適切なカテゴリーがないので、一般仏教にした。
前記事からの続き
●勧請の神仏の数
日蓮系でない他宗における私の祈祷体験であり尚且私の考えでしかありませんが、勧請の神仏は一つでも2つでも多数でも構わないと思うようになりました。
1.呼んだ神仏が来て下さる場合もある。
2.思いがけない神仏が来て下さる場合もある。
3.複数来る場合もある。
こうしたことを素直に喜べばいいと考え、特に一般信者の場合はそう思います。
来迎した仏の数が一つでも10でも一般信者は喜べばいい発想でしかありませんが。
私の創価員時代、朝の勤行をすれば諸天善神が(全て?)守るとか同生天、同名天など複数の諸天善神の守護がある、と教えられ妄想はしていました。
実際は、全く守られていなかったかもしれません。何一つ願いが叶わなかったからです。
実際は私は聖職者でなはく僧侶の修行や儀礼もないにもかかわらず諸天善神が来る、又は守ると考えていました。
一般信者が神仏勧請を願っても構いませんし幸福体験があっても構わないと思います。
ただし僧侶の修行や儀礼を考慮し、一般信者でもできそうな場所や結界、人、供え物等は配慮すべき問題になると思います。
●勧請と追い出し、来るな、又は大石寺へ行くな
この項目は過去記事と部分的に重なりますが祈祷体験したことで以下のように変化し正宗系のあり方をより強く否定する結果です。
曼荼羅の多角的な用途は富士門流信徒掲示板や犀角独歩さんのブログが詳しいです。
私の祈祷体験であり尚且私の考えでしかありませんが、神仏を勧請できていれば「出て行け」「誰々を追い出してスッキリした」「誰々を追い出すのは正義!勝った」とはありえないと思います。
「た行の言葉(Fー1)、た行以外の別の言葉(Fー2)」の要素を考えた上で勧請とは何か?を考えると一方で要素F群「来て下さい」もう一方で要素F群といえる「来るな。出て行け」は矛盾します。
第二次宗門問題で「広宣流布しているのは創価学会(創価員の集まり)であり坊さんが折伏したのではない」との批判は視野の狭い正解といえるかもしれません。
「お導き、おはからい、Eー1」勧請、祈祷を双方全くわかっていません。これらの議論や創価、正宗間で議論は一切なかったと思います。
あれば教えて下さい。第二次宗門問題当時の資料と共に追記します。
●要素F群や祈祷を知らないと彼らは【恐ろしいことをした】と思考不可能
私の祈祷体験でしかありませんが、一部願いはかなっています。後述するかも。
今の気持ちを率直に書くと
「今の私の祈りのレベルや良し悪しは客観的に評価できませんが要素BやCさんに感謝し出会えてよかった、ありがたい。」と思います。
「正宗、創価員時代の布教、選挙活動、新聞啓蒙は嘘や過ちの押し付け嫌がらせであり申し訳ない。」
「祈祷の理屈も見聞体験も幸福体験も祈ってない予想外の不思議な吉事」を知ることで、私は改めて要素F群に対し支離滅裂なカルト宗教言動をした訳ですから、なんて【恐ろしいことをした】のかと思います。
正宗トップが【恐ろしいことをした】と考え若手僧侶や信者に伝達出来ないのですから中間者として失格ですし、下が思うはずがありません。創価も同じです。
●脱カルトの説得を諦める結果
祈祷の体験を色々書いていますが、正宗系の人は「祈祷の理屈も見聞体験も幸福体験も祈ってない予想外の不思議な吉事」も知りません。
再度書きますが、祈祷の体験談シリーズに他宗(彼らにとって邪宗)体験に意味がないのは当然だと思います。
【恐ろしいことをした】とは正宗系の人は今後も認識不可能でしょうから変わらないと思います。
祈祷を知ることで私の宗教学問と体験のレベルが上がり脱カルトの説得を諦める結果になってしまいました。
普通は、というか今までは新しい経験や知識は脱カルトに有用でしたが逆の結果になっています。
婦人部女子部向けに文章を書いていましたが祈祷の体験談シリーズから考え方の落差の大きさを考えると根本的に無理そうです。
祈祷もお導きもおはからいもE−1もF−1も根本であるのにもかかわらず残念です。
●私の戯言なので根拠ないです。
来迎した仏の数が一つでも10でも一般信者は喜べばいいと書きました。
日蓮さんの曼荼羅の中で記載(日蓮曼荼羅に神仏名を記載することを日蓮系では勧請という。)が少ない仏菩薩や諸天善神がいます。
祈祷の体験からマイナーな仏菩薩や諸天善神でも、ありがたく拝めばいいと考えるようになりました。
メジャーな仏菩薩を軽視しろ、と言っているのではありません。
祈祷を知らないと本記事の内容も不明かもしれませんがTPOやケースバイケースでいいと思うだけです。
参考資料 川島 清秀「宝劔 日蓮大聖人の教義」P63以降に勧請した神仏の星取表があります。
サムネイル画像
諸天善神など記載数が少ない為、我々現代人から見て仏菩薩や諸天善神を日蓮さんが軽視したのでは?と考え余計にマイナーに見えるのかもしれません。
しかし、実際は信者さんが土地や先祖の縁から希望した仏菩薩や諸天善神だったかもしれません。
これは日蓮さんのFor youな慈悲だったのかもしれません。
遠沾院日亨(おんでんいんにちこう:正保3年(1646年)〜享保6年12月26日(1722年2月11日))は身延系僧侶。日蓮さんの真筆曼荼羅を書写しています。真筆の曼荼羅は焼失。
参考資料 藤井 教公「御本尊鑑 遠沾院日亨上人」
「御本尊鑑 遠沾院日亨上人」を60分ほど見てみましたが残念ながら、仏菩薩や諸天善神は活字化されていませんでした。
ここにも記載(曼荼羅に書くことを意味する勧請)が少ない仏菩薩や諸天善神がいるかもしれません。
我こそはと思う人は調べて記載が少ない仏菩薩や諸天善神をピックアップしては如何ですか?
日蓮さんのFor youな慈悲の裏付けになるかもしれません。曼荼羅の着地と土地神が一致すれば私の仮説(妄想)が当たるかも?いなかったらごめんなさい(笑)
日蓮さんの曼荼羅で記載数が少ないか記載しなかった神仏を軽視する考えは大きく間違っていると考えます。例えば天皇家の神道伝説の反逆になるからです。勧請がどういうことか考えればわかります。
(おぼろげな記憶ですが、日蓮さんが記載しなかった神仏(諸天善神)を日蓮宗含む日蓮門下で記載した僧侶が多く居たはずです。)
最も尊いはずの法華経が一部の神仏しか認められないのは、実に貧しい考え方かと思います。
神仏側からみて邪悪か低級神仏扱いされ祈祷も出来ないか知らない信者に「不要と言われる」訳ですから滑稽です。
各々の仏菩薩、諸天善神が居て一般人(衆生)が受戒得度し僧侶(日蓮さんや現代僧侶)となり修行、勧請、見仏等々、本尊の顕顕や書写、唱題など(戒律、儀式、儀礼)、祈祷(祈念)となります。その後になってようやく一般信者が祈祷を受け本尊を受け取る等々の順序があるのに正宗系の本尊の喧嘩や屁理屈は滅茶苦茶だと個人的に考えます。
藤井 教公「御本尊鑑 遠沾院日亨上人」 P24 第十二 胎蔵界金剛界大日等ノ御勧請
信仰のレベルや仏菩薩の違いによって行く先の浄土が異なります。
釈迦仏は霊山浄土ですが、各々の仏菩薩、胎蔵界金剛界大日如来も釈迦仏が存在する霊山浄土でいいのでしょうか?我々の娑婆世界に来てくださるのですから、仏菩薩(大日如来も)は自由自在に何処でも行けると解釈可能ですが、修行中の菩薩、如来がお釈迦さんのところへ行って良いのでしょうか?
成仏や悟りを本当に達成できたのはお釈迦さん一人だけ、との思想もあります。
池田のアンポンタンによれば「仏法は厳しい」のでしたね。w
8終。
(続く)
2020年11月23日 追記修正
前記事からの続き
●勧請の神仏の数
日蓮系でない他宗における私の祈祷体験であり尚且私の考えでしかありませんが、勧請の神仏は一つでも2つでも多数でも構わないと思うようになりました。
1.呼んだ神仏が来て下さる場合もある。
2.思いがけない神仏が来て下さる場合もある。
3.複数来る場合もある。
こうしたことを素直に喜べばいいと考え、特に一般信者の場合はそう思います。
来迎した仏の数が一つでも10でも一般信者は喜べばいい発想でしかありませんが。
私の創価員時代、朝の勤行をすれば諸天善神が(全て?)守るとか同生天、同名天など複数の諸天善神の守護がある、と教えられ妄想はしていました。
実際は、全く守られていなかったかもしれません。何一つ願いが叶わなかったからです。
実際は私は聖職者でなはく僧侶の修行や儀礼もないにもかかわらず諸天善神が来る、又は守ると考えていました。
一般信者が神仏勧請を願っても構いませんし幸福体験があっても構わないと思います。
ただし僧侶の修行や儀礼を考慮し、一般信者でもできそうな場所や結界、人、供え物等は配慮すべき問題になると思います。
●勧請と追い出し、来るな、又は大石寺へ行くな
この項目は過去記事と部分的に重なりますが祈祷体験したことで以下のように変化し正宗系のあり方をより強く否定する結果です。
曼荼羅の多角的な用途は富士門流信徒掲示板や犀角独歩さんのブログが詳しいです。
私の祈祷体験であり尚且私の考えでしかありませんが、神仏を勧請できていれば「出て行け」「誰々を追い出してスッキリした」「誰々を追い出すのは正義!勝った」とはありえないと思います。
「た行の言葉(Fー1)、た行以外の別の言葉(Fー2)」の要素を考えた上で勧請とは何か?を考えると一方で要素F群「来て下さい」もう一方で要素F群といえる「来るな。出て行け」は矛盾します。
第二次宗門問題で「広宣流布しているのは創価学会(創価員の集まり)であり坊さんが折伏したのではない」との批判は視野の狭い正解といえるかもしれません。
「お導き、おはからい、Eー1」勧請、祈祷を双方全くわかっていません。これらの議論や創価、正宗間で議論は一切なかったと思います。
あれば教えて下さい。第二次宗門問題当時の資料と共に追記します。
●要素F群や祈祷を知らないと彼らは【恐ろしいことをした】と思考不可能
私の祈祷体験でしかありませんが、一部願いはかなっています。後述するかも。
今の気持ちを率直に書くと
「今の私の祈りのレベルや良し悪しは客観的に評価できませんが要素BやCさんに感謝し出会えてよかった、ありがたい。」と思います。
「正宗、創価員時代の布教、選挙活動、新聞啓蒙は嘘や過ちの押し付け嫌がらせであり申し訳ない。」
「祈祷の理屈も見聞体験も幸福体験も祈ってない予想外の不思議な吉事」を知ることで、私は改めて要素F群に対し支離滅裂なカルト宗教言動をした訳ですから、なんて【恐ろしいことをした】のかと思います。
正宗トップが【恐ろしいことをした】と考え若手僧侶や信者に伝達出来ないのですから中間者として失格ですし、下が思うはずがありません。創価も同じです。
●脱カルトの説得を諦める結果
祈祷の体験を色々書いていますが、正宗系の人は「祈祷の理屈も見聞体験も幸福体験も祈ってない予想外の不思議な吉事」も知りません。
再度書きますが、祈祷の体験談シリーズに他宗(彼らにとって邪宗)体験に意味がないのは当然だと思います。
【恐ろしいことをした】とは正宗系の人は今後も認識不可能でしょうから変わらないと思います。
祈祷を知ることで私の宗教学問と体験のレベルが上がり脱カルトの説得を諦める結果になってしまいました。
普通は、というか今までは新しい経験や知識は脱カルトに有用でしたが逆の結果になっています。
婦人部女子部向けに文章を書いていましたが祈祷の体験談シリーズから考え方の落差の大きさを考えると根本的に無理そうです。
祈祷もお導きもおはからいもE−1もF−1も根本であるのにもかかわらず残念です。
●私の戯言なので根拠ないです。
来迎した仏の数が一つでも10でも一般信者は喜べばいいと書きました。
日蓮さんの曼荼羅の中で記載(日蓮曼荼羅に神仏名を記載することを日蓮系では勧請という。)が少ない仏菩薩や諸天善神がいます。
祈祷の体験からマイナーな仏菩薩や諸天善神でも、ありがたく拝めばいいと考えるようになりました。
メジャーな仏菩薩を軽視しろ、と言っているのではありません。
祈祷を知らないと本記事の内容も不明かもしれませんがTPOやケースバイケースでいいと思うだけです。
参考資料 川島 清秀「宝劔 日蓮大聖人の教義」P63以降に勧請した神仏の星取表があります。
サムネイル画像
諸天善神など記載数が少ない為、我々現代人から見て仏菩薩や諸天善神を日蓮さんが軽視したのでは?と考え余計にマイナーに見えるのかもしれません。
しかし、実際は信者さんが土地や先祖の縁から希望した仏菩薩や諸天善神だったかもしれません。
これは日蓮さんのFor youな慈悲だったのかもしれません。
遠沾院日亨(おんでんいんにちこう:正保3年(1646年)〜享保6年12月26日(1722年2月11日))は身延系僧侶。日蓮さんの真筆曼荼羅を書写しています。真筆の曼荼羅は焼失。
参考資料 藤井 教公「御本尊鑑 遠沾院日亨上人」
「御本尊鑑 遠沾院日亨上人」を60分ほど見てみましたが残念ながら、仏菩薩や諸天善神は活字化されていませんでした。
ここにも記載(曼荼羅に書くことを意味する勧請)が少ない仏菩薩や諸天善神がいるかもしれません。
我こそはと思う人は調べて記載が少ない仏菩薩や諸天善神をピックアップしては如何ですか?
日蓮さんのFor youな慈悲の裏付けになるかもしれません。曼荼羅の着地と土地神が一致すれば私の仮説(妄想)が当たるかも?いなかったらごめんなさい(笑)
日蓮さんの曼荼羅で記載数が少ないか記載しなかった神仏を軽視する考えは大きく間違っていると考えます。例えば天皇家の神道伝説の反逆になるからです。勧請がどういうことか考えればわかります。
(おぼろげな記憶ですが、日蓮さんが記載しなかった神仏(諸天善神)を日蓮宗含む日蓮門下で記載した僧侶が多く居たはずです。)
最も尊いはずの法華経が一部の神仏しか認められないのは、実に貧しい考え方かと思います。
神仏側からみて邪悪か低級神仏扱いされ祈祷も出来ないか知らない信者に「不要と言われる」訳ですから滑稽です。
各々の仏菩薩、諸天善神が居て一般人(衆生)が受戒得度し僧侶(日蓮さんや現代僧侶)となり修行、勧請、見仏等々、本尊の顕顕や書写、唱題など(戒律、儀式、儀礼)、祈祷(祈念)となります。その後になってようやく一般信者が祈祷を受け本尊を受け取る等々の順序があるのに正宗系の本尊の喧嘩や屁理屈は滅茶苦茶だと個人的に考えます。
藤井 教公「御本尊鑑 遠沾院日亨上人」 P24 第十二 胎蔵界金剛界大日等ノ御勧請
信仰のレベルや仏菩薩の違いによって行く先の浄土が異なります。
釈迦仏は霊山浄土ですが、各々の仏菩薩、胎蔵界金剛界大日如来も釈迦仏が存在する霊山浄土でいいのでしょうか?我々の娑婆世界に来てくださるのですから、仏菩薩(大日如来も)は自由自在に何処でも行けると解釈可能ですが、修行中の菩薩、如来がお釈迦さんのところへ行って良いのでしょうか?
成仏や悟りを本当に達成できたのはお釈迦さん一人だけ、との思想もあります。
池田のアンポンタンによれば「仏法は厳しい」のでしたね。w
8終。
(続く)
2020年11月23日 追記修正