Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*

舞台は生もの、賞賛も不満もその日の出来次第、観客側のその日の気分次第。感想というものは単なる個人の私感でしかありません。

大阪松竹座『阿弖流為』 昼の部 3等3階センター/夜の部 1等前方センター

2015年10月17日 | 歌舞伎
大阪松竹座『阿弖流為』 昼の部 3等3階センター/夜の部 1等前方センター

『阿弖流為』
とりあえず歌舞伎NEXT第一弾を見届けに。歌舞伎NEXT第二弾を期待するために。千穐楽を昼夜通して拝見しました。舞台に携わった皆さま、無事に終えられておめでとうございます。観ることができたことに感謝。

今回の『阿弖流為』は色々思うことはありましたが今日はそれを越えて心から楽しみました。そして染五郎さんはこれを「歌舞伎」にしたいんだなと痛切に感じました。そして歌舞伎だったよ!

役者の皆さま、かなり造詣が深まっていました。演舞場のほうが断然スケール感はあったけど役者の演技の密度のこといえば松竹座。難しいところかな。

阿弖流為@染五郎さん、あの破綻してしまったキャラをよくあれだけのものにしてきたなぁとしみじみ。今日は昼夜観劇でしたが昼夜だけでも少しずつ違ってた。台詞廻しは昼のほうがより良かったというか好みだったかも。染五郎さんの阿弖流為の台詞廻しがかなり歌舞伎になってたんですよ。昼の部が特に。いわゆる歌舞伎の台詞廻し(そのものもあれば、強弱高低をつけて謡うようになど)をたぶん意識的に芝居のなかに嵌め込んでいっていたと思う。演舞場ではまだやりきれていなかった部分もあったけどそこしっかり嵌ってきてたと思う。この芝居でこの台詞廻しをうまく嵌まらせるとは凄い。それ以外の部分でも立ち廻りなども舞踊のようでした。

アラハバキ殺しの時の阿弖流為@染五郎さんは楽の昼夜では表情が違って見えました。大きなものを背負う覚悟してからの表情なんだけど昼は深い哀しみを秘めて、夜はなぜこうしなければいけないのかという悔しさ怒りも混じっていたようだった。鬼神になってからの立ち廻り~飛び六方の壮絶さにはただひたすら息をのんで見つめるだけ。松竹座は花道が短すぎるって思った。ここと神殺しのシーンは本当に何も考えない、考えられなくなるくらいの迫力(笑) 

台詞廻しでいうとアラハバキの七くんも演舞場の時より迫力が出てましたがこちらは夜のほうが好みでした。声に哀しさがあった。七之助くんは声の使い方は女形基本なので別として(千穐楽ではアラハバキは完全に地声の低いとこ使ってましたが)台詞廻し部分でいうとアラハバキがに歌舞伎台詞、立烏帽子は中間、鈴鹿は演劇的というように感じました。

田村麻呂@勘九郎さんは反対に歌舞伎台詞はポイント使いだった。他は演舞場の時より演劇的台詞廻し(という言い方でいいのか、新感線的と言うべきか)になってた。これはいのうえさんが意図的に阿弖流為と田村麻呂こういう部分でも対比させたがったのか、それとも勘九郎さんが演劇的台詞廻しのほうに自然に傾いていいったのかはわかりませんでした。

千穐楽のみバージョンだったのか宗之助さん随鏡が『アテルイ』の右近さん随鏡ぽいしゃべりをした場面があって笑った(笑)これ、最初からやっても良かったかも。随鏡かなりクセのある演じ方のほうがインパクトがあっていいんじゃないかなと個人的には思ったり。

蝦夷側の女形さんたち、東京の時より拵えがかなり可愛い感じなってる方多しでした。でも同じ役者さんたちなのに都側の拵えだとごつくなる。髪形のせいと衣裳との両方かな?薄物着せたら可哀想よね(^-^; 

大阪では観客がねぶたのお囃子にぜんぜん乗らなくて地域性を感じました。東京ではかなりの人が一緒に歌って跳ねてたんだけど。ラッセラー、ラッセラー、ラッセ、ラッセ、ラッセラー♪ たぶんこのお囃子のリズムがに関西のほうで馴染みが無いのでしょうね。

鈴鹿と阿弖流為を恋仲にしたのは失敗だったと思う。そのせいで、アラハバキとの関係を深めるわけにいかなくて、かえってそういう雰囲気が減ってしまったし。そもそも物語の根本の部分の矛盾も出てしまっていた。あと蝦夷側に錦吾さんクラスの役者がやるくらいの気概のある男や米吉くんに阿弖流為の妹あたりで出て欲しかった。たぶんそれで朝廷側と蝦夷側のバランスは取れたと思う。

阿弖流為の今回の脚色にはまったく納得はいってないのだけど、それはもう今回の上演では仕方ないし、そこらへんは置いてみようと千穐楽は臨んだし松竹座では小屋のおかげもあり、また思う以上に芝居が密になっていたので気持ちいいくらいにその部分は置けた。でも、それでも阿弖流為と鈴鹿の関係性の部分だけはどうやっても違和感をぬぐえなかったのも事実。あれだけのことをする仲だったように見えなさすぎたのが原因。

で、これは自分で妄想しなきゃいけないのかよ、と大阪では舞台上の二人を私的にこう補完してみた。なぜか?それは立烏帽子が鈴鹿のふりをまったくしない&阿弖流為があの立烏帽子を鈴鹿だと思うことが変&里に戻ってから恋人同士らしい雰囲気を見せる場面がなし。姿形が似てても(でも立ち振る舞い&声&髪型が違いすぎる)あの演じ方では立烏帽子を鈴鹿と思はわないだろうと。阿弖流為があの縦烏帽子を鈴鹿と思えるのか?という部分はほとんど人が「?」となっているように思う。それなのに、演出家のいのうえさんがヘンだと思わなかったのか、あえてそれでよしとしたのか。演出の意図も実は知りたい。

仕方ないので観てる間は無理矢理、妄想補完して、立烏帽子は阿弖流為の本当の鈴鹿との愛の記憶だけは封印したままだったんだろうということにした。鈴鹿を助けるために神の使い殺しの場だけ鮮明にし、それ以外の鈴鹿との愛の記憶は曖昧にさせてるんだと。愛していた女はこの立烏帽子なんだとという暗示をかけた。本当の愛の記憶はぼんやりさせている。だから阿弖流為は立烏帽子を愛してた女性として信頼はしてもどこか芯の部分で心からの確信がなく距離感があったのだろう。立烏帽子(アラハバキ)は立烏帽子で鈴鹿の姿を借りても人として阿弖流為を一個の生身の男をして愛することは知らないから精神的な近しい距離を求めるだけ。阿弖流為はだからたぶんそれを敏感に感じ取っている。

阿弖流為が本当に鈴鹿の記憶を取り戻したのはアラハバキを殺した瞬間。だからアラハバキの手を自分に触れさせなかった。蝦夷の民のための一撃ではあったけど最後の一刺しは自分のため。蝦夷の民に殉ずる覚悟とともに自分の男としての想いもあそこで殺した。神も殺したけど一個の男としての自分もすでにあそこで殺してる。阿弖流為は死ぬ覚悟はもうあそこでしてるわけで。都軍に降りるということは自分が死ぬことで民を助ける、そういう選択だ。アラハバキへは本当に純粋に崇める対象としての愛し方だったんだろうし、それが鈴鹿の姿をしていたことへの哀しさがあったんだと。阿弖流為@染五郎さんは本当に哀しそうな表情してたけど、アラハバキへの想いだけでなくもっと色んな想いが去来したんだろうと解釈できる。

こういう感じなら阿弖流為が鈴鹿の形見を大事に腕に巻いて最後の時を迎えようとしていたのもわかるし、ラスト傍らにいるのが鈴鹿で問題無いかなあと。まあこうなるとやはり鬼神になった阿弖流為を救うのはやはり鈴鹿しかいないけど。

田村麻呂に阿弖流為を救ってくれと現れているのでまあそういうことかな。アラハバキの元にではなく自分のもとに戻ってきてほしかったんだろうね、あそこ。でも、なら私的には鈴鹿には無言で伝えるのではなく「阿弖流為を人に戻して心を救ってあげてほしい」と田村麻呂に言葉で伝えてほしかったかなぁ(『アテルイ』では恋人ではないけど蝦夷の人として阿弖流為を人に戻してあげてほしいと頼んでいる)。演舞場の田村麻呂@勘九郎さんは最後まで子供だったので「謎かけは苦手なんだ」というあの台詞はいかにもだな、だったけど、松竹座では演舞場の時よりきちんと成長して大人になっていたのであの笑いを取るような台詞は浮いてたしね。鈴鹿が伝えるとしっくりくる。

自分のなかではこれでなんとなくは今回の阿弖流為と鈴鹿の関係性を納得させた。無理矢理感はぬぐえないんだけどネ(^^;) とりあえずは鈴鹿は阿弖流為を自分の元へ戻らせたと。でも不安はあるだろうなあ。いつまた鬼神になってアラハバキの元へ行っちゃうかわからないんだから。 

この解釈ならなんとか今回の整合性の取れない脚色でもつじつまは合いますよねえ。でも所詮、へんだな?と思う人だけが妄想で補完するだけになっているのでやはりどこかできちんと見せるべきだったかなとは思うんですよね。妄想するのは楽しいですけど。

しみじみ、蝦夷側の一族にもっと目立つタイプの人が欲しかったよなあ。『アテルイ』のときのカナコさんポジションの人と、いかにも東北人的な無骨で筋が通りすぎくらい頑固な老人くらいは。モレ族は神官の一族なので普通の民と違うし蛮甲もモレ族だしトリックスターなキャラだし。

そういえばアラハバキの『独立を勝ち取れ!』の台詞って『アテルイ』でもあったっけ?すごーく違和感あって…。DVD見直せばいいんだけどいつも、最初のほうであれこれ考えちゃって途中で止まっちゃう。この台詞すごーく好戦的に聞こえて、ここだけいつも違うなあと思っちゃう。西牟田さんの時もあったとのこと。今回、ここだけ妙に耳に付いてしまうのはなぜだろう?凄く違和感を感じる。七くんアラハバキのほうが、それこそ女形ならではな作りで神ががり的なところが強く出るし、かなり男の地の声のほうを使ってるから生々しさ、リアル感が出ちゃうのかも。だからなおのこと神ならあの言葉は言わないんじゃないか?とか思わせてしまう部分もあるのかな。あの声は北の大地の声って感じもあって神らしさが増幅されて好きなんだけど。

今回の『阿弖流為』は『アテルイ』の上澄みを上演した感がしている。人が足りないから?と思ってたんだけど、中島さん、いのうえさんが歌舞伎に対して遠慮してる気もしてきました。もっと歌舞伎は猥雑で祝祭性のあるものでいいと思うんですよね。中島さん、いのうえさんてば猿翁さんの「ギャグを抜かせば」を意識しすぎたのかなあ…。外部の脚本家、演出家が一番「歌舞伎」に対して敷居高く感じてるんじゃないか?とかとたまに思う。まあ今回は様子見ってところはかなりあっただろうし。今のお客さんは前よりは柔軟だと思われ。とはいえ旧歌舞伎座にいた「歌舞伎とは、うんぬん」なお客さんが減ってるというのも寂しいには寂しいわけで。まあ、次回は歌舞伎座でやってみたらいいのよ、と私は思うのだ。