過去記事に書いてきた事ばかりですが必要な記事ですので改めて文章にしました。
●ブログで心がけてきた事。
いつも必ず出来ていた、という事ではないのですが出来うる限り心がけていた事がいくつかあります。もくじ1の頃からだったのですが、創価学会や学会員の言う事、行う事(つまりは言動)に出来るだけ疑問や反対の立場を取ってきた事です。
(でも残念ながら時として批判でなく非難に。あるいは創価公明、池田氏、ネットやリアルの学会員に怒りが収まらない事があったのも事実ですけどね。)
例えば私が迷惑メール攻撃されたり荒らし行為や罵倒など受けた事がありました。その都度その都度に違和感を感じたのです。
退会以前は「折伏する側、つまり立場」だったわけですが、疑問が生まれ退転しさらに疑問が大きくなると今度は「折伏される側、折伏を受ける立場」になるわけです。もくじ1~2のコメント欄や記事を振り返れば分かるとおり、「問題があると思われる学会特有の思想、態度、言動が次々と見つかる」ばかりです。つまり宗教的でない、あるいはカルト的でないというな感想、印象しかありません。納得のコメント内容どころか逆に嫌悪感を感じて加害者として自分がどんな事をしてきたのか?という点で過去の私自身や学会ががよく分かる様になりました。
創価学会員のこういったところが嫌だな、そう思ったら自分のブログであっても反対の立場にある学会員に対してであっても出来るだけ同じ事をしない、という心がけです。
○書く事。読む事、聞く事。。。。それはとっても大事かと。
例えば1-21の記事は拙文でもあり、今の自分から見ても意見そのものに理由や説明不足、行き過ぎというのはだいぶ感じていますが、言いたい事や創価学会問題の基本的なポイントとしては今でも通用すると思います。要は一般人にとって時間の無駄、人格の低下、友情や恋愛の破局、家族関係の悪化を招きかねないので「創価学会の勧誘を断る。」「公明党への投票もきちんと断る」ということです。その為に退会者の立場から「全てを書き出してみる」「文章にすること。」ということなのです。
カルト体験のHPにあるようにハッサン氏の「自分の体験を完全に見極める作業としてカルト時代の体験を書き出すこと」「文章にすること。」(主旨)に意味があると私は思います。
但し、一方通行な感じで書くだけというのではなくネット、リアルやTELなど「会話する」「議論する」ということを全否定しているわけではありません。教義や論点の整理整頓、問題点の吟味など、仏教の書籍の引用こういった事には「文章にすることに意味が大きい。」と私は思います。
退転者であるはずの私が現役学会員であるLibraさんから仏教を懇切丁寧に教えて頂き、その際に私が
「胸が暖かくなる様な気持ちを感じた。」
というのはかなり画期的だったというか大きなポイントだったと思います。リアルでもネットでも「会話する」「議論する」意味があると思います。ネットの文字のやりとりでしたが、「ある意味においてネット対話とリアルの会話には対極的な一面があると思いますが、Libraさんとのやりとりで私の受けた印象や感想はかなりリアルの会話に近かったのでは?」と私は考えています。もちろんリアルであればより本音やより感情や表情などにより説得力を持つのは当然であり、また持って良いと思います。
先にアップする草稿記事の要点を書きすぎました。(^_^;A
話を元に戻します。
公開するブログ記事であっても公開しない日記の様な形であっても、どちらでもこの「書く」という行いの為には学会の池田仏教でない一般仏教や学会精神を見直したり勉強したりする必要があります。
同時に私の中で行われる、行われてきた、のは自分自身で考える必要が出てくるという事です。
人間は 目で本やHPなどを読む か 人から聞く などして学ぶしか新たな知識を得る事は出来ません。
もちろん自分からしゃべってもいいし聞いてもいいのですけれど。。。
●他者のHPを読んだりブログを書いたり、自分で考えたりしている内に。。。
他者のHPを読んだりブログを書いたり自分で考えたりしている内に様々な事に気が付きます。
その「気が付く」一例としての記事は133番記事でしょうか?あれも実は私にとっては大きな転換点だったのです。
今読むと人に見せるのははっきりいって恥ずかしい文章です。。。。。(笑)(^_^;A(^_^;A(^_^;A
少なくとも自分にとっては大きな転換点だったので何人かの人に「読んで下さい。」とお願いしました。でも感想を聞いてもたいていの人は「よくわかりません」って言われました。
あー。恥ずかし。(ノ∀`) アチャー
「一個人の悩み事に本音と建前は存在するのか?」という事をゴチャゴチャ書いていますが。。。
「一個人の不幸(幸福)に本音と建前は存在するのか?」のが多少マシかな?(^_^;A(^_^;A(^_^;A
ま、学会の悪しきダブルスタンダードに気が付いたので良しとするかな?
●実はあなたは、、、、しあわせ?ふしあわせ?
少し話が逸れますが、学会員は悩みの無い人などいない、悩みがないのは犬、猫だけだ。こんな事を言って宿命転換しよう!そう言って学会活動を煽る理由にします。悩みは誰しも持つモノです。反対に一度として幸福体験や良い思い出を全く持たない人、一つも持っていない人はあまりいないと私は思います。
ところが学会員やカルト信者は入信時には「今不幸なあなたでも過去幸せだったでしょ?」なんて言いません。「あなたは実は不幸なんです。」「相対的な幸福なんです。」「今のままだと不幸になります。」「宿命、宿業を転換出来ません。」
退会しようとすると、「あなたはこの信仰にめぐりあえて幸せなんですよ?」「あなたは日本人に生まれてきて幸せなんですよ?」「あなたは福子(ふくし)として生まれてきて幸せなんですよ?」(学会員の家に生まれる事です。)
全くおかしな話です。
参考記事。
06.入信編その5 入信時の悩みは解決したのか?
●幸不幸の基準というよりも。。。。。。
気が付く、気が付かない点も含めてなのですが、アンチや一般の人から学会員に最も伝達しにくいであろうと私個人が考えている事があります。今なら比較的短く書けるのですが、133番記事の要点は。。。。。
創価学会における幸不幸というのは、宿命転換や生命論などを理由に「学会でないと幸福になれない、」という創価学会だけにある特有の法則です。
学会組織においてのみ信心すれば幸福になる。謗法すれば罰が当たる。
(でも実際はそうではなくて、○○○○○○○○○。記事にする予定。)
人の幸不幸というのは世間一般でも起こりうる事ばかりであり、理由も根拠も学会だけにあるではないのです。
理由も根拠も本尊や宇宙生命論にあるのではないと私は考えます。
大きな世界、枠であるのが世間一般です。その大きな世界の中で幸不幸が起こる。
大きな世界に存在する小さな世界、小さな枠であるのが学会。小さな世界の中でしかない学会でも世間一般と同様に幸不幸が起こっているにすぎません。幸不幸が起こる。と受動的なイメージで書きましたが、人間社会の幸不幸は人間が作っている、でもいいでしょう。
学会員は学会が広宣流布するという、創価学会が拡大するイメージを持ち得ますから幸福も学会が広げるかのようなおかしなイメージを持つのです。
だから「一個人の悩み事に本音と建前は存在するのか?」という分け隔て、線引きをする必要がある幸福感、不幸感。あるいは線引きありきの前提とした幸福感、不幸感になってしまうのです。学会においてのみ、幸福。それ以外、つまり学会でない所それは不幸。この様な線引きをして罰が当たる、不幸になるという思想です。
●学会の特有の問題が次々と見つかる、けれど。。
「問題があると思われる学会の特有の思想、態度、言動が次々と見つかる」と書きました。
しかし注意点があります。私、そううそのブログは 創価学会のあまりにも酷い人でなしの態度、言動や大嘘や迷惑行為で成り立っている、という事です。ですから学会批判や学会への反論について理由や根拠があまり無いか少なくても世間一般のまともな感覚からすれば、当たり前であり道理なので理由が少なくてもブログ記事が成り立ってしまう点がポイントです。
過去記事にも書いたのですが池田教ならぬ、”「そううそ教」になってはいけない”ですよ、と思います。
以上。
'08.08.23 誤記修正 あるいはカルト的でないというな感想、印象しかありません。
●ブログで心がけてきた事。
いつも必ず出来ていた、という事ではないのですが出来うる限り心がけていた事がいくつかあります。もくじ1の頃からだったのですが、創価学会や学会員の言う事、行う事(つまりは言動)に出来るだけ疑問や反対の立場を取ってきた事です。
(でも残念ながら時として批判でなく非難に。あるいは創価公明、池田氏、ネットやリアルの学会員に怒りが収まらない事があったのも事実ですけどね。)
例えば私が迷惑メール攻撃されたり荒らし行為や罵倒など受けた事がありました。その都度その都度に違和感を感じたのです。
退会以前は「折伏する側、つまり立場」だったわけですが、疑問が生まれ退転しさらに疑問が大きくなると今度は「折伏される側、折伏を受ける立場」になるわけです。もくじ1~2のコメント欄や記事を振り返れば分かるとおり、「問題があると思われる学会特有の思想、態度、言動が次々と見つかる」ばかりです。つまり宗教的でない、あるいはカルト的
創価学会員のこういったところが嫌だな、そう思ったら自分のブログであっても反対の立場にある学会員に対してであっても出来るだけ同じ事をしない、という心がけです。
○書く事。読む事、聞く事。。。。それはとっても大事かと。
例えば1-21の記事は拙文でもあり、今の自分から見ても意見そのものに理由や説明不足、行き過ぎというのはだいぶ感じていますが、言いたい事や創価学会問題の基本的なポイントとしては今でも通用すると思います。要は一般人にとって時間の無駄、人格の低下、友情や恋愛の破局、家族関係の悪化を招きかねないので「創価学会の勧誘を断る。」「公明党への投票もきちんと断る」ということです。その為に退会者の立場から「全てを書き出してみる」「文章にすること。」ということなのです。
カルト体験のHPにあるようにハッサン氏の「自分の体験を完全に見極める作業としてカルト時代の体験を書き出すこと」「文章にすること。」(主旨)に意味があると私は思います。
但し、一方通行な感じで書くだけというのではなくネット、リアルやTELなど「会話する」「議論する」ということを全否定しているわけではありません。教義や論点の整理整頓、問題点の吟味など、仏教の書籍の引用こういった事には「文章にすることに意味が大きい。」と私は思います。
退転者であるはずの私が現役学会員であるLibraさんから仏教を懇切丁寧に教えて頂き、その際に私が
「胸が暖かくなる様な気持ちを感じた。」
というのはかなり画期的だったというか大きなポイントだったと思います。リアルでもネットでも「会話する」「議論する」意味があると思います。ネットの文字のやりとりでしたが、「ある意味においてネット対話とリアルの会話には対極的な一面があると思いますが、Libraさんとのやりとりで私の受けた印象や感想はかなりリアルの会話に近かったのでは?」と私は考えています。もちろんリアルであればより本音やより感情や表情などにより説得力を持つのは当然であり、また持って良いと思います。
先にアップする草稿記事の要点を書きすぎました。(^_^;A
話を元に戻します。
公開するブログ記事であっても公開しない日記の様な形であっても、どちらでもこの「書く」という行いの為には学会の池田仏教でない一般仏教や学会精神を見直したり勉強したりする必要があります。
同時に私の中で行われる、行われてきた、のは自分自身で考える必要が出てくるという事です。
人間は 目で本やHPなどを読む か 人から聞く などして学ぶしか新たな知識を得る事は出来ません。
もちろん自分からしゃべってもいいし聞いてもいいのですけれど。。。
●他者のHPを読んだりブログを書いたり、自分で考えたりしている内に。。。
他者のHPを読んだりブログを書いたり自分で考えたりしている内に様々な事に気が付きます。
その「気が付く」一例としての記事は133番記事でしょうか?あれも実は私にとっては大きな転換点だったのです。
今読むと人に見せるのははっきりいって恥ずかしい文章です。。。。。(笑)(^_^;A(^_^;A(^_^;A
少なくとも自分にとっては大きな転換点だったので何人かの人に「読んで下さい。」とお願いしました。でも感想を聞いてもたいていの人は「よくわかりません」って言われました。
あー。恥ずかし。(ノ∀`) アチャー
「一個人の悩み事に本音と建前は存在するのか?」という事をゴチャゴチャ書いていますが。。。
「一個人の不幸(幸福)に本音と建前は存在するのか?」のが多少マシかな?(^_^;A(^_^;A(^_^;A
ま、学会の悪しきダブルスタンダードに気が付いたので良しとするかな?
●実はあなたは、、、、しあわせ?ふしあわせ?
少し話が逸れますが、学会員は悩みの無い人などいない、悩みがないのは犬、猫だけだ。こんな事を言って宿命転換しよう!そう言って学会活動を煽る理由にします。悩みは誰しも持つモノです。反対に一度として幸福体験や良い思い出を全く持たない人、一つも持っていない人はあまりいないと私は思います。
ところが学会員やカルト信者は入信時には「今不幸なあなたでも過去幸せだったでしょ?」なんて言いません。「あなたは実は不幸なんです。」「相対的な幸福なんです。」「今のままだと不幸になります。」「宿命、宿業を転換出来ません。」
退会しようとすると、「あなたはこの信仰にめぐりあえて幸せなんですよ?」「あなたは日本人に生まれてきて幸せなんですよ?」「あなたは福子(ふくし)として生まれてきて幸せなんですよ?」(学会員の家に生まれる事です。)
全くおかしな話です。
参考記事。
06.入信編その5 入信時の悩みは解決したのか?
●幸不幸の基準というよりも。。。。。。
気が付く、気が付かない点も含めてなのですが、アンチや一般の人から学会員に最も伝達しにくいであろうと私個人が考えている事があります。今なら比較的短く書けるのですが、133番記事の要点は。。。。。
創価学会における幸不幸というのは、宿命転換や生命論などを理由に「学会でないと幸福になれない、」という創価学会だけにある特有の法則です。
学会組織においてのみ信心すれば幸福になる。謗法すれば罰が当たる。
(でも実際はそうではなくて、○○○○○○○○○。記事にする予定。)
人の幸不幸というのは世間一般でも起こりうる事ばかりであり、理由も根拠も学会だけにあるではないのです。
理由も根拠も本尊や宇宙生命論にあるのではないと私は考えます。
大きな世界、枠であるのが世間一般です。その大きな世界の中で幸不幸が起こる。
大きな世界に存在する小さな世界、小さな枠であるのが学会。小さな世界の中でしかない学会でも世間一般と同様に幸不幸が起こっているにすぎません。幸不幸が起こる。と受動的なイメージで書きましたが、人間社会の幸不幸は人間が作っている、でもいいでしょう。
学会員は学会が広宣流布するという、創価学会が拡大するイメージを持ち得ますから幸福も学会が広げるかのようなおかしなイメージを持つのです。
だから「一個人の悩み事に本音と建前は存在するのか?」という分け隔て、線引きをする必要がある幸福感、不幸感。あるいは線引きありきの前提とした幸福感、不幸感になってしまうのです。学会においてのみ、幸福。それ以外、つまり学会でない所それは不幸。この様な線引きをして罰が当たる、不幸になるという思想です。
●学会の特有の問題が次々と見つかる、けれど。。
「問題があると思われる学会の特有の思想、態度、言動が次々と見つかる」と書きました。
しかし注意点があります。私、そううそのブログは 創価学会のあまりにも酷い人でなしの態度、言動や大嘘や迷惑行為で成り立っている、という事です。ですから学会批判や学会への反論について理由や根拠があまり無いか少なくても世間一般のまともな感覚からすれば、当たり前であり道理なので理由が少なくてもブログ記事が成り立ってしまう点がポイントです。
過去記事にも書いたのですが池田教ならぬ、”「そううそ教」になってはいけない”ですよ、と思います。
以上。
'08.08.23 誤記修正 あるいはカルト的