創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

戦時中に戸田城聖が神札を受け取った「通牒」の画像。(2020年11月1日追記)

2020年10月26日 23時56分07秒 | 創価学会
戦時中に戸田城聖が神札を受け取ったとされる画像があります。

日蓮正宗の信者のサイト
toyoda.tv
toyoda.tv/tutyo.htm

日蓮正宗の信者のサイト
破折情報館 公明党の集団的自衛権容認と戦時中の創価学会

この画像は初めてみました。現物を見たわけでないので本物かは分かりませんが、過去記事で戸田が戦時体制を翼賛していた事実を複数記事にしました。

例えば
「学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと」
で検索すると13000件。
「顧みるに法難の起こる時、必ず外(宗外)に反対宗門の針小棒大告発」あたりで検索すると48件ぐらい見つかります。
「皇大神官の御礼は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること」で検索すると50件ぐらい見つかります。

池田の人間革命の内容は全くの嘘っぱちだったことになります。
また、学会指導として語られる、軍部政府と戦った、とかの数々の美談は全くの嘘になります。

富士宗学要集9巻は所持していたかいなかったか、本が埋もれて分かりません。
富士宗学要集は改版されているので、私の所持する版に記載があると良いのですが。

筆跡が違う、との意見が既にネットにありますが、昭和創価版の御書の盗用剽窃の件を思い出してください。
堀日亨が最終的な執筆、監修したのではなく、O.Jが事実上の最終的な執筆、監修し(盗用)であり、他に学会教学部が後半を盗用剽窃し、全体を堀日亨が書いたことにして名義貸しをしました。
あの高齢と短期間でできるわけがないと思います。

上記URLの画像も筆者は別の誰かで、戸田の名前を借りたのかもしれません。


2020年11月1日
----------<ここから>----------
以下のツイッタースレッドよりご隠居さんのコメントを簡単にして追記。

ご隠居さんさんはTwitterを使っています 「いわゆる「通牒」についての記事。 文字の筆跡云々とあるが、原本は「バリ版刷り」のものなので、当然のことながら戸田城聖の筆跡ではない。 「通牒」は檀徒会ができて間もないころに写真が公表された。 戦時中に戸田城聖が神札を受け取ったとされる画像。」 / Twitter



原本は「ガリ版刷り」なので戸田城聖の筆跡ではないのが当然。
「通牒」は檀徒会ができて間もないころに写真が公表された。
檀徒会が結成されたのは第一次宗門問題の前くらい。

ご隠居さんは、引用先の画像とは違いもう少し程度の良い原本を見た。
原本は紙の周辺は劣化していたが文字部分の欠損などなく、ネット上にモノクロ画像がアップされている方のものだった。
写真やコピー複写も不可だったので、その場で文を書き写し定規でおよそのサイズを測った。
ご隠居さんが昭和51(1976)年10月に、原本を出来るだけ忠実に模写したものを大学祭で展示もした。

それから3、4年後に「通牒」が知られるようになった。
----------<ここまで>----------

以下は話半分で読んでもらえれば良いです。

ちなみに牧口常三郎の妻の牧口クマの証言の伝聞として、
「牧口常三郎が逮捕されたのは戸田の経済統制違反、治安維持法違反だった」(趣旨)と聞いたことがあります。今の段階では噂レベルになってしまいます。
活字の証拠があるのかは分かりません。見つかれば記載したいと思います。

通牒のこと。 - 気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

以上

2020年11月1日 本記事のタイトル一部訂正。
2020年12月1日 通牒のこと。 - 気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆ リンク追記
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祈祷の体験談5

2020年10月24日 06時49分58秒 | 他宗の勧請/祈祷
適切なカテゴリーがないので、一般仏教にした。

前記事からの続き

●ふと思ったこと8

 「ふと思ったこと7」で修行が成功した人も失敗した人も別の修業をしてもいいと思うようになったとかきましたが、オウム真理教の修行に見られる様な危険性を思い出した読者は優秀です。

麻原彰晃(松本智津夫)もインドで修行し不思議体験があったと言われています。最後まで修行することなく帰国し信者にも同等の修行させました。麻原もオウム信者のどちらも彼らの不思議体験を信用する人は皆無だと思います。

私が「祈祷と祈り」を知ることで柔軟に色々修行したほうがいいのか、杓子定規に伝統教団の修行だけに限定するのがいいのかは難しい問題だと考えるようになりました。
修行も祈祷も達成するのに「縁」や個人能力によるところが大きいと考えています。

大乗仏教で「誰でも成仏できる」「誰でも仏性を持つ」は与える言葉として思いやりがあればいいのでしょう。実際は個人の能力次第で達成できるかどうかはわからないのが事実だと思います。

●「祈祷と祈り」の内容や違い

 実はここからが本題です。「祈祷の体験談1」で誰向けの記事か書かなかったのですが、「聖職者がする祈祷と一般信者の祈り」のテーマは婦人部女子部向けだと思います。

創価昭和版日蓮遺文集の盗用剽窃は白黒二極論で説明できます。中間色の無数のグレーはありません。

正しいのか誤りなのか。
墨筆を読んだのか日蓮宗の遺文を盗用剽窃したのか

盗用剽窃は、どちらかといえば男子部壮年部向きで20−70歳くらいの創価員には問題に気がついて脱会してほしいと今でも思います。

「祈祷と祈り」の内容や違いは無数のグレーゾーンだと思うのと、婦人部で悩みや試練を抱えた方が協議会や座談会で決意発表や愚痴、体験談を涙ながらに語る事例が何度もありました。
自身の闘病や家族の問題など様々でした。
それで私には10人位の婦人部員に記憶から離れがたい印象があります。
人を救いたい気持ちや行動は別にして、私はカルト(セクト)言動(仏菩薩の信仰でなく池田信仰)だと思いますが、婦人部が病気や不幸の人を救おうとしていた事実はあります。

ここで問題になるのが、聖職者の祈祷を知らないまま、一般信者がする祈り(唱題)にどんな意味と状況が考えられるのでしょうか?

●胸中題目や早口題目は危険では?

 仕事中でも題目を心の中で「数多く」唱えることが推奨されているのが創価学会です。特に婦人部がそうでした。
創価一世の私でもやっていましたから集中力に問題があったと思います。
病気の時や臨終の時にも、やはり心の中で唱えることが今でも推奨されていると想像します。
十時間唱題も問題かと。

病気の時や臨終の時など、とんでもない苦行になるのでは?
衰え、死にゆく自分に逆らって胸中題目や早口題目をし、絶対に叶う祈祷と勘違いしていると思います。
仏教の基本テーマは涅槃寂静、生老病死を問うのですから、創価の唱題行は疑問に思えます。

題目を唱えることは信仰上悪くありませんが、TPOを無視した脅迫観念や強制観念があるのが問題だと思います。

絶対に叶うなら日蓮さん自身の祈りと祈祷が問題になり、死んだら変です。
絶対に叶うなら弟子の祈りですら問題になり、やはり日蓮さんが死んだら変です。

祈祷と祈りの違いと内容がわからないと本記事や他宗の祈りも祈祷も受け入れられないでしょう。

私の場合、唱題しなくなり十年以上が経過し、祈ってないと駄目だみたいな脅迫観念や強制観念はありません。
聖職者同等な祈祷と祈りの違いを知らず、私の場合は少しだけ内容を分かる程度です。

病気の時や臨終の時など、苦しい時ほど創価学会の教えのまま「呪文として祈り」たいと思えません。
祈祷を知ってより強く思います。
私に他宗でいうところの祈祷の能力はありませんし普通の祈りですが全く構いません。

正宗系以外の他宗における聖職者の祈祷を肯定するあまり、一般信者の祈りを低いとか駄目とか私は思っていませんし否定しません。どちらも其々別々に肯定しているので注意して読んでください。

●祈りが叶わないない場合

 胸中題目、早口題目や仏壇の前での長時間唱題など絶対に祈りが叶う、と正宗系では一般信者に教えています。
しかし実際の創価は男子部女子部の後継者問題や創価班牙城会の崩壊があります。
池田大作の復帰や大石寺登山再開、正宗側の謝罪もありません。

親視点では子供への愛情や幸せな人生の問題がありますが、実際は二世三世からくる相談事は、母親が家事をしない、家族サービスがない等、子供視点からの愛情と時間の不足が明確です。過去記事で何度も書いてきたとおりです。

祈りがかなってないと周囲に責任転嫁、他人嫌悪、憎悪したり絶望したり、自己嫌悪など不安定になったりすると思います。
彼ら自身の教団が善で他宗の修行が悪、彼ら自身の題目が善で意見の違う人は全て悪ですからね。

日蓮宗の題目結縁運動の「縁」や感謝の教えがあればいいのでしょうし「縁」は「一度だけの唱題でも成仏でき救われますよ」くらい「羽のように軽い」といいのでしょう。

法華経や日蓮遺文に仏の教えと書かれてますが、実際は間違いだらけです。
法華経や日蓮遺文は仏の教えを少しは含んでいますが、日蓮さんの「他人を責める強さと信者への優しさ」は現代人が勘違いしてはいけないと思います。

私の場合、祈祷を受けるか祈祷を通しTPO範囲で「他人に厳しく」なんて経験、教え、発想、アドバイス、会話等は皆無です。

●祈祷の有無に関係なくアドバイスなどに正反対でも全く不愉快さがない

 祈祷のある場合とない場合でアドバイス、会話などに私と別の信者さんで正反対でも、全く不愉快さはありません。むしろ信者各人の状況や性格をよく見て個々に的確で驚きました。
教えの自由とか信仰の自由とか柔軟である等、そうした言葉では片付けられない体験です。

正反対について、宗教の「教え」まで含めて良いかは私自身わかっていません。
私のレベルが上がれば「教え」のレベルが上がることはあるかもしれませんが。

●正宗系信者を親にもつ子供の場合

 正宗系信者を親にもつ子供が臨終時の題目をやめさせるのは難しい問題です。
老人になってから「長時間唱題など絶対に祈りが叶う」を変えるのは無理で出来るだけ若い間しかチャンスは無いかもしれません。

●正宗系信者を夫婦恋人にもつパートナーの場合

 正宗系信者を夫婦恋人にもつパートナーが臨終時の題目をやめさせるのは、信者が若ければ若いほどチャンスが多いかもしれません。

オウム真理教の死刑囚は「どうしてこんな(犯罪し死刑にされる)事になったのかわからない」(趣旨)と。

私も昔は「どうして創価や正宗に入信する失敗をしたのか」と退会後ずいぶんと考えました。答えはブログの「もくじ1、2、3」の頃に既に出ているのにもかかわらず、です。
十時間唱題などの祈りや信仰活動や教団活動に必死だったり真剣だった分、結果として怒りの文章やブログ文章が増えたわけです。

明確に後悔できればまだマシです。「どうしてこんな事(今の状況)になったのかわからない」「信仰や人生など一体何だったのか」と思うのは十分にマインドコントロールが抜けてないかもしれません。

●祈祷をテーマに脱カルトの説得したいと思わない不思議さ。

 私の場合、祈祷を知ったことで創価員など正宗系の人に「祈祷については脱カルトの説得材料にならない」と考えています。今後も考えが変わらないと思います。

今までは、日蓮宗や神道、キリスト教、他宗などで学んだ新しい知識や体験は脱カルトの説得材料になりましたが「祈祷にだけは絶対に伝わらない」と思っています。
「祈祷の体験談1」で書いたとおり説得力がないと思っています。

1.正宗系は宗教一般な、お導き、おはからい、E−1、おまかせの教えやテーマが皆無。
1.正宗系はお導き、おはからい、E−1、おまかせに関し創価は「僧侶はいらない」正宗は「祈祷を軽視か出来ない、教えられない」等の根本的な問題を抱え、更に認知出来ないか認知しない。
1.日蓮遺文のお導き、おはからい、E−2を無視。(導師本尊や勤行の導師など導師のテーマはあるが不祥事ありきや喧嘩しかしてない)
1.導き以前の大問題がある。具体的に書きませんが、これが一番の問題かな。

あっちにもこっちも問題が多数あって正宗系は4つ以外に他に15くらい問題あるかも?数えるのもめんどくさい。創価学会だと(お導き、おはからい、E−2以外に)更に数々の日蓮遺文の無視もあります。

2.布教は聖職者がすべき。信者もしていいだけであって私は紹介すらしません。体験談を具体的に書く気はありません。
2.自分で祈祷出来ない。
2.自分で一生懸命、(正宗創価時代の様な)教団活動する気がない。一般的で十分。無宗教というより自由宗教教団のまま、他宗や無宗教の人と信仰以外で仲良くするほうが大事。

説得に困っているわけでもなく「祈祷については諦めて」います。

細井日達さんの本弟子(5人?)の中に祈祷僧がいるかも知れませんが、こちらから会いたいと思いません。

●5のまとめ

婦人部女子部向けに書いたつもりですが、仏教学の難しい単語はなくとも祈祷で理解を得るのは無理そうです。
富士門流信徒BBS(http://jbbs.shitaraba.net/study/364/)が存在しても創価の男子部壮年部だけでなく正宗系信者が日蓮宗に行ってません。
私の一連の記事は日蓮宗の祈祷体験ですらないので無理ですね。

(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祈祷の体験談4

2020年10月05日 00時09分40秒 | 他宗の勧請/祈祷
適切なカテゴリーがないので、一般仏教にした。

前記事からの続き

●日蓮さんの不動愛染感見記

 私は日蓮さんの不動愛染感見記や本尊の不動愛染を理由に勧請出来たと考えています。
ブログ読者にとって話1/100で受け取ってもらって構いません。

行道文庫版 此経難持十三箇秘訣(しきょうなんじじゅうさんかひけつ 原漢文 創価全集には無い。偽書と言われてますが、日蓮か日蓮以外の誰かの思想が成立している。)
----------<ここから>----------
一には諸仏勧請(若暫○亦然の三句の文)なり、二には諸天勧請、三には諸神勧請
勧請し奉る五百塵点劫霊山浄土の釈迦牟尼如来
勧請し奉る五百塵点本地地涌の上行菩薩已上執受戒師
勧請し奉る本化迹化等の諸大菩薩
(中略)
勧請し奉る日月五星の諸天善神
勧請し奉る日本国中の諸大明神
勧請し奉る十方分身諸の釈迦牟尼仏
勧請し奉る十方常住一切の三宝衆僧
----------<ここまで>----------

「祈祷」と書き残されている日蓮遺文は多くあり「勧請」は少ないです。それぞれが書かれている遺文は真筆、真偽未決、偽書濃厚、他筆、偽書と色々あるようです。私個人は「勧請・祈祷」をセットで出来ないと日蓮さんはレベルの低い僧侶だったのでは?と疑ってしまいます。

●日蓮さんが不動愛染、或いは仏菩薩を勧請出来たと仮定します。

 どの程度の成功率だったのでしょうか?

(a)81-100%
(b)61-80%
(c)41-60%
(d)21-40%
(e)0-20%

良観忍性との祈雨対決_高橋俊隆

1271年(文永8年)鎌倉幕府は良寛房忍性に雨乞いの祈祷を命じ雨乞祈祷比べは日蓮さんが祈雨に成功したようです。
「下山御消息」五大部にあるのは祈祷を重視し、その成功が主な理由なのでしょうか?

「下山御消息」
定本番号:247 日蓮:56歳 系年:建治3(1277) 著作地:身延 真蹟:小湊 誕生寺外二十九ヶ所 写本:日法筆 岡宮光長寺蔵 日澄筆 北山本門寺蔵 (c)日蓮宗電子聖典

実際は法華系も念仏系もお釈迦さんから見れば新興宗教で仏教において100%正確では無く一連の出来事は関係妄想、被害妄想、醜い人間の争いだったと私は思います。読者がどう思うかは自由です。

願いをかなえる祈祷に僧侶は必要で儀式、作法、儀礼は必要だと思われます。
創価学会の場合、大聖人の弟子とは言えない為か大聖人直結と言い換え実際は民衆仏法と嘘を教えていることになります。

●ふと思ったこと3

 鎌倉幕府は良寛房忍性に雨乞いの祈祷を命じ雨乞祈祷比べをしていますから、天皇家、皇族の皆様は、更に一流の祈祷僧、護持僧を必要としたでしょう。
鎌倉時代でも祈祷出来ない学僧(沙弥など)なら沢山いたと想像します。祈祷出来ない学僧なら不要かと。
(祈祷僧や護持僧が見仏してないとは思えない。祈祷僧は見仏していると勝手に想像。)

日蓮遺文によれば、念仏に多くの祈祷僧、護持僧がいたが実力は別で不明で、どの程度の成功率だったかはわかりません。

●ふと思ったこと4

 祈祷出来る出来ないで信仰する教団や師弟など上下関係が決まるのであれば真言密教系の多くが分派するのは自然に思えるようになりました。
師匠より弟子が祈祷出来るなら免許皆伝みたいに分派したほうが何かとやりやすいのは当たり前です。

日蓮宗に祈祷題目は残っており、正宗にも護持僧、祈祷僧がいるのかもしれません。

●ふと思ったこと5

 「祈祷出来ない学僧がいたであろう推測」同時に「師匠より弟子が祈祷出来るなら分派し経営したが良い」と書きました。
 私の体験からの想像でしかありませんので断言出来ませんが、祈祷を知ると神仏への信仰が深まり不幸を生む上下関係や横の同僚の思想的対立は起こりにくいと考えます。

民部阿闍梨日向vs五老僧だったのがいつの間にやら日興vs五老僧になってしまっています。
これと祈祷が理由でなく信仰の思想や本尊取り扱いなど作法儀礼が問題になって対立するのは大きな疑問に思えるようになりました。

日蓮死後すぐに日興vs五老僧が本当なら日蓮さんの祈祷能力が疑わしく思えてしまいます。
日蓮さんが題目三唱したら、苦労せず偶然雨が降って弟子達は馬鹿馬鹿しいと思ったかもよ?(笑)
日興と五老僧の祈祷能力に関する遺文はあるのでしょうか?

日興門流が早くから祈祷僧が断絶し祈祷が出来なくて、教理教学上の思想や本尊取り扱いなどを問題にした一面はないのでしょうか?

●ふと思ったこと6

 日興大石寺門流に過去あったこと。
-------
大石寺が火災で二度全焼。
日寛が日蓮本仏論を書いてしまう。
大正14年11月18日、五十八世日柱が丑寅勤行をしていた客殿に一人の宗会議員がピストル発射。日顕の父親、日開が黒幕とされる
日開は戸田城聖に大きな額縁に入る書を送っており、創価学会が出版した戸田城聖記念写真集(オレンジ色の電子レンジ大の巨大な写真集)に写真が掲載されています。
第一次二次宗門問題など。
創価本部が創価学会仏を再度、説いてしまう。他多数。
-------

日興門流が早くから祈祷出来なくて仏が来ないか、しらないのだと私個人は勝手に想像しました。
皆さんがどう思うかは自由です。
祈祷出来ず仏をしらず仏事でなく人事しかなければ、法主であろうと坊さんであろうとも不要人や唯人としか思えません。
役職の上下関係に関係なく逆らいたくなるかもです。

第二次宗門問題で大御本尊を拝めず、功徳(ご利益)を受けられるかどうかの問題は多くの人が語りました。
しかし仏教と神道における祈祷と神仏の基本や一般知識すら全く正宗系にない為、誰も「争いを防ぐか押さえる手段としての祈祷とその関連を重視しなかった」点が原因とも考えられます。
顕正会を追い出す結果を招いた細井日達さん、阿部日顕と池田大作、その周辺の人々は仏が来ないか、しらない、いないと思うので問題言動をして仏罰が怖くないのでしょう。

なるほど、日蓮本仏論や創価学会仏論が必要になるわけだと思いました。
池田創価は日蓮さんの不動愛染感見記は偽書でないと困るでしょう。

●ふと思ったこと7

 しばらく前まで、日蓮宗の死者が出るような荒行は日蓮が行ったものでは無く止めるべきと考えていました。
今でも日蓮宗の荒行は日蓮が行ってないと思いますが現代の修行方法として死者が出なければありと考えるようになりました。
荒行成功した人も失敗した人も別の修業をしてもいいと思うようになりました。
なんの根拠もありませんが。

今まで通り、座禅も日蓮遺文、教典などの文字の世界も日蓮、真言の曼荼羅等のアイテム、他に神道、キリスト教など馬鹿にする気はありません。
正宗系は批判されても仕方ないでしょう。

(続く)

2020年10月5日
2021年4月11日 文章を修正した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする