どうも二極思考が流行っているようですね。
やれやれ。いつまで経っても自身の拘りやトラブルの所為で原始仏教にいけませんね。。。。。
○”友”と”アドバイスする”ことに密接な関係はあるか?
あると思っています。
●二極思考(すべては白か黒か)の否定
○【カルトでない物】
釈迦はカルトではありません。
友を作ることが仏道修行なのだそうです。
友にアドバイスすることが出来ていました。
(順序としてはアドバイス→友になる、もあると思います。拘ることではありません。)
もちろん時には見守ることも友の役目かもしれません。。。。。。。
○【創価はカルト】
創価はカルトです。
友を作ることが仏道修行という意識は薄い。
敵と味方、白か黒かの2極論です。
友にアドバイスすることが出来ません。
学会幹部を注意できなかったり会員同士で注意出来ないのです。
○不軽菩薩
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やさしい法華経物語
http://www.sunlotus.org/tales/yasashi/011_020/yasashi15.html
「非難はおろか、棒切れで打とうとしたり、石ころを投げつける者までいた。」
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下種(げしゅ) 仏が衆生の心に成仏、得道の種子を下すこと。
下種折伏(げしゅしゃくぶく) 衆生の心に成仏の種子を下すため、非を改めさせ、強く説法すること。
どんな人間にも仏性がある。下種をするんだ。というのが”建前の”学会の教えです。
本来の教えからすると、非難してくる人、暴力をふるう人ですら敬う精神が不軽菩薩なわけです。
現代では暴力は禁止されていますので「非難」が当てはまるでしょう。
どんな人でも成仏の可能性を否定しないで敬うのは良いことです。
ここまではCMCではありません。
ところがいつの間にか、ネットの創価学会員を見れば分かるとおり、一般人、
アンチ創価(MC論からはこの言い方はダメなのですが。)退会者には学会員からの罵倒が見受けられます。
法華経の精神とは逆に敬わないわけです。
その理由は、学会員ではないから、先生の悪口を言うから、学会員の悪口を言うから。。。。。日蓮正宗だから。。。。。です。
常に敵と味方、二極思考(すべては白か黒か)ということを教えているのは創価学会員であり聖教新聞です。
創価は友とか友以上の同志とか先生の真の弟子とかいいますが、既に差別があるわけです。
法華経の不軽菩薩の精神を正しく理解するならば石を投げてくる人にも、
拝んでくれる人にも同等の態度にならなくてはなりません。
しかもこれは末端の学会員だけに通用する話ではなく、学会幹部にも通用する話ではないでしょうか?
どうなんでしょうか?>誰か。
ここで「地湧の菩薩」というのを学会員は持ち出してくるかもしれませんが、
これは基本的に信仰していない人との差別をするためではないはずです。
むしろ法華経作者の気持ちとしては、
「法華経を読んだ人よ!地湧の菩薩になってくれ!」
でしょう。
○やっぱり創価はカルト
恋愛の破局や友情の破局、親子の破局などが創価思考の結果な訳です。もう過去記事の通り。
学会問題BBSからも転載をいくつか頂いているとおりです。
親が学会活動を優先して子供がご飯食べさせてもらえないコメントが記憶に新しいです。カルトなわけです。
子供を犠牲にする創価。何考えているんだ?学会員。
知れば知るほど嫌になる学会。その5
恋愛の破局や友情の破局、親子の破局に”出来るだけ、可能な限り”ならないようにするのがアンチ創価側の目標の一つでは?ケースバイケースで破局が仕方のない場合もあるでしょう。創価はカルトですから。
ですから過去記事に書いたとおり、出来るだけ多くの退会者やアンチ創価はHPやブログを立ち上げて欲しいのです。
○【他のカルト】
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マインドコントロールからの脱出
( 統一教会信者たちのこころ )
パスカル・ズィヴィー 恒友出版
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第9章
脱会したあとの心理状態
実例3―人の会話を聞きながら学ぶことができるし、新聞や本やテレビでこの問題を乗り越える事が出来る。
二極思考(すべては白か黒か)
1、いろいろな見方、考え方を認めない
2、自分は正しく、相手は間違っている
3、バランスのある見方、発想ができない
4、完全主義のように、矛盾、問題点をかかえている状態に耐えられない。
5、結論、結果を先読みして、わかったつもりになる。(過程の大切さがわからない)
6、感情のコントロールができない。(幼児のような感情におちいることがある)
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というわけで、創価学会員であれば絶対にダメだ!!!黒だ!!!といのは上記の本からしてもCMC思考な訳です。創価思考です。残念でした。
カルトな教義内容も信じる人と信じない人がいます。
カルトな人も同様、信じる人と信じない人がいます。
それを信じ込ませるテクニックがMCに当てはまると考えられる、、、、という事のようですね。
二極思考(すべては白か黒か)の否定を改めてしておきます。
●アンチ創価、創価シンパというレッテル
ずいぶん以前からアンチ創価、創価シンパというレッテルやheckさんシンパという言い方は
MC論から厳密に考えれば私一個人の考えではダメ、、、というようなことを書いてきました。
理由は上記の通りアンチ創価、創価シンパという二極思考(すべては白か黒か)だからです。
というのもアンチ創価、創価シンパというのはカルト論に密接に絡んだ、MC論、つまりMind、心の問題だと思います。
CMCとアダルトチルドレン、共依存は多かれ少なかれ、ケースバイケースであってもそれぞれ無関係ではなさそうです。
アダルトチルドレン、共依存も全部心の問題です。
創価学会被害者として退会することを否定していません。当然、退会できた方が良いに決まってます。
今問題にしているのは籍の問題ではありません。
ここからが問題です。
アンチ創価と言いますが、さて私の心を数字や形で具体的に「アンチ創価度」「アンチ創価指数」を表現できますかね?
出来ないでしょう。
CMCといっても心から出てきてしまうか心から生まれるかのであり、心の表現としてネット上のコメントやメール文章に現れるのではないでしょうか?
私への非難があるようですが、はったり特急の人と仲良くしているのは「自分で考え自分で決めたこと」です。
(別途、一般人の怒りとCMCの怒りで後述するかもしれません。)
創価学会そのものや、悪しき組織、悪しき教義、悪しき学会本部幹部、本尊など、は完全に否定しても、目の前にいるバリ活すらも被害者意識の有無があるか無いかだけの”心を持った人間”はどうやって完全に否定できるか????これは非常に難しいでしょう。(一発でカルトっぽい人もいますけどね。(笑)罵倒する人は分かりやすいかな?分かりにくいのは礼儀正しかったり言葉は丁寧だけど、人間関係の破壊を招く様な人は危険かも。)
('07.06.09 14:53追記)アンチ創価、創価シンパという立場で人トータル、人全体や人の心全体を二極思考(すべては白か黒か)で推し量れないと言うことです。コメントや記事、ネットマナーなどの人の言動には個々に白黒をつけることは矛盾しませんし問題ありません。
●過去記事より
kousanの白と黒の間には無数のグレーがある。
友岡氏の書籍には「全くの善もなく、全くの悪もない。」
過去記事にも友人を失ったことは多々書きましたが、その所為でしょうか?
3月頃から私の中では
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アーナンダー
「私たちが良き友を得ることは、仏道の半ばを完成した事に等しいですか?」
釈迦
「良き友を得ることは仏道の半ばどころか、仏道の全てです。」
ブッダは歩むブッダは語る 友岡雅也 著 第三文明社 より P6から主旨。
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これは非常に大きなテーマになりそうです。
なにしろ”友を得る”修行なので友を得る方法や答えが出たり、友を1人、10人、100人という人数を得るという問題でもなく、得るという目的でもなく”友を得続ける死ぬまでのテーマ”(修行)かもしれません。
●学会員と友情を結ぶことは基本的には危険です。
特に高校生、大学生、社会人1,2年生、不幸があった人等々、MC論や社会を知らないところにつけ込んで入信を迫ることがあるでしょう。
だからこそ、MC論が必要だと感じています。
一体何処で誰がMC論をもて遊んでいるんですかね?
もちろん皆さんのネット上の体験記や相談BBSも重要です。(BBSのあり方と専門家の有無については後述かも????)
( 高校生、大学生、社会人1,2年生、不幸があった人等々、MC論や社会を知らない人は創価学会員とは関わらない方が良いです。過去記事と矛盾していないつもりです。 )
('07.06.09 14:53追記)絶対に幸せになれるから創価学会の信仰は絶対である。他の宗教は一切邪宗である。(他の宗教は黒である。創価だけが白なのである。)という二極思考(すべては白か黒か)、創価思考を改めて否定します。
とある一学会員が問題あるのかないのかを見分けるにはMC論が必要だと思います。
ではどうすればいいのでしょうか?
●心構え1
どんなに誰からも素晴らしい人格と評され人であっても、全てが「完全」だとは見てもいけないし考えてもいけない。
「この人が言うことは絶対だ」とは思わない。
そうやって人を買いかぶるのは「池田氏」を祭り上げるのと同じ感性になってしまうと思います。
恐ろしいことです。
●心構え2
友人関係と人の評価
まずは自分に受け入れて考え、吟味する。
肯定と否定、是と非、を考える。
最終的に自分の物とするかどうか判断する、、、
批判的合理主義、可謬主義が重要かと。。。。
仏教と批判的合理主義
仏教と批判的合理主義++NOTHING TO YOU
批判的合理主義は人間関係にも使えそうですね。
今回も当てはまってすごいや。
○心の取り扱い、肯定と否定
人の意見や人にしても、カルト論、MC論、宗教論にしても、
アンチ創価、創価シンパでもどちらも「心を取り扱う」という共通項があるのです。
ところが学会員が「心の取り扱いに失敗している」事が多いと私は考えています。
以前コメントの転載を頂きましたが、
学会員の親子で [ 注意、叱り、アドバイス ] (何でも好きなのをどうぞ)が通じたことは
「心の取り扱いに”成功”している」
「”心を変える”ことに成功している」
このことは重要であり、宗教的であると思います。
素晴らしい体験であることに間違いはないと思います。
お母さんは宗教も子供の状況も両方を「受け入れて考え、吟味」して
「肯定と否定、是と非、を考え」
「最終的に自分の物とする」(最終的に子供を注意する)
としたのではないでしょうか?
○私の心じゃない、他人の心じゃないんだから、どうにもできない
これについて「変えることが可能である」と反論しましたが、
いつも成功するわけではありませんし、可謬ですから失敗もあり得ます。
また急激に変えていいのか?等々なども、ケースバイケースで考えるべき事であり、
”「私の心じゃないんだからどうにもできない」ケースが存在すること”
を否定しません。そっとしておいてあげるのも時には必要なんでしょうね。
●引用
聖書
「なぜあなたは、兄弟の目にある塵が見えながら、自分の目に梁があるのに気づかないのか。」(マタイ6:3、ルカ6:41)
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」(ルカ6:37)
仏典
「目の前にあるものも、目の前にいないものも、遠くに住むものも、近くにあるものも、すでにあるものも、これから生まれるものも、一切の生きとし生けるものに幸いあれ。」(スッタニパータ)
「ただ誹(そし)られるだけの人、また、ただ褒(ほ)められるだけの人は、過去においてもいなかったし、未来にもいないであろう。現在にもいない。」(ダンマパダ)
●友とは?
もうここまで書けば言いたいことは分かると思うのですが、
注意、アドバイス、指摘、批判、なんでもいいですが、これらの事と同時に、私はブログ管理や和解を求めたり、出入り禁止をしています。
偶々、はったりの人と連携しましたが、学会員の信教、思想の自由を強制したり奪うのではなく「当たり前のマナーを守れ!」「謝罪するように」といっているだけです。和解を求めている人が何人かいるわけですが、和解を求めることがその人を黒!としたり、100%否定したりするカルト思考に相当するんでしょうかね?
特に「裁く、非難する、レッテルを貼る、ダメ出しをする」ということと「和解を求める、呼びかけ、話し合い」ということは距離が遠い、のでは???と思います。
是非、私のカルト思考をMC論の本から引用してご指摘下さい。
○補足
私もいつ頃から気がついたのか忘れましたが、何でもかんでも自分でする必要はないし
無理して全部をする必要はないと思います。
一番したいことをみんなで協力して少しずつやっていけると良いですね。
最も問題なのは友情が失われたことです。
いてくれるだけの友人でも大事にするべきではないでしょうか?
友人はいつもいてくれません。
ですから、ほんの少しでも一緒にいれること、いられること、いてもらえること
こうしたことを大事にしたいですね。
もちろん私も学会員でも良い人やコメントを残してくれる人は
大事にしないといけないですね。
但し、当然というか、学会員には創価学会に席を置く以上は
その人を多少は厳しい目で見ないといけないかもしれません。
密接な関係を持っていても友でしょう。
MC論しか互いに話題のない友でも友でしょう。
仏教教学しか互いに話題が無くても友でしょう。
冗談しかお互いに言わない関係でも友でしょう。
創価は良く「リーダー」「立派なリーダー」「池田先生のようなリーダー」
こうしたことを求められます。
池田氏は無謬、池田氏は大商人の生まれ変わり、、、こうした異常な伝説から
いつの間にか「無謬なリーダー」「無謬な友?」を求める傾向が強いです。
ですから、お互いに(無謬でない)可謬な友人がいいですね。
副管理人や管理人をおいてはいけない、そういうことではありません。
「無謬なリーダー」は意識や感覚の問題です。
悪しき創価思考、悪しきCMCです。
自分も相手も可謬でいいかと。。。でも指摘などで変わって欲しい気持ちも本当です。
変わってくれたら嬉しいし、でも変わってくれなくてもいいのです。
わかります?このニュアンス。
☆まとめ
というわけで、
1.二極思考(すべては白か黒か)の否定
1.アンチ創価だからダメ!、創価シンパだからダメ!というのは法華経の精神とも異なっているし、創価思考にそっくり。アンチ創価側でも注意!
1.”友”と”アドバイスする”ことに密接な関係があり注意できないのがカルトです。(時には見守る。批判的合理主義で判断する。)
以上
追記 ('07.06.09 14:53)
追記 ('07.06.10)
○不軽菩薩
○やっぱり創価はカルト