あるくみるきく_瀬戸内シーカヤック日記

瀬戸内を中心とした、『旅するシーカヤック』の記録

瀬戸内シーカヤック日記: 『第1次瀬戸内カヤック横断隊』と『観光文化研究所』

2010年09月12日 | 旅するシーカヤック
先日、三原市で行われた森本孝さんの講演を聴いたときにふと感じたのが、宮本常一が所長をしていた『観光文化研究所(観文研)』と、内田正洋隊長がリーダーを勤められている『瀬戸内カヤック横断隊』との間には、共通するものがあるということ。

***

『観文研は、同じ志を持った人が集まる場であり、同じ志を持った人たちがつながった場である』
→ 第1次瀬戸内カヤック横断隊も、プロ/アマを問わず、シーカヤックの世界を極めたいという熱い志を持った個性豊かな面々が様々な縁で集まり、経験豊かな内田さんをリーダーとして隊が構成されていた。

『宮本常一は、観文研の研究員に対して、毎月一回講義を行っていた。 これを通じて、モノを見る力と視点を教えられ、研究員の育成にもなっていた。 この講義が、宮本常一が仲間を育成していくやりかたである。 そしてこの講義を受けてモノの見方を学んだ事が、観文研出身の研究者と、大学だけで学んだ研究者との最大の違い』
→ 第1次瀬戸内カヤック横断隊は、まさに実践版シーカヤックアカデミーとして企画され、初冬の厳しい瀬戸内の海を、キャンプ道具を積んだシーカヤックで実際に旅しながら、ひどく荒れた海と寒気の中、お互いに助け合い、経験や知識を教え合い学び合うという、とても貴重な実践の場であった。

『宮本常一は、古い文化を復興させ、それを地域の将来につなげていくことを考えていた』
→ これぞまさに、私が瀬戸内カヤック横断隊から学んだ、『瀬戸内海洋文化の復興、創造そして継承』そのものである。

私は、第1次から第6次まで、毎回数日間だけの部分参加をさせていただいていたのだが、その中で一番深く印象に残り、そして後のカヤックライフ/カヤックスタイルに大きな影響を受けたのが、『第1次瀬戸内カヤック横断隊』

2004年の秋にブログを書きはじめたのは、第2次横断隊の事を記録に残しておきたかった事がきっかけだったので、第1次横断隊の事はブログには書いていなかった。
もう7年も前の事なので記憶も定かではないが、せっかくなので、その時の事を想い出しながら、記録に残しておこうと思う。

***

2003年11月20日 親父のクルマにフェザークラフトK-1を積み込み、蒲刈の県民の浜へと送ってもらう。
偶然、先日知り合ったエルコヨーテさんから、この隊が企画されている事を教えていただき、隊長からメンバーに送られてきた『設立趣意書』に感動&共感して、参加させていただくこととなったのだ。
さて、これからの数日間、いったいどんな日々が待ち受けているのだろうか?

数日前に山口県を出発した、記念すべき『第1次瀬戸内カヤック横断隊』は、寒気と強風の中、小豆島を目指して東に漕ぎ進んでいる。 予定では、今日には蒲刈島へ到着するはずなのだが、厳しい風と波に難儀し、遅れているらしい。

県民の浜に到着し、ケータイ番号を教えてもらっていたハラダさんに連絡をとって合流する。 今回が、ハラダさんとの初対面。
隊の到着が遅れそうだということ、そして今日到着してもそのままここから出発せず、一泊する可能性が高いと言う事なので、『のんびり待ちますか』という事に。

まずは、フェザークラフトK-1を組み立てる。 普段の旅と違い、天候によってルートも日程もどうなるか分からないとの事なので、リジッド艇では合流や離隊後の回収が難しいと判断し、今回は、進退自由なフェザークラフトで参加してみる事にしたのである。

その後は、ハラダさん、カメラNさん達と、桟橋の岩ガキを採集してつまみの準備。

午後、ようやく隊は到着したが、連日の悪天候でみんな疲れ果てており、やはりここ蒲刈で一泊する事になった。

今でもいろいろとお世話になっている、地元のIさんの好意でB&Gの艇庫をお借りし、雨露を凌がせていただく。 ありがたいことだ。
内田さんとは、伊豆のアカデミーやジョンダウドと漕いだイベントなどで何度かお会いした事があったが、隊長以外の隊員達は、私にとっては、ほとんどが初対面のメンバー。 ビールを酌み交わしながら、ここ二日間の厳しい旅の状況を聞き、交流を深める。

今回は初日から荒れており、一日漕いだ隊員は疲れているのだが、二日目から合流したまだ元気な隊員がペースを上げて引っ張っていったのだとか。 初めてのこと故、ペース配分もよく分からず、お互い競争のようになってかなりハイペースになり、クルマでの陸上班伴走が始まってからは、みんな荷物を軽くしてなんとか付いて行こうと努力しているとの事。
うーん、そんなハイペースだと、スピードでは劣るフォールディングカヤックでついて行けるかなあ?

横断隊は5時起床&7時出発が基本とされたので、軽く飲んで、みんな早々にシュラフに潜り込んだ。

***

2003年11月21日 朝5時前に起床。 シュラフを片付け、コンロに火を点けて朝食の準備。 そそくさと食事を済ませ、荷物をパッキング。
Iさんが準備して下さっていた、『歓迎 第1次瀬戸内カヤック横断隊』の看板の前で記念撮影をして、7時に出発した。

今日も強い西風が吹いている。 岬に沿って漕ぎ進み、黒鼻を越えると。。。
そこは、瀬戸内とは思えない荒れた海が待っていた。 西から南西の強風で大きなうねりが入り、これまで経験した事がないような瀬戸内海の別の顔を見せつけられた。 それ以来、瀬戸内への見方が大きく変わった。

津軽海峡横断や、ジョンダウドと漕いだ西伊豆のイベント、沖縄でのツーリングなどでは、これよりも厳しい状況はあったが、まさか地元の瀬戸内でこんな状況に遭遇するとは。

斜め後ろから押し寄せてくるウネリと風浪に、時折ヒヤリとしながら豊島に向かって漕ぎ進む。 『おーい、ここから海峡横断だ。 みんな固まって漕げよ』と隊長からの激が飛ぶ。

上蒲刈から豊島へ、豊島から大崎下島へ。 大崎下島の南岸が厳しかった。
南西からの強風によるウネリ。 そのウネリと風浪が、岸壁にぶちあたり、その返し波と重なって複雑な三角波が押し寄せる。

荒れた海での安定性にすぐれた『フェザークラフトK-1』と、手に馴染んで強風に強い『アークティックウインド』との組み合わせなのだが、それでもまったく気が抜けないパドリング。
 
スケグ仕様のカヤックで参加していた経験豊富なメンバーが、こんな状況で漕ぐなら次回からはラダー付きにする、と言っていたのが印象的。

また、ラダーもスケグもないバイダルカは、保針に苦労しているのに加え、激しい波で浸水もあるようで、時折岸沿いに寄ってはビルジポンプで水出しをしている。
それを待つ間、沖縄で荒れた海を漕いだ時の経験から、岸壁から離れた場所で待機する。 近くに居た隊長が、『そう。 こんな時は、岸壁から離れた方が波が安定しているんだよな』

後で聞いた話では、バイダルカは潮流や風に応じて舟が行きたい方向があるのだそうだ。 それに従って漕ぎ進むには楽なのだが、今回の様に一団となって行動する場合には、必ずしも舟が行きたい方向と隊が進む方向が一致するとは限らず、操船にはかなり苦労したようである。

***

なんとか岡村島まで漕ぎ進み、観音崎を越えたあたり。 とつぜん目の前につむじ風が巻き起こり、海水のしぶきが空中に巻き上げられていく。
強風は隊員達をも襲い、風沈しそうになる。 『こりゃ、やべえ。 一旦上陸しよう』

小さな浜にシーカヤックを引き上げ、ほっと一息。 『観音崎に様子を見に行こう』ということになり、高台に登ってみると。。。
そこには一面真っ白な海が。 沖を行く大きな貨物船が向かい波に突っ込み、砕けた白波が高い船首を越えていくという恐ろしい光景。

皆一同に『こりゃあ絶対無理だな。 今日は岡村島泊じゃないか』、『いやあ、これは漕ぎたくないですねえ。 怖い怖い』とささやき合う。
でも隊長は、『ようし、じゃあ島の反対側を見に行ってみるか』 一部の隊員が同行し、小大下島との間の瀬戸をチェックしに行くことに。

歩きながら隊長は、『俺たちはダカールラリーに参加するトレーニングを受けていたんだ。 そこで教えられた事の一つが、どんな厳しい状況でも<後ろ向きの言葉は発しないこと>。 常に前向きに、どうやったらできるか考えるんだ』 なるほど!

小大下島との間の瀬戸と、島の北側は、少し荒れてはいるが、南側と比べると少しは波が低そうだ。 『どうだ、これならいけるんじゃないか』

再び漕ぎ出し、なんとか小大下島との間の瀬戸を抜け、大下島の北岸へ。 南側の海峡に比べると確かに少しはマシだが、それでも波は高い。
近くを海上保安庁の巡視艇が通る中、ヒヤヒヤしながらだが、なんとか無事に漕ぎ抜けた。

柏島を抜け、宗方の南岸まで進むと浜があり、奥には昔の学校の様な建物が。 少し早いが、今日も風と波に打ちのめされ、みなクタクタである。
シーカヤックを引き揚げ、キャンプできるかチェックする。

そう、初めてとなる第1次横断隊では、まだルートも確立しておらず、キャンプ地についての情報も不十分だったので、常に新たなルートとキャンプ地を開拓しながらの旅であったのだ。 正に、開拓者精神/パイオニアスピリッツで満ちあふれていたのである。

管理人さんに聞いてみると、ここは素泊まりもできる宿ということで、泊まらせていただく事になった。
 
着替えて濡れものを干し、風呂に入って体をほぐす。 夜はビールを飲みながら今日一日の旅を振り返る。

横断隊参加で初めて漕いだ日は、このように大変厳しい一日であったが、経験豊かで志も高く、個性的なメンバーと一緒に漕いだこの日を一生忘れる事はないだろう。 これぞ実践版シーカヤックアカデミー。

感謝、感激! そして 感動! こんな経験ができるなんて。 この日を境に、俺のシーカヤックに対する考え方や向き合い方が大きく変わった。 シーカヤッカー冥利に尽きるとは、まさにこの事である。

***

2003年11月22日 今朝も5時起床。 簡単な食事を済ませ、荷物をパッキングするとミーティング。 今日のルートを決めるのだ。

ルート案としては、大三島の南岸を漕ぎ抜け、鼻栗を抜けて生口島経由で因島に行くという案と、大三島の西岸を北上し、生口島の北岸経由で因島を目指すという案。

隊長が言う。 『みんな、自分の意見を言うんだ。 自分がどうしたいのか、なぜそうなのか。 話し合って結論を出そう』 メンバーは侃々諤々意見を述べるが、ここ数日痛めつけられてきた西風の恐怖がトラウマとなり、大三島の西岸北上案が大勢を占める。
『昨日の様な波は、もうたまりませんよ。 三原側に上がれば風も弱いかも』 『大三島の南側はエスケープできる場所もあまりなさそう。 北にいきませんか』

ほとんどのメンバーが北上ルートを主張し、その案で行く事に。 風が強い中、浜から出発して時計回り方向に漕ぎはじめた。 しばらく行くと、後ろから声が聞こえてきた。 『どうしたん?』 『一人、引き返す言うてます』
どうやら、あまりの風の強さに一人がリタイアを決めたらしい。 出発してまだ10分も経っていない。 いやはや。
浜までサポートする隊員を待ち、再び漕ぎ出した。

しばらく向い風の中を漕いでいる時、皆が気づきはじめた。 『え、今日は北西風じゃあないか!』 そう、風向きは日々変わるのだ。
宗方の南岸では、岬を回ってくる風で風向きが正しく判断できなかったのだが、北上ルートは向い風。

ここ数日の西風トラウマによって、より良い判断ができなかったのである。 今日は、大三島南岸ルートなら風裏だ。 でもこの時の『痛い経験』は、第2次横断隊以降のルート決定に活かされる事になった。

***

地図を見れば分かるように、大三島は大きな島である。 厳しい向い風の中を、一団となって時計回りに漕ぎ進む。

盛港を越え、生口島へ漕ぎ渡ろうとしたとき、斜め後方からの大きな波に、多くのメンバーのカヤックが翻弄された。 『隊長、ムリです。 戻りませんか』

一旦引き返し、盛港の中で一息いれる。 『みんな、怖かったら言えよ。 俺にはみんなが怖いと思っているかどうか、分からんからな』と隊長。 なるほど、様々な修羅場を漕ぎ抜けてきた隊長とメンバーでは、怖いと思うレベルが違うんだ。 自分が無理だ、怖いと思ったら、率直に伝える事も重要なんだなあ。

再び漕ぎ出し、井口港の方へ進む。 もし、井口港から三原行きのフェリーがあれば、それでエスケープしようという案も出たのだ。
港に近付くと、一隻の漁船が居た。 私は漁船に近付き、『こんにちは。 あの港から三原までフェリーは出ていますか?』 すると『いやあ、あそこからは高速艇しか出てないよ』との事。

『隊長。 残念ながら、あそこの港からはフェリーは出ていないそうです』 『そうか、じゃあ多々羅大橋の下を横切って生口島へ渡ろう』
『そして、漁師さんなどに話し掛けて、地元の情報を聞く事は大事だ。 これからも、そういうコミュニケーションをしっかりやって行こう』と一言。 『はい、わかりました』

***

多々羅大橋の下を漕ぎ渡り、再びバウを北に向けてサンセットビーチへ。
 
上陸して情報板を見ると、高根島との間の瀬戸は流れが厳しいらしい。 疲れきった隊は、完全に戦意を消失し、ここから因島まで、陸上班のクルマでエスケープすることになった。
ここのレストランでお昼ご飯を食べ、何回かに分けてカヤックと荷物、そして隊員を因島まで陸送。

11月の下旬である。 日没は早い。 全員がキャンプ地に揃ったのは、すでに暗くなってから。
 
テントを張り、食事の準備に取り掛かる。 数日間一緒に厳しい海を漕いできて、気心も知れた仲間である。 自然と役割分担をして、テキパキと調理を進めていく。

それを眺めながら隊長が、『ほんま、この隊のメンバーは最高やのう』とポツリと呟いた。 うん、俺も本当にそう思う。 なんて素晴らしい隊なんだ!

肉を炒めていると、『オリーブオイルは体に良いんだ』 『お、生姜を入れようぜ。 体が暖まるからのう』と隊長。 なるほど、寒い時には生姜が良いんだ。 こうして、一つ一つ知識が増えていく。 

酒を飲み、食事を摂り、今日一日を振り返りつつ、疲れた体を充電していく。 明日も5時起床である。

俺は、Oさんのテントの横にテントを張り、しばしバカ話を楽しんでからシュラフに潜り込んだ。 Oさんとは、この横断隊でお会いしたのが初めてなのだが、なんだか気が合うのである。 『おやすみなさい。 また明日5時に』

***

2003年11月23日 今日は快晴。 第1次横断隊で最高の好天となった。
 
気持ち良い朝。 もう既にルーチンワークとなった5時起床、簡単な朝食、荷物のパッキング、そして7時出発。
みんなの表情も明るい。
 
最高のコンディションの中、順調に漕ぎ進み、田島の近くを漕いでいたときの事、隊長のケータイに着信が。

それは、思いもかけず、隊長の友人の訃報であった。 このため、隊長は急遽予定を変更する事になり、この先で上陸されるとの事。
そのため今回の横断隊は、当初は小豆島を目指す予定であったのだが、残りのメンバーで白石島まで漕ぎ、そこをゴールとすることとなったのだ。
***
無事に漕ぎ進み、白石島に到着した。 私にとっては初めての白石島。

カヤックを引き揚げ、ゴールを祝ってビールで乾杯。 うーん、美味い!

夜は隊長も合流され、みんなで瀬戸内シーカヤックの歴史に新たな1ページを刻んだ画期的なこの旅を振り返りつつ、夜の宴は盛り上がった。

***

初めての試みで、ルートもキャンプ地も手探り状態だった第1次瀬戸内カヤック横断隊。 ショートカットや思いもかけぬ中断もあったが、出来るだけの事はやったという充実感の方が強かった。

経験豊富で志の高い隊員が集まり、初冬の厳しい瀬戸内の海を、助け合い、教え合いながら漕ぎ進んだ熱くて刺激的な日々。 それは、『共育』/『切磋琢磨』という言葉が正にピッタリと当てはまるような充実した旅であった。
そんなリアルな海旅の中、私は様々な局面で隊長が呟く一言を、まるで乾いたスポンジのように一滴残らず吸収し、咀嚼して、自分の心に刻み込んでいった。

『プロって言うのはなあ、お金をもらうからプロ、お金をもらわないからアマなんてもんじゃないんだよ。 シーカヤックを極めようと志し、それを通じて自分が目指すものを成し遂げようっていう意志を持って実行していくんなら、それはプロだ』

2003年の、あの最高の経験があったからこそ、シーカヤッカーとしての今の俺があると感じている。 そして昨年から、残念ながら諸般の事情により参加を見合わせているが、この画期的かつ純粋に実践版シーカヤックアカデミーとして企画&実行された第1次瀬戸内カヤック横断隊に様々な縁で参加させていただいた事、そして尊敬する隊長と個性的な隊員達との出会いには、今でも心底感謝している。

『全行程参加が基本』という横断隊では、第1次から第6次までの参加がいずれも数日間という部分参加であった俺は出来の悪い落第生ではあったが、これからも初心を忘れず、実践版シーカヤックアカデミーで学んだ『瀬戸内海洋文化の復興、創造そして継承』を実践していきたいと、強く想っている。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 瀬戸内シーカヤック日記: ... | トップ | 瀬戸内シーカヤック日記: ... »
最新の画像もっと見る

旅するシーカヤック」カテゴリの最新記事