創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

287.正宗系信徒の「あなたは分かってない。」(その3) だから逃げ出すより他はない。

2009年03月15日 08時33分35秒 | 創価学会
●「わからないところからはじめる」

私は被害者でもあり学会員時代は加害者でもあり加担者でもありました。
後悔や反省からブログを書いています。

今の私は心理学や仏教について何でもかんでも熟知しているわけではありません。
むしろ心理学も仏教も知らないことのほうが多いでしょう。

そして出来るだけ気をつけていることがあるのですが、学会員時代のようにある人に何か起こると宿業、境涯だとかその人の過去を見てきたかのような決め付け。
そして「自分は勝った、その人は負けた。」「あの人はわかってない」などと見下して、時には人間関係の拒絶になります。

過去の私の反省でもあるのですが、創価などの日蓮正宗系信徒は「自分は仏法も他者の人生もわかっている」というアプローチです。
不幸な宿業、境涯は邪宗のせいだから「俺様はわかっているんだ!」ってやつです。

ですからその正反対なのです。友岡雅弥氏の本に書かれているように、「どうしたのですか?」「声にならない声」「貧困と空腹のどん底でストリートチルドレンがオレンジに手を出した」とあります。

「自分は仏法も他者の人生(宿業、境涯)もわかっている」「俺様はわかっているんだ!」
ではなくて、
「どうしたのですか?」「1年2年じっくり話し合いましょう」etcetc

学会員時代の反省から特に 「「個人において」」 の人間関係や人の評価については 「わからないところからはじめる」 のです。
わからないところから言動を起こすのです。
仏法や心理学はきちんと勉強するとしても「俺様はわかっているんだ!」「お前はわかってない」というアプローチは学会員と同じです。罵倒誹謗中傷は論外。
自分にも他者にも 「無謬を求めない」 のです。
批判や間違いや嘘を指摘することはもちろんこれからもあるでしょう。
できればしたくありませんが、怒ることも喧嘩することもあるかもしれません。

学会員時代の反省から人間関係の拒絶は簡単にはしないのです。
もちろん、線引きが必要です。つまり相手を見分けることは必要です。自分にとって大丈夫そうな、自分の等身大で関われる人でしか関われないでしょう。
全知全能の自分じゃないのですから、無謬な自分ではないのですから。

時代の制約があるとはいえ、間違っていた日蓮、外道を取り入れ推奨していた日蓮が御本仏なはずがありません。
創価などの日蓮正宗系信徒の理論どおりなら彼の言動は謗法であり、日蓮は地獄にいます。


●「俺様はわかっているんだ!」「お前はわかってない」というアプローチ


彼らの言動、つまり折伏や布教は「無謬」「勝利」を求められています。
日蓮が勝った(日蓮負けてるけど。)から、日蓮正宗は御本仏である日蓮から唯授一人(ゆいじゅいちにん)で御法門を授けられてきたから、、、です。
創価学会は宗教界の王者だから。池田先生は永遠の指導者。だから「無謬」「勝利」。


既に 「日蓮仏法は勝っている」だから「信徒も勝たなければならない」ようですね。


理論のすり替えがあるのですが、日蓮は法論に勝ったので、邪宗=負けた人=念仏の場合、地獄に行く、邪宗は負けた側であり、地獄に行く、不幸になる訳ですね。
創価などの日蓮正宗系信徒には負けると地獄に行く、不幸になるという脅迫観念が植え付けられても不思議ではありません。
学会の場合、聖教新聞のマッチポンプがひどいです。創価都合で勝った人の賞賛と、創価都合で負けた人の末路が書かれ後者は罵倒されますから


「聖教新聞を読んだ人は本能的に威圧や恐怖を感じても不思議でありません。」


池田先生のお手紙である聖教新聞で毎日のように恐怖と怒りを与えられています。そもそも人の悪口を言ったり書いたりするのは宗教ではないでしょう。
彼らの場合、賞賛されるほうに 「逃げる」 でしょう。

マインド・コントロールの恐怖 (恒友出版)スティーヴン・ハッサン
--------------------------------
>カルトで植えつけられた恐怖症をひきずり、まるで『時限爆弾』を抱えて歩くような状態になる。
Mind Control
http://iwatachi.com/mcsogo.html
--------------------------------

創価などの日蓮正宗系信徒の言動、アプローチはアンチや一般の我々にとって、 例えば心理学を持ち出さなくても「彼らが尋常ではない」 「不健全である」という事に気がつかされますよね。

特にアンチや一般の我々からみて創価などの日蓮正宗系信徒は逃げ出したり、異常な言動をとる人がいます。

かれらが異常、尋常ではないのは恐怖が蓄積、あるいは継続して与えられた結果ではないでしょうか?
教団都合な教え、つまり謗法により地獄へ行く、不幸になるという「恐怖と1セットな教義」(理論1)を与えられた信徒は、知らなかった教義や言葉の意味など、想定外、突然の思いもよらない反論、つまり正論(理論2)に出会うと、彼らの中で理論1と理論2がぶつかり合います。理論1は一般人には 「嘘か曖昧なイメージ」 であるにもかかわらず信徒には真実や真理、仏法という法則や絶対なのです。 (過去記事にたくさん書いてきたとおり、創価などの日蓮正宗仏法は日蓮仏法とは違います。)


ですから理論1の破綻や議論に負けるのは自分の不幸や地獄行きや死ぬという”正宗仏法の決定”が イメージされるのです。


普段から恐怖を与えられている人が恐怖から逃れようと境涯革命や宿命転換をしようとしているのに更に恐怖が来た時どうなるんでしょう?
恐怖が来た時 「どんな人でも」 自己の防衛本能で何をするか分かったものではありません。 爆弾が爆発するのでは?

アンチや一般の我々からみて話が通じる人、言葉のキャッチボールが出来る人はある程度は大丈夫かもしれませんが、
そうで無い人は言葉や理論よりも感情や本能が先走る可能性があるので、すごく危険かと私は思います。
”御本仏””絶対””境涯革命””宿命転換””境涯””宿命”これらをよく口にする人は自己評価が低いか歪んでいる可能性があります。


●「逃げ出すより他に選択肢はない」


特にネットにおいて顕著ですが、知らなかった教義や言葉の意味など、想定外、突然の思いもよらない反論、つまり正論(理論2)に出会うと、彼らの心理は「逃げ出すより他に選択肢はない」「逃げ出したくて仕方がない」のは当然でしょう。


だって相手の言っている理論自体が恐怖(不幸)です。でも教団都合の教義から相手の理論は邪宗であり恐怖(不幸)なので受け入れられない。だから「逃げ出すより他に選択肢はない」。議論している人が批判者だとして説得できない場合、自分にとってマイナスや負の宿命や境涯になります。


そもそも自分達が正しいのであれば逃げる必要などありません。逃げたら一般の人を説得する事は不可能なのです。greeで非公開にして隠す事は、広宣流布に不利な事に気がついていません。独りよがり、引きこもりですね。

「あなたは仏法を分かっていない」という彼らの論調で「逃げます」が、まず何より議論している人を救おうとしていません。そこに思いやりや慈悲はありません。
広宣流布よりも彼らの理論である「他者への悪意ある誹謗中傷」が大事なのでしょう。証拠や理論、他者への説明(布教のこと)思いやりや慈悲ではないのです。彼らは広宣流布したいのではなく「逃げ出したくて仕方がない」のです。最初から与えられた恐怖から「逃げ出したくて仕方がない」から広宣流布だ、折伏だと勇ましく言うのでしょう。ですが、ネット上の多くの信徒がやっているのは「逃げ」「逃避」「現実逃避」ですね。


つまり、とある教育や宗教などの教えを受けた 「「集団において」」 は、100%でなくても、ある程度は行動に一定の傾向がある、と言えそうです。


私はgreeの非公開コミュを読んでいませんが、読んでいないにもかかわらず、クローズドであることからこれだけの「言っている事とやっている事が違う」事が証明されます。「何を信じているかではなく、何をしているかで判断する」(マインドコントロールの恐怖の翻訳者:浅見定雄さん)

以上。
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286.死への過敏症に陥らせて操る技法

2009年03月14日 14時50分13秒 | 創価学会
犀角独歩さんのgreeの日記から全文を転載。
http://gree.jp/8028711/blog/entry/218320067

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死への過敏症に陥らせて操る技法
2009/03/14 11:12
○○○さんが主宰する「日蓮正宗の教え」コミュでの、○○さんや、○○○○さんとのやりとりは、まあ、さした実りはなかったものの、やや温度が下がった。

宗教は、よい面はたくさんある。しかし、歴史が長いだけに、問題点もたくさんある。その問題は祖師に、係ることもあれば、その後の伝聞に原因があることもある。特に人類は、立花隆氏の言葉を借りれば、ここ100年で科学的に「爆発」的な進歩を遂げた。数千年、いや数万年、数十万年分の進歩をわずか100年で遂げてしまった。科学技術はさらに進歩を遂げていくだろう。われわれの時代はいつしか、科学時代の始めという意味の「原始時代」と呼ばれるようになるかも知れない。となれば、われわれは科学文明の原始人である。

そうした爆発的進歩の前に、しかし、仏教があり、日蓮がいた。
日蓮は…そんなものはいないと思うが…全知全能の神でも、仏でもない。けれど、700年前に言われていた、それでも当時最高水準の学問では考えてはいたろう。その後、700年間の人々も同様だった。その間、紡がれた伝承・伝聞の誤謬を、科学的叡智で解明されたときに、教えは「成り立たない」事態が生じたのだ。これを日蓮を筆頭とする伝承者に責任を負わせるのは酷である。しかし、科学で否定されても、まだ「事実である」と、人に語れば“嘘”となってしまう。

信者が、それでも、“嘘”を公言してはばからない理由は、それぞれが感得する体験、彼らのいう「実証」「功徳(利益 [りやく]」、社会心理学の用語で言えば“個人的リアリティ”によるのだろう。

しかし、これは信仰のプラシーボ効果だ。○○○○さんも、そんなことをお書きになっていた。同感だ。

彼らにとって、如何に自分が信仰があるのかを語るスケールに体験がある。彼らはしかし、体験=よい結果を通じて、欲得をふくらませているのだろうか。

もう会うこともなくなったある人が、かつて、こんなことを質問を投げかけた。
「成仏したい」という want/need/wish だって煩悩じゃないの?」

違うある人は、こう言った。
「功徳、功徳といっている人って、結局、単に欲望が大きく、貪欲なだけじゃないの?」

信仰圏を抜け出てみると、たしかに彼ら信者は、欲深く映じる。
○○○○さんは最近の日記で「煩悩即菩提」についてお書きになっている。その日記の意からは離れるが、この言葉は生まれるべくして生まれた言葉と思う。

煩悩即菩提は、日蓮の真跡では『大田殿女房御返事』ほか、1カ所に載るぐらいだ。『注法華経』にもある。『法華玄義』の「體生死即涅槃名為定 達煩惱即菩提名為慧」に由来するのだろう。慧に掛けるところにまさに天台の禅定の慧が光る。

しかし、「功徳がある」を連発する創価学会・顕正会を含む大石寺圏の用法はおかしい。殊に創価学会はひどく、顕正会はそれに準じ、大石寺は少しましだ。これで役僧たちの金満ぶりがなければ、少しはまともと思えるのだが生活態度が伴わない。結局、欲望重視で菩提への“即”がそこに見られない。

この周辺の僧俗は欲深いのか?
しかし、この欲は金銭欲とか、名誉欲と顕在するのは、一部の特権階級を上り詰める異常者で、一般の信徒は、慎ましい面もある。
それでも、彼らは欲深いと、わたしには映じる。しかしこれは悪口ではない。彼らの欲とは、生きる欲、生き続けたい欲、創価学会の常套句を使えば「永遠の生命」でありたいという自己存在に係る欲望なのだ。
こうした信仰は、バラモン以来の自己存続願望を“我”の想念として生じたのではないか。これに対してゴータマブッダは非我を説いた。自分があり続けるという欲望からすら脱却したのだ。解脱である。

わたしが信仰圏を抜け出すとき、ときたま、テレビで見た海外番組の心理ドラマが、決定的な鍵になった。そのドラマがなんであるのか、まるで覚えていない。そのセリフも曖昧な記憶なのだが、ヒロインに対して、医者(だと記憶する)が、こういう。

「あなたは、死の過敏症にされている」

目から鱗が落ちるという言葉を、しばしば使うが、創価学会から大石寺の信者であった時代、そう40年に及ぶ長い時間、わたしにかけられていた暗示の正体はこれだったのだ。

信仰への拘りも、生への拘りにその基があり、そして、よりよく生きたい、人よりよくありたい(それは信仰を含めて)という“欲望”、つまり煩悩を形成していたのだ。

いまのわたしは、特に再生(輪廻、生まれ変わり)を望まない。永遠の生命への執着は絶てた。死は恐れることではなく、受け入れることである。
死への恐怖を克服されると、こうした煩悩によって人を操る宗教はあさましく映じる。そう思って、眺める信者達の姿は、実はあさましく映る。
得たいもの・得たもの・得られないものの総称としての欲望煩悩と、執着から来る喪失の恐怖にどよめいているように映じる。

わたしは、ここ数年、創価学会・顕正会を含む大石寺の、教学の誤りと、何より、その本尊が後世の作品に過ぎないことを記してきた。

では、仮にその教学が日蓮が説いたままであったとしよう。その本尊が日蓮が作ったものであったとしよう。しかし、だから一体なんだというのだ。
所謂「本門戒壇の大御本尊」が本物であったとしても、たかが、彫刻ではないか。

そうしたものが本物であって欲しい思いも欲望である。「そうあって欲しい」という願望である。それが本物であるとき、自分の欲望と永遠の生命を証明してくれて、自己存続願望を満たしてくれると思う欲望の変形だ。
仮に本物であっても、欲望で人を操るツールなど、死への過敏症を卒業すれば、もはや、不要なのだ。

プラシーボ(偽薬)は、薬が必要な人には、効くだろうが、薬を必要としないものにとっては、無用なのだ。
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ハンドル名は伏せました。
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浅草の野宿生活者に支援・連帯を!

2009年03月05日 23時19分39秒 | 創価学会
東京の「浅草聖ヨハネ教会日曜給食活動」が近隣住民から「即時中止」要請を受けて活動中止に追いやられようとしているそうです。。。。(-_-)
浅草にあるこの教会は、7年前から日曜日に野宿労働者や生活困窮者へ弁当の配食を行なってきたとのこと。。

詳細は以下の転送文・要望書をお読みください。
その上で、近隣の方々に活動を理解して頂き、給食活動が続けられるように要望書への署名をお願いします。
渋谷給食活動グループ

---<以下、転送歓迎>------------------------------------------------
皆さま

 私たち「聖公会・渋谷給食活動グループ」は、
日本聖公会東京教区の有志が中心となって、
渋谷近辺の野宿生活者への給食活動を、2004年12月から行っている団体です。

 同じ日本聖公会東京教区においては、「浅草聖ヨハネ教会日曜給食活動」が、7年以上前から、毎日曜日の礼拝後に野宿生活者・生活困窮者にお弁当(炊き込みご飯)を提供する活動を続けています。社会の状況悪化に伴い、現在では多い時には約500人もの方々がこのお弁当を求めて教会に集まります。
 昨年12月、この活動に対して、近隣の方々から「即時中止」要請が出され、12月21日に近隣の方々のご意見を伺う会が開かれました。
近隣の方々が即中止を求めている理由は、野宿生活者が家の近くにいることに対しての「不安」です。活動が始まって以来7年以上の間、一度もトラブルは起きていませんが「いつか何か起きるかもしれない」という不安があるのだそうです。
 今、浅草聖ヨハネ教会の方々は、近隣の方々の気持ちを受け止め理解しながら、野宿生活者や生活困窮者の今日の命をつなぐものであるかも知れない「一食」を自らの手で奪うことはできないという大きな悩みの中で活動を続けています。
近隣の方々の「不安」をなくすために、できる限りの改善をしながら、
3月中旬に予定されている近隣の方々との2回目の話し合いの準備を進めています。

 私たちのグループからも3人が実際にこの活動とミーティングに加わり、浅草聖ヨハネ教会日曜給食活動の方々が、近隣の方々の思いを真摯に受け止めて、現段階でできる限りの改善と努力を重ね続けている事実と、食を求めて集まる約500人の困窮の様子をつぶさに見続けています。
そして検討した結果、やはり命の危険すら覚えながら生きなければならない方々の一食を奪うことはできないという思いのもと、浅草聖ヨハネ教会日曜給食活動関係者および浅草聖ヨハネ教会の近隣の皆さまに、以下の要望書を出したいと思います。
そしてその要望書は、私たち「聖公会・渋谷給食活動グループ」だけで出すのではなく、同じ思いを持つ個人・団体の方々と共同し、連名で出すことを望んでいます。

 要望書をお読みいただき、名前を連ねてくださる個人・団体の方は、
3月15日正午頃までに、以下の通りご連絡いただけますと幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。

ご連絡いただきたい内容
 ・表記するお名前と読み方
   (団体・個人別、あいうえお順に掲載したいと思います)
 ・ご住所、電話番号、メールアドレス(これらは表記しません)
 ・何かメッセージがあればお願いいたします。
   
連絡先・お問い合わせ先
「聖公会・渋谷給食活動グループ」代表:楡原民佳(にれはらたみか)
   メールアドレス:
   FAX:03-3760-7535

           2009年3月2日 聖公会・渋谷給食活動グループ


    ***** 以下、要望書 *****

浅草聖ヨハネ教会日曜給食活動の皆さま
浅草聖ヨハネ教会の近隣の皆さま

              要 望 書

 私たちの周りには、職と住まいを失った何千人もの野宿生活者や日々の生活に困窮している方々がおり、その多くは日々の食べ物にも欠く状態にあります。中には一日1食で暮らしている人もおり、その方々にとって、支援者の配る1食は一日の命をつなぐものです。このような状況の中、病死や餓死、凍死する不安を持ちながら生きています。さらに、身を守る住まいもない野宿生活者たちには、暴力を受けたり、殺されるかも知れないという恐怖もつきまとっています。
 このように私たちの周りには、豊かな社会の中にありながら、
「明日は食べられないかも知れない」、「死んでしまうかもしれない」、「襲われるかもしれない」という、「命」の危機を痛切に感じながら生きなければならない方々がいるのです。これは、安心して身体を休めることのできる家があり、今日の食事に事欠くことのない私たちには、到底想像することのできない不安、恐怖、苦しみなのではないでしょうか。
 にもかかわらず、野宿生活者は、「いると不安」、「危険」なもの、時には「何かするかもしれない」犯罪者のように見なされ、排除されることさえあります。
しかし、それらの認識は事実とは大きく異なるものです。野宿生活者たちは不安、危険なものなのではなく、生活どころか命の保障もない上に、時には偏見によって存在すら認められないという、社会の中で最も弱い立場に置かれている人々です。
 私たちは、野宿生活者や生活困窮者が、不安や恐怖、苦しみから解き放たれ、平和な生活を取り戻せるように願います。また、その方々が生きる希望を取り戻し、一歩でも自立生活に向けて歩き出せるように、たとえささやかであってもその支援の一端を自らも担うとともに、同様の願いを持ってなされる支援活動を支持します。
 このような立場から、浅草聖ヨハネ教会日曜給食活動と、浅草聖ヨハネ教会の近隣の皆さまに対して、以下の通り要望いたします。

1.浅草聖ヨハネ教会日曜給食活動の皆さまへ
  野宿生活者や生活困窮者の今日の命をつなぐ日曜給食活動の継続を
  望みます。

1.浅草聖ヨハネ教会の近隣の皆さまへ
  野宿生活者・生活困窮者のおかれている状況と、
  その方々への支援として行われている浅草聖ヨハネ教会日曜給食活動をご理解くださるよう望みます。
   
              2009年3月15日
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285.正宗系信徒の「あなたは分かってない。」(その2) 自己と他者の評価

2009年03月01日 00時05分30秒 | 創価学会
●誤解を少なくするために。

 カルト問題と心理学、カウンセリングについて触れていますが、例えば末端の学会員が100人いたら100人全員がうつ病になるわけではありません。
また、末端の学会員全員の内面が100%不健全ではありません。
 私は以前からMC論や心理学を取り上げていますが、学会員は全員駄目だ!みたいなレッテル張りをするために書いているわけでもありません。

心理学、カウンセリングは心を取り扱いますが、心は各個人によっても状況によっても違いがあり、曖昧です。
曖昧である事を前提として、曖昧さを当然の事として学問やカウンセリングのアプローチがあります。
患者は個人個人で診察されますが、うつ病など家族や会社、学校に原因がある場合、それぞれの集団をも取り扱うわけです。
個人も集団も両方ともに柔軟に取り扱うと考えてください。

嘘を言う言わないなどの問題認識、言動(行動)パターン、友人などの人間関係、人格形成、それぞれにおける問題や心理的な不健全、不健康は何なのでしょうか?
また、先の記事で「グループカウンセリングにおいてはお互いにお互いを評価しない。」とも書きましたが、どういう関連があるのかがポイントです。

●認識と友人

 私の場合ですが、今でも友人の中に何人かの学会員さんがいます。
住んでいる所の地区ではなく、ネットで知り合った人ばかりです。
これからもアンチ、シンパの立場に関係なく友人でいたいと私は思っています。
でも、中にはあいかわらず私に間違った地獄論を”押しつける”ちょっと困った人(笑)もいますけどね。(^_^;Aちょっとだけよ?(笑)
何人かの学会員さんはそれぞれに共通する立場は一つであり”創価学会員”という枠ですが、信仰や学会に対する認識は各人で違いますし、私に対する認識も各人で違うでしょう。

学会問題、つまり創価学会に確実に存在する 「問題」、この”共通”認識がなければ友人にはなれなかったでしょう。日蓮原理主義的あるいは日蓮しか見ない「言動パターン」が今の私から見て疑問に思えますが、過去の私も20年近く同様な「言動パターン」をしてバリ活だったわけです。悪意があってもなくても”押しつけ”がない限りは友人でいられます。
私への善意であっても間違った地獄論の”押しつけ”であれば、それなりに私も対処するしかないでしょう。
彼らには脱カルト的な希望は持ちますが、一方的で一律な強制力を持ちたいとは私は思いません。選択やギアのニュートラルなど余地や遊びのある抑止力に近いかもしれません。難しい問題であり私から各人へのニュアンスが違います。ケースバイケースなのです。

さてここで重大な問題があります。

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282.日蓮正宗系信徒の「あなたは分かってない。」(その1) - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/51701f18917d7848abb68ac42669ba25
人の心理として心や脳で考えたり思っている事、MCされた事、認識、認知が変わらない限りは発言する/しない事は一時的な現象でしかありません。
ここに重要な問題があるのです。
それは人間関係の距離と関係しています。過去記事に書いた遠い師匠、近い師匠。身近な人間関係と遠い人間関係です。
彼が私の内得信仰時代を思い出さなかったのか覚えていないのかは定かではありませんが、少なくとも私に内得信仰時代を思い出させようとはしませんでした。
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ネットで知り合った学会員さんに私はブログに書いている以上の自分の悩み事について話していません。
しかし、気兼ねなくお互いに言いたいことは言える友人なわけです。でも友人関係は破綻していません。
創価学会員のブログ、はったり特急の副管理人をしていたNさんやTさんから暖かいアプローチで「どんな病気なの?」聞かれたことはあります。
TELやオフ会などのリアルの会話ですから心配して頂いたことを私は十分に理解しているつもりです。
私は打ち明けませんでしたが、打ち明けなかったことで人間関係は破綻していません。

☆つまり、たった一つのことで人間関係は破綻していません。全否定ではないのです。

私の創価入信の紹介者である某君は、私の悩み事をすべて知っているとも言って良いでしょう。
高校時代、お互いの好きだった女の子が誰かも知っているわけですから。(笑)

しかし彼、某君は信仰を捨ててしまった私に宗教的な慈悲や思いやりというだけでなく、元々あった友人としてのかかわりを失ったことに気がついているのでしょうか?私自身、本人に会いたいと思わないので定かではありませんが、興味深いことではあります。

なぜなら、高校時代、彼の友人はほとんどすべて非学会員だったからです。
彼は高校時代でも学会に籍があったでしょう、しかし、高校時代の彼にとって友情は信仰する/しないで決まってはいませんでした。
ここに不自然さや不健全さはありません。
学会員であるか否か?その立場だけで友人関係が成立しなくなったことに不健全、不自然さを私は感じます。

☆つまり、たった一つのことで人間関係は破綻し、全否定の可能性があるのです。

また、他者が持つ不幸に彼自身が関われなくなった事も気がついているかどうか。。。。
普通の人間は多いにせよ、少ないにせよ、友人を持ちたいと思うのが普通です。
現実逃避や信仰の問題ばかりを気にする彼らですから、友人や人間関係が破綻したときに創価などの日蓮正宗系信徒の 「思考パターン」 には気をつける必要があります。カルトっぽい人、カルトの度合いが強い人は特に注意が必要です。不自然や不健全さが見え隠れするでしょう。

●どんな人間が出来上がるのだろうか?

 普通、本音と建前は誰もがある程度持って当然ですが、ご本尊は絶対だとか、他宗を邪宗として批判するくらいに自分たちの正当性を彼らは主張します。
しかし、正当性が存在する自分たち、正しいはずの自分たちが不幸や思いどおりならないことに直面すると本音と建前が悪しき方向に強化され主張されます。
創価は絶対、ご本尊は絶対、日蓮は絶対、日蓮は御本仏、池田先生は絶対という教義から間違いなく、信仰心が足りないから駄目だ、という駄目だしです。

「あなた(you)は分かってない。」(信仰心がない)というアプローチか
「わたし(I)は分かってない。」(信仰心がない)というアプローチになるはずです。

池田氏や法主、御本仏や本尊などは絶対ですから絶対でない ”身近な他者” に怒りや暴力が向くでしょう。
”身近な他者”は弱者であることも多いでしょう。

先にもう一つ結論を書くと”身内の他者、身内である他者”に怒りや暴力が向くでしょう。(*1)

世間一般の人は祈りで願いが叶ったりしないことを熟知しています。不幸や思いどおりならないことは誰にでも起こりえるのです。
しかし、彼らはそうは思えません。創価は絶対、ご本尊は絶対、日蓮は絶対、日蓮は御本仏、池田先生は絶対です。
幸福になるには創価などの日蓮正宗系しかありえないと思っています。


☆彼らは、自分かあるいは誰か、つまり他者を信仰心が足りないから駄目だ、という駄目だしをせずにはいられないのです。


駄目だしとは彼らの言葉で言えば「謗法」(ほうぼう)、ご指導に違背とかがそれにあたります。
元々、自分や他人のそれぞれの問題や責任を過去世や現世の信仰の問題に置き換え、現実逃避するところから始まっています。出発点からそもそも間違っているわけです。
彼の2世や男子部の圏中堅幹部(現在の立場は知りません。)などの立場、創価学会の信仰心のない者、勇気のない者はほうっておけ、等々の指導、行動や思考の悪しき操作(MC)は言うまでもありません。
もし万一、某君と私がバトルすることがあれば、池田大作氏に責任ある言動、態度をとってもらう必要があるでしょう。
大御本尊の問題や宗門問題、公明党への選挙活動に非課税の宗教法人の会館を利用する、等々、正当性を証明できるのは池田氏しかいませんからね。

このことはネットの正宗VS創価のバトル、O野不-さん派やO浦さん派のバトルも同様な問題を抱えています。
「謗法」とか指導に違背とかO野不-さん派やO浦さん派って出来ているでしょ?
法華経の勝劣派(しょうれつは)思想や折伏思想はいわゆる駄目だしですからね。やはり問題のある思想でしょう。
本来はトップが果たすべき責任を末端に押し付けている点も関連があります。
末端の彼らは勇気を示せば証明したことになると思っているからやっかいです。

先の記事と関連しますが、少なくとも彼某君は入信前の友人に不健全、不自然さを抱えている可能性があります。退会者の私のことでも不健全、不自然さを抱えている可能性があります。
高校生のときは信仰に関係なく友人だったのに、今は信仰の立場で友情の有無が決まっていることに彼は気がついているんでしょうかね?
おそらく気がついていないか、気がついても現実逃避しているんじゃないでしょうか?
創価の何が嘘で、何が問題で、本当の信仰は何なのか?最低でもLibraさんHPやはったり特急に書かれていたバランス感覚や誠実さ等々、これらを彼の口から説明して私に嘘を教えたことをきちんと謝罪できないと同じ 「認識」 になりません。
ただ単に私の不幸な出来事に謝罪するだけなら認識なしの謝罪です。謝れって言われたから謝るのは異常でしょう。

つまり、創価は絶対、ご本尊は絶対、日蓮は絶対、日蓮は御本仏、池田先生は絶対という教義から信仰の立場や(絶対に良い結果が出るという)結果からでしか、人や物事を見ることができません。友人を作れなくなってゆく可能性があります。創価学会以外の人を嫌ったり、憎悪したりする可能性が高いです。
この世は悪い人ばかり、この世がとんでもなく悪い世の中に見えて破壊や暴力の衝動にかられる人が出てきても不思議はないのかもしれません。(*2)


☆怒りや憎悪を伴うほどに他者への評価が悪い可能性があります。そういう人間が出来上がる可能性があるのです。


(*1)と(*2)は関係しています。あいまいなイメージの問題なのです。

●「わたし(I)は分かってない。」(信仰心がない)というアプローチ

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277.日蓮正宗系の信徒が切れやすい理由 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/9e0a80c3cbae75bcaa16480a6a1263f9

自分の「境涯」を学会活動で築いて学会員はある程度自己満足もしてある程度幸福だと思っています。
自分のそばに、「魔」「悪」「境涯が低く」見える人がいたら、近づいてきたらどうなんでしょうかね?
「自分のした事を台無しにされ」そうなんですから「必要以上に」怒るでしょうね。「必要以上に」切れるでしょうね。
自分の「境涯」とは日常生活の環境や人間関係ですから、目の前にいる 「他人」(相手) も「自分の境涯」なのです。
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 子供が2世3世として活動家になってくれない場合など、親御さん自身がMCされて親側が自分自身に罪悪感、つまり「わたし(I)は分かってない。」(信仰心がない)と考えるかもしれません。
 某君の場合も可能性はほとんどないと思いますが、多少でも私に対してお題目をもっと送ればよかった、などの罪悪感をもっていれば少しはバランス感覚があるのかもしれません。
 自分自身に罪悪感、つまり「わたし(I)は分かってない。」(信仰心がない)と考える、、、これにピンとこないひとがいるかもしれないので追記します。

「彼らはそうは思えません。創価は絶対、ご本尊は絶対、日蓮は絶対、日蓮は御本仏、池田先生は絶対です。幸福になるには創価などの日蓮正宗系しかありえないと思っています。」「元々、自分や他人のそれぞれの問題や責任を過去世や現世の信仰の問題に置き換え、現実逃避するところから始まっている。」と書きましたがこれってどいうことでしょうか?

少なくとも創価学会には境涯(きょうがい)宿命(しゅくめい)とか呼ばれるものがあります。
(正しくは宿命(しゅくめい)ではなく宿命通(しゅくみょうつう)のこと。富士門流BBSや犀角独歩さんのブログに詳しい)

自分の置かれた環境は自分の境涯(きょうがい)宿命(しゅくめい)ですから、自分の周りにいる批判者、退転者は自分の悪しき境涯や宿命と捉えても不思議はありません。上の項目では他者への評価が下がることを書きましたが、


☆自分自身の心理的な自己評価が下がるケースがありえます。自分は駄目だと思いやすい人間が出来上がる可能性があるのです。


バランス感覚を持って謙虚かあるいは等身大、あるいは素直に受け止められる人は大丈夫でしょうけれど、そうでない人は折伏しなければなりません。

富士門流BBSでもgreeでも2chでもネット、リアル等々、言い負けた場合の彼らの心理状態や行動はどういうものなのでしょうか?

(つづく)
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