創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

202.福本副幹事長、公明離党して民主で出馬???

2007年06月16日 13時41分59秒 | 創価学会
急ぎ。追記修正あり。

福本副幹事長、公明離党し民主で出馬か

>福本氏が参院選出馬を表明した。
(中略)
>「太田代表には何度も離党を打診したが受け入れらなかった」として今月11日に離党届を内容証明付きで党本部に郵送。

離党を受け入れらないのは創価と同じですね。退会届の内容証明を創価学会に郵送するのもそっくりです。(笑)

>「私の意向を聞かれる前に党本部主導で決められた。勇退は納得していない」

上意下達で決められる創価と同じですね。
太田昭宏代表から「公明党員は一生公明党なんだ」と説き伏せられたそうですが、「学会員は一生学会員なんだ」という学会精神と同じ事を言うとはね。。。。呆れます。
政治と宗教をゴチャゴチャにしている証拠です。
小沢氏のことを次のように評していますね。

>小沢さんは1つの信念を貫き通す政治家。局面で政策内容がぶれない人。

彼の口から出てくることはないのかもしれませんが、この逆の評価を創価公明にしているのかもしれません。

北側幹事長は「唐突で大変驚いている。極めて遺憾。」としながらも「言語道断。党員への裏切り行為で許せない」と激しく非難したそうですね。聖教新聞や公明新聞、ネットの公明ニュースでAとかBとかCとか匿名で福本氏を

「裏切り者!」

とかいって竹入氏のように「盆栽を買った」「指輪を買った」断罪するのはいつ頃になるでしょうか?
楽しみにしております。

公認しなかった理由は彼の秘書の親戚の葬儀が日蓮正宗で行われた事に批判が集中したらしいですが、本当なのでしょうか?本当なら政治と宗教をゴチャゴチャにしている証拠ですね。

以上
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201.MCされる過程や順番 ”自分から嘘やCMCに飛び込む????”

2007年06月15日 23時36分00秒 | 創価学会
創価学会のMCの方法として毒矢のたとえを改変して途中まで本当で途中から嘘というのを書いてきました。最初に誰も否定できない事実を持ってくる、といういつもの手口です。
創価のMCの仕方。(コーヒーカップ事件裁判やネットのデマ?)

原始仏教 (広済寺ホームページ)
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8368/1179878148/4-11影響力の武器

●正しい毒矢のたとえと創価の毒矢のたとえ

 毒矢のたとえは本来の意味を私が正しく書けるかどうかは自信がありませんが、ちょっとだけ書いてみます。
 毒矢が刺さった負傷者がいます。毒ですから下手をすると死んでしまうかもしれないわけです。負傷者は考えます。。。この矢の材質なんなのか?、誰が矢を放ったのか?どんな理由で?という想像?推測?、、、、妄想とは言いませんが友岡氏の書籍にもあったとおり「確かめようのない事」なわけです。すぐには確かめようのない事よりも矢を抜く事が先決な訳です。もちろん現代でも警察が犯人探しをするのと同様、当時でもそれなりの犯人探しはあったでしょうし、現代の一般常識として確かめたり犯人を捜したりする事も否定しれません。 ですが釈迦の教えは

「確かめようのない事」(毒矢の理由、性質)を求めたり信じたりするのではなく、

原始仏教の修行方法で”煩悩、苦悩(毒矢)”を離れ、悟りを開きなさい、、、という事を言っているわけです。苦悩の原因や理由、過程を考えるより苦悩を見つめ苦悩そのものを取り除きなさい、ということでしょうかね?

○創価の毒矢のたとえ

これが創価の手にかかると過去記事にいくつも書いてきたとおり創価の伝言ゲームが始まります。(笑)現世利益というか幸不幸というか毒矢を抜いて死なない事が最重要課題になります。(笑)

毒矢を抜く事が死なない事→毒矢を抜く事が不幸にならない事→毒矢を抜く事が幸福になる事、宿命転換。
あれこれ考えて悩むよりも行動だ!折伏だ!破折だ!唱題だ!選挙だ!
疑わずに行動しないと、毒矢で死んでしまう、つまり、不幸になる
「よく分からなくても良いから信じてやってみろ!学会活動することが!行動することが!信じることが大事だ!」

「毒矢のたとえがあるでしょう。毒矢を抜かないと死んでしまいます。つまり、あなたも信心をしないと不幸になってしまいます。あれこれ考えて悩むよりも私の言うことを信じて池田先生の言うことを信じて言われたとおり行動しましょう。先生の言うことを疑ってはいけません。」

という学会指導になってしまいます。第3者によって嘘を教えられ、第3者によって恐怖を操作、つまりMCされているわけです。学会活動や信心をしないと”不幸になってしまいます”という恐怖を植え付けられてしまうわけです。いつの間にか苦悩の原因や理由、過程を考えるより(まじない信仰の力があるはずだから?)さらに現実逃避して他事である学会活動しなさい!ってわけです。なお、「毒矢のたとえがあるでしょう。毒矢を抜かないと死んでしまいます。この部分は、創価独特の教義が様々に当てはまります。

○何処が本当で何処が嘘なのか見分けるのが難しい

「大石寺がこの様に言うのだから、大御本尊を疑ったり誹謗すると罰が当たります。」
「世界から賞賛されている池田先生の言うことを悪く言うと罰が当たります。」
「日蓮はこうこうこの様に言っているから、日蓮大聖人の血脈は学会にしかありません。創価学会に入信して信心するべき!逆らうと罰が当たります。」
「戸田先生が宇宙生命=仏と悟った最初の人です。宇宙のリズムに逆らうと罰が当たります。」

などなどという創価学会員と同じですね。大石寺がこの様に言う、世界から賞賛されている池田先生、日蓮はこうこうこの様に言っている、などなど嘘が”含まれている”わけです。罵倒や恐怖がなくても

「ご供養することであなたの宿命転換できます。功徳があります。」
「選挙活動することであなたの宿命転換できます。功徳があります。」

というのもほとんど同等のCMCなわけです。創価組織に一個人の時間とお金を必要以上に捧げているだけでしょう。(必要最低限はあるでしょう。)

( ちなみに池田氏はこの会話に参加もしてないし、池田氏の意見は「確かめようがない」のですよね。この指導する人と同じ意見か違う意見かは不明です。物の考え方や仏教哲学の浅深高低、指導の仕方は皆違います。指導を受けたことのある学会員は分かるはずですが。。。マイ聖教などの末端と池田氏が言うことが違うというのもダブルスタンダードであり池田氏の意見は「確かめようがない」のですよね。 )

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ブッダは歩むブッダは語る 感想その6 (師匠とは?)
●師弟の距離

やってみなくちゃわからない、と言われたら?

公明党や創価学会のリーダーと責任 その5 (池田大作氏)

あるブログでこんな意見が出ました。学会員さんはこう思っているかもしれません。
もしかすると、先生は、、、、
1.現場の活動家たちが目標達成の為に20部も30部もマイ聖教(聖教新聞)を取っていることなどは知らないのでは?先生の同時中継スピーチなどで1度たりとも『マイ聖教を取ろう』なんて聞いたことないから。財務にしても3桁(100万)をやれ!などとは同時中継スピーチにも新聞にも載ってない。先生から出た指導だとは断言出来ない。
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釈迦であれば私に対して
病気があるならあれこれ理由、過程を悩むより早く帰って寝なさい
疲れているならあれこれ理由、過程を悩むより早く帰って寝なさい

創価は様々な「戦うんだ!!」という学会精神や使命を持ちだして
病気があっても学会活動をしなさい
疲れていても学会活動をしなさい
かな?これも妄想か?(笑)

生老病死(しょうろうびょうし)を肯定?認め?どう生きるかが釈迦の教えかな?
この辺はまだまだ勉強不足というか、友岡氏の書籍だけではイメージがつかめませんでした。ま、その内にわかるかも?しれませんね。
煩悩や苦悩との解脱?悟り?が大事らしいので、どう肯定するのかよくわかりませんが。。。。

さて、ここまでは過去記事と変わりありません。ここからが重要です。

●MCする人、される人

 某BBSで私と私と会った事のないある人が同じ「創価の毒矢のたとえ」を知っていた、認識していた、というのが重要です。

 MC論は恐怖と怒りがポイントだそうですが、聖教新聞でも敵を粉砕!悪を許すな!という記事ですからそのまま罵倒がその人の口や心、ネット上でもメールやコメントなどで出てくるでしょう。批判でなく非難に相当するレッテル張りもそうでしょう。MCのポイントとなる恐怖や怒りは、新聞や口伝によってどこかで創価学会に教えられているんですね。

こうした怒りや恐怖、つまり「あれこれ考えて悩むよりも行動だ!折伏だ!破折だ!唱題だ!選挙だ!」「創価学会は絶対だ!」「財務して功徳がある!」「選挙戦って功徳がある!」「創価正義!!」というのもネット上で学会員が読めばまた更にそこで思考停止しているか大事なポイントの思考回避しているか、つまりMCされているという事です。

またも重要なのはMCした人もされた人も悪意がないことが非常に問題かも。しかし一番最初に間違えたか誤解した末端の学会員、あるいは恐怖と怒りを操作し続けている学会本部、つまりは池田大作氏に責任があるでしょう。(責任論を後述します。)

ここでも何度も言ってきたとおり一般の人の結論は大事です。

「宗教なのに他宗教(個人も?)を罵倒するのはおかしい」

という一般人の結論です。
ね?一般の人の結論は本当に大事ですね。直感的な結論しかありませんが、適切に(長々と?(笑))説明すれば上記の通りな訳です。つまりは釈迦が極めて現実的、常識的、(一般的?)だったということでしょうか?

●MCされる過程や順番 ”自分から嘘やCMCに飛び込む????”

 問題点はこの毒矢のたとえに限らず、

「こうした嘘を聞かされたりMCされたりしても一番最初にそれを聞いてMCされて入信してしまうわけではない。」

という事です。””「創価の毒矢のたとえ」を聞いて入信した人はいない””と思います。「絶対に願いが叶うから!」「幸せになれる!」あるいは「2世3世だったから」という理由が当てはまるのでしょう。 私もそうだったと思うのですが、入信後しばらく経ってから、毒矢のたとえを聞いて創価の都合の良い「創価の毒矢のたとえ」を持ち出されれば疑うのは難しいでしょう。なにしろ「宗教者が嘘を言うはずがない」と思うのが普通 ですからね。

あの人が嘘を言うはずがない
私の大事な友人が嘘を言うはずがない
池田先生が嘘を言うはずがない
日蓮が嘘を言うはずがない(これは仕方ないのですが。。。。)
大御本尊が嘘のはずがない。

っていうのも気持ち的には同じですね。。。。。。。ですから私はMC論の有無にかかわらずブログ立ち上げ当初より「宗教者(側)が自己責任を言うのはおかしい」と書いてきました。もちろん私が気がついていないMC論や責任論の視点もあるでしょうが。。。。。

 こうしたことは宇宙生命論や大御本尊の嘘、嘘の教学やCMCを学会員が ”自ら学ぶ” ”自分から嘘やCMCに飛び込む” 事もあります。なにしろ「他の宗教は邪宗」と教えられていますから学会以外の書籍などで学ぶ事も一切無いわけです。

「あぁ、最近御書を勉強していないな。。。真実の仏法(笑)(^_^;Aを求めて勉強するか。。。。」と言って人間革命や池田氏の書籍、学会の御書解説書を読んで、他宗から見ても正しい場合、妥当な場合、仏教らしい思想(友岡氏の書籍など)は”OKな仏教学”です。ところが同じ活字でも聖教新聞や創価新報があり、創価にしかない”NGな仏教学”こうした「常に戦い続ける」「絶対正義!」「絶対勝利!」などと同時におかしな教学を学んでしまえば、何処が本当で何処が嘘なのか見分けるのが難しい複雑な物になります。

自分から嘘やCMCに積極的に学ぼうと積極的に飛び込もうとしているわけです。

大御本尊が嘘のはずがない。
何処が本当で何処が嘘なのか見分けるのが難しい複雑な物になります。

というのをもう少し補足します。

○大御本尊の捏造など

 ”何処が本当で何処が嘘なのか見分けるのが難しい””自分から嘘やCMCに飛び込んでいる””説明責任がある””信仰上にも宗教者としても、どちらにも責任がある”というのは大御本尊の捏造などが良い例ではないでしょうか?

大御本尊に関して創価と正宗のトップに”説明責任がある””信仰上にも宗教者としても、どちらにも責任がある”と特に思います。末端に説明責任はありません。末端もトップの言うことを教えられたとおりに言っているだけでしょう。少なくとも末端同士が喧嘩するのは馬鹿馬鹿しいですし、普通に説明すればいいわけです。

実態はこうです。
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犀の角のように独り歩め:真光寺本尊模造の方法を検証する (2)

>「是非とも、彫刻本尊の鑑別をお願いします」というと、唖然とするような応えが返ってきた。「あなたの挑発には乗らない」。わたしは心底吃驚した。「挑発ではありませんよ、お願いしているんです」。そう言うと、「ご希望に添えません」とも言った。
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なにしろ普通の状況下なら一般信徒にとっては「確かめようのないこと」なので大御本尊を疑うのは完全に不可能でしょう。

ところが異常な状況が発生しました。正宗系はCMCが濃い?ので憎悪などで攻撃してやりあうから、河辺氏のメモが学会側から出る!!!???(僧侶が信徒を除名する、なども)という摩訶不思議な状況になって滅茶苦茶になるんでしょうね。宗門問題が先でインターネットの普及が後だったので今の状況があるのかもしれませんね。ネットがなければここまで判明することも無かったでしょうし、私もCMCを解くことは一切出来なかったでしょう。自力なんて余程頭良いか良い人脈か他の幸運な人でないと無理でしょうね。ネットが先に普及していたら正宗創価どちらのトップも必死に和解しようとしたかもしれませんね。

ついこの間まで「大御本尊は本物だ!偽物だなんてなんて酷い事を言うんだ!!!」という学会員がいましたが、
今ではネット上で「大御本尊は偽物」と言いきる学会員がいますね。言いきるだけなら何の問題もないのですが日蓮正宗を攻撃、罵倒しているのは笑えます。立派なCMCの証拠でしょう。(大笑)

信用失墜するのに思考停止しているかバカだからわかんないんでしょうね。ここでも「宗教なのに他宗教を罵倒するのはおかしい」です。説得すればいいのでは?それが宗教でしょうに。、、、。あ、いけね。正宗系は全部カルトだったな。(笑)(^_^;A

つまりは罵倒や攻撃することでした人のCMCが濃くなっていくのかも?しれません。
CMCといってもやはり心の問題であり、自分から何らかの暴言、誹謗中傷、罵倒、するというのはやはり何か問題を抱えているんですね。
それが宗教団体者(宗教者とは言わない)であればカルトである、MCである、ということか?

(なお誤解のない様に書いておきますが、CMCの怒りと一般人の怒りは違うと思います。)

「大御本尊は本物だ!偽物だなんてなんて酷い事を言うんだ!!!」も「大御本尊は偽物」も創価学会に教育されたのです。MCされたのです。
創価学会の家族のなかでおじいちゃんは大御本尊を信じているけど2世3世は信じていないとか多いかもしれませんね。笑っちゃいます。ついこの間までの「大御本尊は本物だ!偽物だなんてなんて酷い事を言うんだ!!!」という人間革命や数々の書籍は何だったのでしょうか?(笑)

☆まとめ

といわけで「創価のMCは入信する時だけにあるのではなく、入信後など創価の何処でも何時でも存在する。」と思います。

もちろん人も教義もどちらもいつも100%必ずMCされるわけではありません。過去記事と矛盾しないと思います。
嘘と本当が常にあちこちに混ざり合って歴史的にも個人の時間的にも次々に重なっているのが創価のMCの特徴かもしれません。
ちなみに大御本尊にしろ宗門問題にしろ有耶無耶にして謝罪しないのもカルトかMCの特徴だと思います。だって池田氏や創価がカルトだから。(笑)(^_^;A やはり宗教ではないでしょう。

異常

参考
創価学会の信仰に功徳はあるか? 二極思考(すべては白か黒か)の否定 (MC論)

'07.06.16 様々に追記訂正。
'07.06.26 誤記訂正。
コメント (4)
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二極思考(すべては白か黒か)の否定 (MC論)

2007年06月08日 20時32分05秒 | 創価学会
どうも二極思考が流行っているようですね。
やれやれ。いつまで経っても自身の拘りやトラブルの所為で原始仏教にいけませんね。。。。。

○”友”と”アドバイスする”ことに密接な関係はあるか?
あると思っています。

●二極思考(すべては白か黒か)の否定

○【カルトでない物】

釈迦はカルトではありません。
友を作ることが仏道修行なのだそうです。
友にアドバイスすることが出来ていました。
(順序としてはアドバイス→友になる、もあると思います。拘ることではありません。)
もちろん時には見守ることも友の役目かもしれません。。。。。。。

○【創価はカルト】

創価はカルトです。
友を作ることが仏道修行という意識は薄い。
敵と味方、白か黒かの2極論です。
友にアドバイスすることが出来ません。
学会幹部を注意できなかったり会員同士で注意出来ないのです。

○不軽菩薩

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やさしい法華経物語
http://www.sunlotus.org/tales/yasashi/011_020/yasashi15.html
「非難はおろか、棒切れで打とうとしたり、石ころを投げつける者までいた。」
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下種(げしゅ) 仏が衆生の心に成仏、得道の種子を下すこと。
下種折伏(げしゅしゃくぶく) 衆生の心に成仏の種子を下すため、非を改めさせ、強く説法すること。

どんな人間にも仏性がある。下種をするんだ。というのが”建前の”学会の教えです。
本来の教えからすると、非難してくる人、暴力をふるう人ですら敬う精神が不軽菩薩なわけです。
現代では暴力は禁止されていますので「非難」が当てはまるでしょう。

どんな人でも成仏の可能性を否定しないで敬うのは良いことです。
ここまではCMCではありません。

ところがいつの間にか、ネットの創価学会員を見れば分かるとおり、一般人、
アンチ創価(MC論からはこの言い方はダメなのですが。)退会者には学会員からの罵倒が見受けられます。

法華経の精神とは逆に敬わないわけです。

その理由は、学会員ではないから、先生の悪口を言うから、学会員の悪口を言うから。。。。。日蓮正宗だから。。。。。です。
常に敵と味方、二極思考(すべては白か黒か)ということを教えているのは創価学会員であり聖教新聞です。
創価は友とか友以上の同志とか先生の真の弟子とかいいますが、既に差別があるわけです。

法華経の不軽菩薩の精神を正しく理解するならば石を投げてくる人にも、
拝んでくれる人にも同等の態度にならなくてはなりません。
しかもこれは末端の学会員だけに通用する話ではなく、学会幹部にも通用する話ではないでしょうか?
どうなんでしょうか?>誰か。

ここで「地湧の菩薩」というのを学会員は持ち出してくるかもしれませんが、
これは基本的に信仰していない人との差別をするためではないはずです。
むしろ法華経作者の気持ちとしては、
「法華経を読んだ人よ!地湧の菩薩になってくれ!」
でしょう。

○やっぱり創価はカルト

恋愛の破局や友情の破局、親子の破局などが創価思考の結果な訳です。もう過去記事の通り。

学会問題BBSからも転載をいくつか頂いているとおりです。
親が学会活動を優先して子供がご飯食べさせてもらえないコメントが記憶に新しいです。カルトなわけです。
子供を犠牲にする創価。何考えているんだ?学会員。
知れば知るほど嫌になる学会。その5


恋愛の破局や友情の破局、親子の破局に”出来るだけ、可能な限り”ならないようにするのがアンチ創価側の目標の一つでは?ケースバイケースで破局が仕方のない場合もあるでしょう。創価はカルトですから。

ですから過去記事に書いたとおり、出来るだけ多くの退会者やアンチ創価はHPやブログを立ち上げて欲しいのです。

○【他のカルト】

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マインドコントロールからの脱出
( 統一教会信者たちのこころ )
パスカル・ズィヴィー 恒友出版
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第9章
脱会したあとの心理状態

実例3―人の会話を聞きながら学ぶことができるし、新聞や本やテレビでこの問題を乗り越える事が出来る。
二極思考(すべては白か黒か)
1、いろいろな見方、考え方を認めない
2、自分は正しく、相手は間違っている
3、バランスのある見方、発想ができない
4、完全主義のように、矛盾、問題点をかかえている状態に耐えられない。
5、結論、結果を先読みして、わかったつもりになる。(過程の大切さがわからない)
6、感情のコントロールができない。(幼児のような感情におちいることがある)
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というわけで、創価学会員であれば絶対にダメだ!!!黒だ!!!といのは上記の本からしてもCMC思考な訳です。創価思考です。残念でした。

カルトな教義内容も信じる人と信じない人がいます。
カルトな人も同様、信じる人と信じない人がいます。

それを信じ込ませるテクニックがMCに当てはまると考えられる、、、、という事のようですね。

二極思考(すべては白か黒か)の否定を改めてしておきます。

●アンチ創価、創価シンパというレッテル

ずいぶん以前からアンチ創価、創価シンパというレッテルやheckさんシンパという言い方は
MC論から厳密に考えれば私一個人の考えではダメ、、、というようなことを書いてきました。

理由は上記の通りアンチ創価、創価シンパという二極思考(すべては白か黒か)だからです。

というのもアンチ創価、創価シンパというのはカルト論に密接に絡んだ、MC論、つまりMind、心の問題だと思います。
CMCとアダルトチルドレン、共依存は多かれ少なかれ、ケースバイケースであってもそれぞれ無関係ではなさそうです。
アダルトチルドレン、共依存も全部心の問題です。

創価学会被害者として退会することを否定していません。当然、退会できた方が良いに決まってます。
今問題にしているのは籍の問題ではありません。

ここからが問題です。
アンチ創価と言いますが、さて私の心を数字や形で具体的に「アンチ創価度」「アンチ創価指数」を表現できますかね?
出来ないでしょう。
CMCといっても心から出てきてしまうか心から生まれるかのであり、心の表現としてネット上のコメントやメール文章に現れるのではないでしょうか?

私への非難があるようですが、はったり特急の人と仲良くしているのは「自分で考え自分で決めたこと」です。

(別途、一般人の怒りとCMCの怒りで後述するかもしれません。)

創価学会そのものや、悪しき組織、悪しき教義、悪しき学会本部幹部、本尊など、は完全に否定しても、目の前にいるバリ活すらも被害者意識の有無があるか無いかだけの”心を持った人間”はどうやって完全に否定できるか????これは非常に難しいでしょう。(一発でカルトっぽい人もいますけどね。(笑)罵倒する人は分かりやすいかな?分かりにくいのは礼儀正しかったり言葉は丁寧だけど、人間関係の破壊を招く様な人は危険かも。)

('07.06.09 14:53追記)アンチ創価、創価シンパという立場で人トータル、人全体や人の心全体を二極思考(すべては白か黒か)で推し量れないと言うことです。コメントや記事、ネットマナーなどの人の言動には個々に白黒をつけることは矛盾しませんし問題ありません。

●過去記事より

kousanの白と黒の間には無数のグレーがある。
友岡氏の書籍には「全くの善もなく、全くの悪もない。」

過去記事にも友人を失ったことは多々書きましたが、その所為でしょうか?
3月頃から私の中では
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アーナンダー
「私たちが良き友を得ることは、仏道の半ばを完成した事に等しいですか?」
釈迦
「良き友を得ることは仏道の半ばどころか、仏道の全てです。」
ブッダは歩むブッダは語る 友岡雅也 著 第三文明社 より P6から主旨。
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これは非常に大きなテーマになりそうです。

なにしろ”友を得る”修行なので友を得る方法や答えが出たり、友を1人、10人、100人という人数を得るという問題でもなく、得るという目的でもなく”友を得続ける死ぬまでのテーマ”(修行)かもしれません。

●学会員と友情を結ぶことは基本的には危険です。

 特に高校生、大学生、社会人1,2年生、不幸があった人等々、MC論や社会を知らないところにつけ込んで入信を迫ることがあるでしょう。
だからこそ、MC論が必要だと感じています。
一体何処で誰がMC論をもて遊んでいるんですかね?
もちろん皆さんのネット上の体験記や相談BBSも重要です。(BBSのあり方と専門家の有無については後述かも????)

 ( 高校生、大学生、社会人1,2年生、不幸があった人等々、MC論や社会を知らない人は創価学会員とは関わらない方が良いです。過去記事と矛盾していないつもりです。 )
('07.06.09 14:53追記)絶対に幸せになれるから創価学会の信仰は絶対である。他の宗教は一切邪宗である。(他の宗教は黒である。創価だけが白なのである。)という二極思考(すべては白か黒か)、創価思考を改めて否定します。
とある一学会員が問題あるのかないのかを見分けるにはMC論が必要だと思います。

ではどうすればいいのでしょうか?

●心構え1

どんなに誰からも素晴らしい人格と評され人であっても、全てが「完全」だとは見てもいけないし考えてもいけない。
「この人が言うことは絶対だ」とは思わない。
そうやって人を買いかぶるのは「池田氏」を祭り上げるのと同じ感性になってしまうと思います。
恐ろしいことです。

●心構え2

友人関係と人の評価

まずは自分に受け入れて考え、吟味する。
肯定と否定、是と非、を考える。
最終的に自分の物とするかどうか判断する、、、

批判的合理主義、可謬主義が重要かと。。。。

仏教と批判的合理主義
仏教と批判的合理主義++NOTHING TO YOU

批判的合理主義は人間関係にも使えそうですね。
今回も当てはまってすごいや。

○心の取り扱い、肯定と否定

人の意見や人にしても、カルト論、MC論、宗教論にしても、
アンチ創価、創価シンパでもどちらも「心を取り扱う」という共通項があるのです。
ところが学会員が「心の取り扱いに失敗している」事が多いと私は考えています。

以前コメントの転載を頂きましたが、
学会員の親子で [ 注意、叱り、アドバイス ] (何でも好きなのをどうぞ)が通じたことは

「心の取り扱いに”成功”している」
「”心を変える”ことに成功している」

このことは重要であり、宗教的であると思います。
素晴らしい体験であることに間違いはないと思います。

お母さんは宗教も子供の状況も両方を「受け入れて考え、吟味」して
「肯定と否定、是と非、を考え」

「最終的に自分の物とする」(最終的に子供を注意する)

としたのではないでしょうか?

○私の心じゃない、他人の心じゃないんだから、どうにもできない

これについて「変えることが可能である」と反論しましたが、
いつも成功するわけではありませんし、可謬ですから失敗もあり得ます。
また急激に変えていいのか?等々なども、ケースバイケースで考えるべき事であり、

”「私の心じゃないんだからどうにもできない」ケースが存在すること”

を否定しません。そっとしておいてあげるのも時には必要なんでしょうね。

●引用

聖書

「なぜあなたは、兄弟の目にある塵が見えながら、自分の目に梁があるのに気づかないのか。」(マタイ6:3、ルカ6:41)

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」(ルカ6:37)

仏典

「目の前にあるものも、目の前にいないものも、遠くに住むものも、近くにあるものも、すでにあるものも、これから生まれるものも、一切の生きとし生けるものに幸いあれ。」(スッタニパータ)

「ただ誹(そし)られるだけの人、また、ただ褒(ほ)められるだけの人は、過去においてもいなかったし、未来にもいないであろう。現在にもいない。」(ダンマパダ)

●友とは?

もうここまで書けば言いたいことは分かると思うのですが、

注意、アドバイス、指摘、批判、なんでもいいですが、これらの事と同時に、私はブログ管理や和解を求めたり、出入り禁止をしています。
偶々、はったりの人と連携しましたが、学会員の信教、思想の自由を強制したり奪うのではなく「当たり前のマナーを守れ!」「謝罪するように」といっているだけです。和解を求めている人が何人かいるわけですが、和解を求めることがその人を黒!としたり、100%否定したりするカルト思考に相当するんでしょうかね?

特に「裁く、非難する、レッテルを貼る、ダメ出しをする」ということと「和解を求める、呼びかけ、話し合い」ということは距離が遠い、のでは???と思います。

是非、私のカルト思考をMC論の本から引用してご指摘下さい。

○補足

私もいつ頃から気がついたのか忘れましたが、何でもかんでも自分でする必要はないし
無理して全部をする必要はないと思います。

一番したいことをみんなで協力して少しずつやっていけると良いですね。
最も問題なのは友情が失われたことです。
いてくれるだけの友人でも大事にするべきではないでしょうか?

友人はいつもいてくれません。

ですから、ほんの少しでも一緒にいれること、いられること、いてもらえること
こうしたことを大事にしたいですね。

もちろん私も学会員でも良い人やコメントを残してくれる人は
大事にしないといけないですね。
但し、当然というか、学会員には創価学会に席を置く以上は
その人を多少は厳しい目で見ないといけないかもしれません。


密接な関係を持っていても友でしょう。
MC論しか互いに話題のない友でも友でしょう。
仏教教学しか互いに話題が無くても友でしょう。
冗談しかお互いに言わない関係でも友でしょう。


創価は良く「リーダー」「立派なリーダー」「池田先生のようなリーダー」
こうしたことを求められます。
池田氏は無謬、池田氏は大商人の生まれ変わり、、、こうした異常な伝説から
いつの間にか「無謬なリーダー」「無謬な友?」を求める傾向が強いです。

ですから、お互いに(無謬でない)可謬な友人がいいですね。

副管理人や管理人をおいてはいけない、そういうことではありません。
「無謬なリーダー」は意識や感覚の問題です。
悪しき創価思考、悪しきCMCです。

自分も相手も可謬でいいかと。。。でも指摘などで変わって欲しい気持ちも本当です。
変わってくれたら嬉しいし、でも変わってくれなくてもいいのです。
わかります?このニュアンス。

☆まとめ

というわけで、

1.二極思考(すべては白か黒か)の否定
1.アンチ創価だからダメ!、創価シンパだからダメ!というのは法華経の精神とも異なっているし、創価思考にそっくり。アンチ創価側でも注意!
1.”友”と”アドバイスする”ことに密接な関係があり注意できないのがカルトです。(時には見守る。批判的合理主義で判断する。)

以上


追記 ('07.06.09 14:53)
追記 ('07.06.10)
○不軽菩薩
○やっぱり創価はカルト
コメント (31)
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