創価学会の信仰に功徳はあるか?

コメントする人は「01.創価学会の信仰に功徳はあるか?を書く前に」を読んでね。

277.日蓮正宗系の信徒が切れやすい理由

2008年09月22日 00時05分38秒 | 創価学会
●カミングアウト、過去をさらけ出す事

 創価などの日蓮正宗系の一部のバリさんには私のカミングアウト、過去をさらけ出す事について「痛い行為」と思っているようですね。
実はとある創価思考、カルト思考、カルトな発想が原因で着眼点や方向性が最初から間違っている、だから「痛い行為」と誤解するのです。

 学会員が自分自身の過去のトラウマや反省すべき点から現実逃避しているので、過去を思い出したくないと思っている為かもしれません。過去のトラウマや反省すべき点でも思い出すのも出さないのも本人の自由です。
 一般の人でも学会員であっても無理に思い出したくない事は思い出す必要はありません。
しかし「思考停止している」と日蓮正宗系の信徒が批判されるのは都合の悪い過去を「必要以上に」無理矢理忘れようとする、都合の悪い事は「必要以上に」隠す、「必要以上に」反省しない、いつもいつも例によって例のごとく「必要以上に」嘘やごまかしを続けるからでしょう。
極端な白黒2極論ではやはり問題があると私は思います。

●では「必要以上に」などの極端な思考をやめるとどういう良い効果があるのか?

 過去をさらけ出す事について「痛い行為」ではありません。

心理学や原始仏教を勉強する事で「必要以上に人を見捨てない」というMCに気がつくことが出来ます。
まず、私、そううそが必要以上に見捨てられたと勘違いしない様に「見極めよう」「気をつけよう」とするのです。(もちろんMCをされない事にも気をつけますが。)

前提として、未来において私が見捨てられたと 「勘違する可能性を否定しない」 のです。
   次に、未来において私が勘違する事を可能性を否定しませんから、落ち込んでもいいし、必要以上に落ち込む事も少ないでしょう。
   次に、未来において私が人を最期まで見捨てないのも見捨てるのもどちらも 「自分」の選択肢に入れていいのです。

自分や他者を見捨てる見捨てないはその都度、自分で考え、自分で決めるのです。ですから自立しようとする、自立しているのです。
また、カルトと違ってより見捨てない方向、人を信じる方向を向いているのが心理学、原始仏教です。

自分や他者を許すか許さないかはその都度、自分で考え、自分で決めるのです。ですから自立しようとする、自立しているのです。
また、カルトと違ってより自分や他人を許す方向、許される方向を向いているのが心理学、原始仏教です。

注意事項として学会精神、創価思考は「必要以上に人を見捨てない」たったこれ1つだけではありません。学会教学、学会精神、創価思考というバランス感覚を失った極端な考え方はあちこちで教え込まれMCされています。創価学会の思想全体の中でMCが行われ末端の信徒に選んで受け入れられているのです。正確には幹部や池田氏の教える一律なMCを10%か90%かは不明ですが信徒側が受け入れた、、、、と思われます。
世間一般の常識の善悪に隠れているのでカルト性が見分けにくいか気づきにくいと思います。


●「人を見捨てない」などなど学会精神やカルト思考に「必要以上に」縛られると自分や他人を許せなくなります。

 家庭訪問した事のある人には分かると思うのですが、会員さんが部活に来てくれない、勤行してくれない時があります。
「人を見捨てない」「会員を大切にする」ので家庭訪問してまた再度、家庭訪問を続けるわけですが、「人を見捨てない」「会員を大切にする」ので自分は「正しい」という立場です。
「人を見捨てない」「会員を大切にする」というのは学会精神だったり創価班精神だったりします。男子部魂とか人間革命とか、ネットで明らかな学会の嘘が分かる小樽問答、様々な嘘がちりばめられている学会教学もそうでしょう。自分の体験(もちろん思い込みやMC、誤解)もそうです。「正義の言論だ!」とか「雄弁に語れ!」とかの美しい言葉もね。
自分は「正しい」という立場、自分は「正しい」という思い込み、勘違い、思考停止です。

部活に来てくれない、勤行してくれないとなると、自分が正しいと思っているので相手が「悪」に見えたり、「境涯が低く」見えるんですね。
最近久々に某創価学会員のBBSを見に行きましたが過去と全く変わっていませんでした。例えば悩み事を管理人に相談すると冷たくあしらわれる理由はこういう心理過程、状態だと私は思います。「自分が正しいのであって相手が間違っている、相手の方が信心が足りない」という心理過程、心理状態だと私は思います。

家庭訪問の時に一般会員や未活動家を罵倒する幹部や活動家はまずいないと思います。
しかし日蓮正宗にいった人、退転した人、未活動家でも学会を否定する人や池田氏の事を悪く言う人だと相手を許せなく「なりやすい」と思われます。

過去記事に何度も書いてきたとおり学会員は色々なモノが「絶対である」「絶対でなければならない」「絶対」に縛られすぎています。人を見捨てないのは原始仏教や法華経が理由になっているのに、逆に正反対に「人を見捨てない」から「許せない」になってしまいます。

なぜなんでしょうか?

●ネットも同様です。

 常に自分は「正しい」という立場、自分は「正しい」という思い込み、勘違い、思考停止しているのが学会員です。

自分は「正しい」のでアンチ創価の人や学会批判、池田氏批判をする人が許せなくなると思います。
自分が正しいと思っているので相手が「悪」に見えたり「境涯が低く」見えるんですね。

「「人を見捨てない」「会員を大切にする」「生命を大切にする」「私の幸福体験(もちろん思い込みやMC、誤解)」なんでこんな簡単な事が分からないんだ?」
「頭おかしいんじゃないのか?」
実際私も上記に書いた様に嘘を教えられ一般の人に「明らかに頭おかしいだろ!」etcetc「何で理解出来ないんだ?」と良く思いました。

過去記事にしたとおり、色々な事をごっちゃにしているというのもあるでしょう。
「敵を許すな!」「正義の鉄槌を!」「正義の言論だ!」とか「雄弁に語れ!」教えられているからMCされているから、という理由もあるでしょう。
単純に「敵を許すな!」と教えられたから「許さない」あるいは「立場が敵」だから「許さない」という理由です。

ネットはアンチ対シンパの「立場が敵」だから「許さない」という構図は見えやすいのですが、日蓮正宗系の信徒が切れやすい理由ってなんなのでしょうか?
正しいならば学会員であっても自分自身が正しい「何か」を知っているのであれば、相手の立場に全く関係なく普通に他人(相手)に会話を続ければいいのであって怒ったり切れる必要はないはずです。


●日蓮正宗系の信徒が切れやすい理由

○普通の人でも怒ります。

 アルバイトでも仕事でも恋愛でも友人づきあいでもなんでもそうですが、
「自分のした事を台無しにする」他者、「ルールを守らない」他者に怒る事は一般人でもあり得ます。
一般社会の中では悪意があるのか無かったのか?、思いがけないミスなのか?という点は問われます。「どうしてそんな事をしたんだ?」とかね。
一般社会の中では善意、悪意の有無やミス、他に仕方のない理由があるかもしれない、という前提です。


会話や対話、つまり「どうして?」と理由を他人(相手)に 「聞く」 事はあり得るのです。(無いケースもあるでしょうけど。)
聞く事で許されるケースがあるのです。


○日蓮正宗系の信徒の場合

ところが学会では「境涯」「十界生命論という悪しきレッテル張り」というおかしな創価思想がはびこっています。
題目をあげた分、学会活動した分、師弟不二した分、福運がつき境涯が高くなり幸福になる事です。
邪宗の人間は「境涯が低く」なるという創価思考、創価にしか通用しないルールです。(日蓮正宗も同じでしょうね。)

ですから学会精神、学会仏教学では一般社会とは違います。
もう学会員にとっては 「理由があるかもしれない、という前提」 はありません。理由は決まっていて絶対なのです。
邪宗に生まれた人間は「悪」とか「魔」であり、学会批判、学会無理解、邪宗の人間は「境涯が低く」なっているetcetc。。。。
「悪」「魔」であり「境涯が低い」と教えられ、MCされているから、それが学会精神、学会仏教学のルールなので


会話や対話、つまり「どうして?」と理由を他人(相手)に 「聞く」 必要はないのです。
そもそも聞かないし、万一聞いたとしても許さないのです。


 邪宗の人間は創価思考、学会精神、創価学会仏法の「ルールを守らない」他者なのです。
だから宗教者であるはずの学会員側から邪宗の人(他者)とは結婚できない、邪宗の人(他者)とは友情も育めません、という学会員がたくさんいるのです。
布教や選挙の一票をもらう為の友情でしょう。折伏やF取りをして自分の境涯を上げる戦いです。
(ま、折伏すれば相手を救えるとも誤解していますけどね。)

自分の「境涯」を学会活動で築いて学会員はある程度自己満足もしてある程度幸福だと思っています。
自分のそばに、「魔」「悪」「境涯が低く」見える人がいたら、近づいてきたらどうなんでしょうかね?
「自分のした事を台無しにされ」そうなんですから「必要以上に」怒るでしょうね。「必要以上に」切れるでしょうね。
自分の「境涯」とは日常生活の環境や人間関係ですから、目の前にいる 「他人」(相手) も「自分の境涯」なのです。

「自分のした事を台無しにする」他者、「ルールを守らない」他者に怒る事は一般人でもあり得るのですから、
学会員が創価思考、創価思想によってMCされ「必要以上に」他者に怒る事はあり得ます。
学会だけでなく日蓮正宗系の信徒も同じです。

☆怒る対象が子供だったりすると。。。。。。。。。

怒る対象が子供だったりするとますますそうした創価思考、日蓮正宗系のカルト思考が悪影響になる気がします。

「何でこの子はこんなに正しい学会(池田先生、日顕氏、浅井氏、日蓮)を分かろうとしないの?」
「何でこの子は親の言う事を分かろうとしないの?」
「何時までも子供なんだから!」
「子供なんだから叩いてでも躾(しつけ)なければならない」

「必要以上な」暴力の可能性が出てきます。。。。。。。。。。。。

「必要以上に」怒らない事が脱カルトの沢山あるバロメーターの内の1つかと。
何度も書いていますがMCされた怒りと一般人の普通の怒りは違うのです。

●実は、カルト思想によってまず最初に許されないのは自分たち学会員、日蓮正宗系信徒。

1,題目をあげた分、学会活動した分、師弟不二した分、福運がつき境涯が高くなり幸福になる
2.批判した人、敵の立場に立つ人は境涯が低く、謗法であり不幸になる。地獄に行く、罰が当たる、

これらの日蓮正宗系の教学、精神が悪影響を及ぼしているのはほぼ間違いなさそうです。
謗法論、地獄論、罰論によってまずは自分たち(学会員、日蓮正宗系信徒)が許されないのです。
自己評価が低くなる事と関連性があると私は思います。(どちらが先かは問題ではありません。)
功徳論(日蓮正宗系の場合、正確にはご利益という定義。)もそうですし、謗法論、地獄論、罰論によって批判者に対して怒りやすくなる、ということです。

 勤行、折伏という「1つの方法」「1人の師匠」なんでもかんでも「大御本尊だけ」「ひとつだけ」「これだけ」「コレが究極」「宿命転換にはこの方法しかない」「公明党しかない」「○○しなければならない」「先生だけは絶対」「御本尊だけは絶対」といったふうに他の選択肢を「許されない」のは創価学会であり、池田大作氏であり学会本部であり、池田氏の弟子であり、日蓮正宗なのです。

他の選択肢を「許されない」人、「許されなかった」人がどういう言動をするのか?ここでは人は学会員、日蓮正宗系信徒を指します。
境涯論、功徳論、謗法論、地獄論、罰論によって自分が許されないので、他人(相手)も同様に許さない。
過去記事に何度も書いてきたとおり、自分も他人(相手)も「○○しなければならない」。

ここまで書けば多くの人はピンと来ると思いますが、

日蓮正宗系信徒は一般の人に対しても理解不能な怒りを向ける。
または他人(相手)も同様に許さない。自分も他人(相手)も「○○しなければならない」からです。

●一般の人も許さない。許せない!!!!ムキーーーーー!!!

岩手県沿岸北部の地震が起きた時に某SNSで学会員が「先生の悪口言うから仏罰がくる。」「先生は大聖人の代弁してんだよ。」「自業自得だ」(主旨)と言ったのです。

リアルやネットでも一般の人にとって信じられない様な言動をするのか?
上記の様なおかしなことを言えば学会入信や正宗入信が遠のいても不思議ではない言葉を平気で言います。
理由は一言で言えば、 「まず自分が不幸になるから」 です。あるいは自分の努力が無駄になるからです。

まず、自分が境涯論、謗法論、地獄論、罰論によって許されないので恐怖しているのです。怯えているのです。ですから「必要以上に」怒る。「必要以上に」他人(相手)に恐怖を与え同意を得ようとしている。池田大作氏のおかしな言動も裏付けられると思いませんか?どうでしょう?

某SNSの仲間の学会員も同志を否定する事は謗法なので本能的に恐怖が働き、上記の学会員を注意出来ないのです。のでは?と私は考えています。

世間一般の人でも目上の人や恐怖の他人(相手)に敢えて怒って対処する事は十分にあり得る事です。
しかし、カルトは自分たちが正しいのであって教団トップをカルトなんて思うことは許されません。
池田先生を否定するなんて許されないのです。

「他者の謗法や学会批判によって自分が不幸になるから」「必要以上に」怒るのです。

我々、世間一般の人は日蓮や日蓮本尊に逆らったら地震が起こるとは思っていません。
我々、世間一般人にとっては彼らの暴言、非難、誹謗中傷が突然であり理解不能、理由不明です。
我々、世間一般人にとっては学会ってカルトだなって思うのは普通です。

ところが

彼ら日蓮正宗系信徒にとっては逆なのです。
彼ら日蓮正宗系信徒の人は一般人や退転者が池田先生や日蓮や日蓮本尊に逆らったから地震が起こったと思っているのです。(笑)
彼ら日蓮正宗系信徒にとっては先に謗法しているのは一般人、というか地震の原因を作っているのは一般人の我々なのです。(笑)

顕正会の場合、日蓮に従わないと地震が起こる、日本が滅ぶのは教義の骨子になっているようですね。

注意事項ですが、境涯論、功徳論、謗法論、地獄論、罰論を教えられても功徳論を強く信じる人もいれば、謗法論、地獄論、罰論を強く信じる人もいます。
創価思想の中で選択しているにすぎません。
MCされた中で選択しているにすぎません。

ここの所、ずっと過去記事に書いてきた事でも敢えて再度説明してきました。
いくつかの結論に必要だからです。
266.フィレンツェ大聖堂の落書きの件から学べる事。 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?から色々書いてきましたが、ようやく次の記事で1つ結論が見えてきます。

学会員は自分と 「他人」(相手) をいくつかの点でごっちゃにしている。
その内容は何か?どういう風にごっちゃにしているか?というのが次のテーマです。

その背景や理由は過去にも書いてきましたが、もう少し詳しく書いていきます。

以上

46.ネットの口汚さからリアル折伏を邪魔する学会員 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?

訂正'08.10.06 のです。のでは?と私は考えています。

正しいならば学会員であっても普通に他人(相手)に会話を続ければいいのであって怒ったり切れる必要はないはずです。

正しいならば学会員であっても自分自身が正しい「何か」を知っているのであれば、相手の立場に全く関係なく普通に他人(相手)に会話を続ければいいのであって怒ったり切れる必要はないはずです。
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276.心理学の一般的説明に対する私の考え方

2008年09月21日 19時02分13秒 | 創価学会
●さらに誤解して欲しくない事

誤解して欲しくない事があります。
心理学やMC論においてある程度は私も日蓮正宗系の関係者を何らかの分類や定義づけると思います。池田大作氏や学会本部、バリ活の人はそううそがレッテル張りしている、そう誤解するかもしれません。

275.改めてそううそ教にならないで欲しいポイント(その2) - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
////////////////////////////////
私、そううそは心理学素人であり心理士でもカウンセラーでもありません。
 一応、できるだけ話を絞り込んで限定的に記事を書いていますが、それでも言い過ぎや極論かもしれません。
あくまで素人の意見であり、素人が書いた読書感想文でもあるでしょう。
////////////////////////////////

●権威主義パーソナリティ

 例えば権威主義パーソナリティという点ですが、権威主義そのものには直接、善悪はありません。一般社会での組織や家庭の個人など、どこにでも権威主義はあります。権威主義の成立過程や周りにどんな心理効果や前後関係の影響があるのか?という学問であり、「心」の「理屈」「理(ことわり)」を扱うので心理学といわれるのでしょう。権威主義そのものには直接、善悪ははなく、良い効果も有れば悪い効果もある、メリットもデメリットもあると思います。


 権威主義パーソナリティについては読書感想だけになるのかきちんと説明出来るかはまだ未定ですが、退会者などアンチ創価側、現役の会員、あるいは、これから日蓮正宗系教団に入ろうとする人は沢山あるチェック項目の内の一つだと思います。
 権威主義パーソナリティをわかりやすい単語に変えればリーダシップだと思います。リーダーシップという単語なら影響を受けたリーダーでない人々にメリットもデメリットもあるのは皆さんにもよく分かると思います。悪しきリーダーシップが「権威主義パーソナリティの問題点や悪影響」といえると思います。

 例えばTVの水戸黄門です。水戸のご老公様、格さん、助さんが出てきて「この紋所が目に入らぬか」と言うと、みんな「へへぇー」って跪くでしょう?TVドラマの松平健が演じていた徳川吉宗では浪人ではなく将軍だとバレても将軍家の権威主義に逆らって「ええい、切れ切れっ!」っていうでしょう。
 「権」力者の「威」光(という主義)を示しても悪人側の反応が違います。
それから見ている視聴者の方は権力者側が勝ってくれないと気分的に色々と困るでしょ。(笑)

 会社の社長や一家のお父さんで有ればリーダーシップは存在しても不思議ではありません。
池田氏についても組織のトップであり永遠の指導者なのですから、リーダーシップ、権威主義パーソナリティがあっても不思議ではありません。
ネットにしろリアルにしろ組織や仲間という人間関係が出来るのは全く不思議ではありません。
ネットの管理人やリアルで組織のトップになる人がいる事も普通にある事です。これらを私は否定していません。

少年野球のチームだって監督さんという組織のトップはいます。監督さんに権威主義パーソナリティがあっても不思議ではありません。
例えば子供好きで長年に渡って少年野球という一面で関わって大会とかでも時々勝っている監督さんを私は知っています。
その監督さんに「子供に指導、命令、野球でサインをしている!!だから悪しき権威主義だ!!」と言われ問題視される事はまずありません。

 権威主義というと悪印象を思い浮かべやすいの面があるのかもしれませんが、
良き政治家もいれば悪い政治家もいます。
良き宗教家もいれば悪い宗教家もいます。
良き社長もいれば悪い社長もいます。
悪い人達の面を捉えて権威主義パーソナリティという点で数多く(何度も、頻繁に)話題や記事、書籍、議論になる、問題視される、ということです。
良い人は問題視されません。話題や記事、書籍、目標にはなるでしょうが。。。。

悪い宗教家というのは嘘やごまかしを続けている池田氏や日顕氏です。断言しておきます。嘘やごまかしを続けているから悪い宗教家であり、悪い人なのです。

 話を戻します。例えば権威主義パーソナリティという点で、権威主義そのものには直接、善悪はありません。組織や個人において権威主義があると成立過程や周りにどんな心理効果や前後関係の影響があるのか?という事です。

権威(主義)を何に対してどの様に使うか?中身や方向性が問題なのです。

 更に最初の話しに戻すと、「心理学やMC論においてある程度、日蓮正宗系の関係者を何らかの分類や定義づける」のですが、ちゃんと彼らの過去の言動に基づきますから問題ないと私は考えています。
ここでも中身が問題なのです。私の場合は更に日本語文章や説明の仕方ですね。(^_^;A(^_^;A(^_^;A

心理学やMC論等々で何冊かの本を読むかあるいはきちんと勉強すると病名や症例、障害の特徴そのものには善悪、上とか下とかのレッテル張りは無い事がわかると思います。

●改めて仏教思想や心理学を学ぶ意味を考える。

 一般の人や内部アンチ、学会員を家族に持つ人、学会関係者にとって創価をカルトと断言をする/しないは別として
人、つまり人間が人の心理や心理学という勉強をして(例えば権威主義パーソナリティという一面を)理解する事に次(1~3)の様な意味があると私は思います。
ちなみにMC論は心理学に含まれます。
もしかしたらバリ活さんにとっても心理学は拒否の薄い分野なのかもしれません。 心理学は原始仏教や念仏宗、日顕宗の本ではありません。創価学会が聖教新聞や大白蓮華で心理学や医学を悪用しているのは既に事実ですが、心理学の本は邪宗教だから読むな、とは言えないでしょうし池田氏は学園生や創価大生に「しっかり勉強する様に、読書する様に」って言いますからね。



1.心理学という勉強をして言葉や文章で問題点や自分や他者のおかれている状況を理解出来る。
2,投票依頼や折伏で日蓮正宗系教団に関係した時、自分や他者の状況を理解出来る。
3.状況を理解できるので断る事やケースバイケースに対処する事が可能になる。

私はよくケースバイケースと書いていますが、具体的に書くと
3-1.断る際にはっきりと拒否するかやんわりと断るか、待ってもらうか等々、方法を柔軟に選択出来ます。
3-2.状況や自分や相手を確認、対話を重ねる、理解。(分からない事は分からない。知らない事は知らない。)
3-3.会話の仕方、接し方、考え方を柔軟にでき、考えを変える事も考えを維持する事も自然に出来ます。
3-4.自分の喜怒哀楽を自然に出す事が出来ます。
3-5.他人の喜怒哀楽にも自然に対処出来ます。
3-6.自分と他者の健全な距離。普通な恋人や親友、家族なら密接に。
他にも無数にあると思います。。。。。。。。



 私がMC論、JSCPRという単語やカウンセラーの言葉や富士門流BBSの言葉や記事を引用したりメモしたりしますが、たったそれだけで直ちに権威主義にはなりません。もちろん私も権威主義に陥る可能性があり、私自身が気をつける必要があります。過去、JSCPRを持ち出す事は権威主義であるというおかしな批判が他の方々に、また批判の一部が私自身にも少し向けられました。批判と言うよりも安易な非難だったと私は考えています。全く説明がありませんでしたから。今でも同様な誤解が一部にあるのかもしれません。「何を信じているのか?というよりも普段、どんな言動をしているのか?」「言っている事とやっている事が同じか?違わないのか?」という事です。
中身や方向性が問題なのです。

 (話が逸れますがLibraさんHPや富士門流BBSなどを読む理由としては仏教の教学面においてカルトと宗教を見分ける大事なポイントになる為です。基本的なところで日蓮正宗系教団がどれだけ多く嘘を付いているか?嘘を教えているか?あなたの大事な家族や友人にその嘘を信徒であるあなたから言わせようとしているか?がポイントになります。私のブログでも毒矢の譬え、功徳とは?、地獄論罰論、宿業論、原始仏教、立正安国論などなど、極々一部だけ書いては来ました。しかし私のブログでは例えば本門戒壇の大御本尊の真偽について証拠の有無などの言及は出来ません。どうしても足りません。仏教学においても沢山のチェック項目がある、という事です。中身や方向性が問題なのです。)

以上。

権威主義の正体 - あれこれ随想記 
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275.改めてそううそ教にならないで欲しいポイント(その2)

2008年09月17日 20時45分07秒 | 創価学会
 ちょうどいいTBを頂きました。
心理学 心理学講座

●注意事項 前提条件として

気をつけて頂きたいのですが心理学にはいろいろあります。

 ○○心理学という命名形式なのですが、○○には臨床、社会、発達、基礎、実験、認知、教育、宗教、etcetcたくさんあります。
今現在私が266番以降から書こうとしている記事は カルトというカテゴリーで更に、日蓮正宗系に限って

怒り続ける人
ブチ切れちゃう人
言っている事とやっている事が違う人。
言っている事がくるくる変わる人

という「人」を対象としています。発達心理学と2,3の病名や症例などを絡めて記事を書くつもりです。心理学に書かれている内容は誰にでも当てはまる可能性があります。先日の犀角独歩さんの記事にあったとおり、内部アンチ、退会者、関係者にも関係するかもしれません。

 実際、アンチ創価の立場である私、そううそが「必要以上に」「見捨てられているのでは?」と思った事は事実です。
アンチ創価で学会批判をしている私がまだ気が付いていなかった、という事です。
ですから、バリ活の人、正宗系教団にいながら内部アンチの人、退会者、関係者にも 「影響」 や 「関係」 があるかもしれません。

●更に注意事項

私、そううそは心理学素人であり心理士でもカウンセラーでもありません。

 一応、できるだけ話を絞り込んで限定的に記事を書いていますが、それでも言い過ぎや極論かもしれません。
あくまで素人の意見であり、素人が書いた読書感想文でもあるでしょう。

しかし、素人が書いた読書感想文でも読書や勉強によってMCや思い込みが解けている事実、感想の「内容は事実」でしょう。
私の感想の「内容が妥当か」どうかは又別の問題です。

上記に書いたとおりアンチとかシンパとかを 「立場」 を問わず、
「正宗系教団に関わるか関わった事のある人は気をつけて欲しい、」
という私の願いが理由で記事にしています。
「創価学会などの正宗系教団の問題点に気が付いて欲しい」
「気が付くきっかけにして欲しい」
のです。もちろん最大の目的である、折伏を受けている一般の人によく読んでもらいたいと思っています。

●「創価学会などの正宗系教団の問題点に気が付いて欲しい」

と書きましたが。。。。
268.またまたまた、またもブログを振り返ってみると。。。。 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
人間は 目で本やHPなどを読む か 人から聞く などして学ぶしか新たな知識を得る事は出来ません。
とも書きました。

 読んだからといって、気が付かない人は気が付かないでしょ。(バリさんは読んでいるのかね????ヽ(^o^;)ノ)

あたりまえですが。。。

 私のブログを読まなくとも日常生活の中で学会の問題点に気が付く人は気が付くでしょう。
 しかし、LibraさんのHPや富士門流BBSが数年前から存在していても未だに正宗系教団は消えて無くならないのですから、そううそのブログ一つで無くなるとは思えません。但し、無いよりは有った方がマシ。言わないよりは言った方がまだマシ。(個人的人間関係ではずっと黙って聞いてあげるのも必要だと思います。)書かないよりは書いた方がマシだと思います。
LibraさんのHPや富士門流BBSは無くなったら私としては困っちゃいます。(^_^;A

私の創価学会というカルト入信の問題点。「創価学会などの正宗系教団の問題点に気が付かなかった」のは私が大学時代に周りに気が付く要因がなかった為です。
ほぼ20年近く前の事ですが、その要因が本であるか人であるかは分かりません。
歴史にIFはありませんが、ちゃんとした本を読んでいたら、学会員の某君にかかわっていなかったら、友達でなかったら。。。。。。どうだったんでしょうね。

●学会の問題点に気が付いている人で 「必要以上に」 落ち込まないで欲しいと私は思います。

私のブログ記事を読んで学会の問題点に気が付いた人
元々から学会の問題点に気が付いている人

 私のブログを読んで 「必要以上に」 落ち込まないで欲しいと思います。
100%ではありませんが、人によってはカルト入信で自分に対する自己評価が低くなっていると思われます。
心理学やカウンセリングの本を読む、あるいはお医者さんにかかる事やカウンセリングを受けて自己評価を健全にして欲しいと思います。

心理学やカウンセリングの本には自己評価を健全にする項目があります。

「カルト入信で自分に対する自己評価が低くなっている」事をブログ上で説明出来るかどうかは、まだ分かりません。

●補足

 心理学やカウンセリングにおいて悪しき人間関係を絶つというのは重要なポイントのようです。
同時にアンチ創価という立場を 「卒業する」 というのも人によって大事な事なのでしょう。
でも心理学のどこそこの先生が「卒業しなさい」と言ったからといって「ハイそうですか、ネット止めます」では池田先生が言ったから日蓮が言ったから、と何も変わりません。
意見や理由は聞いてその上で自分で考えて、考え続け、それでも自分でブログを書く事を私は選択しています。
最近コメントで(学会を?)「気にしなくてもいい」と頂いていますが、アンチ、シンパの 「立場」 を問わず人の心がけを気にしているのです。もちろん私も含まれます。
過去、MC論やJSCPR等でお世話になった人、実際にあった人もいます。
1.その方々にきちんとした理由を頂く、
1.頂いた上でブログを止めた方がいいのでは?
と言われても今はブログを止める気はありません。(笑)

心理学の本も同様に選択して下さい。
この本はあう。あの本は自分に合わない。
この本はP50~P60が自分に合わない。P70~最後は自分に合っているetcetc
このお医者さんは合う、あのお医者さんは合わない
自分で自分を見つめて自分の意見を考え、自分で作り上げ、自分で選択して下さい。結果的に人と同じでもいいのでしょう。

法華経が誰のモノでもない、学会など教団だけのモノではない様に私のブログも 「立場」 を問わず読んで欲しいと思います。
法華経作者は「法華経を理解しなくても読んでくれる人のモノ」と思ったのでは?と私は想像します。
他の経典もそんな気がしています。
「モノ」というのも狭い考え方かと。賛成してくれなくても理解しなくても読んでくれただけでも有り難う!!ヽ(゜∀゜)ノってのが仏教経典ではないでしょうか?

心理学を幅広く記事にするのは私には出来ませんのでTB元のHPに期待します。
できればプロフィールやコメント許可もお願いしたいです。。。。
私のブログには心理学リンクもありますが、更に色々とご紹介下さい。>皆さんへ。

以上。
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信者6人暴行死、女祈とう師の死刑確定へ…最高裁

2008年09月16日 21時16分11秒 | 創価学会
信者6人暴行死、女祈とう師の死刑確定へ…最高裁 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080916-OYT1T00338.htm?from=navr

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信者6人暴行死、女祈とう師の死刑確定へ…最高裁

 福島県須賀川市の祈とう師宅で1995年、信者6人が暴行を受けて死亡した事件で、殺人や傷害致死などの罪に問われた同市小作田、無職江藤幸子被告(61)の上告審判決が16日、最高裁第3小法廷であった。

 藤田宙靖裁判長は「自らを神とする宗教的な集団を作り、絶対的な力を背景に他の信者に命令して殺害するなど、刑事責任は際だって重い」と述べ、江藤被告の上告を棄却した。

 江藤被告を死刑とした1、2審判決が確定する。

 判決によると、祈とう師だった江藤被告は、信者ら3人(殺人罪などで無期懲役~懲役18年が確定)と共謀、95年1~6月、キツネの霊を追い払うなどという理由を付け、江藤被告の自宅に住み込んでいた女性(当時45歳)らの全身を太鼓のばちでたたく暴行を繰り返し、4人を殺害したほか、2人を死亡させた。

 弁護側は「暴行の際、ほかの人格と完全に入れ替わっており、心神喪失状態だった」と無罪を主張したが、判決は「完全な責任能力があった」とした。
(2008年9月16日15時45分 読売新聞)
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274.カルトっぽい言動パターン思考パターンとは?

2008年09月15日 21時20分21秒 | 創価学会
●思考パターンみたいなモノを紹介します。

 私自身の経験です。昨年のネット上のトラブルがあった頃の事です。何度もMC論などを相談した人がいます。
その際に私が良く口にしたり思ったりしたのは「私、そううそは見捨てられているのですか?」(主旨)「○○さんは見捨てられているのですか?」(主旨)という点です。もちろんその答えは「そんなことないよ」でしたが。
誰が誰からどの様に見捨てられたのかは聞かれてもこれ以上は書きません。

 現在の状況を考えれば私、そううそ視点からしても「見捨てられてはいなかった」というのが答えです。
 つまり私、そううそが「見捨てられているのでは?」と「必要以上に」思った点です。
「見捨てられているのでは?」と思う事は世間一般の人にも良くある事です。
「私、そううそは見捨てられているのですか?」(主旨)と自分の事を問うのはともかくとして 「必要以上に」 感じていたかもしれない事。それと「○○さんは見捨てられているのですか?」(主旨)と聞く事、これは私、そううそがいつの間にか他者を「見捨てられている」と思い込んだ事自体が問題点でしょうか?本人はそう思っていないかもしれない、本人に確かめたわけではないからです。


 「必要以上に感じる」思考パターン は学会の中で「必要以上に」悪影響されなかったか?
あるいは「必要以上に」強化されなかったか?ということです。


学会員時代、会員1人1人を大切に。苦境にある学会員を見捨てない。創価家族。こういった事を教え込まれていますから「見捨てない」という思考パターンが強化されていると私は思います。

学会などのカルト教団はよく「私はこうこうこういう体験談がある。だから大御本尊の功徳をしらない可哀想な人、おまえは愚か者」といって体験談を理由に自己正当化、教団正当化しますよね。
体験談の中には自分が「見捨てられなかった事、大切にされた事」もその正当化の一つかと。
(大雑把に言えば自分の人生経験人生体験からカルトをカルトとは思えず自己正当化してしまうのでしょうね。
「お題目には力がある」「御本尊には力がある」そう思ってしまうでしょう。)


人を 「見捨てない事、大切にする事」 は一般の人にも良い事です。もちろん学会の人にとってもそうでしょう。


過去記事に書きましたが荒らしに来た学会員であってもその人の幸福は幸福として私が認める事と似ていると私は考えています。今でもその考えは変わっていません。
//////////////////
268.またまたまた、またもブログを振り返ってみると。。。。 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
大きな世界、枠であるのが世間一般です。その大きな世界の中で幸不幸が起こる。
大きな世界に存在する小さな世界、小さな枠であるのが学会。小さな世界の中でしかない学会でも世間一般と同様に幸不幸が起こっているにすぎません。幸不幸が起こる。と受動的なイメージで書きましたが、人間社会の幸不幸は人間が作っている、でもいいでしょう。
//////////////////
学会員であっても一般の人でも結婚や出産は古今東西、同じ様に誰にとってもかけがえのない幸福であるはずです。

「一般的にも良い」だから学会員のバリさんは学会思考から抜け出せない人がいると私は考えています。
自分が「見捨てられなかった事、大切にされた事」そうした経験、体験談を得ているので抜け出せない人がいるということです。
もう一度書きますが、人を「見捨てない事、大切にする事」は一般的にも良い事です。ではカルト思想と宗教思想の違いは何でしょうか?


●何処に問題点があるかを考える前に創価思考を再度考える。

会員1人1人を大切に。苦境にある学会員を見捨てない。創価家族。

 でもコレって学会という立場が条件、立場が前提条件なのです。一般の人であっても聖教新聞を取ってくれる人とか公明党に一票入れてくれる人とか未入信家族(学会員を家族に持つ立場)とかもそうでしょう。
カルトの言動は先の記事にも書いたとおり疑ってかかりましょう。

 創価学会の「大切に」とか「見捨てない。」というのは学会活動の中で教えられ行われます。人の為に祈る(人を呪う)勤行、唱題も場所が家の中と言うだけで学会活動でしょう?選挙、折伏、新聞啓蒙、家庭訪問、会合は場所が家の外と言うだけでやはりこれも学会活動でしょう。
対処方法としては唱題とか勤行、選挙活動なんですよね。病気の人であっても貧乏であっても人間関係であっても人生のトラブルや悩みはなんでもかんでも唱題、勤行、学会入信な訳です。(池田氏を師匠として師弟不二する修行も学会活動でしょう。師弟不二を目指しているわけですから。)過去記事にも書いてきたとおりケースバイケースに対処するのではなく一言で表現出来る 「学会活動」 という単語になるんですよね。


 つまり学会員は「学会活動」することが幸福に繋がる、ということです。そういう教えです。
ケースバイケースに対処するのではなく常にワンパターンです。


 ですから過去に自分の人生における幸福体験、あるいは「見捨てられなかった事、大切にされた事」を理由に唱題、勤行、学会入信を押しつけちゃうわけですね。
私も学会員時代に学会員から「大切にされた事」が有った事は過去のコメントや記事に書きました。
私が退会する動機の一つになったのは「見捨てられた事、大切にされなかった事」とも言えるでしょう。

○ちなみに。。。。

 私が退会を申し出た時に壮年部幹部、男子部幹部は「唱題で病気を治そう」とは言えなかったか?
それは普段から退会者、退転者の言動やケースバイケースな退会理由があった為、つまりは取り扱いに慣れすぎていたと私は想像します。普段会合で言っている様に「祈れ」「学会活動しろ」とは言えなかっただけかもしれません。私の病気の酷さもあったでしょうけど。想像でしか有りませんが、5,6人以上いて誰も言わないのは不思議な事です。

●普段から「学会活動」を他者へ押しつける習慣、自己正当化の習慣。

 普段から学会員は「学会活動」「学会精神」を他者へ押しつける習慣を繰り返します。
つまりは学会精神、学会活動という思考と言動を繰り返します。そうするとどういう事になるのでしょうか?

 創価学会員はカルトをカルトとは思えずに創価思考、学会精神に基づいて自分の言動を強化するだけでしょうね。
例えば学会員にとって「大切に」とか「見捨てない。」というのは良き学会精神なので疑う余地はないわけです。
「無疑曰信」(むぎわっしん)だとか「疑うな」と教えられます。
というわけで、理論や体験、教義、解釈、等々をごっちゃにしてしまうわけですね。

 他者に対しても常に同じワンパターンな思考パターンです。
つまり「学会活動」しないことには一般人(他者)は幸福になれない、と思っているのです。そういう思考パターンでしょう?
「学会活動」しなければならない。
「師弟不二」しなければならない。
「○○しなければならない。」って。

 自己正当化も同じです。カルトは自己正当化を習慣づけているのです。
その反対に宗教的精神は自分から進んで他者を肯定しに行くのです。自分を必要以上に肯定なんかしません。
どういう他者なのかは別記事とします。

 私の話に戻しましょう。もう一度書きますが、
学会員時代、会員1人1人を大切に。苦境にある学会員を見捨てない。創価家族。こういった事を教え込まれています。
学会員時代に「見捨てない」という創価思考パターンが強化されていると私は思います。
人を 「見捨てない事、大切にする事」 という点についても一般人の思考ではなく創価思考をしていると私は考えます。

「見捨てられている」自分が他者に感じる事。
見捨てられている人を助ける事。

これらは悪い事ではありません。一般の人にも普通にある事です。もちろん学会の人にとってもそうでしょう。
人を見捨てろ!、大切にするな!
とか
人を見捨てない事や大切にするのは駄目である。
とか
私、そううそが言っていないのが分かりますか?


 カルトに近い言動や思考は他者にとって何が「必要」「不必要」で何処から何処までが「必要」「不必要」なのか見分けが付かない、という点でしょうか?安易にレッテル張りをする、安易に誹謗中傷してしまう、安易にカルト側から会話を打ち切ったり、これだけは言っておきますとか言って捨てゼリフになるのです。日蓮正宗系の場合怒りを伴う事が多いので肉体的に負担があるでしょう。

 宗教に近い言動や思考は他者にとって何が「必要」「不必要」で何処から何処までが「必要」「不必要」なのか慎重に見極めようとする、慎重に対処する、という点でしょうか?常に見極めようとし続けるのです。常に慎重に対処し続けるのです。出来るだけ話し続けたり問いかけ続けたりするのです。○○をし続けるわけですがどちらかというと冷静であり怒りはなく、継続する事に苦痛は少ないのです。


毒矢の譬えなど過去記事に何度か書きましたが、経文解釈についても
「どこからどこまでが宗教思想であり、どこからがカルト教団に悪用されたカルト教団都合な思想なのか?」
ということです。

常にワンパターン、ワンケース、柔軟に対処出来ない思考、言動がカルトっぽいと言えそうです。
原始仏教や心理学、医学はケースバイケースに対処します。
ケースバイケースに対処する為にもよく話し合うって大事な事だと思います。

池田大作大先生様々は永遠の指導者なんですから国会証人喚問に出て話すべきだと思います。
永遠の指導者なんですから国会議員なんて簡単に指導出来るほどバカに見えるのでは?
権威権力にとりつかれたバカな国会議員を指導してやる為にぜひおいて下さい。
お偉い人と対話するのは大先生のお仕事でしょ。対話する事がカルトでない証明の第一歩です。
日蓮大聖人と同じく国家諌暁ですよ。かっくいー。

●何処に問題点があるのか?

いくつか問題点の例を挙げます。
例であって人の言動や態度にいつも下記全ての条件を満たしているわけではありません。


他者にとって何が「必要」「不必要」で何処から何処までが「必要」「不必要」なのか見分けが付かない。
自分や他者の健全さと不健全さを見分けられない。
他者に「必要以上」の事をしようとする。
他者の言動、心理状態etcetcを勝手に思い込む
自分には出来ない事をしようとする、自分の等身大以上の事をする。
言動の際に考えてから判断しない。行動しない。
慎重さや謙虚な態度が足りない。


「必要」「不必要」というのは他の名詞にも置き換えられると思います。
学会批判で良くあげられるのか思考停止ですが、ちょうど逆に当たるでしょう?思考停止と上記の事はよく似ていると思います。
私そううそが個人的に考えてこんな所でしょうか?
あくまで個人的な考えですが、部分的に心理学の本やカウンセリングの本に当てはまる箇所があると思います。
もちろん、心理学やカウンセリングの本に比べれば項目数は全然足りていません。
項目数だけを考えても心理学が世界中の様々な人や物事に当てはまるのに比べて創価思想、日蓮思想なんて実に狭い範囲にしか通用しないと私は思います。僧侶や宗教者の人は余程しっかりしないとね。


日蓮正宗系のカルトな人、バリさんとか誹謗中傷の多い人は 「他者の言動を勝手に思い込む。」「他者を誹謗中傷したらどんなレスポンスが返ってくるか?分かって無い」というのが多いでしょう?

心理学の本は過去記事を参照して下さい。
231.MC論、AC(アダルトチルドレン)、カウンセリング系、心理学系などの本の紹介 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
私は西尾和美氏の本を紹介していますが、西尾和美氏が嫌ならいきなり買わなくてもいいのでamazonなどで皆さんの書評を見て手がかりとして気に入った本を見つけて下さい。

○補足

アンチ創価同士でも○○さんを見捨てた!酷い事を言った!etcetcネットバトルは今までもあったしこれからもあるでしょう。
同様に上記の事が当てはまると思います。
学会被害者をネット上で有る程度まで助ける事は「一般的に考えても良い」と思います。
しかしカルトと似た思考パターンになっていないかどうかはチェックする必要があると思います。

「会員1人1人を大切に。苦境にある学会員を見捨てない。創価家族。」
という事を言いながら、池田氏、学会が見捨ててダブルスタンダードなのは過去記事の通り。私も証人です。
姉歯氏、矢野氏、竹入氏、大森氏、退転者etcetc。

●ですから、、、、


学会員や池田氏の言動を見た時に「学会に見捨てられているのでは?」と思う事は当たっている可能性があるのです。
学会を離れて世間一般を見た時に「私は見捨てられているのでは?」と「必要以上に」思う事は当たっていない可能性があるのです。


 学会員であっても退会者(一般人)であっても人を見捨てない事、大切にする事は良い事です。普遍です。
でも学会には表裏があります。人を見捨てない事、大切にする事は良い事である。絶対である。、人を見捨てない事、大切にする事に絶対視しすぎる。この極端さがMCといえるでしょうか?「必要以上に」ということです。白黒2極論と似ていると私は考えます。

 世間一般を見た時にガッカリして学会などのカルトに戻らないで欲しいと私、そううそは考えます。
学会には部分的には確かに思いやりや情はあるのかもしれませんが、それは学会内部だけであって外部には通用しないし一般人から見たら異様なんですよ、って事です。思いやりや情を全否定しませんが、カルト性が見え隠れしていますよって事です。

人を見捨てない事、大切にする事を大事だと自覚出来る人、
人から見捨てられたり大切にされなかった経験のある人

特に後者は人の痛みや苦しみが分かるんじゃないでしょうか?だから後者の人は「人を見捨てなければ」素晴らしい人と言えるのかもしれません。何かの宗教者である必要もなければどこかの宗教教団の立場を必要としないのは272番記事の通りです。
272.信じた立場の違い、信じた内容の違い - 創価学会の信仰に功徳はあるか?

どうして誹謗中傷が宗教者側(カルト側)から起こるのか?
学会や池田氏を否定されるとどうなるか?
というのがこれからの記事になります。

以上。

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273.改めてそううそ教にならないで欲しいポイント

2008年09月15日 20時33分03秒 | 創価学会
●改めてそううそ教にならないで欲しいポイント

 改めてそううそ教にならないで欲しいポイントがあります。
今までもそうでしたし、これからもそうだと思いますが、仏教学や心理学等々で他のHP記事や書籍の紹介を続けると思います。
 私、そううそのブログを皆さんに読んで頂いて仏教学や心理学等々ではじめて知った点もあるかもしれません。
あくまでも私、そううそが知らなかった、というだけで仏教学や心理学等々で画期的な内容ではないのです。
末端の一学会員として過去に騙されていただけ、知らなかっただけ、ということです。
説明の仕方や内容はそううそ風、そううそっぽいかもしれしれませんが。(笑)

 心理学も一般仏教の歴史や解釈(功徳はある/ない、ではなく積むetcetc)も「そううそが知らなかった」ということです。
退会者である私も学会問題に疑問を持つあなたにとっても 「実は」「知らなかった」ではないでしょうか?

 色々と創価批判を書きますが、1人の人間として分からない事や理解できないこと、行動できないこと、失敗する事、失礼なことをすることはきっとあるでしょう。今までもこれからも無謬ではありません。私自身、学会に入った事自体が大きな失敗でしょ?

 私のブログを読んで学会員が心理面、精神面において過剰反応するかもしれません。
原因はカルト側にあるのであって、そのカルトに籍を置くなど公明党に一票投じるなど何らかの形で学会を助けている会員に責任がつきまとうと思います。

●「実は」はアンチもシンパも言う。

 でもこれは創価学会でも同様に、白法隠没 ( びゃくほうおんもつ ) 」している末法の時代には釈迦仏法が隠れて見失われる。法華経の経文はあっても「実は」誰も知らないか誰も広宣流布していなかった、誰も布教出来なかった。末法の時代に境地を顕したのが「実は」御本仏、日蓮大聖人ただお一人。。。。なんて言っています。「実は」池田先生は日蓮大聖人の生まれ変わり、「実は」池田先生は胡 錦濤(こきんとう)にチベット問題を諫めている、、、人をバカにするのもいい加減にして欲しいモノです。
学会側も 「実は」あなたが知らないだけ。 という言い方で権威主義をからめつつ騙しにやってくるわけです。

この際に池田先生の事、日蓮大聖人の事、日蓮仏法を「知らないからお前は駄目なんだ」というのが学会です。(別に記事を予定かも?)

以上
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272.信じた立場の違い、信じた内容の違い

2008年09月08日 20時36分37秒 | 創価学会
●今でも見つかる思いこみや誤解。

267.はじめてのJSCPR - 創価学会の信仰に功徳はあるか?

 最初は自分の為ではなくJSCPRに行ったのですが、その後も何度か行く事があり、関わったおかげで私のMCを解く一助になったと思います。(おそらく解ける早さが違ったのでは?と思います。)一助であって全てではありません。例えばMCは一つの要素ではなく経文、人の持つイメージ、会話の仕方。学会以外の他者、他教への邪宗という認識。ありとあらゆる点にあるということです。もくじ1の頃の記事や頂いたコメントもMCを解く一助になっています。
270.「妙法蓮華経」には折伏という文字は出現しない。

 しかし今でもMCというか思いこみや誤解は残っていています。恐怖感、不安感などを伴った精神的なモノでもないし、学会精神みたいなモノでもありません。経文や日蓮遺文に関する解釈について思いこみや誤解(どちらも池田氏解釈や創価学会都合の嘘)は沢山残っているでしょう。それと思考パターンみたいなモノも。人の持つイメージ、、これも単語としては当てはまるでしょうか?

でも、自分で自分を見つめて「経文や日蓮遺文に関する解釈について思いこみや誤解についてのみ、残っていても構わない」そう思います。
あくまでも自分にとってですが自立への一歩はそういう事ではないかと私は考えます。
皆さんに当てはまるかどうか?これが今回の記事のポイントです。

これは経文や日蓮遺文に関する研究や勉強、解釈なさっているLibraさんや富士門BBSの皆さんを否定しているのではありません。
むしろその逆でお願いしたい事がいくつか有る位なのです。まだしばらく考えてどうしても考えが変わらなければ自分でお願いしたいと思います。

どちらかというと傷ついた、傷ついている学会員さん、疑問を持っている学会員さん、退会者向け、学会員(カルト)と関わっている一般方向けの記事です。

●私自身の寿命は分かりませんが、死んだ時に。。。。

 極端な言い方であり誤解を生みやすいかもしれませんが、私、あるいは誰であっても仮に間違った法華経解釈を抱えたまま死んでも別に仕方ないと思います。「間違った法華経解釈」が理由で学会の言う「地獄に行く」「不成仏」とは思えないからです。だからといって 間違って良い といいたいのではありません。池田氏や学会、正宗、顕正会の言動を肯定していません。時代や学問的成果などから事実に近い内容とカルト教団のいう内容の違いや差を理解出来るか理解出来ないかは人によってケースバイケースであり仕方ない面がある、と私は考えています。

●学会の言う、「地獄に行く」「不成仏」って何?

 正宗から破門以前に日顕氏や大御本尊を信じて死んだ人は成仏か?不成仏か?(幸福と言えるのか?不幸と言えるのか?)
正宗から破門後に池田氏や学会を信じて死んだ人は成仏か?不成仏か?
ここでは成仏を死後の事だけに限って書いています。池田氏や学会本部から独自の本尊配布発表のあった当日(平成5年10月)以前と以後で成仏か?不成仏か?が変わってしまうのか?


 池田氏や学会本部(正宗や顕正会も)の言っている事は ”立場””立場の違い” でしかありません。


 「池田先生を批判する人は許せない」つまり「池田先生を批判する ”立場” に立つ人は許せない」、ってヤツです。池田氏や学会に言わせれば正宗から破門後には立場が変わる事で成仏が決まる。法華経解釈や仏教の解釈、現代人の日蓮や本尊に対する解釈がある日突然、学会都合で変わっても成仏する、「平成5年10月以前も以後も学会に所属していれば成仏」という異常な感覚です。

創価学会というカルト教団にとっては日蓮真筆遺文、(偽物だけど)大御本尊を信じるかどうかは問題ではないのです。(笑)

 学会も正宗も御書(日蓮遺文を集めた本)は偽書も混じっているし、正宗という伝統や偽物な大御本尊を利用して自己正当化してきたのは創価学会なのにね。(笑)
(過去記事に書きましたが、前世や今世では成仏出来なくても来世で学会に入信して成仏する、教えが学会にあります。やはりここでも成仏、不成仏が決まるのは学会が基準です。)正宗を信じる立場、学会を信じる立場でしかないのです。法華講の人の様に「ああ、あの人は学会にいて可哀想。」「ああ、いやだ、あの人は学会にいるから謗法の人。」。。。。。おかしいですよね。
 信じて心や言動が良くなる事が宗教の目的であり、宗教のアウトプットは人であるはずですが、いつの間にか立場や入信が目的になっています。
そうでなければ ”日顕宗” という言葉は生まれません。これが悪しきレッテル張り、宗教でないカルト的なモノ、またMCであることは過去記事の通りです。

お互いの違う立場を否定する事、しかも誹謗中傷が当たり前で組織全体や立場を責めるという理由は僧侶トップや学会本部の権力志向、拝金思考にあるのは言うまでもないでしょう。「純粋に信じる内容、信じた内容の違い。」ではなく 何かを信じるという「立場の違い(組織の違い)」が学会や正宗のトップにとっては問題なのです。
 カルトの言動は先の記事にも書いたとおり疑ってかかりましょう。
何かを信じた「立場の違い(組織の違い)」というのは 池田氏を信じた学会。日顕氏を信じた正宗。と、ここまで書けば分かりますよね。

何を信じているのか?ではなくて池田氏、日顕氏を信じた「立場の違い(組織の違い)」が学会や正宗のトップにとっては問題なのです。
もっと言うと教団のメンツを信じるかどうかですな。

つまり、カルト教団は末端の信徒に「何をしているか?」というと、「相手方の教団には行くな、我々教団トップが広宣流布をしているのだ!我々を信じろって言っている」「相手方の教団に行くと罰が当たるぞ、不幸になるぞって言っている」「罰論地獄論で脅している」「ご供養しろと言っている」「池田先生が末法の法華経の行者だから師弟不二しろ」「宿命転換の為に選挙活動しろといっている」わけです。
立場の違いを云々するのは怪しいぞ?って事です。

○学会も正宗も「内容の問題だ。我々が日蓮の言う事を信じているし相手は謗法なのだ」といいます。

 学会も正宗も我々が日蓮の弟子として正統派だ、そういいます。信じる内容が問題であり宗教のアウトプットは人、依法不依人(えほうふえにん)ですから日蓮には重きをおかなくてもいいのですが、どちらも日蓮という(御本仏であるにしろ、そうでないにしろ)イメージを利用して権威主義に用いているわけです。やっぱり「日蓮は無謬」「日蓮は御本仏」という思想も現代人にとっては悪影響が多すぎますね。

日蓮正宗系カルト教団が日蓮を 「必要以上に」 (←この言葉は後々の記事にとって重要です)持ち上げる問題点と実に類似しています。

カルトの特徴の一つだと私は思います。

●経文や日蓮遺文に関する解釈について思いこみや誤解、、つまり誤解釈

 では「純粋に信じる内容、信じた内容の違い。」ならどうなのでしょうか?

 「純粋に信じる内容、信じた内容の違い。」というのは、間違った信じ方、間違った解釈があるか?という事なのですが、実は日蓮自身も創価学会や正宗と同様に間違っていたわけです。現代人同様、経文や日蓮遺文に関する解釈について思いこみや誤解、、つまりは誤解釈です。誤解釈をしていた日蓮は成仏したのか地獄へ行ったのか?????
 過去記事の通り、毒矢の譬えの様な確かめようのない事でアレやコレやと喧嘩するのはおかしいですよね。学会と正宗そっくりです。五時八教などの誤解釈をした日蓮が成仏したのか地獄へ行ったのか?は現代人には分かりません。後々の人がする解釈や人がする思い込みです。 現代人の我々が後から勝手に様々なイメージを持っている、成仏したイメージを持っている にすぎません。

 日本人の子孫として例えば仏教徒の人であれば「日蓮さんが成仏しています様に~南無阿弥陀~。」でいいと思うんですけどね。「南無妙法蓮華経」でも良いと思います。我々が日蓮に良き影響を受けるならば感謝されるでしょうし、これからもカルト教団がはびこる様では今後日蓮自身がカルト扱いされるでしょう。キリスト教や日蓮宗や一般仏教の人に期待します。まずは宗教者自身が自立して下さい。特に僧侶自身が努力すべきだと思います。

「純粋に信じる内容、信じた内容の違い。」というのは例えば大御本尊も当てはまるでしょう。大御本尊を本物と信じた人は成仏か?不成仏か?ということです。
いくつかの本門戒壇の大御本尊が存在するようですが、最初に大御本尊という偽物を作った人や後世、偽物と知っていながら偽物を本物といった人には罪があると思います。組織、宗教団体としての正宗の責任や罪です。
偽物とは知らないまでも他宗を邪宗呼ばわりしたり見下した人も残念ながら有る程度は責任や罪は有るでしょう。僧侶も信徒も両方です。

「純粋に信じる内容、信じた内容の違い。」というよりも「心がけ」の問題の様な気がしています。

 一個人の祈り、いや、祈りと言うよりも現実的かつ切実な願いかな?
御利益を求める題目、本尊、信仰、本仏論を前提にした祈りと宗教本来の祈りには差がある、宗教本来の考え方から遠いという意味です。
現代の宗教教団、カルト教団の教える「祈り」には私は疑問を感じています。まだ漠然ですが。。。。
祈りについては記事を書けていないのですが、やはり祈りについても組織よりは個人志向のベクトルになると私は考えています。
過去記事に書いてきた様に心理学や原始仏教など向いているベクトルは同じだと考えています。

●というわけで、、、

 創価批判だけでなく傷ついている学会員さん、疑問を持っている学会員さん、退会者向けですが、自分が間違っていても成仏はするよ、って私、そううそは皆さんに言いたいです。キリスト教っぽく天国行きでもいいでしょう。

 正宗、顕正会、学会という立場をあまり気にしないで出来るだけカルト教団から退会や距離を置く様にして欲しいと私は思います。
宗教サーフィンなどと呼ばれる様に正宗、学会と行ったり来たりするのは信じる内容ではなくて個人都合や個人視点から見た何らかの立場ではないでしょうか?

 創価学会にいるとカルト教団都合解釈で「仏法の勉強しなければいけない」「理解出来なければいけない」そうしたMCをされがちです。
ある程度の脱カルトとしての勉強は最低限必要だと思います。一般仏教や仏教歴史認識をちゃんとして欲しいと思います。でも経文全部を読もうというのは無理がある気がします。自分自身の中に「経文や日蓮遺文に関する解釈について思いこみや誤解についてのみ、残っていても構わない」「現代人から見たら仏教思想なんて大したこと無いな」「現代人から見たら日蓮思想なんて大したこと無いな」「法華経は創価学会だけの為の経文ではない」「法華経の行者は日蓮だけではない」「日蓮はただ単に曼陀羅をはじめて書いたお坊さんでしょ?」 そんなちょっとしたバランス感覚やちょっとしたニュートラル感覚を持って欲しいと思います。でも他者へ教える時、伝える時はちょっと違ってきます。(別記事にて後述)

 きちんと仏教を学ぶ事は悪い事ではありません。絶対に止めろと言っているわけではありません。あくまでちょっとしたバランス感覚や認識の問題です。

 出来るだけ間違えないで生きようと思いつつ、間違えたり又騙されたりしたら、またそこで修正すればいいし修正するしかないでしょう。
自分の為に生きよう、人の為に生きようって思う事でもいいでしょう。

 人の心の中なんて他者からは分からないのが当たり前なのです。表情や言葉、態度でようやく他者に伝わるんでしょ?
たとえ創価のいう生命であっても生命状態が仏か地獄かなんてわからないはずなのです。
我々だって日蓮の心や生命状態なんて勝手にイメージしている、解釈している、思い込んでいる、にすぎません。
経文が法則ならば間違えた日蓮は地獄にいるのです。
更に言うなら仏説(ブッダの言った事)から遠い面が日蓮仏法にはあるのですから、「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし うるし千ばいに蟹の足ひとつ入れたらんがごとし」(御書全集P1056曾谷殿御返事、真筆度7。真筆遺文が残っていないみたい?)地獄行き決定です。(笑)学会、正宗にとっては真筆扱いでしたよね。

間違えた日蓮が地獄に行っている事を誰が確かめましたか?

 さて、学会に疑問を持った時に心の中に生まれるギャップが問題になってきます。
例えば「見捨てられた」「考えてばかりで信じ切れない」etcetcという感情です。

過去記事に書いてきた事が多いのですが必要なので書きました。

以上

'08.09.15 青文字追記
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271.宗教とカルトと立場。

2008年09月07日 21時24分36秒 | 創価学会
ちょいと緊急記事。

犀の角のように独り歩め:わたしの立場

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>創価学会本を取り上げたところ、わたしが「生命論」「創価学会」に返り咲いたがごとき、まったくの見当はずれの批判

>「マインド・コントロール」が言葉として一人歩きし(中略)アンチ・シンパといった両陣営に分かれての罵倒合戦の中で、特にアンチ陣営の、自称カウンセラーたちによって、ひどい誤用を重ねられる

>アンチ・シンパを分かたず、この係争に参画する両陣営の人々に、時には日蓮門下僧侶方にも不快な思いを多々させることもあるだろう。しかしながら、この“不快感”は、実はわたしに原因があるのではなく、それぞれの信仰と諸科学の研究成果との齟齬を来した結果なのであって、つまりは、信仰が有するカルト性にこそ、その原因がある。

>最近では自称カウンセラーを気取るアンチ陣営の人々が、自らの浅薄なマインド・コントロールの知識の間違った理解と、さらに他に対する誤用の結果、 自分の意に合わないからといって批判の俎上に上げることには閉口している。アンチ・シンパを通じて、わたしへの不快感は、実は、それぞれの人々の権威主義的パーソナリティによって発動される心理現象が引き起こすのではないか。

>注意すべき点はカルト経験のない人々もまた、こうしたパーソナリティの虜になっていることだ。「朱に交われば赤くなる」「ミイラ取りがミイラになる」という格言のとおり、シンパをカルト・マインド・コントロールと批判を展開しているうちにステレオタイプに陥り、憎悪によって行動するようになり、ついには権威主義的パーソナリティを形成してしまうことがアンチの陣営で起きていないか。現時、もっとも留意すべきマインド・コントロール問題である。

//////////////////////////////////////////////////////

犀角独歩さんの言う事にまったく同感です。

●創価学会の言っている事、やっている事と何も変わら無い人は問題があると思います。

 誰がどの様に独歩さんに批判をしたのかは私は知りません。
「MC論や心理学、原始仏教、仏教全体の歴史etcetc勉強不足」
「目的に欠ける」
「目的意識に欠ける」
「目的や意識の向いている方向(ベクトル)が間違っている」
「最初の目的や認識が間違っている」
からおかしな批判になるのだと私は推測します。

まず注意事項として独歩さんを批判をした人を「アンチ創価という名のカルト」「カルト」というつもりは私にはありません。そもそも知りませんから。

 但し、実を言うと私もずっと以前から 「アンチ創価という名のカルト」 という点にも疑問を抱いてきました。
私、そううそから今現在を見ても、そしてこれからも「学会に対する批判」「学会批判」は当然の事です。
学会を批判していれば「アンチ創価という立場」でありそれはアンチ創価だから「正しい立場」といえるのでしょうか?

「学会が間違っているからアンチ創価は正しい。」
それは創価学会の言っている事、やっている事と何も変わりません。

単純にアンチ創価という立場だけで正邪がきまるならば日蓮正宗や顕正会、過去のオウムだって「正しい立場」という事になってしまいます。

●「アンチ創価という立場で有ればそれでいいのか?」

「日顕氏が間違っているから池田先生は正しい」
「日顕宗が間違っているから学会は正しい」
「邪宗が間違っているから池田先生や学会は正しい」

日顕氏が間違っている、邪宗が間違っている、という決めつけやレッテル張りが前提になって「学会という立場が正しい」という事になっています。

学会問題を考える時に創価学会と同じ言動をとらない為、つまりは単純に「アンチ創価という立場で有ればそれでいいのか?」ということです。

「相手を救うという意識が有ればそれでいいのか?」
「アンチ創価という立場が有ればそれでいいのか?」

もう一度書きますがこれらをきちんと突き詰めていくと  「アンチ創価という立場で有ればそれでいい、という単純さが見え隠れするならば、それは創価学会の言っている事、やっている事と何も変わりません。」  ということです。

●「アンチ創価という立場を否定するのか?」

 特にネット上において「アンチ創価という立場で有ればそれでいい」なんてバカな事は誰も書かないでしょう。

Q.「そううそ、おまえはアンチ創価という立場を否定するのか?」

A.違います。立場は必要な場面があります。
そんな簡単な事とか、そう単純ではないのです。立場を単純化する事が問題なのです。「単純さが見え隠れするならば」です。

普段からのその人のトータルな背景、トータルな人間性を見る必要があると思います。有る程度時間をかけて。。。。
特にネット上においてですが、一つの記事や一つのコメント、あるいはコメントの中の一行の揚げ足取りをして 「単純な批判」 をすることがカルトっぽいのです。学会そっくりだと私は思います。
学会は常に「日顕は地獄行き」「日顕宗は謗法」という 「単純な批判」 をしています。悪しき 「単純なレッテル張り」、十界生命論に基づく悪しき学会側からの悪しき 「単純な決めつけ」 です。

ネットにしろ、リアルにしろ、有る程度、時間をかけてある人の言っている事、やっている事、思考パターンを注目したとします。
その人の「言っている事、やっている事、思考パターン」が創価学会そっくりであればアンチ創価という「立場」は「アンチ創価という名のカルト」ですよって事です。
だから わざわざ独歩さんはご自身の人生の歴史的立場(?なんか変な単語だ。(笑)(^_^;A)をわざわざ長々と説明する必要が出てきてしまう。。。。。。

●安易に「立場」の否定をしていません。

 犀角独歩さんの記事には「私の立場」とあるので、この本記事を読んだ時に犀角独歩さんの「立場」あるいは「立場」という単語の使用、や用法を私、そううそが否定するかのように受け止める人がいるかもしれません。
でも犀角独歩さんは全然誤解なさらないと思います。
そううそと独歩の喧嘩か?と思う人がいたら、あなたは全く正反対な認識であり、それこそ人の不幸を望む人か、あるいはカルトっぽい思考をする人だと私は思います。

○一つの記事やコメント、あるいはコメントの中の一行の揚げ足取りをして 「単純な批判」 をすること

これの対策や解決方法は簡単です。
じっくり、ゆっくり話し合う事だと私は考えています。これと「単純な批判」は正反対だと思います。
もちろん話し合わない自由もあります。

私はよく 「普通に話す」「人を見る」 とネットやリアル、メール、TEL等で言ってきましたが、私、そううそが何を学び、何を考え、何を皆さんに伝えたいか少しおわかり頂けるでしょうか?「普通に話す」「人を見る」という理由を察して頂けると幸いです。

じっくり、ゆっくり話し合って 「相手の全てを理解する」 とか 「相手と全く同じ立場に立つ」 を「絶対視しない」「絶対必要としない」のです。
たとえじっくり、ゆっくり話し合っても「必ずしも必要としない」のです。
この理由や説明はかな~~~り長~~~~~く(笑)なるかもしれないので後々とします。

●上記の理由や根拠は?

書く予定です。
但し記事としては5~10程度先の記事になると思います。まずは今継続中の記事を書くつもりです。268、270の続きです。2つのキーワードに着目する記事を優先して書こうと考えています。
すでにいくつかのその単語や文章は書いています。
全く書いていないのは「相手を救うという意識が有ればそれでいいのか?」という点だと考えています。
それから曖昧にしか書いていませんが、 「立場」 という意識、認識も疑問視しています。

すでにいくつかのその単語や文章は書いています。

----------------------------------------------------
大人の対応、子供の対応
そううそ教になってはいけない
原始仏教と心理学は結論や目的は違っても同じベクトルを向いている。
反対のベクトルを向いているのがカルトであり日蓮正宗。顕正会、創価学会。
----------------------------------------------------
 いつも必ず出来ていた、という事ではないのですが出来うる限り心がけていた事がいくつかあります。もくじ1の頃からだったのですが、創価学会や学会員の言う事、行う事(つまりは言動)に出来るだけ疑問や反対の立場を取ってきた事です。
----------------------------------------------------
 退会以前は「折伏する側、つまり立場」だったわけですが、疑問が生まれ退転しさらに疑問が大きくなると今度は「折伏される側、折伏を受ける立場」になるわけです。
----------------------------------------------------
 私は人類にとって宗教は不要だと思います。しかしそれでも「現代でも通用する良き法華経精神」を信じる人はいるでしょう。 「法華経の根本精神、現代でも通用する法華経精神」 を広め、法華経を信仰しない人やまったく経験や「立場」の違う ”人にとって” ”人から見て” 良き人であって欲しいと思います。仏教だけでなくどの宗教にも言える事ですが。
----------------------------------------------------
こういった事が起こる度に創価公明の人に聞いてみたい事があります。もちろん今回の当事者にも聞いてみたいところです。
「悪いことをした時はどんな生命状態でしたか?」
「バレた時はどんな生命状態ですか?」

他人の生命状態を地獄だとか言い切るわけですから、さぞかし自分の生命状態も言い切ってくれると思うんですけど?
----------------------------------------------------

一番最後のは学会の悪しき 単純なレッテル張り、単純な決めつけを問題にしているのは分かって頂けると思います。

以上。

誤記訂正 08.09.13
コメント (4)
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270.「妙法蓮華経」には折伏という文字は出現しない。

2008年09月07日 20時04分34秒 | 創価学会
268.またまたまた、またもブログを振り返ってみると。。。。 からの続き。

●「地涌の菩薩が迫害されるという記述は法華経にない。」

 238.「祈」という漢字は法華経本文にはない - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
「法華経には祈りという文字はない」に続いて「地涌の菩薩が迫害されるという記述は法華経にない。」です。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1030610752/314-328 法華経について - 富士門流信徒の掲示板

「富士門流信徒の掲示板 法華経について」スレッドの中でも
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1030610752/319法華経について - 富士門流信徒の掲示板
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1030610752/322法華経について - 富士門流信徒の掲示板

 私も学会員だった為か 「地涌の菩薩は迫害される、難にあう」という 「イメージ」 がありました。
確かに「悪世に法華経を広める人は迫害される」や「三類の強敵」という教えは勧持品にそうした記述があります。ある程度、大まかな括りとして法華経の行者という括りはともかくとして実は

 「不軽菩薩が」 難に遭う

んですよね。文永十一年の「聖人知三世事」(真蹟)に
「日蓮は是れ法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に 」
とありますから、池田大作氏は
日蓮遺文に従って不軽菩薩になる為
永遠の指導者になる為
にも、やはりここは国会証人喚問に出たり、あるいは日顕氏、日如氏と公開法論すべきでしょうね。

 日蓮は法華経に複数出てくる菩薩達のイメージを自分に当てはめた(難に遭ったと思った立場だった)ので現在の学会っぽい解釈(思いこみやイメージ)も成り立つのかもしれません。法華経をきちんと読んで解釈した、というより学会員が日蓮に持っているイメージですよね。
 このイメージというのがやっかいです。バリ活な人だけでなく普通の学会員さんでも私のブログで「なんでそこまで法華経や日蓮を貶めるのか?」そう思う人がいるでしょう。その理由には私なりの危機感や問題意識をもっている為です。できるだけ書いていこうと思います。

●『妙法蓮華経』には折伏という文字は出現しない。

摂折論(摂受か折伏か)のどちらよりか?で法華経を解釈すると
「徹底的に摂受的な経典」
という解釈もなりたつのだそうで。(^_^;A しかも、聖徳太子の解釈では法華経は
「穏やかな経典」
なんだそうです。

日蓮 折伏の本来の意味
http://www.kosaiji.org/hokke/nichiren/shakubuku.htm日蓮 折伏の本来の意味
広済寺ホームページは度々引用したりリンク紹介をしています。このHPも私にとってMCを解く一助になっています。

○摂受折伏というテーマは法華経にはない。

またまた「富士門流信徒の掲示板 法華経について」スレッドから。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1030610752/230法華経について - 富士門流信徒の掲示板

1.天台教学で法華涅槃と一つに括った事から涅槃経に書かれている折伏思想のコンセプトで法華経も解釈した為に「法華折伏」となった。
1.法華経は折伏の教えであるはずもない。

日蓮の「法華折伏、破権門理(はごんもんり)」は現代では通用しない事が分かりますね。
「法華折伏」で検索すると上から3,4つ読んで笑ってしまいました。
いやいや笑っちゃいけないか?私も信じていたし。(^_^;A(^_^;A(^_^;A(^_^;A
読んで腹が立つのではなく笑って読めるくらいMCが解けた、という事にしておいて下さい。(^_^;A
寸鉄、大百法、どこかの学会員さん?かな?
しかも如説修行抄は偽書の疑いがある遺文ですね。

 また人を救うにしても、仏教思想であってもなくても人間の思想を伝達するにしても、どちらにしても折伏、摂受というたった二つの方法しか選べないのは疑問です。折伏、摂受という2つのうちどちらでもなく、折伏、摂受を含めたありとあらゆる方法をケースバイケースに考えたいですね。

池田先生が言ったからいいんだ、日蓮が言っているから良いんだ、過去記事に書いてきた、創価思考や思い込み、思い込みによる思考停止ですね。
経文にしろBBSにしろ文章をよく読んで理解する、解釈するというよりも、その逆で教団都合の教え込まれたイメージとも言えると私は思います。

●<補足>
 なお、みれいさん、Libraさんから過去記事、コメントに書いて頂いたように「法華経には人を罵倒してはいけない記述がある」コレは私としても何度も取り上げてきました。

-8.師匠達との対話。その7(法華経に人を罵倒してはいけないという記述) - 創価学会の信仰に功徳はあるか?

-2.師匠達との対話。その1 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
//////////////////////////////////////////////
あと、法華経「勧持品」「安楽行品」に加えて、
見逃されてるのが「常不軽菩薩品」。
実に傲慢な学会員さんをみてると、この解釈がいったいどうなっているのだ?とおもいます。
//////////////////////////////////////////////

●学会員にありがちなもう一つの思いこみ(イメージ)

 学会以外の他宗(邪宗)、他者(他宗教者)が ”悪人”だとか”迫害する”とか”暴力ありきの人”とかのようなイメージがある事かもしれません。
しかし現代は科学や論文、証拠、「きちんと話す事」が重視されるのであって 正宗や学会員の思いこみ(日蓮が正しいと思いたい。法華経が御本尊が正しいと思いたい。)は通用しないと思います。思い込みやMCによる他者(他宗教者)が ”悪人”という悪しきイメージや悪しきレッテル張りは通用しないのです。世間一般では通用しない ”日顕は極悪人””日蓮正宗は日顕宗””アレは邪宗”といった短い言葉による悪しきイメージや悪しきレッテル張りです。

 先程も書いた「法華経を広めようとする人を迫害する人は悪人」なんですがコレって現代に通用するんですかね?通用しないでしょう。

法師功徳品 第十九 には法華経を信じ、読誦し、解説し、書写した人は、以下のような功徳を得ることが出来ると書かれています。
「八百の眼の功徳」「千二百の耳の功徳」「八百の鼻の功徳」 etcetc
随喜功徳品 第十九にもそうした事が書かれています。現代的に言えば眼が良くなる、耳が良くなる、あるいは”物事を良く見通し理解できるような視点を持つ”、ということでしょうか?後者でも現代では通用しないと思いますが。。。
仮に前者だとして、現代のお医者さんは病人が来た診察の際、法華経を差し出して「信じ、読誦し、解説し、書写しなさい」とは言いません。
お医者さんは法華経以外の方法を広め、患者の病気に対処しています。お医者さんは法華経に従いません。
医者が悪人ですかね?創価のいう生命論が理由で病人の生命を救うから善人ですか?(笑)

 学会員であるとないとにかかわらず、法華経を信じる人は 「法華経の根本精神、現代でも通用する法華経精神」 を広めたいのかもしれません。
学会員の場合、「現代でも通用する法華経精神」を広めているのは池田氏であり学会であり、その「法華経を広めようとする人を迫害する人は悪人」と言いたいのかもしれません。
池田氏が「法華経を広めようと」折伏、布教、説得(言葉は何でもいいのですが)するのを見た事ある人なんてほとんどいないでしょう。

 それどころか「法華経を広めようとする人」というよりも池田氏は「本尊はモノ」「永遠の指導者」とかいって法華経や本尊、日蓮なんかどうでも良さそうなを言動をしています。特に学会の場合はその池田氏を批判する人、あるいは邪宗は悪人、仏敵、異常な人、あるいは犯罪者扱いですね。
池田氏は迫害されている、難に遭っている、だから法華経の行者であり「池田先生を批判したら許さない!」となってしまうんですね。

 本当に池田大作氏は法華経を広めたんですかね?不軽菩薩の様に本当に人を敬ったんですかね?
それって先に書いた、法華経の行者は難に遭う。それと地涌の菩薩のイメージを曖昧にしたり「ごっちゃにして」いませんかね?

池田大作氏は「現代でも通用する法華経精神」を広め、不軽菩薩の様に本当に人を敬い、それから、その後で難に遭ったんでしょうかね?

法華経の行者は難に遭う、池田先生は難に遭っている、を先にイメージして思い込んでいませんかね?
私のブログで何度も何度も「学会員は議論をごっちゃにする」「学会員は考え方などをごっちゃにする」書いてきました。
イメージだとか曖昧だとかの「ごっちゃにする」理由、これと「きちんと話せない事」と関連して記事になっていきます。

 私は人類にとって宗教は不要だと思います。しかしそれでも「現代でも通用する良き法華経精神」を信じる人はいるでしょう。 「法華経の根本精神、現代でも通用する法華経精神」 を広め、法華経を信仰しない人やまったく経験や「立場」の違う ”人にとって” ”人から見て” 良き人であって欲しいと思います。仏教だけでなくどの宗教にも言える事ですが。

○ここで少し纏めると、

 ここで少し纏めると、
不軽菩薩の様に行動出来る人が法華経の行者。
他人を誹謗中傷罵倒するのではなく、他人から誹謗中傷や罵倒されても堪え忍ぶ人が法華経の行者。
ということですよね。

「きちんと話す事」「きちんと話せない事」特に前者と後者、それぞれがどういう事なのか?というのがこれもこれからの記事のテーマになります。
原始仏教のプンニカーおばさんや日蓮の重要な遺文である立正安国論が対話、会話形式である事は過去記事に書きました。
本記事も部分的に過去記事と重複しますが、必要なので再度書きました。

以上、じゃなくて、つづく。
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269.公明都議、献金後融資口利き…元都議は相談役報酬100万円

2008年09月06日 02時09分33秒 | 創価学会
草稿記事がたくさん溜まっていますが、アップ出来ていません。

こういった事が起こる度に創価公明の人に聞いてみたい事があります。もちろん今回の当事者にも聞いてみたいところです。
「悪いことをした時はどんな生命状態でしたか?」
「バレた時はどんな生命状態ですか?」

他人の生命状態を地獄だとか言い切るわけですから、さぞかし自分の生命状態も言い切ってくれると思うんですけど?

日蓮本尊や唱題に学会の言っている宿命転換はありえない。
創価公明の人も特別な人、特別な状態にいる人ではなくて「ただの人」という証拠でしょう。

公明都議、献金後融資口利き…元都議は相談役報酬100万円 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080903-OYT1T00948.htm

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公明都議、献金後融資口利き…元都議は相談役報酬100万円

 新銀行東京(東京都新宿区)からの融資を巡り、公明党の現職都議と元都議が2005~06年、都内の中小企業から献金を受けた後に融資の口利きをしたり、口利きした中小企業から相談役として報酬を受け取ったりしていたことが、読売新聞の調べでわかった。

 元都議の報酬総額は100万円を超える。両社は融資を受けた後に、事実上、経営が破たんしている。ブローカーの介在が判明した新銀行の融資で、政治家と企業との不透明な関係も新たに浮かび上がった。

 機械部品販売会社の社長は都議選前の05年6月、都議の選挙事務所開きの日に陣中見舞いとして現金10万円を献金した。資金繰りに窮していた社長はこの都議に新銀行への口利きを依頼し、翌7月、新宿支店長(当時)を紹介されたという。

 同社は、不動産を売却した03年度を除き赤字だったが、申し込みから約10日間で2000万円が融資された。社長は「短期間での融資実行は都議の力だと思った」と振り返る。

 社長はこの直後、お礼として、新宿区の飲食店で都議を接待(1人約1万5000円)した。融資から7か月後、同社は破たん、ほぼ全額が焦げ付いた。

 都議は「都の担当課に『相談に乗ってほしい』という電話はした」と口利きは認めたが、「『政治活動に有効に使ってください』と言われ献金を受け取った。融資仲介の対価とは思っていない。会食も見返りではない」と話した。

 この献金は、都議が都選管に提出した資金管理団体の政治資金収支報告書(05年分)に記載されている。

 一方、元都議は05年夏、ソフトウエア開発会社の社長の依頼を受け、一緒に新銀行の新宿支店(当時)に出向き、「将来性があるのでよろしく頼む」と融資を依頼。元都議は4回当選し、01年7月に引退していたが、自分が元都議であることは電話で事前に伝えていた。

 約1週間後、3000万円の申し込みに対し1400万円が融資された。元都議はその後、同社の相談役となり、06年1月から約10か月にわたり、月20万~10万円の報酬を受け取った。

 同社はその後、資金繰りが悪化し、社長は今年に入り、家財道具を残し自宅から姿を消した。

 元都議は「相談役として報酬をもらうことになっていたこともあり、有望な企業なので、できる限り協力した。道義的責任はあるかもしれないが、事業失敗は経営者の問題」と語った。

 中小企業向けの融資保証制度を巡り、口利きの見返りに違法な手数料を受け取った都議らが逮捕された事件を受け、都議会は00年12月、「疑惑が再発しないよう、襟を正す必要がある」と決議している。

 読売新聞が今年3月に行った都議アンケート調査では、自民党6人、民主党2人が新銀行融資の口利きを認めたが、公明は全員が回答しなかった。
(2008年9月4日03時02分 読売新聞)
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事情聴取もなく逮捕しTVで実名報道、藤井富雄が野方署に立件依頼
これもいつか記事にしたいと思っています。
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