功徳の意味。
●功徳はあるか?という言い方
創価学会では 功徳「がある」 という言い方をよくします。
これがすり替えや嘘やだましの始まりだと思います。
私もブログ立ち上げ時に 功徳「はあるか?」 という「ある/ない」を問うタイトルになっています。
学会に教えられた通りに 功徳「がある」、「功徳を得られる」、御本尊から「功徳を与えられる、頂ける」 という意味で書いているのでブログ立ち上げ当初は理解していなかったわけです。
学会の教義は日蓮曼陀羅本尊に祈る事で功徳「がある」(必ず願いが叶う、etc)というものです。
宗門問題以前は日蓮正宗大石寺にある大御本尊、あるいは正宗下付本尊に祈る事でした。
宗門問題以降は学会下付の本尊に祈る事でも必ず功徳「がある」というものです。
学会ではある日突然、個人の自発的な理由ではなく(信徒を新規獲得、および維持する必要があって)教団都合な理由で日顕氏の本尊は否定されて私は「本尊お取り替え」をある程度MCされ、悩みながらも取り替え、そしてまた悩みました。
Libraさんに「釈尊はまじない信仰を否定」という事を指摘して頂きました。ここまでは過去記事の通りです。
Libraさんのサイトを読んでも現代の創価と原始仏教が正反対な事が分かりますが、ネットなどで原始仏教の勉強をはじめると 「功徳の意味」 が違う事にさらに気がつかされました。
●実は功徳「を積む」という言い方
本来は功徳「を積む」という言い方がされています。
yahooやgoogleで「功徳とは」「功徳」「功徳を積む」で検索するか下記のリンクを見て下さい。
【39】功徳とは何か
yahooやgoogleで「針 功徳 積む どなたか」で検索してみて下さい。下記のリンクが見つかります。
我愛福徳
仏さまのこばなし
アヌルダの為に行動する事でブッダは功徳「を積んでいる」わけです。
友岡雅弥氏の書籍にはブッダはブッダ自らアングリマーラーやゴータミー、糞尿まみれの病人に「施し」をしています。
'08.04.14 修正追記
/////////////////////////////////////
布施は僧侶に対する金品のもてなしですが、本来は貧しき人、身より頼りの無い人に、施しをする事です。しかも、その結果としての果報を期待して行ってはなりません。あくまで困窮する人の為に行うべきものなのです。
友岡雅弥 著 ブッダは歩むブッダは語る(P84)
貧しき人への施しですが、仏典ではしばしば「布施」という言葉で、仏法者が行うべき修行として現れてきます。(中略)
当時、最大の罪であり、最大に軽蔑すべきは「貪欲」だったのです。
友岡雅弥 著 ブッダは歩むブッダは語る(P134)
/////////////////////////////////////
過去記事にも書いてきたとおり、どの事例もケースバイケースにブッダは対処しています。もう一つ着眼点があります。
それはブッダと会話しているその人の望むことを「施し」(ほどこし)て功徳「を積んでいる」点です。
アングリマーラーは「心が動いているぞ?」と言われる事は望んでいませんが、本心では人殺しを望んではいなかった、ということでしょうか?現代であれば「心が動揺しているね?」と優しく言われる事なのでしょうかね?
原始仏教において
”アヌルダが望む”行動をする事でブッダは功徳「を積んでいる」。
会話しているその人の”望む”ことをケースバイケースに「施し」てブッダは功徳「を積んでいる」。
現代のカルト教団において
まず、正宗系教団は罰論、功徳論でコントロールを行います。
正宗系は”教団トップが望む”行動を信徒にさせる事でお金や権力など「得をする」のは教団トップです。
信徒は体験談から「幸福になった」とはいいますが、教団都合の本尊が直接の理由ではないでしょう。
ケースバイケースに対処せず、常に必ず”方法は同じ”題目と本尊、教団へのお布施、(公明への奉仕)なわけですね。
しかも往々にして正宗系教団は人への嫌がらせが多い多い。
いつも御本尊というモノへの祈り一辺倒(あたりまえですが呪いでもなく)ではなく
人の具体的なケースバイケースな言葉や言動が大事、ということでしょうか?
先に書いた引用記事、法華経には「祈」という文字はない、と矛盾がありません。具体的な行動(言動)が大事、というわけですね。
学会の会合に来てもらう事や聖教新聞啓蒙でも折伏や布教の方法として駄目という事はないのでしょうが、「人の具体的なケースバイケースな言葉や行動、つまり言動が大事」であれば「いつも」自分で具体的方法を考える必要が出てきますから思考停止には至りにくいわけです。
また当然の結果として謙虚にもなれます。
●功徳「がある」、功徳「を積む」でなぜ言い方が違うのか?
人間革命にもあるとおり罰論で ”過去世からの宿業や罰が命の中から「出る」” あるいは御本尊や宇宙生命、日蓮生命から罰が出る、あるいは罰を加える、与える、というものです。
だから日蓮正宗系の教団にとって功徳が「ある/ない」という言い方をしないとまずい面があるんでしょうね。創価に功徳がある、正宗には功徳がない、その逆も又しかり。etcetc功徳が「ある/ない」と教えられた信徒は白黒2極論におちいる。。。。。
だから日蓮正宗系の教団が功徳「を積む」功徳「を積みましょう」とか言い出すと、功徳が「がある/ない」よりもやや分かりにくくて「功徳を積む」って ”どういう意味ですか?、どうして「積む」なんですか?”という質問に繋がりやすいです。また、原始仏教の説明をしないといけない可能性も出てきます。過去、とあるカウンセラーの方にご指摘頂いた様にカルト教団の言葉や説明を鵜呑みにするのではなく「原典を調べる、原典にあたる」必要がある かと。原始仏教と日蓮仏教は矛盾点がありますから日蓮だけを見ていて欲しい教団にとって原始仏教の内容は非常に都合が悪いと想像します。
教団都合の○○すると功徳「がある」
教団都合の○○しないと罰「がある」
罰を積むという言い方をしない点でもピンと来る人はいるでしょうか?
日蓮は法華経を説明する事で原始仏教に原点回帰し、人や世の中に良い事(功徳)を得させようとしたわけです。
創価は原始仏教を説明しない事で自分達教団トップだけに良い事(功徳)を得させようとしたわけです。
上記の2行はあえて「積む」ではなく「得させる」としました。
誰に功徳がある、与える、得られるのか?ということです。
○誰が誰に与えるのか?
もう一つ。
功徳「がある」という言い方は信者にとってメリットがあり、また宗教教団にとって信者獲得にもメリットです。
功徳「を積む」という言い方は信者が自分で行動して人のために尽くす事ですから他者にメリットがあり、信者獲得にもメリットが少ないかもしれません。
僧侶が功徳「を積みましょう」というと、おまえはどうなんだ?とツッコミが入りそうですしね。(笑)
なお、私は自分でする自分のために功徳を積むという事を否定しません。
しかし、学会員が池田先生に尽くせ!とか、師匠のために!というのは今にしてみれば滑稽ですね。
一体全体、池田氏は誰の為に具体的に行動して尽くしているのでしょうかね?
ここからはある方の受け売りなのですが、、、、、
☆「布施」という事自体もブッダがそうであったように僧侶の修行の一つであったようですね。
☆必要最低限の食事を布施として受け取っても元々は僧侶が他者へ施すのだそうです。
それがいつの間にかブッダも日蓮も必要最低限の食事だったのが、現代では年間、何兆?何千億のお金や時間、無報酬労働の寄付になっています。
信徒が僧侶に施すのがお布「施」であり、これが当然で逆は無いという状態です。
布施については勉強不足で原典などを書けていません。そこで☆印の2行の布施について、
「どなたか布施について、宗教教団都合の出来るだけ薄い良き本やネットの記事をご存じありませんか?さらに功徳を積もうという方はおられませんか?」
と書いてみる。(笑)ヽ(^o^;)ノ
「功徳の意味」 が違う事にはだいぶ前から気がついていましたが、今回の記事はある方の法華経についてのご見解に触発されて書きました。
布施にも言及されていて、そのまま引用転載をお願いした方が法華経の勉強にもなり一番良かったかもしれませんが。。。。。。
Libraさんのサイトや友岡氏の書籍を読めば原始仏教において誰が誰に、誰が誰のために、誰が何のために、、、そしてどの様に施しているか?尽くしているか?は理解できる事なんですけどね。
過去記事とだいぶ重複しますが、功徳、施す、布施、という単語の視点記事はなかったと思うので書きました。
みなさんにも「積むという言葉の原典を調べる、原典にあたる」必要を感じて頂きたかったということです。
日蓮本尊、唱題、法華経の勤行による修行方法を全否定する記事ではない事もお断りしておきます。
補足として本記事だけでなく他にもいくつか理由があるのですが、「仏法は厳しくない」「仏法は勝負ではない」という事にも一貫性があると思います。
創価のいう事は間違っているし人によっては経典などの原意をよく知りながらその事は伏せMCする悪意があるという事です。
2018年3月6日 追記
----------<ここから>----------
möbius-rebelliusさんのツイート: "ちなみに、「功徳」の原語は、主に「guṇa」で、人徳。時に、puṇyaで、「善き行い」、稀にanuśaṃsaで、「人助け」です。"
上のリンクと私の意見は少し異なるようです。
「功徳」の原語は、guṇa、puṇya、anuśaṃsaであるようです。これは私も同じです。
誤訳については以下のように考えています。
guṇa(グナ)はサンスクリットで、優れた性質、価値ある特質
puṇya(プニヤpuya)は福、善、福徳
anuśaṃsa(アヌシャンサanuasa)利点、利益
他者救済をする原始及び大乗仏教では、「功徳」は次の通り。
他者が望む行いを宗教者が自己犠牲し救済する。結果として客観的に見て、その行いは善き行いとされる、と捉えることが可能です。
----------<ここまで>----------
以上。
'08.04.14 修正追記
> 友岡雅弥氏の書籍には「布施」(ふせ:創価学会で言うところのご供養。)や「功徳」の単語の説明はされていなかったと思いますが、ブッダはブッダ自らアングリマーラーやゴータミー、
↓
友岡雅弥氏の書籍にはブッダはブッダ自らアングリマーラーやゴータミー、
2018年3月6日 追記
●功徳はあるか?という言い方
創価学会では 功徳「がある」 という言い方をよくします。
これがすり替えや嘘やだましの始まりだと思います。
私もブログ立ち上げ時に 功徳「はあるか?」 という「ある/ない」を問うタイトルになっています。
学会に教えられた通りに 功徳「がある」、「功徳を得られる」、御本尊から「功徳を与えられる、頂ける」 という意味で書いているのでブログ立ち上げ当初は理解していなかったわけです。
学会の教義は日蓮曼陀羅本尊に祈る事で功徳「がある」(必ず願いが叶う、etc)というものです。
宗門問題以前は日蓮正宗大石寺にある大御本尊、あるいは正宗下付本尊に祈る事でした。
宗門問題以降は学会下付の本尊に祈る事でも必ず功徳「がある」というものです。
学会ではある日突然、個人の自発的な理由ではなく(信徒を新規獲得、および維持する必要があって)教団都合な理由で日顕氏の本尊は否定されて私は「本尊お取り替え」をある程度MCされ、悩みながらも取り替え、そしてまた悩みました。
Libraさんに「釈尊はまじない信仰を否定」という事を指摘して頂きました。ここまでは過去記事の通りです。
Libraさんのサイトを読んでも現代の創価と原始仏教が正反対な事が分かりますが、ネットなどで原始仏教の勉強をはじめると 「功徳の意味」 が違う事にさらに気がつかされました。
●実は功徳「を積む」という言い方
本来は功徳「を積む」という言い方がされています。
yahooやgoogleで「功徳とは」「功徳」「功徳を積む」で検索するか下記のリンクを見て下さい。
【39】功徳とは何か
yahooやgoogleで「針 功徳 積む どなたか」で検索してみて下さい。下記のリンクが見つかります。
我愛福徳
仏さまのこばなし
アヌルダの為に行動する事でブッダは功徳「を積んでいる」わけです。
友岡雅弥氏の書籍にはブッダはブッダ自らアングリマーラーやゴータミー、糞尿まみれの病人に「施し」をしています。
'08.04.14 修正追記
/////////////////////////////////////
布施は僧侶に対する金品のもてなしですが、本来は貧しき人、身より頼りの無い人に、施しをする事です。しかも、その結果としての果報を期待して行ってはなりません。あくまで困窮する人の為に行うべきものなのです。
友岡雅弥 著 ブッダは歩むブッダは語る(P84)
貧しき人への施しですが、仏典ではしばしば「布施」という言葉で、仏法者が行うべき修行として現れてきます。(中略)
当時、最大の罪であり、最大に軽蔑すべきは「貪欲」だったのです。
友岡雅弥 著 ブッダは歩むブッダは語る(P134)
/////////////////////////////////////
過去記事にも書いてきたとおり、どの事例もケースバイケースにブッダは対処しています。もう一つ着眼点があります。
それはブッダと会話しているその人の望むことを「施し」(ほどこし)て功徳「を積んでいる」点です。
アングリマーラーは「心が動いているぞ?」と言われる事は望んでいませんが、本心では人殺しを望んではいなかった、ということでしょうか?現代であれば「心が動揺しているね?」と優しく言われる事なのでしょうかね?
原始仏教において
”アヌルダが望む”行動をする事でブッダは功徳「を積んでいる」。
会話しているその人の”望む”ことをケースバイケースに「施し」てブッダは功徳「を積んでいる」。
現代のカルト教団において
まず、正宗系教団は罰論、功徳論でコントロールを行います。
正宗系は”教団トップが望む”行動を信徒にさせる事でお金や権力など「得をする」のは教団トップです。
信徒は体験談から「幸福になった」とはいいますが、教団都合の本尊が直接の理由ではないでしょう。
ケースバイケースに対処せず、常に必ず”方法は同じ”題目と本尊、教団へのお布施、(公明への奉仕)なわけですね。
しかも往々にして正宗系教団は人への嫌がらせが多い多い。
いつも御本尊というモノへの祈り一辺倒(あたりまえですが呪いでもなく)ではなく
人の具体的なケースバイケースな言葉や言動が大事、ということでしょうか?
先に書いた引用記事、法華経には「祈」という文字はない、と矛盾がありません。具体的な行動(言動)が大事、というわけですね。
学会の会合に来てもらう事や聖教新聞啓蒙でも折伏や布教の方法として駄目という事はないのでしょうが、「人の具体的なケースバイケースな言葉や行動、つまり言動が大事」であれば「いつも」自分で具体的方法を考える必要が出てきますから思考停止には至りにくいわけです。
また当然の結果として謙虚にもなれます。
●功徳「がある」、功徳「を積む」でなぜ言い方が違うのか?
人間革命にもあるとおり罰論で ”過去世からの宿業や罰が命の中から「出る」” あるいは御本尊や宇宙生命、日蓮生命から罰が出る、あるいは罰を加える、与える、というものです。
だから日蓮正宗系の教団にとって功徳が「ある/ない」という言い方をしないとまずい面があるんでしょうね。創価に功徳がある、正宗には功徳がない、その逆も又しかり。etcetc功徳が「ある/ない」と教えられた信徒は白黒2極論におちいる。。。。。
だから日蓮正宗系の教団が功徳「を積む」功徳「を積みましょう」とか言い出すと、功徳が「がある/ない」よりもやや分かりにくくて「功徳を積む」って ”どういう意味ですか?、どうして「積む」なんですか?”という質問に繋がりやすいです。また、原始仏教の説明をしないといけない可能性も出てきます。過去、とあるカウンセラーの方にご指摘頂いた様にカルト教団の言葉や説明を鵜呑みにするのではなく「原典を調べる、原典にあたる」必要がある かと。原始仏教と日蓮仏教は矛盾点がありますから日蓮だけを見ていて欲しい教団にとって原始仏教の内容は非常に都合が悪いと想像します。
教団都合の○○すると功徳「がある」
教団都合の○○しないと罰「がある」
罰を積むという言い方をしない点でもピンと来る人はいるでしょうか?
日蓮は法華経を説明する事で原始仏教に原点回帰し、人や世の中に良い事(功徳)を得させようとしたわけです。
創価は原始仏教を説明しない事で自分達教団トップだけに良い事(功徳)を得させようとしたわけです。
上記の2行はあえて「積む」ではなく「得させる」としました。
誰に功徳がある、与える、得られるのか?ということです。
○誰が誰に与えるのか?
もう一つ。
功徳「がある」という言い方は信者にとってメリットがあり、また宗教教団にとって信者獲得にもメリットです。
功徳「を積む」という言い方は信者が自分で行動して人のために尽くす事ですから他者にメリットがあり、信者獲得にもメリットが少ないかもしれません。
僧侶が功徳「を積みましょう」というと、おまえはどうなんだ?とツッコミが入りそうですしね。(笑)
なお、私は自分でする自分のために功徳を積むという事を否定しません。
しかし、学会員が池田先生に尽くせ!とか、師匠のために!というのは今にしてみれば滑稽ですね。
一体全体、池田氏は誰の為に具体的に行動して尽くしているのでしょうかね?
ここからはある方の受け売りなのですが、、、、、
☆「布施」という事自体もブッダがそうであったように僧侶の修行の一つであったようですね。
☆必要最低限の食事を布施として受け取っても元々は僧侶が他者へ施すのだそうです。
それがいつの間にかブッダも日蓮も必要最低限の食事だったのが、現代では年間、何兆?何千億のお金や時間、無報酬労働の寄付になっています。
信徒が僧侶に施すのがお布「施」であり、これが当然で逆は無いという状態です。
布施については勉強不足で原典などを書けていません。そこで☆印の2行の布施について、
「どなたか布施について、宗教教団都合の出来るだけ薄い良き本やネットの記事をご存じありませんか?さらに功徳を積もうという方はおられませんか?」
と書いてみる。(笑)ヽ(^o^;)ノ
「功徳の意味」 が違う事にはだいぶ前から気がついていましたが、今回の記事はある方の法華経についてのご見解に触発されて書きました。
布施にも言及されていて、そのまま引用転載をお願いした方が法華経の勉強にもなり一番良かったかもしれませんが。。。。。。
Libraさんのサイトや友岡氏の書籍を読めば原始仏教において誰が誰に、誰が誰のために、誰が何のために、、、そしてどの様に施しているか?尽くしているか?は理解できる事なんですけどね。
過去記事とだいぶ重複しますが、功徳、施す、布施、という単語の視点記事はなかったと思うので書きました。
みなさんにも「積むという言葉の原典を調べる、原典にあたる」必要を感じて頂きたかったということです。
日蓮本尊、唱題、法華経の勤行による修行方法を全否定する記事ではない事もお断りしておきます。
補足として本記事だけでなく他にもいくつか理由があるのですが、「仏法は厳しくない」「仏法は勝負ではない」という事にも一貫性があると思います。
創価のいう事は間違っているし人によっては経典などの原意をよく知りながらその事は伏せMCする悪意があるという事です。
2018年3月6日 追記
----------<ここから>----------
möbius-rebelliusさんのツイート: "ちなみに、「功徳」の原語は、主に「guṇa」で、人徳。時に、puṇyaで、「善き行い」、稀にanuśaṃsaで、「人助け」です。"
上のリンクと私の意見は少し異なるようです。
「功徳」の原語は、guṇa、puṇya、anuśaṃsaであるようです。これは私も同じです。
誤訳については以下のように考えています。
guṇa(グナ)はサンスクリットで、優れた性質、価値ある特質
puṇya(プニヤpuya)は福、善、福徳
anuśaṃsa(アヌシャンサanuasa)利点、利益
他者救済をする原始及び大乗仏教では、「功徳」は次の通り。
他者が望む行いを宗教者が自己犠牲し救済する。結果として客観的に見て、その行いは善き行いとされる、と捉えることが可能です。
----------<ここまで>----------
以上。
'08.04.14 修正追記
> 友岡雅弥氏の書籍には
↓
友岡雅弥氏の書籍にはブッダはブッダ自らアングリマーラーやゴータミー、
2018年3月6日 追記