創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

祈祷の体験談8

2020年11月21日 23時59分45秒 | 他宗の勧請/祈祷
適切なカテゴリーがないので、一般仏教にした。

前記事からの続き

●勧請の神仏の数

 日蓮系でない他宗における私の祈祷体験であり尚且私の考えでしかありませんが、勧請の神仏は一つでも2つでも多数でも構わないと思うようになりました。

1.呼んだ神仏が来て下さる場合もある。
2.思いがけない神仏が来て下さる場合もある。
3.複数来る場合もある。

こうしたことを素直に喜べばいいと考え、特に一般信者の場合はそう思います。
来迎した仏の数が一つでも10でも一般信者は喜べばいい発想でしかありませんが。

私の創価員時代、朝の勤行をすれば諸天善神が(全て?)守るとか同生天、同名天など複数の諸天善神の守護がある、と教えられ妄想はしていました。
実際は、全く守られていなかったかもしれません。何一つ願いが叶わなかったからです。

実際は私は聖職者でなはく僧侶の修行や儀礼もないにもかかわらず諸天善神が来る、又は守ると考えていました。
一般信者が神仏勧請を願っても構いませんし幸福体験があっても構わないと思います。
ただし僧侶の修行や儀礼を考慮し、一般信者でもできそうな場所や結界、人、供え物等は配慮すべき問題になると思います。

●勧請と追い出し、来るな、又は大石寺へ行くな

 この項目は過去記事と部分的に重なりますが祈祷体験したことで以下のように変化し正宗系のあり方をより強く否定する結果です。

 曼荼羅の多角的な用途は富士門流信徒掲示板や犀角独歩さんのブログが詳しいです。

私の祈祷体験であり尚且私の考えでしかありませんが、神仏を勧請できていれば「出て行け」「誰々を追い出してスッキリした」「誰々を追い出すのは正義!勝った」とはありえないと思います。

「た行の言葉(Fー1)、た行以外の別の言葉(Fー2)」の要素を考えた上で勧請とは何か?を考えると一方で要素F群「来て下さい」もう一方で要素F群といえる「来るな。出て行け」は矛盾します。

 第二次宗門問題で「広宣流布しているのは創価学会(創価員の集まり)であり坊さんが折伏したのではない」との批判は視野の狭い正解といえるかもしれません。
「お導き、おはからい、Eー1」勧請、祈祷を双方全くわかっていません。これらの議論や創価、正宗間で議論は一切なかったと思います。
あれば教えて下さい。第二次宗門問題当時の資料と共に追記します。

●要素F群や祈祷を知らないと彼らは【恐ろしいことをした】と思考不可能

 私の祈祷体験でしかありませんが、一部願いはかなっています。後述するかも。

今の気持ちを率直に書くと
「今の私の祈りのレベルや良し悪しは客観的に評価できませんが要素BやCさんに感謝し出会えてよかった、ありがたい。」と思います。
「正宗、創価員時代の布教、選挙活動、新聞啓蒙は嘘や過ちの押し付け嫌がらせであり申し訳ない。」
「祈祷の理屈も見聞体験も幸福体験も祈ってない予想外の不思議な吉事」を知ることで、私は改めて要素F群に対し支離滅裂なカルト宗教言動をした訳ですから、なんて【恐ろしいことをした】のかと思います。

正宗トップが【恐ろしいことをした】と考え若手僧侶や信者に伝達出来ないのですから中間者として失格ですし、下が思うはずがありません。創価も同じです。

●脱カルトの説得を諦める結果

 祈祷の体験を色々書いていますが、正宗系の人は「祈祷の理屈も見聞体験も幸福体験も祈ってない予想外の不思議な吉事」も知りません。
再度書きますが、祈祷の体験談シリーズに他宗(彼らにとって邪宗)体験に意味がないのは当然だと思います。
【恐ろしいことをした】とは正宗系の人は今後も認識不可能でしょうから変わらないと思います。

祈祷を知ることで私の宗教学問と体験のレベルが上がり脱カルトの説得を諦める結果になってしまいました。
普通は、というか今までは新しい経験や知識は脱カルトに有用でしたが逆の結果になっています。
婦人部女子部向けに文章を書いていましたが祈祷の体験談シリーズから考え方の落差の大きさを考えると根本的に無理そうです。
祈祷もお導きもおはからいもE−1もF−1も根本であるのにもかかわらず残念です。

●私の戯言なので根拠ないです。

 来迎した仏の数が一つでも10でも一般信者は喜べばいいと書きました。
日蓮さんの曼荼羅の中で記載(日蓮曼荼羅に神仏名を記載することを日蓮系では勧請という。)が少ない仏菩薩や諸天善神がいます。
祈祷の体験からマイナーな仏菩薩や諸天善神でも、ありがたく拝めばいいと考えるようになりました。
メジャーな仏菩薩を軽視しろ、と言っているのではありません。
祈祷を知らないと本記事の内容も不明かもしれませんがTPOやケースバイケースでいいと思うだけです。

参考資料 川島 清秀「宝劔 日蓮大聖人の教義」P63以降に勧請した神仏の星取表があります。

サムネイル画像




諸天善神など記載数が少ない為、我々現代人から見て仏菩薩や諸天善神を日蓮さんが軽視したのでは?と考え余計にマイナーに見えるのかもしれません。
しかし、実際は信者さんが土地や先祖の縁から希望した仏菩薩や諸天善神だったかもしれません。
これは日蓮さんのFor youな慈悲だったのかもしれません。

遠沾院日亨(おんでんいんにちこう:正保3年(1646年)〜享保6年12月26日(1722年2月11日))は身延系僧侶。日蓮さんの真筆曼荼羅を書写しています。真筆の曼荼羅は焼失。

参考資料 藤井 教公「御本尊鑑 遠沾院日亨上人」

「御本尊鑑 遠沾院日亨上人」を60分ほど見てみましたが残念ながら、仏菩薩や諸天善神は活字化されていませんでした。
ここにも記載(曼荼羅に書くことを意味する勧請)が少ない仏菩薩や諸天善神がいるかもしれません。
我こそはと思う人は調べて記載が少ない仏菩薩や諸天善神をピックアップしては如何ですか?

日蓮さんのFor youな慈悲の裏付けになるかもしれません。曼荼羅の着地と土地神が一致すれば私の仮説(妄想)が当たるかも?いなかったらごめんなさい(笑)

日蓮さんの曼荼羅で記載数が少ないか記載しなかった神仏を軽視する考えは大きく間違っていると考えます。例えば天皇家の神道伝説の反逆になるからです。勧請がどういうことか考えればわかります。

(おぼろげな記憶ですが、日蓮さんが記載しなかった神仏(諸天善神)を日蓮宗含む日蓮門下で記載した僧侶が多く居たはずです。)

最も尊いはずの法華経が一部の神仏しか認められないのは、実に貧しい考え方かと思います。
神仏側からみて邪悪か低級神仏扱いされ祈祷も出来ないか知らない信者に「不要と言われる」訳ですから滑稽です。

各々の仏菩薩、諸天善神が居て一般人(衆生)が受戒得度し僧侶(日蓮さんや現代僧侶)となり修行、勧請、見仏等々、本尊の顕顕や書写、唱題など(戒律、儀式、儀礼)、祈祷(祈念)となります。その後になってようやく一般信者が祈祷を受け本尊を受け取る等々の順序があるのに正宗系の本尊の喧嘩や屁理屈は滅茶苦茶だと個人的に考えます。

藤井 教公「御本尊鑑 遠沾院日亨上人」 P24 第十二 胎蔵界金剛界大日等ノ御勧請


信仰のレベルや仏菩薩の違いによって行く先の浄土が異なります。
釈迦仏は霊山浄土ですが、各々の仏菩薩、胎蔵界金剛界大日如来も釈迦仏が存在する霊山浄土でいいのでしょうか?我々の娑婆世界に来てくださるのですから、仏菩薩(大日如来も)は自由自在に何処でも行けると解釈可能ですが、修行中の菩薩、如来がお釈迦さんのところへ行って良いのでしょうか?
成仏や悟りを本当に達成できたのはお釈迦さん一人だけ、との思想もあります。
池田のアンポンタンによれば「仏法は厳しい」のでしたね。w

8終。

(続く)

2020年11月23日 追記修正
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祈祷の体験談7(補足)

2020年11月12日 07時32分18秒 | 他宗の勧請/祈祷
適切なカテゴリーがないので、一般仏教にした。

前記事からの続き

●創価学会における、た行の言葉周辺の現代日本語訳1

「日蓮宗の祈祷に関するた行の言葉周辺の現代日本語訳は15件とも全く問題がないように感じた」と書きました。

創価教学研究室 (Tommyのブログ) 稲枝創価学会
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/

創価学会版のた行の言葉周辺の現代日本語訳は五大部十大部を含め多く間違っていました。
創価本部が出した日本語訳が元になっていると思います。確かめるのも、もうめんどくさいですが。
ネットなので、そのうち書き換わるかもしれません。
盗用・剽窃の上、更に現代日本語訳を間違え日蓮さんの「学びの苦労、頑張り、同等と言えないまでも他宗に通じる内容」を台無しにしています。

頭文字がhから始まる遺文名を調べると正しく現代日本語訳されている場合もあります。
つまり不統一があり、重大な問題と言えます。

日蓮に背く読み方をしていると私は思います。

●創価学会における、た行の言葉周辺の現代日本語訳2

https://www.amazon.co.jp/dp/4864502994
日蓮大聖人御書全集 上巻 現代語訳
北川 博通

十大部の一つを見てみましたが、上記URLと同じ間違いをしていました。
それ以上、読む気をなくしました。

●創価学会版 御書全集 戸田城聖の「発刊の辞」

>然るに大聖人唯一の正統であり大権威である日蓮正宗の発刊になる御書全集が皆無に近い現伏であり、やむを得ず巷間流布されている御書に拠っていたが、相伝なき流流・学者等の編纂した書は観心本尊抄を始めその他種種の重要なる御抄に於て大聖人の御真意に叛く読み方をなし

389.学会版御書全集 戸田城聖の「発刊の辞」の酷さと浅井要麟の「感謝の文」 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
https://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/a572927a30177c17fbb9194136e69e0c
より。誤字があったので後で389を修正します。

「大聖人の御真意に叛く読み方をなし」たのは戸田会長と池田会長(名誉会長)だと断言できます。
本記事のテーマは現代語訳だけですが、梵字省略と同じく現代日本語訳するのを無視し更に日蓮さんの意図を捻じ曲げてH−1の言葉に置き換える間違いをしています。

「坊さんは必要ない」と言ってしまった問題とか「池田大作や池田家は最上位の幹部なのに、なぜ祈祷しなかったのか?」とかの問題が浮上します。正宗僧侶も同じことが言えます。

●創価学会版 御書全集を元にした英文版御書

 問題が多いと考えています。大問題だと思います。これが世界広宣流布なんですかね?

●どういうことなのか?

 祈祷に関するた行の言葉(他もあり)周辺の現代日本語訳の間違いはどういうことなのか?

1.祈祷を学んでいないから、現代日本語訳を間違えた。
2.現代日本語訳を間違えたから、祈祷の重要性(日蓮さんの学び)を知ることが出来なかったのでしょう。
無限ループというか六道輪廻というか、1と2の繰り返しです。
本記事での祈祷の意は「お導き、おはからい、おまかせ、E−1」を含みます。

五大部十大部は日蓮宗などで大事だと言われています。創価や正宗はよく理解しないまま、のっかっているだけなのでしょう。

7終。

(続く)
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祈祷の体験談6(日蓮宗の文献から祈祷を調べる)

2020年11月10日 06時54分33秒 | 他宗の勧請/祈祷
適切なカテゴリーがないので、一般仏教にした。

前記事からの続き

●日蓮さんの祈祷に関する遺文内容と自身の体験

 教団Aの祈祷の方法やあり方について判明すると日蓮遺文で、とある語彙が気になりました。
語彙は複数存在しその内の一つは「た行の言葉(Fー1)」で、これを日蓮宗電子聖典で検索すると15件あります。五大部、十大部の中にも見つかります。
画像の上から二番目のS御書、一番下のI御書は関係ありません。

画像


これらの日蓮遺文を現代語訳と合わせて読み自身の体験と重ね合わせ次のような分類が可能でした。
私自身は祈祷は出来ず横で見ていただけです。その点は誤解しないでください。

(1)日蓮遺文内容と自身の体験が重なる箇所。
(2)日蓮遺文内容と比較し自身の体験から疑問に思える箇所。
(3)日蓮遺文内容から、本当に祈祷できたのか怪しいと思える箇所。

上記の日蓮遺文について遺文名と箇所を書く気になれません。
創価の昭和全集や正宗の平成新編に「日蓮遺文の誤記」があっても、教団をやめない人たちですからどうしようもないでしょう。(笑)

日蓮さんが若い時、真言密教僧として祈祷に関して知識や修行はあったが中途半端だったのかもしれません。一流だったのか疑問に思えます。
元真言密教僧であり祈祷に関して低いレベルの知識があった為の文章表現と思いました。
不動愛染感見記が日蓮真筆か日蓮関係文書だと思う点はこうした15件の「た行の言葉(Fー1)」、自身の体験が追加の理由として挙げられます。
祈祷の体験談1に書いた不動愛染感見記が日蓮真筆か日蓮関係文書でなければ、日蓮を馬鹿にするか疑問視するしかない理由はこうした複数の理由からです。
また日蓮の祈祷は100発100中ではないと考えました。
(*g)

鎌倉時代の日蓮が行ったかもしれない祈祷に関し記録の事実がある。その事実は(遺文を読んで祈祷が出来るようにならない等の理由から)重要ではないものの、当核箇所の文章表現は鎌倉時代の真言密教などの仏教系祈祷を知る上で参考になる点が複数存在する。この点は動かないと思います。
(犀角独歩さんは日蓮はド密教、と。)

教団A以外で祈祷できる聖職者を見つけた場合でも脱カルトは可能と言えます。ただし天文学的低確率かもしれません。これには、もう一つポイントがあります。

■その他の体験

 日蓮遺文の「た行の言葉」関連を読んでいると周辺に仏教伝承で「人に関する現象」があります。
この現象を私も体験しているらしいのです。現代の日蓮宗と全く関係なく一般的な場所で教団A関係者と共に居たときです。自分では全く分からなかったのが残念で教団A関係者の人に現象(状態か?)にあることを聞きました。
今からでも再度体験し自分で分かりたいです。

ここまで色々書いていますが、私が凄いと考えているのは要点BやCさんなので誤解しないでください。
教団ではなく、また創価日蓮や正宗日蓮ではありません。
私が凄いのではなく少しか多くかは別にして私に幸せがあったのは間違いないです。

●日蓮宗の「た行の言葉」周辺の現代日本語訳について

 日蓮宗の「た行の言葉」周辺の現代日本語訳は15件全部、全く問題がないように感じました。
日蓮宗では祈祷がどういったものか研究され、現代日本語訳で説明と理解が可能です。

●日蓮宗と祈祷文献

 日蓮宗には祈祷に関する文献がいくつかあるようです。
書名はしっていますが、今の所読む気はありません。
手持ちの日蓮宗の文献は優先順位を決めて徐々に手放すと思います。要素BやCさんの影響を考えれば当然の結果でしょう。

正宗や創価には祈祷の文献(書籍のこと)も記録と現象の証(あかし)もありません。

●6のまとめ

正宗系はやめたほうが良いと思いますよ。祈祷や祈りが叶わない理由は他にもあります。
正宗系本尊や教団で題目を唱える意味は皆無だと改めて思いました。

6終。

補足
*g
g-1.日本の密教における天台の止観行。
g-2.日本の密教における伝教大師を受け継ぐ十二年籠山行など。
g-3.日本の密教における四度加行(しどけぎょう)。修行者が阿闍梨となる為、伝法灌頂を授かるに先立って修習される四段階の加行(けぎょうの梵語:prayoga)の総称。日蓮は若いときに阿闍梨と言われている。如意輪菩薩や本尊と関係が深い。「如意輪や本尊」のあたりは犀角独歩さんや彰往考来さんがエキスパート。
g-4.不動法、愛染法など。不動法は現代でも存在しているらしい。
g-5.「見仏、見仏聞法」目のあたりに仏の姿を見、耳に仏の教えを聞くこと。現代でも各宗派に存在し最重要の修行達成内容と思われる。
g-6.「一心欲見仏 不自惜身命」法華経信仰者では有名。これは坊さんの修行も指しているのでは?

現代に伝わる修行で日蓮がこれらの修行をしたのか不明。弟子や孫弟子の修行内容は今後明らかになるかも?
「一心欲見仏 不自惜身命」の解釈として、読経や信仰活動、唱題したら仏を見えなくても見たことになる、と教えています。その目的は思いやりや一般信者の信仰を継続させる為のレベルの低い教えです。坊さんが一般信者に思いやりある内容で教えることが必須でも坊さん自身の修行が一般信者と同じでは駄目でしょう。

一心欲見不動明王、一心欲見不動とか今の所は聞いたことがありません。
見不動明王しても修行の達成と思いますが「見仏、見仏聞法」との違いや上下関係、目的が問題になりそうです。これ以上調べることはないと思いますが。

(続く)
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