本記事は浅学な私なので見せ消しはしないでどんどん削除、追記訂正していきます。
皆さん色々教えて下さい。>ALL
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大御本尊と日蓮及び日蓮門下の関係に着目する。
○弘安2年(1279年)08月??日 信徒の弥四郎が斬首。
日蓮真筆遺文:破良観等御書(真筆度5)、光日房御書(正筆断簡真筆度1)光日上人御返事(真筆度3)、滝泉寺申状(真筆度?)。
○弘安2年(1279年)09月21日 熱原の法難
○弘安2年(1279年)10月01日 日蓮、聖人御難事で「出世の本懐」を宣言。
○弘安2年(1279年)10月12日 一閻浮提総与の大御本尊を建立。
○弘安2年(1279年)10月15日 神四郎、弥五郎、弥六郎の3人の兄弟が処刑。残り17人は追放(一説に翌年04月08日)。
以下は
本門戒壇の大御本尊様の偽作説について
★13
①身延で弘安2年に御戒壇様が建立された、日法師が御彫刻した事実に記録がない。
六老僧の方々、四条金吾殿等の御信者等も御戒壇様にお目通りされたのか?
②弘安二年建立以降、身延の本堂に御戒壇様は本尊として祀られていたのか?
日興上人、日目上人等の御僧侶方は日夜御戒壇様を拝していたのか?
③身延離山時に百㎏~二百㎏程度の重量のある御戒壇様をどのように運んだのか?
(この時点までは御戒壇様は紙幅で、大石寺近辺に移って日興上人が楠板に御彫刻された?)
④大石寺に御戒壇様は祀られていたのか?
日興上人はじめ御僧侶方が御戒壇様に向かって勤行唱題していたのか?(秘仏扱い?)
⑤御戒壇様についての上代の記録が皆無に近い。
第9世日有上人は薄葉のような形で言及。第26世日寛上人は明確に御戒壇様について言及。
以下は
本門戒壇の大御本尊様の偽作説についてより。
●「願主弥四郎国重敬白 法華講衆等」について
1.法華講
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/45-49
大御本尊を理由として日蓮が法華講と名付けたとのことだが確かな日蓮真跡遺文など文献がない。(法華講は後年の言い方?)
2.願主弥四郎国重
★55
弥四郎国重に関する『富士宗学要宗』における記載
○16??年(???年)??月??日 日精『日蓮聖人年譜』(第17世日精:慶長5年(1600年)-天和3年11月5日(1683年12月22日)
「此処の地頭は南部六郎実長なり後に入道して法寂房日円とぞ申しける、先祖は新羅三郎義光の五男信濃守遠光の三男、南部三郎光行の次男実長なり、其の嫡子弥四郎国重と申す是即本門戒壇の願主なり」「実長子息多々なり、嫡子弥四郎国重」
○1662年(寛文2年)12月18日 日精『富士門家中見聞抄目録』
「日円の本尊には法寂坊授与とありて年号なし、日番の本尊には年号ありて授与書なし(共に富士久遠寺に在り)、弥四郎国重事 日道を大石寺に移す」
○1823年(文政6年)5月??日、日量『富士大石寺明細誌』(第48世日量:1771年2月18日 - 1851年5月29日)
「同二年弥四郎国重なる者一説に南部六郎実長の嫡男と云ふなり霊端に感じて良材を得以て蓮祖に献ず、蓮祖満悦し本門戒壇の大御本尊を書して日法に命じ之を彫尅せしむ」
「古伝に云はく、此木甲州七面山の池上に浮び出て夜々光明を放つ、南部六郎実長の嫡男弥四郎国重之を取り上げ以て聖人に献ず等云云、又弥四郎国重の五字に就て表示し有りと相伝る云云」
※
弥四郎国重に関する記述は日精より遡れない。
精師は弥四郎国重を波木井円師(実長)の子供。
さらに弥四郎国重は願主であるだけではなく、戒壇之漫荼羅の楠材の発見・献上者。
精師は弥四郎国重は熱原法華講衆であるとは一言も触れられていない。
弥四郎国重が熱原法華講衆であるというのは“近代の捏造”に過ぎない?
★57
「弥四郎国重は熱原法華講衆である」と言及された資料について犀角独歩氏は昭和31年に発刊された『悪書 板本尊偽作論を粉砕す』以前に知らない。
○???年(19??年)??月??日 日亨『熱原法難史』(P72)大御本尊と熱原法難との関係を否定。 (第59世日亨:1867年2月24日 - 1957年11月23日)
○元弘3年(1333年)12月??日 日道『御伝土代』 (第4世日道:弘安6年(1283年) - 興国2年2月10日(1341年2月26日))
「日興上人の御弟子駿河国冨士の郡り熱原より二十四人鎌倉え召れ参る。一々に搦め取て平左衛門が庭に引据たり、子息飯沼の判官馬と乗小蟇目を以て一々に射けり、其庭にて平の左衛門入道父子打れり法華の罰なり、さて熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず日興の弟子日秀日弁二人、上人号し給ふ、大聖人の御弟子数百人僧俗斯の如く頚を切たるなし、又上人号なし、是れ則日興上人の御信力の所以なり云云」
(1)熱原法難の説明に「その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」という興師に係る弘安二年漫荼羅のことが記される。
(2)『日興跡条々事』に「日興が身に宛て給う所の弘安二年の大御本尊日目に之を相伝す本門寺に掛け上る可し」。
(3)精師に拠れば万年救護本尊が興師に授与されたのも弘安二年である、との事。
重要な点はこの弘安二年大御本尊が果たして戒壇之漫荼羅なのか?
これを証明するものは何一つない。
○なぜ、弥四郎国重と熱原法華講衆が関連づけられていったのか?
1.「弘安二年十月十二日(因師記述では十三日)の日付と「法華講衆」という記述
2.「弥四郎」という名前が熱原法華講衆の名前と類似していたからではないか?
その連想から、弘安二年、興師授与、弥四郎国重、熱原法難・信徒名という材を組み合わされて考え出された物語か?
○日蓮正宗が弥四郎国重についてなぜ何等充分な説明が出来ないのか?
波木井実長嫡男という説をいつの間にか熱原法難の受難者・農民信徒という物語で語ってしまった為、整合性がつかなくなった?
☆☆「その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」
○?????年(19??年)??月??日 日達 「日蓮大聖人と日興上人の合作である」と説明
○弘安2年(1279年)10月12日 「伯耆殿御返事」(学会版御書 P1456、真筆度4)この日、日興は身延に不在。
(そううその意見:日蓮から日興個人に授与し、熱原に届けた本尊という事か?ここでも彫刻では無理があると思う。)
★104
本門戒壇の大御本尊と称される現奉安堂安置の本尊について。
13.元は日蓮自筆の紙幅に日興上人が年号を書き加えた?
14.日蓮自筆の紙幅に日興上人が年号を書き加えたものに、さらに後世の誰かが「本門戒壇…弥四郎国重…」を後加?
15.半丸太の本尊部分と台座でできている。
16.後世の誰かが「本門戒壇…弥四郎国重…」を後加した部分は本尊の台座部分にる。
17.後世の誰かが後加した「本門戒壇…弥四郎国重…」の部分には、金箔は施されていない。
日蓮がいくつか顕した本尊の様に授与者への本尊の端に名前が書いてある「脇書」ではなく、
「本門戒壇…弥四郎国重…」は台座部分にあるので「腰書」呼ばれる物であって本尊部分ではない。
日蓮真筆本尊には「脇書」があるものと無い物があるが、台座とか「腰書」の様な物は一つもない。
本尊の筆跡と脇書の筆跡は楷書のような文字であって違っている。
(そううその意見:日禅授与本尊の模刻が大御本尊かどうかは別として「腰書」は日蓮の筆とは思われない。)
★127
重須資料からすれば興師は複製、彫刻を厳禁していたと見られる。となれば、そもそも戒壇之漫荼羅なるものが造立することも、石山が板漫荼羅を造ることも形木漫荼羅を作ることも、学会が模刻することも、寛師の複製を作ることも、すべて蓮興二師の意図からずれている
★251
弥四郎という名の人物
①新田四郎信綱嫡男説。 弘安2年(1279年)??月??日
②波木井六郎実長嫡男説。 弘安2年(1279年)??月??日
③富士下方市庭寺在住の農夫説。 弘安2年(1279年)09月21日 熱原法難にあった弥四郎?
④光日房実子説。 ~弘安2年(1279年)08月??日 斬首された信徒の弥四郎。
従って何れの人物が、
「右為現当二世造立如件 本門戒壇之 願主弥四郎国重敬白 法華講衆等」
の弥四郎国重と同一なのかは不明。
①の資料は、当然、研究者たちは知っているが、決め手に欠けるらしい。正宗、学会も根拠にしていない。
(そううその意見:③④は一番疑わしいか?弥四郎国重が大御本尊願主で本尊を見た記録がない為。④の場合は日蓮は死んだ人に本尊を与えるだろうか?創価学会で言う所の”題目を送る”事はあっても本尊を与え、それが戒壇の大御本尊!?になるか?願主といえるか?③及び日蓮遺文の弥四郎が願主だったとしても ”本門戒壇の願主” という思想、哲学、考え方そのもの自体を一旦は経文かあるいは日蓮や僧侶から学ぶ必要がある。弥四郎が学んだ後に願うのである。仮に本門戒壇という思想や言葉を何も知らない弥四郎だったならば、いきなり願主になる、つまり願ったりしない。かなりその思想が普及していないと無理。
南無妙法蓮華経は読めたかもしれないが文字が読めない農民達には題目を唱える事や法華経を宗教的に捨てない事が大事だったはずで、本尊を願うか?
日蓮が本門戒壇を願っていた?弥四郎(斬首された光日房実子)の為に本尊を顕す事は日蓮の優しさからあり得るか?
しかしその場合、本尊の端に書かれる「授与書き」であって明らかに別人が書いた他筆の「腰書」ではあり得ない。
「授与書き」なしで弥四郎(斬首された光日房実子)に日蓮が与えたとすると彫刻させたのは弥四郎の家族か???しかしそれならば彫刻する前に日蓮筆で「弥四郎云々」追記して貰った上で彫刻にしないだろうか?やはり日蓮死後?
私、そううそは少なくとも日蓮日興の生存時に今の形となっている彫刻金ぴか本尊は無かったと思える。)
●mixiのあるコミュニティの意見では
「日蓮は食べるものにも困っていたので彫刻された金ぴかの大御本尊を作るのは資金の面から無理。」
この意見から彫刻されたのは資金的に裕福になってから。(mixiのアンチ日蓮正宗をご覧下さい。)
●そううその意見。
日禅授与本尊などはこの記事では省きました。
上記の意見に加えて日蓮が彫刻大御本尊を作るから布施を希望もしていない。また仮に大御本尊の存在があったならば日蓮が愚痴を吐いた富木入道が知らないのは不自然では?。遺文をあれだけ沢山集めた富木入道が大御本尊に言及していない?そもそも大石寺にある日蓮真筆の遺文や本尊数は少数。
212.日蓮ーその行動と思想ー - 創価学会の信仰に功徳はあるか?
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/87d0ea4d91aa20b1c32e16feabbaedce
日興跡条々事の上記の抜粋部分が日興真筆ならば、彫刻大御本尊は偽物かあるいは日興死後の産物である可能性が高い。(富士門流BBSを読んでいると日蓮も彫刻の意図が無かった様に思われる。)
日興跡条々事の上記の抜粋部分が日興真筆でない(偽書)ならば、彫刻大御本尊は本物である可能性が高い。しかし日興に近い時代から偽書があった事になる。偽書であった場合「二箇相承」の真偽について影響が大きくなる。
日蓮正宗の説明は弥四郎国重については不十分。
>「古伝に云はく、此木甲州七面山の池上に浮び出て夜々光明を放つ
これは「おにくげ」同様、完全におとぎ話、伝説。
※
”日蓮に弥四郎の記述はあっても、日蓮、日興、日道に弥四郎国重に関する記述無し。彫刻大御本尊も記述がなければ願主の人も記述がない?大御本尊を秘仏とした場合、大御本尊そのものは秘匿される場合もあるが、彫刻や漆塗り、文字に金を加えるなどの莫大な資金が必要。それなりの人物でないと不可能。ところが日蓮遺文に弥四郎国重が出ない事や他者の歴史的な遺文に出ないのはどういう事か?粗末な食事を信徒から頂いただけでも、あれだけ丁寧な返答を寄越す日蓮なんだから、大御本尊との言及を避けてもお礼を言う事は可能。創価など日蓮正宗系の意見では一民衆にせよ、武士にせよ素晴らしく信心ある人物に日蓮は意義を感じて大御本尊を顕したのだから、遺文に素晴らしく信心ある人物の名前がないのは疑問。(四条金吾や富木常忍などの遺文の多さを考慮に入れるべき。)
「願主、弥四郎国重がはっきりしないのは事実」であり、直ちに大御本尊が偽物である直接の証拠にはならない。
願主弥四郎国重は新たな日蓮真筆遺文が見つからない限りは偽物の証拠にはなり得ても本物の証拠にはなり得ない。
またしかし、現代の彫刻および金ぴかという形式を持つ本尊は日蓮生存時には矛盾が多く高い確率であり得なさそう。日蓮真筆本尊をベースにしている事は(可能性の大小は別として)あり得る。彫刻大御本尊はどうせ文字を掘り下げ(笑)だし、現代人から見て他の本尊と比較すると価値が全くないか価値が下がるか?
日蓮が書いた本尊を日法が掘った事にしないと創価学会、日蓮正宗の布教都合上まずかったという事。(断言)
末端の学会員が聖教新聞などで「情報操作されて大御本尊が偽物という見解に至った」のは本尊観についてだけは良い事であるが、特に創価は学会史上からも大御本尊を理由に発展してきたのであり、今までの誹謗や罵倒に謝罪も無し、訂正も無し。未だに学会のHP、会則などの公式見解では”本門戒壇の大御本尊”となっている事からダブルスタンダード。それを日蓮正宗の攻撃材料にするとは
仏法者、宗教者どころか人としてどうかと思う。日蓮正宗も上記の文章からしても大御本尊を理由に自分たちを「自分たちの宗教が一番正しい」などと正当化したり、創価学会を含め日蓮宗や他宗を誹謗中傷、罵倒するのは異常だ。日蓮正宗も自分たちが創価から批判されるに至って今まで邪宗扱いしてきた人達の心や気持ちが分かりませんか?
以上、箇条書きになっていなくて修正途中だがとりあえずアップ。順次修正させて頂きます。>ALL。m(_ _)m