●日蓮さんの祈雨祈祷前後の時系列
(1)唱法華題目抄(昭和定本)文応元(西暦1260)年五月二十八日
但法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず。
(日蓮遺文には「如来秘密神通之力」などいくつか出てくる。)
日蓮はあくまで法華第一であって、真言密教や天台密教の祈りの叶わない点をいくつも強調しています。
(2)母梅菊の蘇生 文永元(1264)年10月
母梅菊の蘇生を祈祷か末期の水か不明だが母梅菊に与えて、息を吹きかえし更に4年寿命を延ばした伝承がある。
本尊書写などに使う炭を祈祷し水に溶かしたか直接水に祈祷したかは不明。
なお旧人間革命で戸田城聖は法主しか作れないはずの御秘符を受け取った後に更に祈念しています。受け取った御秘符を戸田が祈念した記述について問題あるかないか賛否両論あると思いますが、私は祈祷の破壊だと思います。故・池田大作は気がついてないのか知らないのか人間革命を書いて残しています。
(3)祈雨の祈祷 文永8(西暦1271)年6月ごろ
下山御消息(昭和定本)の記述。
(4)佐渡に流罪 文永8年11月 西暦1271年
(5)初めて法華曼荼羅を図顕 文永10(西暦1273)年7月8日
日蓮が佐渡流罪中に佐渡始顕本尊(さどしけんのほんぞん)を図顕した。
(6)日蓮身延入山。文永11(西暦1274)年5月17日
幽閉と思われる。
(6)元寇 文永11(西暦1274)年10月5日
日蓮は蒙古調伏の祈祷を国家からおそらく依頼されず、犯罪者扱いだった。
●疑問点
私が創価学会に在籍した時代だけでなくこの30年で学んでないことは以下のとおり。
「神仏」
「勧請と祈祷」
「祈りは必ず叶う」(幸せがもたらされる、幸せが振りまかれる)
の定義と関係が不透明です。他に結界など場所も。
●各時間軸で日蓮の問題点
まず(1)の時間軸で日蓮の勉強不足が明確になると思います。
歴代天皇の宗教。
歴代天皇の宗教的立場や役割
歴代天皇と「勧請と祈祷」
歴代天皇や日本国民にとって幸せがもたらされたのか
これらの歴史的調査があまりも無さすぎる点が問題です。
真言密教と天台密教の調査も足りてません。現代人から見れば全く足りないです。
日蓮さんの視点では、天皇自身や皇族、公家、政治家などが立場は違えど祈祷を命じたか祈祷師だった可能性がまるきり抜けています。
祈祷の歴史を法隆寺の法華経伝来まで遡るのか、それとも法隆寺開創以後、だんだんと祈祷が広まったのか、東大寺などの本門三戒壇からなのか又は空海さんの金剛峰寺から画期的に祈祷がなされたのか、祈祷の変遷は私もよくわかってません。真言、天台、神道、修験道、他には現代だと念仏系、禅系もあります。念仏は平安期から祈祷があったようです。道元さんも一度祈祷した記録があります。
現代人の我々から見て、持ち物、服装、儀礼、祭壇、一番問題になりそうなのが祈祷の修行内容と達成度合い、読経の祈祷が問題になりそうです。
●天皇と大石寺勅使門と勅願寺
天皇の意思を直接伝える使者のことを勅使と言います。大石寺は勅使門しかありません。今現在、大石寺が勅願寺になったと私は聞いてません。xx僧は維持されているのかもしれませんが。
日本の勅願寺の一覧 - 寺社仏閣 - 施設 - 建物・施設 - 固有名詞の種類
勅願寺 - Wikipedia
>具足山 妙顕寺 (日蓮宗、京都市上京区) - 後醍醐天皇
>建武元年(1334年)には後醍醐天皇より綸旨を賜り勅願寺となり、正式に宗派として公認された。
天皇自身や皇族、公家、政治家などが立場は違えど祈祷を命じた信頼の置けるお寺の祈祷施設や、祈祷僧は歴史の中に多くいたのでは無いでしょうか?
天皇自身や皇族、公家が巫女や神官だった歴史も日蓮さんは見落としていると思います。
天皇、皇族がお寺を建立し初代住職になったケースで日蓮系統だった事例はあるのでしょうか?無いのでは?
にもかかわらず、佐渡以降になりますが天照大神や八幡大菩薩などを法華曼荼羅に勧請した点は私は疑問に思えます。日蓮は痛いやつ、馬鹿な奴としか私は思えません。
五時八教や法華経仏説がただしけれれば日蓮さん学問僧として大正義でよかったのかもしれません。
●日蓮とその後の弟子たちの発言傾向は祈祷僧でなく教理教学の学問僧
日蓮さんは祈祷僧ではなく学問僧だと思われます。
(1)の時間軸とは関係ありませんが補足します。
その後の大石寺の争いや誹謗中傷はひどいです。門流の争い、三鳥日秀らの三鳥派の争い、法主獲得の争いなど、全く祈祷をして仏菩薩を感見して記録して感見記に残せなかったのは大きな大きな大石寺系の失敗だったと思います。
(他に日蓮宗の不受不施派の弾圧など)
日蓮遺文が祈祷僧の言葉ではない指摘の違和感について、ようやく理解出来るでしょうか?
(1)唱法華題目抄(昭和定本)文応元(西暦1260)年五月二十八日
但法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず。
(日蓮遺文には「如来秘密神通之力」などいくつか出てくる。)
日蓮はあくまで法華第一であって、真言密教や天台密教の祈りの叶わない点をいくつも強調しています。
(2)母梅菊の蘇生 文永元(1264)年10月
母梅菊の蘇生を祈祷か末期の水か不明だが母梅菊に与えて、息を吹きかえし更に4年寿命を延ばした伝承がある。
本尊書写などに使う炭を祈祷し水に溶かしたか直接水に祈祷したかは不明。
なお旧人間革命で戸田城聖は法主しか作れないはずの御秘符を受け取った後に更に祈念しています。受け取った御秘符を戸田が祈念した記述について問題あるかないか賛否両論あると思いますが、私は祈祷の破壊だと思います。故・池田大作は気がついてないのか知らないのか人間革命を書いて残しています。
(3)祈雨の祈祷 文永8(西暦1271)年6月ごろ
下山御消息(昭和定本)の記述。
(4)佐渡に流罪 文永8年11月 西暦1271年
(5)初めて法華曼荼羅を図顕 文永10(西暦1273)年7月8日
日蓮が佐渡流罪中に佐渡始顕本尊(さどしけんのほんぞん)を図顕した。
(6)日蓮身延入山。文永11(西暦1274)年5月17日
幽閉と思われる。
(6)元寇 文永11(西暦1274)年10月5日
日蓮は蒙古調伏の祈祷を国家からおそらく依頼されず、犯罪者扱いだった。
●疑問点
私が創価学会に在籍した時代だけでなくこの30年で学んでないことは以下のとおり。
「神仏」
「勧請と祈祷」
「祈りは必ず叶う」(幸せがもたらされる、幸せが振りまかれる)
の定義と関係が不透明です。他に結界など場所も。
●各時間軸で日蓮の問題点
まず(1)の時間軸で日蓮の勉強不足が明確になると思います。
歴代天皇の宗教。
歴代天皇の宗教的立場や役割
歴代天皇と「勧請と祈祷」
歴代天皇や日本国民にとって幸せがもたらされたのか
これらの歴史的調査があまりも無さすぎる点が問題です。
真言密教と天台密教の調査も足りてません。現代人から見れば全く足りないです。
日蓮さんの視点では、天皇自身や皇族、公家、政治家などが立場は違えど祈祷を命じたか祈祷師だった可能性がまるきり抜けています。
祈祷の歴史を法隆寺の法華経伝来まで遡るのか、それとも法隆寺開創以後、だんだんと祈祷が広まったのか、東大寺などの本門三戒壇からなのか又は空海さんの金剛峰寺から画期的に祈祷がなされたのか、祈祷の変遷は私もよくわかってません。真言、天台、神道、修験道、他には現代だと念仏系、禅系もあります。念仏は平安期から祈祷があったようです。道元さんも一度祈祷した記録があります。
現代人の我々から見て、持ち物、服装、儀礼、祭壇、一番問題になりそうなのが祈祷の修行内容と達成度合い、読経の祈祷が問題になりそうです。
●天皇と大石寺勅使門と勅願寺
天皇の意思を直接伝える使者のことを勅使と言います。大石寺は勅使門しかありません。今現在、大石寺が勅願寺になったと私は聞いてません。xx僧は維持されているのかもしれませんが。
日本の勅願寺の一覧 - 寺社仏閣 - 施設 - 建物・施設 - 固有名詞の種類
勅願寺 - Wikipedia
>具足山 妙顕寺 (日蓮宗、京都市上京区) - 後醍醐天皇
>建武元年(1334年)には後醍醐天皇より綸旨を賜り勅願寺となり、正式に宗派として公認された。
天皇自身や皇族、公家、政治家などが立場は違えど祈祷を命じた信頼の置けるお寺の祈祷施設や、祈祷僧は歴史の中に多くいたのでは無いでしょうか?
天皇自身や皇族、公家が巫女や神官だった歴史も日蓮さんは見落としていると思います。
天皇、皇族がお寺を建立し初代住職になったケースで日蓮系統だった事例はあるのでしょうか?無いのでは?
にもかかわらず、佐渡以降になりますが天照大神や八幡大菩薩などを法華曼荼羅に勧請した点は私は疑問に思えます。日蓮は痛いやつ、馬鹿な奴としか私は思えません。
五時八教や法華経仏説がただしけれれば日蓮さん学問僧として大正義でよかったのかもしれません。
●日蓮とその後の弟子たちの発言傾向は祈祷僧でなく教理教学の学問僧
日蓮さんは祈祷僧ではなく学問僧だと思われます。
(1)の時間軸とは関係ありませんが補足します。
その後の大石寺の争いや誹謗中傷はひどいです。門流の争い、三鳥日秀らの三鳥派の争い、法主獲得の争いなど、全く祈祷をして仏菩薩を感見して記録して感見記に残せなかったのは大きな大きな大石寺系の失敗だったと思います。
(他に日蓮宗の不受不施派の弾圧など)
日蓮遺文が祈祷僧の言葉ではない指摘の違和感について、ようやく理解出来るでしょうか?