の体験談1に書いた不動愛染感見記が日蓮真筆か日蓮関係文書でなければ、日蓮を馬鹿にするか疑問視するしかない理由はこうした複数の理由からです。
また日蓮の祈祷は100発100中ではないと考えました。
(*g)

鎌倉時代の日蓮が行ったかもしれない祈祷に関し記録の事実がある。その事実は(遺文を読んで祈祷が出来るようにならない等の理由から)重要ではないものの、当核箇所の文章表現は鎌倉時代の真言密教などの仏教系祈祷を知る上で参考になる点が複数存在する。この点は動かないと思います。
(犀角独歩さんは日蓮はド密教、と。)

教団A以外で祈祷できる聖職者を見つけた場合でも脱カルトは可能と言えます。ただし天文学的低確率かもしれません。これには、もう一つポイントがあります。

■その他の体験

 日蓮遺文の「た行の言葉」関連を読んでいると周辺に仏教伝承で「人に関する現象」があります。
この現象を私も体験しているらしいのです。現代の日蓮宗と全く関係なく一般的な場所で教団A関係者と共に居たときです。自分では全く分からなかったのが残念で教団A関係者の人に現象(状態か?)にあることを聞きました。
今からでも再度体験し自分で分かりたいです。

ここまで色々書いていますが、私が凄いと考えているのは要点BやCさんなので誤解しないでください。
教団ではなく、また創価日蓮や正宗日蓮ではありません。
私が凄いのではなく少しか多くかは別にして私に幸せがあったのは間違いないです。

●日蓮宗の「た行の言葉」周辺の現代日本語訳について

 日蓮宗の「た行の言葉」周辺の現代日本語訳は15件全部、全く問題がないように感じました。
日蓮宗では祈祷がどういったものか研究され、現代日本語訳で説明と理解が可能です。

●日蓮宗と祈祷文献

 日蓮宗には祈祷に関する文献がいくつかあるようです。
書名はしっていますが、今の所読む気はありません。
手持ちの日蓮宗の文献は優先順位を決めて徐々に手放すと思います。要素BやCさんの影響を考えれば当然の結果でしょう。

正宗や創価には祈祷の文献(書籍のこと)も記録と現象の証(あかし)もありません。

●6のまとめ

正宗系はやめたほうが良いと思いますよ。祈祷や祈りが叶わない理由は他にもあります。
正宗系本尊や教団で題目を唱える意味は皆無だと改めて思いました。

6終。

補足
*g
g-1.日本の密教における天台の止観行。
g-2.日本の密教における伝教大師を受け継ぐ十二年籠山行など。
g-3.日本の密教における四度加行(しどけぎょう)。修行者が阿闍梨となる為、伝法灌頂を授かるに先立って修習される四段階の加行(けぎょうの梵語:prayoga)の総称。日蓮は若いときに阿闍梨と言われている。如意輪菩薩や本尊と関係が深い。「如意輪や本尊」のあたりは犀角独歩さんや彰往考来さんがエキスパート。
g-4.不動法、愛染法など。不動法は現代でも存在しているらしい。
g-5.「見仏、見仏聞法」目のあたりに仏の姿を見、耳に仏の教えを聞くこと。現代でも各宗派に存在し最重要の修行達成内容と思われる。
g-6.「一心欲見仏 不自惜身命」法華経信仰者では有名。これは坊さんの修行も指しているのでは?

現代に伝わる修行で日蓮がこれらの修行をしたのか不明。弟子や孫弟子の修行内容は今後明らかになるかも?
「一心欲見仏 不自惜身命」の解釈として、読経や信仰活動、唱題したら仏を見えなくても見たことになる、と教えています。その目的は思いやりや一般信者の信仰を継続させる為のレベルの低い教えです。坊さんが一般信者に思いやりある内容で教えることが必須でも坊さん自身の修行が一般信者と同じでは駄目でしょう。

一心欲見不動明王、一心欲見不動とか今の所は聞いたことがありません。
見不動明王しても修行の達成と思いますが「見仏、見仏聞法」との違いや上下関係、目的が問題になりそうです。これ以上調べることはないと思いますが。

(続く)
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