創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

消費税が不要どころか害悪な理由

2014年09月23日 21時52分14秒 | 創価学会
政治ブログにしたくないので、少しだけ。

消費税10%判断 首相、「早めに」有識者の意見聴取 - MSN産経ニュース

知らなかったじゃ済まされない 消費税が不要どころか害悪な理由 まとめ - NAVER まとめ

消費税と税収の関係を確認してみる(2014年)(不破雷蔵) - 個人 - Yahoo!ニュース

公明だけの責任ではないのですが、掲載。

これ以上、待っても悪くなることはあっても良くならないのが見えているので「早めに」有識者の意見聴取して増税?
公明が庶民政党とは絶対に言えないでしょうね。

消費税はやめて収入に応じた税金、公立教育の底上げをしないと、ますます少子化と不景気を招くでしょう。時間とお金に余裕がなければ子供を作らないか人数を減らのは当然。結婚だって同じ。消費税で富裕層を助けても国民全体の少子化というデメリットが大きい。

コメント (3)
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363.共通する「信頼できる人を自ら排除した経験」

2014年09月23日 15時00分47秒 | 創価学会
ブラック企業経営者の心理を暴く 元「お天気キャスター」の分析に驚嘆の声 | キャリコネニュース
https://news.careerconnection.jp/?p=1389

2014.9.9

キャリコネ編集部
たかの友梨 ブラック企業 ワタミ 経営者

河合薫氏の連載記事(日経ビジネスオンライン)

世間で「ブラック企業」と言われる会社経営者には、それを認めて改善しようとする人と、自分は決して間違っていないと信念を曲げようとしない人の2種類があるようだ。この後者のタイプの経営者を鋭く分析したコラムが、いまネットで注目されている。

9月9日に日経ビジネスオンラインに掲載された「たかの友梨氏の7年前の激白から探る”ブラック”の境界線」は、表題の高野友梨氏と、ワタミの渡邉美樹氏へのインタビューを振り返ったもの。筆者はテレビ朝日「ニュースステーション」のお天気キャスターだった、健康社会学者の河合薫氏だ。
共通する「信頼できる人を自ら排除した経験」

河合氏は2007年に著書『私が絶望しない理由』(プレジデント社)の執筆にあたり、実績をあげた各界の有名人に連続インタビュー。当時は「ブラック企業」という言葉はなく、高野氏も渡邉氏も成長企業の経営者として評価を得ていた。

河合氏のねらいは、彼らがどのように人生で遭遇する困難や危機を乗り越えたのか、「ストレス対処力(Sense of Coherence、SOC)」をどのようにして上げたのかということを聞くことだった。

困難やストレスがテーマだったこのインタビューで、河合氏は「あえてネガティブな部分」を多く聞いた。中には「明らかにその質問を嫌っていた方もいた」が、高野氏と渡邉氏は違った。「とても真摯に、一生懸命、ときに自問自答し、自分を納得させるように話してくださった」という。

2人に共通していたのは、そればかりではない。ストレス対処力が高い人には、1人では対処できない「ストレスの雨」に降られたときに、社会で「大きな傘」となってくれるような信頼できる人が必要だ。渡邉氏にとっては「渡美商事」創業メンバーの2人、高野氏にとっては「最初の夫」だった。

しかし両名とも、その傘を自ら排除した経験がある。渡邉氏は苦楽を共にしした創業メンバー2人と袂を分かち、高野氏は最初の夫よりも仕事を選ぶために離婚を決意した。

「仲間というのはずっと仲間じゃない。一緒に成長していくその瞬間その瞬間の仲間なんです。わかります? だからその瞬間仲間であっても、次のステージに会社が行った時に付いて来られなければそいつは仲間じゃない」(渡邉氏)

「私は『100店舗』という目標を掲げて、迷っていた自分を捨てて、子供を持つこともあきらめて。『女として生きる』ことをやめて仕事に全精力を傾けたんです。仕事は1+1=2になるけど、男は1+1が2にならない」(高野氏)

人を人として見られなくなり「ブラックの境界線を越える」

河合氏は、この経験が「ブラックの境界線」を越えるきっかけになってしまったのではないかと分析する。「自分だけの傘」で生きることは、決して人に弱さを見せない意志の強さと覚悟が必要だ。

「覚悟を貫き通すには、とことん、どこまでも徹底的に自分に厳しくならなければならない。自分に厳しくするスーパー級の訓練が必要になる」

だが、それほどまでに強くなると、いつしか「他者の痛み」を感じなくなる。そして自分のルールだけが「絶対的な価値」になる。するといつしか「ブラックになる境界線」を越えてしまうのだ。河合氏はこう分析している。

「(他人を思いやる瞬間を持ち続けるという)実にめんどくさい作業を止めてしまったとき、『人を人』として見られなくなり境界線を越える。きっと、おそらく、無意識に……」

また、この2人が母親との関係に非常にこだわりがあることも記している。こうした綿密な分析にネット上では、いわゆるブラック企業経営者の内面を明らかにする画期的な分析と驚嘆する声があがっている。

「彼らの思考パターンが変化し、世間で認められない論理を振りかざす『きっかけ』が推測できる」
「ストレス耐性が強すぎる人と一緒にいると疲弊する、というの、わかる」
「自分に厳しく他人にも厳しい、かぁ。難しいさじ加減だなと。ただ、最近の自己責任論者には是非熟読頂きたい」

「自分のルールだけが絶対的な価値になる」ブラック経営者

以前、編集部が元ワタミ社員を取材した際、創業者の渡邉氏について「彼はワタミがブラックと言われる理由がなぜなのか、いまだに分かってないと思います」と指摘していた。

高野社長も「労働基準法にぴったり沿ったら絶対成り立たない」など、法律という社会ルールを軽視する発言を連発していた。さらにブラック批判で人手不足に苦しむ「すき家」を運営するゼンショーHDの小川会長も、株主総会で「悔しい、違うじゃないかと言いたい」という言葉を漏らしていた。

「自分は正しいことをしているのに、なぜ批判されるんだ」という思いは、河合氏の「自分のルールだけが絶対的な価値になる」という分析にも通ずると思えてならない。

なお、筆者の河合氏は、千葉大学を卒業後、客室乗務員として全日空に入社。国際線乗務などを経験した後、気象予報士資格を取得してテレビ朝日「ニュースステーション」のお天気キャスターを務めた。2008年には東京大学大学院医学系研究所の博士課程を修了し、保健学の博士号を取得するという異色の経歴でも知られている。

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>強くなると、いつしか「他者の痛み」を感じなくなる。そして自分のルールだけが「絶対的な価値」になる。するといつしか「ブラックになる境界線」を越えてしまう

>「自分は正しいことをしているのに、なぜ批判されるんだ」という思いは、河合氏の「自分のルールだけが絶対的な価値になる」

>人を人として見られなくなり「ブラックの境界線を越える」

>高野社長も「労働基準法にぴったり沿ったら絶対成り立たない」など、法律という社会ルールを軽視する発言を連発していた。

こうした点は学会問題、正宗問題に共通しており、実に興味深いことです。

更に言うと創価学会、日蓮正宗の場合は絶対に謝罪しない点は過去記事でも指摘したとおりです。あの佐村河内守氏や朝日新聞ですら謝罪したのにね。

学会本部、あるいは僧侶や大石寺トップは自ら法論折伏はせず、末端信徒、会員に法論折伏、誹謗中傷合戦を押し付けているだけなのですから。

記事には母親との関係が書かれているけれども、間違いに気がつくこと、謝罪することは単に恥ずかしいので謝れない、というだけのものではないと思います。何かしら不健全な人間関係があるのではないかと想像しています。
謝罪する側の人、される側の人それぞれにとって、謝罪の一過程は双方にとってこれからも生きて社会生活を送ってゆくのに必要なのでは?と思っています。特に謝罪する側の人は「人として」。謝罪できないのは人でなし、と言ったところでしょうか?

創価などの日蓮正宗系教団が謝罪も出来ない社会的に価値の無い教団だと言えばそれまでの話です。

「信頼できる人を自ら排除した経験」とありますが、仏教の場合は信頼出来ない人でも思いやりや優しさや親切とがで包んでいくことが、あり方なのでは?と私なりに想像するのですが、彼らにとっては、どうでもいいことのようで。
日顕氏や池田氏には「人様、他人様を自ら排除した経験」がありすぎて笑えます。
どうなってるんですか?>日顕氏、池田氏、関係者の皆さん
もう何度も書いていますが、何時になったら謝罪してもらえるのでしょうか?

ちなみにこの記事を読んで思ったのですが、日蓮さんも聖人とか上人とか(正しいという意味ではなく)尊敬の意味合いから呼ばれますが、一人の僧侶、仏弟子です。(なお信徒は弟子ではない。僧侶が仏の弟子。仏教においては信徒同士の師匠、弟子も間違っています。)日蓮さんに社長なんかの役職なんかありませんね。正宗や学会は法主、管長、名誉会長、企業みたいな役職があってなおかつ上から目線で困ったものです。

地湧の菩薩や上行菩薩などの仏教的な意味付けはあるのですが、頑張った日蓮さんはともかく現代人の正宗系の僧侶、信徒会員が、仏菩薩の役割を果たしているとは思えません。
正宗系僧侶、信徒会員のやっていることは、人を見下す、人に嘘をつく、人を争わせる、人を怒らせる、これが仏菩薩のやることですかね?
日蓮さんを超えた慈悲深い僧侶(信徒)になって社会に貢献しよう、ならともかくね。
日蓮さんも鎌倉時代においては彼の仏教学はある程度は正しかったと思いますが、学問的な内容や、他宗批判は間違っていた点は変えることの出来ない歴史です。

X JAPANのトシさんも仲間と別れたことが「信頼できる人を自ら排除した経験」だったのかもしれません。
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如意宝珠、「チンター・マニ」元のチンターという梵語に「如意」の意味はない

2014年09月21日 23時25分02秒 | 創価学会
日蓮って ver.29
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1407027454/

609+1 :スチールカン [↓] :2014/09/16(火) 21:22:43.14 ID:ylt79jBY (1/3)
>>600山椒島さん
はてっ、なんの漫画なのでしょうかね。山椒島さんと私ははそんなに年代の変わらない気はするのですが昭和時代の作品ですか?
そのセリフからして、モンキーパンチかなと推測したりしてw、いかのも次元が言いそうな気配がするでもないのですがね。

>「仏大慈悲を起し 五字の内に此の珠を裹み 末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」

衣の衿に縫い付けたという法華経からの喩えを言っているのでしょうかね。
これが下種とかっていうことを日蓮が言いたかったんでしょうか?

昔、「敦煌」っていう映画を見たのですが、
字の読めない人に、漢字だったか西夏文字だったかは忘れましたが、衿に字を縫い付けてやった王がいた話がありましたね。
その字の読めない人は他国に旅にでるのですが、ある国において災難にあうのですが、そのときにたまたまその国の王が、その衿の字をみて驚いたという筋書きでした。
たしか、その王は他国のその字に大変に興味があったようで、そのことで字の読めない人は命拾いをした話でした。

内容が分からなくても、頚に懸けた文字によって霊山に近づく鳥は金にも輝くというものでしょうか。
ダイヤ石も光を受けて輝くものでありましょうから、○○相対などと解釈する輩達には、釈迦と同座などできるわけでもないでしょうし、霊山にも行けるはずもないものでしょうね。
アンチの我々と同座しているのが関の山なのでしょうかw


618+2 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [↓] :2014/09/17(水) 08:29:52.64 ID:t1uph6dF
>>609 スチールカン さん
検索してみると、某有名グルメ漫画のようです。言われてみれば・・・という感じですが。

「珠」の意図するところには、もちろん書かれているようなものもあるだろうと思います。
直接的には、いわゆる如意宝珠のことで、仏像が持っていたり龍の絵に描かれたりしますね。

私なんかは、なぜ上部が尖った形をしているのかも知らない程度の浅識ですが、仏教全般で
有名な喩えなのでしょう。日蓮も、本尊以外にも複数の重書で記述してたと記憶しています。
仏の慈悲とか悟りとか神通力などを表していますから、宝珠も自ら光り輝くようです。

○○相対と言っても、例えば「どちらを重視するか」とかなら、色々な考えもあろうかと思います。
(と言いますか、日蓮文書全般を見ても、そうでないと色々と辻褄が合わなくなります。)
ただ、あくまで時代や機根などに基づくものであって、何か別の法を立てるものではないですね。

618+2 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [↓] :2014/09/17(水) 08:29:52.64 ID:t1uph6dF
>>609 スチールカン さん
検索してみると、某有名グルメ漫画のようです。言われてみれば・・・という感じですが。

「珠」の意図するところには、もちろん書かれているようなものもあるだろうと思います。
直接的には、いわゆる如意宝珠のことで、仏像が持っていたり龍の絵に描かれたりしますね。

私なんかは、なぜ上部が尖った形をしているのかも知らない程度の浅識ですが、仏教全般で
有名な喩えなのでしょう。日蓮も、本尊以外にも複数の重書で記述してたと記憶しています。
仏の慈悲とか悟りとか神通力などを表していますから、宝珠も自ら光り輝くようです。

○○相対と言っても、例えば「どちらを重視するか」とかなら、色々な考えもあろうかと思います。
(と言いますか、日蓮文書全般を見ても、そうでないと色々と辻褄が合わなくなります。)
ただ、あくまで時代や機根などに基づくものであって、何か別の法を立てるものではないですね。


619+3 :スチールカン [↓] :2014/09/18(木) 07:20:54.12 ID:naleYfO0
>>616さん
私なんかコテを付けようとした時は、なにかしらの深い意味のある名前でもと考え込んだものでしたが、
考えるのが面倒くさくなって、目の前にあった炭酸飲料で即決でした。

このスレに永く居座っていますと、なんとなくですけど誰が誰なのかということが分かってはきますが、
コテを付けることによって、荒し対策にもなろうかとも思うのです。
名無しであることによって、相手にしなくてもいいレスにでも反応してしまい、冷静さをなくしたままのスレ化となってしまいそうです。
まぁ、掲示板というものはそのような所でもあるのでしょうが、せめてコテさん同士だけでも流れの分かるお話をしていきたいと思いまして、
>>611の差し出がましい提案をしたことをお許しくださいね。

>>618山椒島さん

法華経で例えられている「珠」とはなんでしようね。
と、一応漢語辞典で調べてはみましたが、「貝の中にできる丸い玉」・「丸いつぶ状をなすもの」と載っていますね。
解字では、【じっととどまる。貝がらの中にじっととどまる真珠の意】となっているんですね~。
このことから考えてみれば、法華経内容にも添ってて、日蓮の「五字の内に此の珠を裹み」にも合ってくるようのも思いました。
ただ、法華経での釈迦からすれば、「爾前の教えに隠した法華経」かなと思った次第で、一念三千のことだとは思わないのですけどね。(憶測です)

グルメ漫画からでしたか。
ルパンからかなぁ~と思ってしまいましたw


622+3 :名無しさん@お腹いっぱい。 [] :2014/09/18(木) 08:22:02.78 ID:dYcz2Ob3 (2/2)
>>618>>619
如意宝珠は梵語でチンター・マニと言います。辞書によれば、マニは宝玉で問題ありませんが、チンターのほうは、やや多義的なようです。
これは、アイディア、思想という意味以外に、心配や懸念という意味も含まれ、一言でいえば「想念、想い」という意味になるでしょうか。
そう考えれば如意宝珠は人間の精神活動を司る頭を象徴したもので、ヨーガによる正思惟を賞揚する「想念の宝玉」とでもいうべきものともいえます。
ヘーゲルは、人間の思考は神の奇跡より偉大という意味のことを言っていますが、如意宝珠も知恵こそ富に勝るという象意なのかもしれません。
尖った形は古代の神像や仏像や人物像でも髪型や兜や帽子で尖った形が多く目に付きますが、ストゥーパや舎利壺も上が尖っていますね。
いじれにしても本来は、孫悟空の如意棒のような意味での如意ではなさそうですから、日蓮は例によって勘違いをしています。
そういえば曼陀羅も密教では瞑想修行の一助として観想するものですが、日蓮教では祈祷や礼拝の対象とされ、意味が倒錯していますね。


623+2 :名無しさん@お腹いっぱい。 [] :2014/09/18(木) 11:33:18.67 ID:kLRnMZjZ (1/2)
>>622
>そう考えれば如意宝珠は人間の精神活動を司る頭を象徴したもので、ヨーガによる正思惟を賞揚する「想念の宝玉」とでもいうべきものともいえます。
>いじれにしても本来は、孫悟空の如意棒のような意味での如意ではなさそうですから、日蓮は例によって勘違いをしています。

いやいや「本来は」もなにも最初から「願い事を叶えて悩み事を解決する不思議の宝珠」って意味だから。
これは流石に日蓮の勘違いでも何でもない。
どうしても「勘違い」だというならインド大乗仏教(つうかそもそものバラモン教)の段階で「勘違い」されてたことになるが。


627+3 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [↓] :2014/09/18(木) 20:20:26.29 ID:q3hho/8a
>>619 スチールカン さん
法華経で言うところの珠・良薬・財宝などは、書かれているように、すべて法華経そのものでしょうね。

日蓮的には、それは一品二半→八品→本門→一部→権→小と仏説全体のみならず、外典なども含めた
世の中の一切、諸法実相でしたか、そういう意味での真理極理=一念三千=題目とつながるのでしょう。
日蓮の「一代聖教の肝心」とか「因行果徳の二法」などといった表現も、このことをよく表していると思います。

>>622 さん
なるほど。それが日本(>>623さんによれば中印もですか)の仏教では、あらゆる願いもかない、財宝も生み、
天候さえも思うがままといった、文字通り「如意」の宝珠で、「何物にも替え難い尊い宝」という意味から転じて、
仏や仏説を表すようになったようですね。様々な建築物や工芸品なども、そこから派生したのだろうと思います。

ただ個人の勝手な印象ですが、こういう意味なら真円と言いますか、尖りの無い球形の方がしっくりきますね。
あの形状のせいで、武道館か、タマネギか、はたまたドラクエのスライムかといった不謹慎な連想が先立って(笑
それでも、モスクの屋根?ともよく似ている辺りは、とても興味深いですね。


628 :名無しさん@お腹いっぱい。 [] :2014/09/19(金) 06:05:20.99 ID:WO0CS190 (1/3)
>>623
1.日蓮が勘違いしたという場合、日蓮が勘違いの大元であるとか、日蓮の重過失であり日蓮に責任があるということを必ずしも意味しない。
  日蓮が天台大師の言うことを鵜呑みにし、天台大師が他の誰かの説を鵜呑みにしたとしても、本来の意味を取り違えていれば勘違いになる。
2.あなたの言うように初めから「願い事を叶えて悩み事を解決する不思議の宝珠」という意味なら、なぜ元の梵語にそれが表現されていないのか。
あなた自身が624で直訳とする「お悩み玉」とも全然違うではないか。
3.あなたの言うとおりなら、初めから如意宝珠そのものが信仰対象となっていてもよさそうなものだが、そういう形跡はない。
4 バラモン教の段階で如意宝珠が「願い事を叶えて悩み事を解決する不思議の宝珠」だったというソースを提示いただきたい。
5.あなたのいう「お悩み玉」はチンター・マニの直訳としては全く誤りである。私は622で心配、懸念という意味を含むと書いたが、これは「気にかける」という意味だ。
  悩むという意味ではない。そもそも神仏が「お悩み玉」をかかえているだけでは意味がない。
  
この宝珠が「想念の宝玉」と言われたのは、それが知恵を表すからである。そしてそれを持つ神仏が優れた知恵で多くの恵みを与えるという思想が生まれた。
さらにそれが転じて、宝珠そのものが願いをかなえる魔力をもつという信仰が広まるにいたったと考えるべきであろう。でなければ神仏が持っている意味がない。
地蔵菩薩はあえて成仏せずに地下に身を落とし、われわれの境界を案じてくださるとされる。だから宝珠を持っている。悩んでいるのではない。
また虚空蔵菩薩も宝珠を持っているが、こちらは知恵を表す菩薩であって、その知恵に授かろうとの信仰対象である。悩んでいるのではない。
宝珠そのものが願いをかなえるなら、仏法も修行も不要になる。日蓮も「妙法蓮華経」の5字ではなく、「如意宝珠」の4字で足りたはずである。


629+2 :名無しさん@お腹いっぱい。 [] :2014/09/19(金) 06:51:25.17 ID:WO0CS190 (2/3)
>>627
山椒島さん、上で書きましたが、元のチンターという梵語に「如意」の意味はないのです。それは思想、想念、懸念などの意味で、如意と対立する義を含みます。
心配や懸念は如意と矛盾しますから、「如意」はやはり、大乗思想が民衆に広まる過程で、後に派生した観念と思われます。

形状についての趣味からいえば、私もこの水滴型のような、搗きたての餅を上からボタリと落としたような形には不自然さを感じますね。
私見ですが、これは「宝珠」として観念され、「チンター・マニ」という成語ができる以前は、仏舎利を納めるストゥーパの代替物だったのではないかと思います。
ストゥーパは元々土饅頭のような古代インドの墳墓から発展したものですが、時代とともに階層が増え、高い形式になりました。
これが我が国の三重塔や五重塔という形で伝わったのですが、興味深いことにはチベットには上が尖った円筒形の如意宝珠があるようです。

モスクの屋根と似ているのもあながち偶然でないかもしれません。中世ヨーロッパで多くの錬金術師たちは卑金属を貴金属に変える「賢者の石」の探求に必死でした。
この「賢者の石」は元々ヘレニズム時代のヘルメス思想に基づきますが、長らくキリスト教に異端視され禁圧されていたものがイスラム経由で再び流行しだしたのです。
そのヘルメス思想はギリシア神話のヘルメス(ローマ神話ではメルクリウス、英語のマーキュリー)と古代エジプトの「トート」の信仰の融合とされています。
そのヘルメスもトートも「知恵の神」として信仰されていました。大乗仏教もヘレニズムの流入してきたガンダーラ地方を中心に大いに発展しました。
こうしてみると如意宝珠やストゥーパと賢者の石やモスクがヘレニズムで通底している可能性は大いにあると思います。

633+2 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [↓] :2014/09/19(金) 09:17:30.41 ID:L6ND2dcf
>>629 さん
あ、はい。>>622を全否定するのではなく、それがどのようにして>>627みたく変容していったか、に
興味が湧いたのです。少し調べてみただけでも、中国の竜神信仰とか、日本の神道・修験道だとか、
建築様式の歴史とか、様々な文化・思想の混入説が唱えられていて、とても面白いですね。

日蓮も「如意宝珠と申すは釈迦仏の御舎利なり 竜王にこれを給いて頂上に頂戴して帝釈是を持ちて
宝をふらす 仏の身骨の如意宝珠となれるは無量劫来持つ所の大戒身に薫じて骨にそみ 一切衆生を
たすける珠となるなり」などと書いていて、こうした記述は天台など、宗派問わず様々に見受けられます。

そういえば、茶道具にも似たような形状のものがありますね。茶入れとか。
実際の形は全く違いますが、語感として共通しそうなものに竜涎香が思い浮かんだりもします。

が、エルメスのトートバッグを連想して懐が寒々しく感じるのは、ただの悲しい庶民の性ですね。


635+1 :スチールカン [↓] :2014/09/19(金) 20:45:59.86 ID:cFkyYC5g (1/3)
>>621さん
いつも返信を有難うございます。

その貴殿の思いはまったくをもって私と同じでしたね。
前スレにてひゃっきまるさんが提案に、私が言おうかと思ってたことでした。(いわないでよかった)
でも、いま考えてみれば、たしかにどっちでもいいのですが、
コテは無いよりは有った方がいいような単純な思いから、そんな気がしてきてるのですね。(ただ、論客さんは減っていくかも?)
多分ですが、こんな私もいつの日が皆さんに滅茶苦茶に指摘されるようになれば、ショックからまた名無しになってしもうかもです(涙

それとですが、貴殿とこのようなレスを交わしていることは、偉そうに言っているわけではありませんのでご了承くださいますようにお願いしますね。
「日蓮って」とこのスレタイ自体が住人の総称みたいなものですから、後に誰かさんに読まれてもスレを評価されれば幸いでありますしね。




>>627山椒島さん
はい、多分は法華経物語そのものが珠・良薬・財宝を例えたものなのでしょうね。
序品では、
 『又戒を具して 威儀欠くることなく
  浄きこと宝珠の如くにして』
と、このように宝珠を例えとしてます。要するに「法華経によって浄き姿になることが宝珠なのだ!」ってことなのではないでしょうか。
序品、五百弟子受記品、観世音菩薩普門品と意外にもこの“宝珠”の二字が出てくる箇所は少ないのですね。
この三品を読んでみても、作者の意向には法華経こそが宝珠であるように思いましたね。
そこで提婆達多品での八歳龍女が釈迦仏に『我、宝樹を献る』となっており、龍玉ではなかったのも意外でしたw
龍といったらやっぱりドラゴンボール、猿といったら如意棒と、漫画の見過ぎでしょうかw

ところで、>>633で引用されている日蓮の一文は、日蓮の己義なのでありましょうか?


656+1 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [↓] :2014/09/21(日) 09:31:02.66 ID:cOivocl2
>>635 スチールカン さん
提婆達多品の「宝樹」、全く記憶に無かったので検索してみたところ、様々な文献やサイトで
「宝珠」と訳されていました。むかし私が読んだものも、同じように書き換えていたのでしょうね。

あるいは「宝樹」版とは別に「宝珠」とした版もあったのかもしれませんが、「無上の価値」という
意味は同じですから、この辺は樹でも珠でも、他の何かでも良いのかもしれません。

>>633は、複数ある記述のうちから、他宗教や世俗でもよく語られているものを挙げました。
ただ、帝釈是を持ちて~のくだりがピンときませんが、単に私が疎いだけなのかもしれません。

舎利といえば、日蓮の遺骨は(少なくとも最有力なのは)身延なのでしょうね、やっぱり。


658 :スチールカン [↓] :2014/09/21(日) 17:43:44.03 ID:VO7ZgMBa (1/2)
>>655さん
不軽菩薩当時ならタダで読めた経も、今やなんでもお金が掛かる時代ですものね。

>>656山椒島さん
仰る通り、平楽寺版が【樹】になっていまして、春日版は【珠】でした。
69384字に違いがあっていいものなのでしょうかw
因みに私のは平楽寺版なのですが、改正前のものだったりして。


660 :山椒島 ◆AUtVVr2znk [↓] :2014/09/21(日) 22:14:05.93 ID:cOivocl2 (2/2)
>>658 スチールカン さん
やはりそうでしたか。平楽寺版と春日版については、前に別スレでも少し書いたことがありましたが、
それぞれにも様々なバージョンがあるそうですね。現在メジャーなのは平楽寺「宝珠」版でしょうか。

日蓮が読んだのは春日版。日蓮宗はおそらく平楽寺版。日蓮正宗の自称「大石寺版」も中身は
丸々平楽寺版。創価学会独自で刊行したのは春日版。ただし、これまた日蓮使用のとは別物。

頑なに宗祖と同じ版を使わないのは、何か理由があるのでしょうかね。

661 :スチールカン [↓] :2014/09/22(月) 00:12:29.74 ID:UhClt/4D
>>660山椒島さん
大変に申し訳御座いません。
>>658にて “因みに私のは平楽寺版なのですが” と、いかにも自分の持っている平楽寺版法華経を確認したかのようなことを言ってしまったのですが、
実は山椒島さんに“現在メジャーなのは平楽寺「宝珠」版”と言われるまで実際には確認してませんでした。
(何か話が合わないなぁ~)と思い、そこで確認してみたところ、はいそうです私の持っている平楽寺版も【宝珠】になっております。
横着にもネットでのサイト、日蓮宗現代宗教研究所だけでの文献資料の見解により、平楽寺版は全部【宝樹】になっているものだと思い込んでの書き込みお許しください。
本当に、手を抜いた事は後でシワ寄せがくるかと思い、急ぎ釈明をさせてもらいました。すみません。

多分ですけど、ここサイトでの誤字なのかもしれません。

663+1 :名無しさん@お腹いっぱい。 [] :2014/09/23(火) 07:11:55.73 ID:AERRg5FQ (1/2)
661の現宗研のアップしている最澄の法華秀句の引用する法華経の該当箇所には「宝樹」の字が見えますね。誤字でしょう。
ところで先日の如意宝珠の梵語には「如意」の意味はないと言いましたが、如意樹というのはカルパヴリクシャという成語があります。
もともと仏教以前からインドでは民衆レベルでは聖樹信仰があった。これがヤクシニーの信仰に変わり、夜叉(女)として仏教に編入されました。
ここまでは通説です。すると聖樹-如意樹(夜叉)信仰が仏教に編入され、やがて塔や宝珠の信仰に形態を変えていったと考えられます。
すると結局は山椒島さんがいうように樹でも珠でも本質的な意味に差はないといえそうですね。


664 :名無しさん@お腹いっぱい。 [] :2014/09/23(火) 07:55:53.40 ID:AERRg5FQ (2/2)
663の続き
ところで余計なことを言えば、私はこの竜女の説話は法華経普及団(サカ族?)か、それ以前の侵入民族の首領による竜王部族の制服、およびそれに伴う竜女の処女喪失の物語を象意するものと解釈しています。
つまり竜女が釈尊に向かって差し出した珠とは処女性および被征服部族の財貨であって、釈尊に擬せられているのは侵入した異民族の首領だと思います。この釈尊の擬制は法華経では多く見られます。
女性器の消失と男性器の出現およびシャーリプトラと大勢がその事実を見て証言するという、どうかと思われるくだりはこの性的征服を隠蔽するために、故意に竜女が男性であると強調したものと解釈します。
もちろんこれはあくまで伝承文学としての見方による私見ですから、信仰としての教義解釈とはまったく別次元の問題です。初めに「余計なこと」と断った所以です。
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