●”「漫荼羅の御本尊」と「己心の妙法」は対境(対鏡)”というテーマ
オフ会で”「漫荼羅の御本尊」と「己心の妙法」は対境(対鏡)”というテーマがあった。
会話だったので漢字の説明がなく私は後者の「対鏡」で捉えていた。
実際に「本尊 己心の妙法 対鏡」でgoogle検索すると約2830程見つかる。
「本尊 己心の妙法 対境」でgoogle検索すると約2840程見つかる。
以下犀角独歩さんから御指摘を頂いた。
1.「対鏡」という仏教語はない。創価学会の造語。
2.「対境」は境地冥合の派生語で、意味がある。
3.己の心を本尊とするため、本尊は不要になってしまう。*A
己心本尊と本仏本尊が呼応して一体となるという発想は、梵我一如のバラモンの発想。
*Aの発想はネットにも多く見つかる。
●学会の思考パターン、つまりは創価学会のMCのパターン。
が、例によって例のごとく、創価学会では【明確に真筆遺文と言われていない】法華初心成仏抄を用いる。
日蓮宗電子聖典では法華初心成仏鈔(抄)は真筆扱いされていない。
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心の仏性 南無妙法蓮華経と呼び呼ばれて顕れたもうところを仏とは云うなり。たとえば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥の呼ばれて集まるが如し。空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出んとするが如し。口に妙法をよび奉れば、我が身の仏性も呼ばれて必ず顕れたもう。」
の真偽未決遺文の解釈と創価学会版宇宙生命論により、結果「生命力が湧いてくる。」とする。
これでMCされていく。
他にも自分を写す鏡としての誤解を与える遺文があったはず。なんだったかな。
●対境と対鏡
更に書いておく。
対鏡は満月城岡山では0件で全くヒットしない。真筆、偽書、真偽未決どの中にもない。
対境は満月城岡山では1件のみ。
「心性を観ずるを上定と名くれば、即ち三業過無し、歴縁対境するに威儀失無し、能く此くの如く観ず、」
しかも御講聞書だ。
御講聞書をきっちり読む気はないが、文章の流れは、対境であっても対鏡であっても漫荼羅も本尊も己心も無関係では?
「漫荼羅の御本尊」と「己心の妙法」なら少しは関係があるのだろうが、対境と対鏡は無関係。
学会教学では「漫荼羅の御本尊」と「己心の妙法」の脈絡は対境か対鏡のどちらかではないのか?
それぞれに50%ということ。
こうした創価学会教学の嘘を一体、どうやって責任取るのですか?>池田大作氏、及び、取り巻き。正宗。
仮に対境が正しいとしても残り50%の責任はどうすんだ?>池田大作氏、及び、取り巻き。
人様他人様に嘘を教えておきながら、金を取ってなにが「一人ひとりを大切に」なんだか。
---------------------------------------------------------
ヤレヤレといった感じ。
まぁ、なんというか、こうしていくらでも私の中にMCが残ってるけど、どうでもいいや。(笑)
自分から必死になって探す気にはならない。
注意したいのは私は人に仏教学を教える気がないので問題にならないだけ。
一般世間の常識ならともかく、仏教学や宗教では可能なかぎりああしろ、こうしろと行動コントロールもしたくない。
「対鏡」についてはもし創価班の会合で教わったとすると、
メモ書きがどこかに残っていれば日時と幹部名まで判明するかも。
以上。
オフ会で”「漫荼羅の御本尊」と「己心の妙法」は対境(対鏡)”というテーマがあった。
会話だったので漢字の説明がなく私は後者の「対鏡」で捉えていた。
実際に「本尊 己心の妙法 対鏡」でgoogle検索すると約2830程見つかる。
「本尊 己心の妙法 対境」でgoogle検索すると約2840程見つかる。
以下犀角独歩さんから御指摘を頂いた。
1.「対鏡」という仏教語はない。創価学会の造語。
2.「対境」は境地冥合の派生語で、意味がある。
3.己の心を本尊とするため、本尊は不要になってしまう。*A
己心本尊と本仏本尊が呼応して一体となるという発想は、梵我一如のバラモンの発想。
*Aの発想はネットにも多く見つかる。
●学会の思考パターン、つまりは創価学会のMCのパターン。
が、例によって例のごとく、創価学会では【明確に真筆遺文と言われていない】法華初心成仏抄を用いる。
日蓮宗電子聖典では法華初心成仏鈔(抄)は真筆扱いされていない。
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心の仏性 南無妙法蓮華経と呼び呼ばれて顕れたもうところを仏とは云うなり。たとえば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥の呼ばれて集まるが如し。空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出んとするが如し。口に妙法をよび奉れば、我が身の仏性も呼ばれて必ず顕れたもう。」
の真偽未決遺文の解釈と創価学会版宇宙生命論により、結果「生命力が湧いてくる。」とする。
これでMCされていく。
他にも自分を写す鏡としての誤解を与える遺文があったはず。なんだったかな。
●対境と対鏡
更に書いておく。
対鏡は満月城岡山では0件で全くヒットしない。真筆、偽書、真偽未決どの中にもない。
対境は満月城岡山では1件のみ。
「心性を観ずるを上定と名くれば、即ち三業過無し、歴縁対境するに威儀失無し、能く此くの如く観ず、」
しかも御講聞書だ。
御講聞書をきっちり読む気はないが、文章の流れは、対境であっても対鏡であっても漫荼羅も本尊も己心も無関係では?
「漫荼羅の御本尊」と「己心の妙法」なら少しは関係があるのだろうが、対境と対鏡は無関係。
学会教学では「漫荼羅の御本尊」と「己心の妙法」の脈絡は対境か対鏡のどちらかではないのか?
それぞれに50%ということ。
こうした創価学会教学の嘘を一体、どうやって責任取るのですか?>池田大作氏、及び、取り巻き。正宗。
仮に対境が正しいとしても残り50%の責任はどうすんだ?>池田大作氏、及び、取り巻き。
人様他人様に嘘を教えておきながら、金を取ってなにが「一人ひとりを大切に」なんだか。
---------------------------------------------------------
ヤレヤレといった感じ。
まぁ、なんというか、こうしていくらでも私の中にMCが残ってるけど、どうでもいいや。(笑)
自分から必死になって探す気にはならない。
注意したいのは私は人に仏教学を教える気がないので問題にならないだけ。
一般世間の常識ならともかく、仏教学や宗教では可能なかぎりああしろ、こうしろと行動コントロールもしたくない。
「対鏡」についてはもし創価班の会合で教わったとすると、
メモ書きがどこかに残っていれば日時と幹部名まで判明するかも。
以上。