創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

学会などの正宗系問題におけるブログ、BBS運営は意外に難しい。

2010年09月21日 23時51分32秒 | 創価学会
 やや高度でかなり難しい問題について雑感。

学会などの正宗系問題におけるブログ、BBS運営は意外に難しい。
管理人の宗教観、管理人の宗教知識(学んだか?)、管理人の立場(アンチ、シンパ)、管理人の目指す方向(罵倒や誹謗中傷等のレベルの低い話は除く。)等々。
管理人同様、コメントする人の宗教観、宗教知識、立場、目指す方向があり各人の人生感によっても様々。

●学会員について

アンチ(学会批判)系ブログなどにおいて学会員が書き込むことはよくある。
中高校生くらいの女の子だとどうなのだろうか?
普通、疑問があればバリさんや活動家の所へ行って質問すれば済む話。
最近、学会員のHPはあまりチェックしていないので彼女がそうした場所で書いているかは不明。

でもそうではなく、華さん所で質問するのは
「学会組織では答えが見つからないことを薄々理解しているからでは?」

これは学会批判者にとって有益な状況であり、2度3度質問していることからして
言い捨てて去っていくバリさんと違って脱創価の可能性が高いのではないのか?
中高校生くらい、しかも女の子(仮にAさん)ということで、学会組織活動をしていない可能性がある。MCが少ないか薄い可能性がある。又、きちんと一から(例えば仏教であれば)原始仏教→大乗仏教→日蓮の天台法華→創価学会教学と逆順でなく順に説明すれば、若いということで理解できて脱創価しやすいかもしれない。コーヒカップ事件と裁判でもいいし。
過去にAさんについて考察記事を書いたので私にとっては成長期にある彼女は忘れがたい相手。

Aさんのコメントが場にそぐわないものであったり記述内容に問題があるのは私も理解している。

●批判者コメント

ブログコメントをする人達が批判者である場合、当人の立場や状況、性格、物の言い方などそれぞれ異なる。

普段、MC→心理学→自立(宗教に限って、人間関係に限っての自立)という考察をする私にとっては
批判者側からのコメントにやや疑問が多かった。
疑問を多く感じなかったのは華さん他数名。疑問を感じた人達のハンドル名は記さない。

仮に例えば、キューブラー・ロスの死の受容プロセス(詳細は読書するか検索してほしい)を前提とすると、当人にとっては「学会員の言葉は一切受け入れがたい」そんな人がいても何もおかしくない。

が、心理学やカウンセリング学が不必要?そうな管理人さんが、どちらかというと心理的、カウンセリング的コメントをしていて退会者、学会員であって心理学やカウンセリング学が必要?そうな人たちが、どちらかというと疑問なコメントをするのは意外だった。やはり、メメさんや華さんとかが持つ感覚かぁ。。。。。

Aさんのコメントが数ヶ月ぶりということもあり、学会批判者側とAさんの 「「連続性のある会話」」が成立しなかったことが非常に残念。
"""これくらいバリバリから遠いか、MCから遠い相手ぐらい"""は批判でなく、緩やかな疑問提示や質問や相手に思考開始するようなコメントって出来ないのだろうか?実際、やってみてもかなりむずかしいとは思うが。

実は私も週末にコメントしようか迷っているうちにAさんから「コメントしません」となってしまった。

ま、簡単にいえば、自分の脱創価のためにも誰とでもたとえ相手が嫌な相手、学会員でも話を続けるスキルを身につける努力をすれば?ってこと。
もちろん、「一切受け入れがたい」段階も当人にとっては必要なプロセスだと思われるので、消化したほうがいいとも私は思う。ケースバイケースな人の心と人生の前提があるので管理人は100%批判するな、とも言えないし100%批判しろ、とも言えないんだよね。難しい。。。

○雑感

 実を言うと過去、私にとってMCの薄い人との会話、あるいは私がしたMCの薄い人への脱創価の説得は自分自身の脱創価に役に立っていること。あるいは、学会員時代自分がなしてきた、御祈念文に問題ない他者への思いやりや祈り(日顕氏への呪いは問題であり、ここでは議論から除く。)創価班は問題ある他者への強要、脅迫、権威主義が含まれる等々、何が良くて何が悪いのか?見分けが付きやすくなっている。これらのことが影響して脱創価しやすい気がする。
創価学会的な物の考え方、たった一つだけ意見の合わない人をいとも簡単にレッテル張りして批判する、etcetc
学会的思考とは正反対に言動パターンから脱創価的、批判するにしても慎重にする、可能な限り排除しない。etcetc
様々にあると思う。

こうした経験はケースバイケースを考えても私だけなのだろうか?あるいは私は少数なのだろうか?

なんにせよ、Aさんの(ネットで公開できないプライバシーに深入りせずに)ホンネやホンネの質問が聞けない限りは会話の継続はむずかしいだろう。聞けても簡単なことではないし。カウンセラーの方でも時には説得が上手くゆかないケースがあるのは過去記事に書いたとおり。

学会批判者のレベル底上げというのは難しいが大きなテーマの一つ。

各人にケースバイケースでなく、心理学の本で一冊だけをヤレ読めソレ読めというわけにもいかない。しかし言動というのはすくなからず、その当人の心の内面がベースになっていることは間違いない。また言葉に限っても発したり(能動)受けたり(受動)することで自分の形成、すなわち心に(心理的な)影響を及ぼすのもまた事実。
「許さない」「許せない」という学会員の言動及びその内面の心理が学会組織から与えられる「怒りと恐怖」であることはは度々、問題して記事にしてきた。

ネットにいる有名なバリさんが自他に限らずアンチブログとかに来て変なコメントすれば、そりゃ私だって怒るよ。
でも怒りを我慢するのでもない、また、怒りのみに任せるのでもない、怒っていること(批判者が辛い思いをしたこと)を相手(他者)に伝えつつ、適切な言い方を心がけたいと思う。いざってときの心構えみたいなものかなぁ。。。?

過日の飲み会でも内部アンチの学会員さんから
「ネット等で批判を続けているが、今後どうしたらいいかわからない。」
という質問があった。
(お友達の二人+一匹?(笑)には日蓮の信仰をつづけるのであれば勉強会にて日蓮教学をきちんと勉強して欲しいと思っている。そういやCD作ったまま放ったらかしにしてるな。(^_^;A )
心理学は過去を振り返るだけでもないし、自分の反省だけ、自分を傷つけるだけのものではないことは過去記事に書いたとおり。

そこで、私の経験から来る提案。例えば、の話。

少し前までの私の心理学との付き合い方は、どちらかというと他者の学会員や学会員であった過去の私と向き合うためのものでした。
(とくにMC論なんかは心理学を宗教分野に特化させたものでしょう?)
今の私はどちらかというと両親や過去の自分自身と未来の自分自身と向き合うのに心理学と付き合っています。
もちろん、人も。みなさんとも、ね。

学会批判だけの心理学から学会批判だけでない心理学。
学会や他宗批判だけの日蓮の勉強ではなく原始仏教から現代の念仏、禅宗などを
含めた、リアルやネットでの現実的で(思想だけで終わらない)宗教的行為行動。(宗教に魅力を感じる人は、やれば?ってことです。)

目線を広げてみては??私はこんな風にしています、考えています。ってことで。

おわり。
コメント (1)
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