●カミングアウト、過去をさらけ出す事
創価などの日蓮正宗系の一部のバリさんには私のカミングアウト、過去をさらけ出す事について「痛い行為」と思っているようですね。
実はとある創価思考、カルト思考、カルトな発想が原因で着眼点や方向性が最初から間違っている、だから「痛い行為」と誤解するのです。
学会員が自分自身の過去のトラウマや反省すべき点から現実逃避しているので、過去を思い出したくないと思っている為かもしれません。過去のトラウマや反省すべき点でも思い出すのも出さないのも本人の自由です。
一般の人でも学会員であっても無理に思い出したくない事は思い出す必要はありません。
しかし「思考停止している」と日蓮正宗系の信徒が批判されるのは都合の悪い過去を「必要以上に」無理矢理忘れようとする、都合の悪い事は「必要以上に」隠す、「必要以上に」反省しない、いつもいつも例によって例のごとく「必要以上に」嘘やごまかしを続けるからでしょう。
極端な白黒2極論ではやはり問題があると私は思います。
●では「必要以上に」などの極端な思考をやめるとどういう良い効果があるのか?
過去をさらけ出す事について「痛い行為」ではありません。
心理学や原始仏教を勉強する事で「必要以上に人を見捨てない」というMCに気がつくことが出来ます。
まず、私、そううそが必要以上に見捨てられたと勘違いしない様に「見極めよう」「気をつけよう」とするのです。(もちろんMCをされない事にも気をつけますが。)
前提として、未来において私が見捨てられたと 「勘違する可能性を否定しない」 のです。
次に、未来において私が勘違する事を可能性を否定しませんから、落ち込んでもいいし、必要以上に落ち込む事も少ないでしょう。
次に、未来において私が人を最期まで見捨てないのも見捨てるのもどちらも 「自分」の選択肢に入れていいのです。
自分や他者を見捨てる見捨てないはその都度、自分で考え、自分で決めるのです。ですから自立しようとする、自立しているのです。
また、カルトと違ってより見捨てない方向、人を信じる方向を向いているのが心理学、原始仏教です。
自分や他者を許すか許さないかはその都度、自分で考え、自分で決めるのです。ですから自立しようとする、自立しているのです。
また、カルトと違ってより自分や他人を許す方向、許される方向を向いているのが心理学、原始仏教です。
注意事項として学会精神、創価思考は「必要以上に人を見捨てない」たったこれ1つだけではありません。学会教学、学会精神、創価思考というバランス感覚を失った極端な考え方はあちこちで教え込まれMCされています。創価学会の思想全体の中でMCが行われ末端の信徒に選んで受け入れられているのです。正確には幹部や池田氏の教える一律なMCを10%か90%かは不明ですが信徒側が受け入れた、、、、と思われます。
世間一般の常識の善悪に隠れているのでカルト性が見分けにくいか気づきにくいと思います。
●「人を見捨てない」などなど学会精神やカルト思考に「必要以上に」縛られると自分や他人を許せなくなります。
家庭訪問した事のある人には分かると思うのですが、会員さんが部活に来てくれない、勤行してくれない時があります。
「人を見捨てない」「会員を大切にする」ので家庭訪問してまた再度、家庭訪問を続けるわけですが、「人を見捨てない」「会員を大切にする」ので自分は「正しい」という立場です。
「人を見捨てない」「会員を大切にする」というのは学会精神だったり創価班精神だったりします。男子部魂とか人間革命とか、ネットで明らかな学会の嘘が分かる小樽問答、様々な嘘がちりばめられている学会教学もそうでしょう。自分の体験(もちろん思い込みやMC、誤解)もそうです。「正義の言論だ!」とか「雄弁に語れ!」とかの美しい言葉もね。
自分は「正しい」という立場、自分は「正しい」という思い込み、勘違い、思考停止です。
部活に来てくれない、勤行してくれないとなると、自分が正しいと思っているので相手が「悪」に見えたり、「境涯が低く」見えるんですね。
最近久々に某創価学会員のBBSを見に行きましたが過去と全く変わっていませんでした。例えば悩み事を管理人に相談すると冷たくあしらわれる理由はこういう心理過程、状態だと私は思います。「自分が正しいのであって相手が間違っている、相手の方が信心が足りない」という心理過程、心理状態だと私は思います。
家庭訪問の時に一般会員や未活動家を罵倒する幹部や活動家はまずいないと思います。
しかし日蓮正宗にいった人、退転した人、未活動家でも学会を否定する人や池田氏の事を悪く言う人だと相手を許せなく「なりやすい」と思われます。
過去記事に何度も書いてきたとおり学会員は色々なモノが「絶対である」「絶対でなければならない」「絶対」に縛られすぎています。人を見捨てないのは原始仏教や法華経が理由になっているのに、逆に正反対に「人を見捨てない」から「許せない」になってしまいます。
なぜなんでしょうか?
●ネットも同様です。
常に自分は「正しい」という立場、自分は「正しい」という思い込み、勘違い、思考停止しているのが学会員です。
自分は「正しい」のでアンチ創価の人や学会批判、池田氏批判をする人が許せなくなると思います。
自分が正しいと思っているので相手が「悪」に見えたり「境涯が低く」見えるんですね。
「「人を見捨てない」「会員を大切にする」「生命を大切にする」「私の幸福体験(もちろん思い込みやMC、誤解)」なんでこんな簡単な事が分からないんだ?」
「頭おかしいんじゃないのか?」
実際私も上記に書いた様に嘘を教えられ一般の人に「明らかに頭おかしいだろ!」etcetc「何で理解出来ないんだ?」と良く思いました。
過去記事にしたとおり、色々な事をごっちゃにしているというのもあるでしょう。
「敵を許すな!」「正義の鉄槌を!」「正義の言論だ!」とか「雄弁に語れ!」教えられているからMCされているから、という理由もあるでしょう。
単純に「敵を許すな!」と教えられたから「許さない」あるいは「立場が敵」だから「許さない」という理由です。
ネットはアンチ対シンパの「立場が敵」だから「許さない」という構図は見えやすいのですが、日蓮正宗系の信徒が切れやすい理由ってなんなのでしょうか?
正しいならば学会員であっても自分自身が正しい「何か」を知っているのであれば、相手の立場に全く関係なく普通に他人(相手)に会話を続ければいいのであって怒ったり切れる必要はないはずです。
●日蓮正宗系の信徒が切れやすい理由
○普通の人でも怒ります。
アルバイトでも仕事でも恋愛でも友人づきあいでもなんでもそうですが、
「自分のした事を台無しにする」他者、「ルールを守らない」他者に怒る事は一般人でもあり得ます。
一般社会の中では悪意があるのか無かったのか?、思いがけないミスなのか?という点は問われます。「どうしてそんな事をしたんだ?」とかね。
一般社会の中では善意、悪意の有無やミス、他に仕方のない理由があるかもしれない、という前提です。
会話や対話、つまり「どうして?」と理由を他人(相手)に 「聞く」 事はあり得るのです。(無いケースもあるでしょうけど。)
聞く事で許されるケースがあるのです。
○日蓮正宗系の信徒の場合
ところが学会では「境涯」「十界生命論という悪しきレッテル張り」というおかしな創価思想がはびこっています。
題目をあげた分、学会活動した分、師弟不二した分、福運がつき境涯が高くなり幸福になる事です。
邪宗の人間は「境涯が低く」なるという創価思考、創価にしか通用しないルールです。(日蓮正宗も同じでしょうね。)
ですから学会精神、学会仏教学では一般社会とは違います。
もう学会員にとっては 「理由があるかもしれない、という前提」 はありません。理由は決まっていて絶対なのです。
邪宗に生まれた人間は「悪」とか「魔」であり、学会批判、学会無理解、邪宗の人間は「境涯が低く」なっているetcetc。。。。
「悪」「魔」であり「境涯が低い」と教えられ、MCされているから、それが学会精神、学会仏教学のルールなので
会話や対話、つまり「どうして?」と理由を他人(相手)に 「聞く」 必要はないのです。
そもそも聞かないし、万一聞いたとしても許さないのです。
邪宗の人間は創価思考、学会精神、創価学会仏法の「ルールを守らない」他者なのです。
だから宗教者であるはずの学会員側から邪宗の人(他者)とは結婚できない、邪宗の人(他者)とは友情も育めません、という学会員がたくさんいるのです。
布教や選挙の一票をもらう為の友情でしょう。折伏やF取りをして自分の境涯を上げる戦いです。
(ま、折伏すれば相手を救えるとも誤解していますけどね。)
自分の「境涯」を学会活動で築いて学会員はある程度自己満足もしてある程度幸福だと思っています。
自分のそばに、「魔」「悪」「境涯が低く」見える人がいたら、近づいてきたらどうなんでしょうかね?
「自分のした事を台無しにされ」そうなんですから「必要以上に」怒るでしょうね。「必要以上に」切れるでしょうね。
自分の「境涯」とは日常生活の環境や人間関係ですから、目の前にいる 「他人」(相手) も「自分の境涯」なのです。
「自分のした事を台無しにする」他者、「ルールを守らない」他者に怒る事は一般人でもあり得るのですから、
学会員が創価思考、創価思想によってMCされ「必要以上に」他者に怒る事はあり得ます。
学会だけでなく日蓮正宗系の信徒も同じです。
☆怒る対象が子供だったりすると。。。。。。。。。
怒る対象が子供だったりするとますますそうした創価思考、日蓮正宗系のカルト思考が悪影響になる気がします。
「何でこの子はこんなに正しい学会(池田先生、日顕氏、浅井氏、日蓮)を分かろうとしないの?」
「何でこの子は親の言う事を分かろうとしないの?」
「何時までも子供なんだから!」
「子供なんだから叩いてでも躾(しつけ)なければならない」
「必要以上な」暴力の可能性が出てきます。。。。。。。。。。。。
「必要以上に」怒らない事が脱カルトの沢山あるバロメーターの内の1つかと。
何度も書いていますがMCされた怒りと一般人の普通の怒りは違うのです。
●実は、カルト思想によってまず最初に許されないのは自分たち学会員、日蓮正宗系信徒。
1,題目をあげた分、学会活動した分、師弟不二した分、福運がつき境涯が高くなり幸福になる
2.批判した人、敵の立場に立つ人は境涯が低く、謗法であり不幸になる。地獄に行く、罰が当たる、
これらの日蓮正宗系の教学、精神が悪影響を及ぼしているのはほぼ間違いなさそうです。
謗法論、地獄論、罰論によってまずは自分たち(学会員、日蓮正宗系信徒)が許されないのです。
自己評価が低くなる事と関連性があると私は思います。(どちらが先かは問題ではありません。)
功徳論(日蓮正宗系の場合、正確にはご利益という定義。)もそうですし、謗法論、地獄論、罰論によって批判者に対して怒りやすくなる、ということです。
勤行、折伏という「1つの方法」「1人の師匠」なんでもかんでも「大御本尊だけ」「ひとつだけ」「これだけ」「コレが究極」「宿命転換にはこの方法しかない」「公明党しかない」「○○しなければならない」「先生だけは絶対」「御本尊だけは絶対」といったふうに他の選択肢を「許されない」のは創価学会であり、池田大作氏であり学会本部であり、池田氏の弟子であり、日蓮正宗なのです。
他の選択肢を「許されない」人、「許されなかった」人がどういう言動をするのか?ここでは人は学会員、日蓮正宗系信徒を指します。
境涯論、功徳論、謗法論、地獄論、罰論によって自分が許されないので、他人(相手)も同様に許さない。
過去記事に何度も書いてきたとおり、自分も他人(相手)も「○○しなければならない」。
ここまで書けば多くの人はピンと来ると思いますが、
日蓮正宗系信徒は一般の人に対しても理解不能な怒りを向ける。
または他人(相手)も同様に許さない。自分も他人(相手)も「○○しなければならない」からです。
●一般の人も許さない。許せない!!!!ムキーーーーー!!!
岩手県沿岸北部の地震が起きた時に某SNSで学会員が「先生の悪口言うから仏罰がくる。」「先生は大聖人の代弁してんだよ。」「自業自得だ」(主旨)と言ったのです。
リアルやネットでも一般の人にとって信じられない様な言動をするのか?
上記の様なおかしなことを言えば学会入信や正宗入信が遠のいても不思議ではない言葉を平気で言います。
理由は一言で言えば、 「まず自分が不幸になるから」 です。あるいは自分の努力が無駄になるからです。
まず、自分が境涯論、謗法論、地獄論、罰論によって許されないので恐怖しているのです。怯えているのです。ですから「必要以上に」怒る。「必要以上に」他人(相手)に恐怖を与え同意を得ようとしている。池田大作氏のおかしな言動も裏付けられると思いませんか?どうでしょう?
某SNSの仲間の学会員も同志を否定する事は謗法なので本能的に恐怖が働き、上記の学会員を注意出来ないのです。のでは?と私は考えています。
世間一般の人でも目上の人や恐怖の他人(相手)に敢えて怒って対処する事は十分にあり得る事です。
しかし、カルトは自分たちが正しいのであって教団トップをカルトなんて思うことは許されません。
池田先生を否定するなんて許されないのです。
「他者の謗法や学会批判によって自分が不幸になるから」「必要以上に」怒るのです。
我々、世間一般の人は日蓮や日蓮本尊に逆らったら地震が起こるとは思っていません。
我々、世間一般人にとっては彼らの暴言、非難、誹謗中傷が突然であり理解不能、理由不明です。
我々、世間一般人にとっては学会ってカルトだなって思うのは普通です。
ところが
彼ら日蓮正宗系信徒にとっては逆なのです。
彼ら日蓮正宗系信徒の人は一般人や退転者が池田先生や日蓮や日蓮本尊に逆らったから地震が起こったと思っているのです。(笑)
彼ら日蓮正宗系信徒にとっては先に謗法しているのは一般人、というか地震の原因を作っているのは一般人の我々なのです。(笑)
顕正会の場合、日蓮に従わないと地震が起こる、日本が滅ぶのは教義の骨子になっているようですね。
注意事項ですが、境涯論、功徳論、謗法論、地獄論、罰論を教えられても功徳論を強く信じる人もいれば、謗法論、地獄論、罰論を強く信じる人もいます。
創価思想の中で選択しているにすぎません。
MCされた中で選択しているにすぎません。
ここの所、ずっと過去記事に書いてきた事でも敢えて再度説明してきました。
いくつかの結論に必要だからです。
266.フィレンツェ大聖堂の落書きの件から学べる事。 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?から色々書いてきましたが、ようやく次の記事で1つ結論が見えてきます。
学会員は自分と 「他人」(相手) をいくつかの点でごっちゃにしている。
その内容は何か?どういう風にごっちゃにしているか?というのが次のテーマです。
その背景や理由は過去にも書いてきましたが、もう少し詳しく書いていきます。
以上
46.ネットの口汚さからリアル折伏を邪魔する学会員 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
訂正'08.10.06のです。のでは?と私は考えています。
正しいならば学会員であっても普通に他人(相手)に会話を続ければいいのであって怒ったり切れる必要はないはずです。
↓
正しいならば学会員であっても自分自身が正しい「何か」を知っているのであれば、相手の立場に全く関係なく普通に他人(相手)に会話を続ければいいのであって怒ったり切れる必要はないはずです。
創価などの日蓮正宗系の一部のバリさんには私のカミングアウト、過去をさらけ出す事について「痛い行為」と思っているようですね。
実はとある創価思考、カルト思考、カルトな発想が原因で着眼点や方向性が最初から間違っている、だから「痛い行為」と誤解するのです。
学会員が自分自身の過去のトラウマや反省すべき点から現実逃避しているので、過去を思い出したくないと思っている為かもしれません。過去のトラウマや反省すべき点でも思い出すのも出さないのも本人の自由です。
一般の人でも学会員であっても無理に思い出したくない事は思い出す必要はありません。
しかし「思考停止している」と日蓮正宗系の信徒が批判されるのは都合の悪い過去を「必要以上に」無理矢理忘れようとする、都合の悪い事は「必要以上に」隠す、「必要以上に」反省しない、いつもいつも例によって例のごとく「必要以上に」嘘やごまかしを続けるからでしょう。
極端な白黒2極論ではやはり問題があると私は思います。
●では「必要以上に」などの極端な思考をやめるとどういう良い効果があるのか?
過去をさらけ出す事について「痛い行為」ではありません。
心理学や原始仏教を勉強する事で「必要以上に人を見捨てない」というMCに気がつくことが出来ます。
まず、私、そううそが必要以上に見捨てられたと勘違いしない様に「見極めよう」「気をつけよう」とするのです。(もちろんMCをされない事にも気をつけますが。)
前提として、未来において私が見捨てられたと 「勘違する可能性を否定しない」 のです。
次に、未来において私が勘違する事を可能性を否定しませんから、落ち込んでもいいし、必要以上に落ち込む事も少ないでしょう。
次に、未来において私が人を最期まで見捨てないのも見捨てるのもどちらも 「自分」の選択肢に入れていいのです。
自分や他者を見捨てる見捨てないはその都度、自分で考え、自分で決めるのです。ですから自立しようとする、自立しているのです。
また、カルトと違ってより見捨てない方向、人を信じる方向を向いているのが心理学、原始仏教です。
自分や他者を許すか許さないかはその都度、自分で考え、自分で決めるのです。ですから自立しようとする、自立しているのです。
また、カルトと違ってより自分や他人を許す方向、許される方向を向いているのが心理学、原始仏教です。
注意事項として学会精神、創価思考は「必要以上に人を見捨てない」たったこれ1つだけではありません。学会教学、学会精神、創価思考というバランス感覚を失った極端な考え方はあちこちで教え込まれMCされています。創価学会の思想全体の中でMCが行われ末端の信徒に選んで受け入れられているのです。正確には幹部や池田氏の教える一律なMCを10%か90%かは不明ですが信徒側が受け入れた、、、、と思われます。
世間一般の常識の善悪に隠れているのでカルト性が見分けにくいか気づきにくいと思います。
●「人を見捨てない」などなど学会精神やカルト思考に「必要以上に」縛られると自分や他人を許せなくなります。
家庭訪問した事のある人には分かると思うのですが、会員さんが部活に来てくれない、勤行してくれない時があります。
「人を見捨てない」「会員を大切にする」ので家庭訪問してまた再度、家庭訪問を続けるわけですが、「人を見捨てない」「会員を大切にする」ので自分は「正しい」という立場です。
「人を見捨てない」「会員を大切にする」というのは学会精神だったり創価班精神だったりします。男子部魂とか人間革命とか、ネットで明らかな学会の嘘が分かる小樽問答、様々な嘘がちりばめられている学会教学もそうでしょう。自分の体験(もちろん思い込みやMC、誤解)もそうです。「正義の言論だ!」とか「雄弁に語れ!」とかの美しい言葉もね。
自分は「正しい」という立場、自分は「正しい」という思い込み、勘違い、思考停止です。
部活に来てくれない、勤行してくれないとなると、自分が正しいと思っているので相手が「悪」に見えたり、「境涯が低く」見えるんですね。
最近久々に某創価学会員のBBSを見に行きましたが過去と全く変わっていませんでした。例えば悩み事を管理人に相談すると冷たくあしらわれる理由は
家庭訪問の時に一般会員や未活動家を罵倒する幹部や活動家はまずいないと思います。
しかし日蓮正宗にいった人、退転した人、未活動家でも学会を否定する人や池田氏の事を悪く言う人だと相手を許せなく「なりやすい」と思われます。
過去記事に何度も書いてきたとおり学会員は色々なモノが「絶対である」「絶対でなければならない」「絶対」に縛られすぎています。人を見捨てないのは原始仏教や法華経が理由になっているのに、逆に正反対に「人を見捨てない」から「許せない」になってしまいます。
なぜなんでしょうか?
●ネットも同様です。
常に自分は「正しい」という立場、自分は「正しい」という思い込み、勘違い、思考停止しているのが学会員です。
自分は「正しい」のでアンチ創価の人や学会批判、池田氏批判をする人が許せなくなると思います。
自分が正しいと思っているので相手が「悪」に見えたり「境涯が低く」見えるんですね。
「「人を見捨てない」「会員を大切にする」「生命を大切にする」「私の幸福体験(もちろん思い込みやMC、誤解)」なんでこんな簡単な事が分からないんだ?」
「頭おかしいんじゃないのか?」
実際私も上記に書いた様に嘘を教えられ一般の人に「明らかに頭おかしいだろ!」etcetc「何で理解出来ないんだ?」と良く思いました。
過去記事にしたとおり、色々な事をごっちゃにしているというのもあるでしょう。
「敵を許すな!」「正義の鉄槌を!」「正義の言論だ!」とか「雄弁に語れ!」教えられているからMCされているから、という理由もあるでしょう。
単純に「敵を許すな!」と教えられたから「許さない」あるいは「立場が敵」だから「許さない」という理由です。
ネットはアンチ対シンパの「立場が敵」だから「許さない」という構図は見えやすいのですが、日蓮正宗系の信徒が切れやすい理由ってなんなのでしょうか?
●日蓮正宗系の信徒が切れやすい理由
○普通の人でも怒ります。
アルバイトでも仕事でも恋愛でも友人づきあいでもなんでもそうですが、
「自分のした事を台無しにする」他者、「ルールを守らない」他者に怒る事は一般人でもあり得ます。
一般社会の中では悪意があるのか無かったのか?、思いがけないミスなのか?という点は問われます。「どうしてそんな事をしたんだ?」とかね。
一般社会の中では善意、悪意の有無やミス、他に仕方のない理由があるかもしれない、という前提です。
会話や対話、つまり「どうして?」と理由を他人(相手)に 「聞く」 事はあり得るのです。(無いケースもあるでしょうけど。)
聞く事で許されるケースがあるのです。
○日蓮正宗系の信徒の場合
ところが学会では「境涯」「十界生命論という悪しきレッテル張り」というおかしな創価思想がはびこっています。
題目をあげた分、学会活動した分、師弟不二した分、福運がつき境涯が高くなり幸福になる事です。
邪宗の人間は「境涯が低く」なるという創価思考、創価にしか通用しないルールです。(日蓮正宗も同じでしょうね。)
ですから学会精神、学会仏教学では一般社会とは違います。
もう学会員にとっては 「理由があるかもしれない、という前提」 はありません。理由は決まっていて絶対なのです。
邪宗に生まれた人間は「悪」とか「魔」であり、学会批判、学会無理解、邪宗の人間は「境涯が低く」なっているetcetc。。。。
「悪」「魔」であり「境涯が低い」と教えられ、MCされているから、それが学会精神、学会仏教学のルールなので
会話や対話、つまり「どうして?」と理由を他人(相手)に 「聞く」 必要はないのです。
そもそも聞かないし、万一聞いたとしても許さないのです。
邪宗の人間は創価思考、学会精神、創価学会仏法の「ルールを守らない」他者なのです。
だから宗教者であるはずの学会員側から邪宗の人(他者)とは結婚できない、邪宗の人(他者)とは友情も育めません、という学会員がたくさんいるのです。
布教や選挙の一票をもらう為の友情でしょう。折伏やF取りをして自分の境涯を上げる戦いです。
(ま、折伏すれば相手を救えるとも誤解していますけどね。)
自分の「境涯」を学会活動で築いて学会員はある程度自己満足もしてある程度幸福だと思っています。
自分のそばに、「魔」「悪」「境涯が低く」見える人がいたら、近づいてきたらどうなんでしょうかね?
「自分のした事を台無しにされ」そうなんですから「必要以上に」怒るでしょうね。「必要以上に」切れるでしょうね。
自分の「境涯」とは日常生活の環境や人間関係ですから、目の前にいる 「他人」(相手) も「自分の境涯」なのです。
「自分のした事を台無しにする」他者、「ルールを守らない」他者に怒る事は一般人でもあり得るのですから、
学会員が創価思考、創価思想によってMCされ「必要以上に」他者に怒る事はあり得ます。
学会だけでなく日蓮正宗系の信徒も同じです。
☆怒る対象が子供だったりすると。。。。。。。。。
怒る対象が子供だったりするとますますそうした創価思考、日蓮正宗系のカルト思考が悪影響になる気がします。
「何でこの子はこんなに正しい学会(池田先生、日顕氏、浅井氏、日蓮)を分かろうとしないの?」
「何でこの子は親の言う事を分かろうとしないの?」
「何時までも子供なんだから!」
「子供なんだから叩いてでも躾(しつけ)なければならない」
「必要以上な」暴力の可能性が出てきます。。。。。。。。。。。。
「必要以上に」怒らない事が脱カルトの沢山あるバロメーターの内の1つかと。
何度も書いていますがMCされた怒りと一般人の普通の怒りは違うのです。
●実は、カルト思想によってまず最初に許されないのは自分たち学会員、日蓮正宗系信徒。
1,題目をあげた分、学会活動した分、師弟不二した分、福運がつき境涯が高くなり幸福になる
2.批判した人、敵の立場に立つ人は境涯が低く、謗法であり不幸になる。地獄に行く、罰が当たる、
これらの日蓮正宗系の教学、精神が悪影響を及ぼしているのはほぼ間違いなさそうです。
謗法論、地獄論、罰論によってまずは自分たち(学会員、日蓮正宗系信徒)が許されないのです。
自己評価が低くなる事と関連性があると私は思います。(どちらが先かは問題ではありません。)
功徳論(日蓮正宗系の場合、正確にはご利益という定義。)もそうですし、謗法論、地獄論、罰論によって批判者に対して怒りやすくなる、ということです。
勤行、折伏という「1つの方法」「1人の師匠」なんでもかんでも「大御本尊だけ」「ひとつだけ」「これだけ」「コレが究極」「宿命転換にはこの方法しかない」「公明党しかない」「○○しなければならない」「先生だけは絶対」「御本尊だけは絶対」といったふうに他の選択肢を「許されない」のは創価学会であり、池田大作氏であり学会本部であり、池田氏の弟子であり、日蓮正宗なのです。
他の選択肢を「許されない」人、「許されなかった」人がどういう言動をするのか?ここでは人は学会員、日蓮正宗系信徒を指します。
境涯論、功徳論、謗法論、地獄論、罰論によって自分が許されないので、他人(相手)も同様に許さない。
過去記事に何度も書いてきたとおり、自分も他人(相手)も「○○しなければならない」。
ここまで書けば多くの人はピンと来ると思いますが、
日蓮正宗系信徒は一般の人に対しても理解不能な怒りを向ける。
または他人(相手)も同様に許さない。自分も他人(相手)も「○○しなければならない」からです。
●一般の人も許さない。許せない!!!!ムキーーーーー!!!
岩手県沿岸北部の地震が起きた時に某SNSで学会員が「先生の悪口言うから仏罰がくる。」「先生は大聖人の代弁してんだよ。」「自業自得だ」(主旨)と言ったのです。
リアルやネットでも一般の人にとって信じられない様な言動をするのか?
上記の様なおかしなことを言えば学会入信や正宗入信が遠のいても不思議ではない言葉を平気で言います。
理由は一言で言えば、 「まず自分が不幸になるから」 です。あるいは自分の努力が無駄になるからです。
まず、自分が境涯論、謗法論、地獄論、罰論によって許されないので恐怖しているのです。怯えているのです。ですから「必要以上に」怒る。「必要以上に」他人(相手)に恐怖を与え同意を得ようとしている。池田大作氏のおかしな言動も裏付けられると思いませんか?どうでしょう?
某SNSの仲間の学会員も同志を否定する事は謗法なので本能的に恐怖が働き、上記の学会員を注意出来ない
世間一般の人でも目上の人や恐怖の他人(相手)に敢えて怒って対処する事は十分にあり得る事です。
しかし、カルトは自分たちが正しいのであって教団トップをカルトなんて思うことは許されません。
池田先生を否定するなんて許されないのです。
「他者の謗法や学会批判によって自分が不幸になるから」「必要以上に」怒るのです。
我々、世間一般の人は日蓮や日蓮本尊に逆らったら地震が起こるとは思っていません。
我々、世間一般人にとっては彼らの暴言、非難、誹謗中傷が突然であり理解不能、理由不明です。
我々、世間一般人にとっては学会ってカルトだなって思うのは普通です。
ところが
彼ら日蓮正宗系信徒にとっては逆なのです。
彼ら日蓮正宗系信徒の人は一般人や退転者が池田先生や日蓮や日蓮本尊に逆らったから地震が起こったと思っているのです。(笑)
彼ら日蓮正宗系信徒にとっては先に謗法しているのは一般人、というか地震の原因を作っているのは一般人の我々なのです。(笑)
顕正会の場合、日蓮に従わないと地震が起こる、日本が滅ぶのは教義の骨子になっているようですね。
注意事項ですが、境涯論、功徳論、謗法論、地獄論、罰論を教えられても功徳論を強く信じる人もいれば、謗法論、地獄論、罰論を強く信じる人もいます。
創価思想の中で選択しているにすぎません。
MCされた中で選択しているにすぎません。
ここの所、ずっと過去記事に書いてきた事でも敢えて再度説明してきました。
いくつかの結論に必要だからです。
266.フィレンツェ大聖堂の落書きの件から学べる事。 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?から色々書いてきましたが、ようやく次の記事で1つ結論が見えてきます。
学会員は自分と 「他人」(相手) をいくつかの点でごっちゃにしている。
その内容は何か?どういう風にごっちゃにしているか?というのが次のテーマです。
その背景や理由は過去にも書いてきましたが、もう少し詳しく書いていきます。
以上
46.ネットの口汚さからリアル折伏を邪魔する学会員 - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
訂正'08.10.06
正しいならば学会員であっても普通に他人(相手)に会話を続ければいいのであって怒ったり切れる必要はないはずです。
↓