あるくみるきく_瀬戸内シーカヤック日記

瀬戸内を中心とした、『旅するシーカヤック』の記録

『芸予ブルー』_テーマカラー of 印象派_”瀬戸内シーカヤック日記”

瀬戸内シーカヤック日記: カヤック事始め_ストックホルムでシーカヤック・子離れ夫婦のスウェーデン旅

2020年05月26日 | 旅するシーカヤック
1992年の冬に、中古のフォールディングカヤックを購入し、独りで海を漕ぎ始めた俺。

今でこそシーカヤックはTV番組にも登場するなど一般に知られるようになっているが、当時はまだ、せいぜいカヌーを川で漕ぐというイメージの時代。
カヤックやカヌー、シーカヤックに関する情報はとても限られていて、貴重なムック本や、一般的になったばかりのインターネットを使って海外の情報などを入手して、勉強していたことを思い出す。

***

一連の騒動で外遊びを自粛し、この有り余る時間を活用して最近の休日は、シーカヤックとの出会いや、これまでの記憶に残る旅を、ブログという媒体を使わせていただいてデジタルアーカイブ化する活動を進めてきた。

非常事態宣言も、週末の外出自粛も解除され、地元のシーカヤックショップでもツアーが再開されているなど、これからようやく一歩一歩、以前に近い生活に戻っていけそうな今日この頃。

一旦、このデジタルアーカイブ化も一区切りとすることにしようか。

2002年に訪れた、初めての海外旅行先であるミクロネシアのシーカヤックツアーとは、ある意味対極にある、北欧のスウェーデンのストックホルムでのカヤックツアーも、忘れられない旅の一つであった。

***

2014年6月17日(火)~6月24日(火)まで、リフレッシュ休暇を利用して妻と二人でスウェーデンに行ってきた。
以前、同じ職場で働いていて仲の良かったトルコ人夫婦が転職してスウェーデンに住んでおり、遊びに来ないかと言われていたのである。

『6月20日が夏至祭ですから、この時期はどうですか?』 『うん。 今年はリフレッシュ休暇が取れるから、その時期に行くよ』

『せっかくだから、ちょっとでもカヤックを漕げないかな?』 『ええ、来られるというので、友人にどこで漕げるか聞いているところです』
『おー、それはありがとう。 楽しみだ!』

半年くらい前からチケットを手配し、待ちに待った北欧への旅。 妻も楽しみにしている!

***

6月17日の夜に広島空港を出発。

羽田空港で国際線へ。

羽田から深夜に出発するフランクフルト行きの飛行機に乗る。

約12時間の長旅である。

トランジットの長い待ち時間。

せっかくのフランクフルトという事で、セルフサービスのホットドッグにもチャレンジしてみた。


***

フランクフルトからストックホルムへは、約2時間。

北欧は、長い冬を終え、待ちに待った太陽の季節のようである。

俺たち夫婦にとっても、待ちに待った夏のスウェーデン。
どんな国なのだろうか? 楽しみだ!

***

空港まで迎えにきてくれた友人夫婦と無事再会。
『ありがとう。 本当にスウェーデンまで来たよ』 『そうですね。 ここで会えるなんて、私たちも嬉しいです』
『お昼ご飯はまだですか?』 『うん、まだ食べていないんだ』 『じゃあ、良いカフェがありますから、そこに行きましょう』

案内されたのがこのカフェ。

少し涼しいが、空は晴れて緑も美しく、素晴らしい眺め。

楽しい会話と美味しいランチ。 なんとも最高な旅のスタート。

***

友人夫婦の家に向かう途中、道で見かけるクルマの多くに、トレーラーを引っ張るヒッチが付いている事に気が付いた。

『あれ、多いねえ』 『そうなんです。 ボートやキャンピングトレーラーを引っ張るクルマもあるし、中には馬を載せてバカンスに行く人達も多いんですよ』
『へえ、それはスゴイねえ』

途中で買い物。

『ビールが好きだから、今日はいろいろなビールも準備していますから楽しんで下さい』

『いやあ、それはありがとう。 うれしいな』
『スウェーデンではお酒を制限していて、アルコール分が3.5%までのビールはスーパーや売店でも売っているんですが、それよりアルコール分が高いビールやお酒は、専門の販売店に行かないと売っていないんですよ』

『へえ、そんなシステムがあるんだね』

『じゃあ、晩ご飯を作りますから、ゆっくり飲んでいて下さい』 『ああ、ありがとう』

日本の事、会社の事、スウェーデンの事、広島でいろいろと一緒にドライブや旅行に行ったときの事などなど、楽しい会話とおいしい食事。

『いやあ、今日は楽しかった。 じゃあ寝るよ』 『はい。 おやすみなさい。 この時期は、真夜中まで明るいですから、ブラインドを下ろした方が良いですよ』

調べてみると、日が沈むのは夜の11時過ぎ。 日が昇るのは夜中の2時頃。 『へえ、これが白夜か』

***

翌日。 朝食を食べ、友人と一緒にストックホルムの街へ。

今日は昼から、俺だけ2時間のカヤックツーリングの予定なのだが、出発場所の確認のため俺たちだけ先に街に出たのである。
妻と彼の奥さんは後から彼と合流して、俺がカヤックツーリングを楽しんでいる間に街を散策することになっている。

結構激しく降る雨の中、昨夜グーグルマップであたりを付けていた場所へと向かう。
『あ、あそこがツーリングのスタート地点だな』

『そうですね』 『OK。 じゃあ、後は俺一人でスタート時間まで待っているから大丈夫』
『そうですか。 ではまた後で』 『うん。 2時半に、このカフェで待ち合わせしよう』

ツアー開始まで、まだ1時間半ほどあるので、しばし町を散策。

スウェーデンでは、雨が降っても傘をさす人は少ないと聞いていた。 実際に見てみると、傘をさしている人は居るが、確かに少数派である。
雨が激しくなってきたので、俺も傘をささずにパドリングジャケット&パドリングパンツ、そして靴は嵩張るパドリングブーツ代わりに持参してきた田植え靴『みのる君』に履き替え、完全防水の怪しい姿でストックホルムの町を歩く。

この格好で、そのままカヤックツアーに参加するつもり。

雨の中、傘をささずに街を歩くというのも、なかなか趣き深いものである。

ただ、つま先の割れた田植え靴『みのる君』が、俺の怪しさを倍増している。 通報されないだろうなあ!











晴れていればもっと美しいのだろうが、それでも自分の足で自由気ままに歩いてみると、この街の雰囲気がよく伝わってくる。

***

川沿いのカフェで独り、ランチを楽しみながらスタートの時間を待つ。

12時15分。 カヤックツーリングの受付に行く。
『ハイ! 今日の12時半からのツーリングを申し込んでいるんだけど、雨でキャンセルにはならないかな?』
『ええ、大丈夫。 もう少し時間があるから上で待っていて』 『OK。 良かった、楽しみにしていたんだ』

12時半少し前に、さっきの女性が上がってきた。 『じゃあ、準備しましょうか』
『今日は何人参加するの?』 『今日はあなただけよ』
『え、それはラッキーだな。 ツアーのHPには、人が少ないとキャンセルする事もあるって書いてあったよね』 『いいえ、大丈夫よ』

『着替えは?』 『これで漕ぐよ』
『カヤックは漕いだ事ある?』 『うん。 22年ほど日本で漕いでいる』 すると驚いたように、『じゃあ、私より経験が長いのね』

今日はガイドが一人、客が俺一人ということで、タンデム艇でツーリングである。
普段、タンデム艇なら俺が後ろを漕ぐのだが、今日はお客という事で久し振りのバウ側。
『スウェーデンでカヤックを漕ぐのを楽しみにしていたんだ。 今日はよろしく』

静かにストックホルムの運河に漕ぎ出す。 感激の瞬間!

大学生で、夏はカヤックガイドの仕事をしているという彼女。 漕ぎ進みながら、街の様子や建物についていろいろと教えてくれる。
もちろん全て英語である。

『ここのツアーには日本人は来る?』 『いいえ、前に一人来たくらい。 アメリカ人とドイツ人が多いの』
『なるほど。 ドイツはスウェーデンと一緒でバケーションが多いからなあ。 羨ましいよ』

『この辺りはモーターボートが多いね』 『ええ、ストックホルムではモーターボートを持つ人はとても多いの。 免許も要らないし、足代わりに使っているわ』

『この先に見えるのが、ヴァーサミュージアム。 沈没した船を引き揚げて展示してあるの』 『ああ、今日はこのツアーが終わったら、友人夫婦と一緒にそこに行く事にしているんだ』

『スウェーデンにはいつ来たの?』 『昨日。 妻と一緒に初めてのスウェーデン旅なんだよ』
『今日は奥さんは?』 『俺がこのツアーに参加している間は、友人夫婦と一緒にガムラスタンを観光している』
『今日はその近くも漕ぐから、奥さん達が見えると良いわね』

カヤックしか通れない様な狭い運河や橋を潜り、ストックホルムの街を水面から楽しむ。
『ここは、古い乾式ドック。 乾式ドックって知っている?』 『ああ、知ってるよ。 俺が住んでいる近くの島にも、古い乾式ドックがあるんだ』

『あれは、キリンの装飾をしたクレーンよ』 『この辺りは流れがあって波が高いけど、初心者の人はツアーで大丈夫?』
『この辺りには、初心者の人は連れてこないわ。 今日はあなたが漕げるし、スピードも早いから、この辺りを全て案内するフルメニューにしたの。 やっぱり、漕げる人とのツーリングはリズムも合うし快適ね』
『いやあ、ありがとう。 それはうれしいな』

『お、向こうからカヤックが来るぞ。 君の友人かな?』

近付いてみると、レーシングカヤックである。 お互い手を振り行き交う。

『知り合いじゃなかったわ』 『せっかくこの辺りを漕ぐんなら、景色を楽しめば良いのにね』 『ええ、ほんと』
『君はレースとかには出たりするの?』 『いいえ。 私はキャンプツーリングが好き。 あなたは?』
『俺もレースには興味が無いんだ。 キャンプツーリングが好きで、昔は子供達も一緒にタンデム艇2艇にテントや寝袋を積んで家族で川下りしたり、海を旅したりしていた。 今ではほとんど一人でキャンプツーリングだけどね』

『あ、あそこに鳥達が居るわ』

『子供達を驚かさないように、ゆっくり行きましょう。 あまり近付きすぎないで』 『OK』
『この辺りは冬になると凍ってスケートリンクになるのよ』 『へえ、それは凄いね。 君はスケートは?』
すると彼女は笑いながら、『私はほぼカヤックだけ。 あなたは?』 俺も笑いながら、『俺も趣味はカヤックだけ。 たまに自転車にも乗るけど、メインはシーカヤックだし、それもキャンプツーリングが一番好きなんだ』

『君はアーキペラーゴのツーリングガイドはやらないの?』 『ええ、手伝いにいく事はあるけど、実は料理が下手なのであのツアーのガイドはやっていないのよ』
『あなたは日本でカヤックガイドをやっているの?』 『いいや。 俺はサラリーマンだからね。 それに俺も料理は上手くないのでガイドは出来ないんだ。 カヤックキャンプのときも、一人だから簡単な料理で済ませる。 そして、ビールがあればOK』

『ビールが好きなの?』 『ああ、大好物だ。 君は?』 『私もビール派。 でもスウェーデンではビールが高いから、それほど多くは飲まないの』
『どんなビールが好きなの?』 『知っているかな? 日本にはエビスビールというブランドがある。 俺はそれが一番好き』
『知ってる! 前に2週間ほど東京に行ったことがあるんだけど、エビスビールを飲んだ記憶がある』

話していると、彼女は本当にアウトドアが、中でもシーカヤックとキャンプツーリングが大好きな事が伝わってくる。
『なんだか、俺たち似ているね』 『ほんと、そうね』と笑い合う。 楽しいツーリングである。

『ここは橋が低いから、頭をぶつけないように気をつけて』 『うん。 俺の頭は髪の毛のクッションが無いからねー。 特に気をつけるよ!』 『ハハハ!』

『ここが、ヴァーサ号が沈んだところ』

『もっと先まで行ってみましょう』

『この帆船はレストランになっているの。 でも料金は少し高いわね』

『あそこに見えるのは、ノーベル賞を取った人が授賞式に来た時に泊まるホテル。 そこはとても高いわ』
『いろいろ聞いていると、ストックホルムの物価がよく分かってきたよ。 少し高い、高い、とても高い。 その3つしかないんだね』と笑う。
すると彼女も笑いながら、『本当にそうね』

『でも、あなたが頑張ってノーベル賞を取ったら、あのホテルに泊まれるわよ』 『俺はもう歳で時間がないけど、君はたっぷり時間があるから狙ったらどう?』
『ハハハ。 そうね。 でもフィジカルセラピーでは受賞できないわ』

『ここは、桟橋がオフィスになっているところ』

『君の写真を1枚撮っても良いかな?』 『ええ、もちろん』

『もうすぐゴールだわ』 『いやあ、今日はいろいろと案内してくれて、そしていろいろと話を聞かせてくれて、本当に楽しかったよ。 Good Job!』
『私も楽しかったわ。 あなたは今まででベストのお客さんよ!』

約2時間のガイドツアー。 ストックホルムの街を運河からフルメニューで眺め、会話を楽しみ、ストックホルムでの暮らしについていろいろな話を聞くことができた。
最高の旅の思い出である。

***

カヤックツアーが終わるとカフェで妻&友人夫婦と合流。
先ほど運河から眺めた、ヴァーサミュージアムへ。

このミュージアムは素晴らしい!

引き揚げられた古い沈没船やそれにまつわる様々な品々が展示されている。

なんといっても、その船が大迫力。

スウェーデンに住んでいる友人夫婦も、初めて来たという事だが、ここは好いと大好評。

***

家に戻る途中、公園では夏至祭/ミッドサマーフェスティバルの準備が始まっていた。

家に戻ると、庭でビール!

『いやあ。 今日のカヤックツーリングは最高だったし、ミュージアムも大迫力だったし、ほんと良い旅だなあ』


真夜中に目が覚めると、少しだけ外が暗くなっていた。


***

翌日は半日フリータイム。 俺の事を良く知っている友人が、自分達で好きなように歩き回れるように自由な時間もプランしてくれているのである。
うれしいな!

妻は昨日訪れたが、俺はカヤックツーリングのため行けなかったガムラスタン地区へ向かう。

駅に近い、古い教会。
地図を頼りにガムラスタンへ。 ここはストックホルムの観光の中心である。

妻と二人で街を散策。

歴史のある建物。

ノーベル賞博物館。

本当に素晴らしい。

少し足を延ばしてシティーホールへと向かう。

雨だった昨日とは打って変わって青空がのぞくストックホルム。

そして、シティーホール。


***

家に戻ると、友人夫婦と一緒に、公園で行われている夏至祭へ。

このタワーが夏至祭のシンボル。

公園には多くの人が集まり、夏の到来を楽しんでいる。

子供達のゲームがあったり、屋台が出ていたり、移動遊園地が営業していたり。


***

翌日は、夕方までフリータイム。

今日は、船で近くの島を訪れる予定。

朝の気持ち良い街を歩いて桟橋へ。

だいぶ土地勘もついてきた。

今日は晴れて絶好の観光日和。

北欧の青空が鮮やかである。


そして朝のガイドツアー。

船に乗り込み、島へと向かう。

30分ほどで到着したのは小さな島。 ストックホルムから一番近いアーキペラーゴという事だ。

最初はガイドについて島を散策。

このガイドの方は、俺の見立てではスウェーデン人ではない感じ。

昨日のカヤックガイドの女性の英語は分かり易くほぼ会話に支障がなかったが、今日のガイドは英語の訛りがあり、彼女の説明は残念ながら3割程度しか理解できなかった。

まだまだ修行が足りんなあ!







案内が終わると、1時間半ほどのフリータイム。
まずはカフェで朝食。

食後は島をのんびりと散策。











この島は自然豊かで、景色も素晴らしい。

***

島から戻ると、昨日とは別の地区を散策する。





『あ、カヤックツーリングだ』









係留されている船の一つ一つに、ポストが準備されている。

ここが、ノーベル賞受賞者が泊まる高級ホテル。

少し遅い昼食は、カフェで。

外の席をお願いし、ビールでランチ。


夜は、友人達とバーベキューを楽しんだ。

***

翌日は、郊外にドライブ。
まずはガソリンスタンドへ。

セブンイレブンが経営しているようだ。 洗車の費用を聞いてみると、機械洗車なのだが3,000円ほど掛かるのだとか。
やっぱりスウェーデンは物価が高い!

アウトドア好きなスウェーデンらしく、ガソリンスタンドで薪やバーベキューセットも売っている。

道路に出ると、馬を載せたトレーラーを牽引するクルマも。

彼がおススメだという郊外の小さな街へ。







お城を見学。



町を散策。




***

再びクルマで移動。







彼らがキャンプを楽しんだことがあるという、素晴らしい自然の中へ。










ここで、家から持参したサンドイッチでランチ。 いやあ、楽しいな。

俺は、彼がクーラーボックスに入れて持ってきてくれたビールも堪能。 『あー、美味い!』






***

最終日は、朝食をゆっくりといただき、家を辞した。
『いやあ、本当にお世話になったなあ。 おかげで最高の想い出ができたよ。 妻も本当に喜んでいる』
『またぜひ来て下さい。 次回はバルト海の船旅もいいし、クリスマス時期のスウェーデンも綺麗ですよ。 そして、トルコに行くのもいいですね』


列車で街へ。 最後に自分達への土産を買い、空港へ。

妻はキーホルダー。

俺はサーミのブレスレット。

ストックホルムから飛行機でミュンヘンへ。

ミュンヘン空港ではビールを堪能。

ここから羽田まで、約11時間の旅。

無事に日本に戻ってきた。

***

俺たち夫婦にとって初めてとなるヨーロッパへの旅は、スウェーデン訪問となった。
ストックホルムの美しい町並みを、妻と二人、片寄せ合いながら歩いているとき、『ほんとにこれって夢のようだね』と語り合った。
子離れ夫婦、50歳記念になる最高のリフレッシュ休暇である。

友人夫婦達の素晴らしいホスピタリティによって、楽しく充実した旅を堪能することができた。 本当に感謝!

***

こうやって想い出しても、本当に楽しく充実した様々な旅を楽しんで来られたんだなあ、と改めて実感している。

さて、ウィルス騒動で一変してしまったこの世界で、これからどんな旅を楽しむことができるであろうか?

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瀬戸内シーカヤック日記: 一歩一歩

2020年05月23日 | 旅するシーカヤック
非常事態宣言が解除され、平日のみ営業が再開された静かなスポット。

午前中の仕事を無事に終え、久しぶりにここにやってきた。

空は晴れ、初夏を感じさせる風も心地よい。


***

人がほとんどいないこのスポット。
まずはテーブルでお昼ご飯を食べ、ビールを飲み、本を開いてのんびりと過ごす。

自然の中で、静かに独りで過ごすこんな時間は、本当に久しぶりである。

こんな幸せな時間が過ごせるなんて、これは夢ではなかろうか?

***

夕方になると、米を研いで、炊飯の準備。

時間だけは、たっぷりとある。

メスティンで、ご飯を炊いてみた。

『うん、なかなかいい感じじゃあないか』
今日はカレーがメイン。

せっかくだから、ビールのつまみにウインナーも焼いてみようか。


***


日が暮れると、待ちに待った時間で。

そう、キャンプの楽しみの一つが『焚き火』


【ゆらゆらと揺らめく焚き火】(←焚き火の動画はここをクリック)は、永遠に眺めている事ができる、最高のビールのおつまみである。

***

夢のような幸せな時間を久しぶりに楽しみ、朝起きると外は晴れ。
少し涼しいが、快適な季節である。

まずは、小さな薬缶でお湯を沸かす。

これが、コーヒーを淹れるのにちょうど良い道具なのである。


***

朝食は、俺のキャンプの朝ごはんの定番である、うどん。

今日は贅沢に、玉子+ガンス+キムチうどんにしてみた。

『いただきます』
ああ、これは最高においしいなあ!

***

食事を終えると、再びコーヒーをゆっくりと楽しむ。

しばらく休憩し、コットに寝転がって、本を開く。

まさに至福の一時。
『これ以上、何が要る?』

***

最新ニュースによると、ようやく、週末の外出自粛も解除された。
まさにこれから、一歩一歩、歩みを進めていく時期がやってきたようだ。

焦らず。 無理せず。 一歩、そしてまた一歩。

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瀬戸内シーカヤック日記: カヤック事始め_初めての海外旅行/海外シーカヤックツアーはミクロネシア

2020年05月17日 | 旅するシーカヤック
1992年の冬に、中古のフォールディングカヤックを購入し、独りで海を漕ぎ始めた俺。

今でこそシーカヤックはTV番組にも登場するなど一般に知られるようになっているが、当時はまだ、せいぜいカヌーを川で漕ぐというイメージの時代。
カヤックやカヌー、シーカヤックに関する情報はとても限られていて、貴重なムック本や、一般的になったばかりのインターネットを使って海外の情報などを入手して、勉強していたことを思い出す。

***

そんな俺が、初めての海外旅行、そして初めての海外シーカヤックツアーに参加したのは、2002年の2月であった。

当時、横浜単身赴任中に5年毎のリフレッシュ休暇のタイミングがやってきて、生まれて初めて海外旅行にいくことを思いついたのである。
そして、せっかくならシーカヤックも楽しめるツアーをということで、いろいろ探したところ、見つけたのがこのツアー。

『ミクロネシア ポンペイ島&チューク環礁 ロケハン・シーカヤッキング9日間』
2002年2月10日(日)に成田を出発し、コンチネンタル航空を使ってグアム経由でミクロネシアに行くという旅である。

いろいろな人と話してみても、初めての海外旅行がミクロネシアという人は、これまで聞いたことがないので、結構珍しいのではないだろうか。

***

初めての海外旅行で緊張しつつも、どんな旅になるのかドキドキワクワクしながら、飛行機に乗り込んだ。
グアムでトランジットし、ここからは東進してポンペイ島に向かう。
深夜にポンペイに到着し、そのままホテルへ。

お世話になったホテルは、南国リゾート感覚溢れる、こんな施設。

海のそばにあり、高台からの眺めを楽しみながら飲むビールは最高である。

寝室はこんな感じ。


***

朝、荷物をボロボロのピックアップトラックに積み込んで、急勾配の坂を下り、海岸へ。

日本のピックアップトラックというのは、本当に頑丈にできているんだなあ、と実感!

このツアーでは、モニターということで、フェザークラフトからインフレータブルシーカヤックを借りてきておられた。

カヤックを組み立て、伴奏船に積み込むと、ボートで移動。

移動の途中、スコールがやってきたら、ボートを操縦している現地の人は、シュノーケルセットで視界を確保しながら操縦していたのには笑った!

***


途中からはカヤックに乗り換え、ナンマドール遺跡へ。

ここでは上陸し、現地人ガイドから遺跡の説明を伺った。

ランチはこんな感じ。
葉っぱに包まれたお昼ご飯が、南の国に来たことを実感させてくれる。

途中、筏から糸を投げて釣りをしている母子が。

いやあ、いいなあこの雰囲気とライフスタイル!

***

ケブロイの滝にも立ち寄ってみる。

なかなかの迫力である。
周りには、南国を感じさせる植物や花が。

これはパイナップルかな?



***

ホテルでの夕食は、こんな感じ。

マグロの刺身。
この近海で採れるマグロは、冷凍されていないからとても美味である。

鶏料理も、地鶏だからこれまた味が濃厚でしっかりと美味い。

***

翌朝、ボートで移動し、途中からカヤックに乗り換えてソーケス島へ。

この島では、このコテージに泊まらせていただくことになる。


島では、のんびりまったり散策を楽しむ。

遠くからスコールが来るのを眺めたり、

釣りをしたり、

タイヤがはまった木を撮影したり、

旧日本軍の施設を見学したり。

戦車の残骸が残っていたり、タンクに銃撃の跡があったり、かつてここが戦場だったことを改めて認識した。

そして、この島には小さな商店があるのだが、そこのおじいさんが日本語が喋れるのには驚いた。
『ああこのおじいちゃんの日本語も、太平洋戦争の痕跡の一つなのだなあ』

***

夕方からは、海辺で食事とビール。
俺は眠くなったので、一足先にコテージに戻ったのだが、外で音がする。

『カン、カン、カン、カン』

なんだろう、この音は? 一緒に来た仲間達が、ビールのカンでも潰しているだろうが、五月蝿いなあ、と思いながら眠りに落ちた。

翌日、『昨日の夜、ビールのカンを潰すような音がずっと聞こえていたんだけど』と聞いてみると、『いやあ、誰もそんなことしていないし、音も聞こえなかったぜ』との事。
『・・・』 一体あれは、なんの音だったのだろうか?

***

翌朝、強風の中、コロニアまで戻る。

これは結構ハードな島渡りであった。

***

旅の後半は、ポンペイ島からチューク(トラック諸島)へ飛行機で移動。

島の空港は、のんびりした雰囲気である。

ポンペイからチュークは、ほんの一っ飛び。

この手書きの、ゆる〜い案内板が南の島である。

***

太平洋戦争の激戦地の一つとして有名な、トラック諸島。
ここも、日本の中古車だらけ。

ナンバープレートには、『Driver's Heaven』とある。


空港近くの学校では、校庭に多くの人が集まっている。

空港にも多くの暇そうな大人が集まっていたが、どうやらみんな相当時間を持て余している模様。

***

後から現地の日本人ガイドの方から伺った話であるが、戦争前からここに来た日本人は、地域のインフラや施設を整備し、教育も施していたので反日感情は特になく、基本的に親日なのだとか。
そして、日本から持ち込んだ『運動会』という文化が今でも残っているのだそうだ。

この日、学校で行われていたのは島の運動会なのだそうだ。
運動会の競争で上位に入るとお金や商品がもらえるという事で、運動会の1ヶ月ほど前になると、普段はプラプラしている島の若者が練習のために張り切って走り始めるのだという話には、笑い転げた!

また、借金を返すという観念が薄く、ここで日本人が商売をしていくのには、商習慣としての格差が大きくなかなか難しいのだとか。

そして、何より驚いたのが、ミクロネシアでの就業率が5%程度という事。
5%というのは失業率ではなく、就業率なのである!

確かにここ数日の観察からしても、手を伸ばせばパンの木もパイナップルもヤシの実も手に入る。
海で糸や網を投げれば魚が採れる。
そしてここでは、日本では愛玩動物である○○も食べる。

そんなに必死に働かなくても、豊かな自然の中ではなんとか食べていけるようである。

***

チュークのホテルからの夕焼け。

ここチュークは、周りの島にとっては中心地らしく、夕方になると多くの小さなボートが走り、地元の島に戻っていく。
これが、チュークで働いている人たちによる帰宅時の通勤ラッシュらしい。
『いやあ、南国だなあ!』

***


ボートにカヤックを乗せて、フォノムー島へ。

空は晴れて、これぞ南国の青い海と蒼い空。

フォノムー島は、こんな小さな無人島である。

島に到着すると、シュノーケリングを楽しむ。



ここでは、1mないくらいのホワイトチップシャークを多く見る事ができた。

最初は怖かったが、無害である事がわかってからは、安心してサンゴを観察するシュノーケリングを楽しむ。

***

現地ガイドが、高いヤシの木に登り、

ヤシの実を割って、ジュースを飲ませてくれる。

夕方には、焚き火を起こして夕食を食べ、ビールを飲む。

『まさに至福の一時。 これ以上、何が要る?』

***

初めての海外旅行は、ミクロネシアでのシーカヤックツアーであった。
企画した旅行社にとっても、これが初めてのロケハンツアーという事で手探りの部分も多く、とても楽しく充実した旅であった。

その前にお気に入りになった沖縄でも、沖縄時間というのがあり時間の流れがゆったりしていたが、ミクロネシアはその10倍は時間の流れがゆったりしていたように思う。
就業率が5%でも、豊かな自然に囲まれてのんびりゆったり生活している島の人達。
そんなにお金はないのだが、季節になると自分たちが所有する島に渡り、休暇を過ごしながら海に潜って観光土産用の貝を採集したりしながらのんびり島暮らしを楽しむという、豊かなライフスタイル。

これまで知らなかった世界を知る事ができ、俺にとってはとても想い出深く、かつ貴重な経験となった初海外旅であった。
また、訪問してみたいものである。

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瀬戸内シーカヤック日記: カヤック事始め_芸予諸島でフィールドワーク あるくみるきく・家船の島

2020年05月14日 | 旅するシーカヤック
1992年の冬に、中古のフォールディングカヤックを購入し、独りで海を漕ぎ始めた俺。

今でこそシーカヤックはTV番組にも登場するなど一般に知られるようになっているが、当時はまだ、せいぜいカヌーを川で漕ぐというイメージの時代。
カヤックやカヌー、シーカヤックに関する情報はとても限られていて、貴重なムック本や、一般的になったばかりのインターネットを使って海外の情報などを入手して、勉強していたことを思い出す。

沖縄の離島でのシーカヤック旅やアイランドホッピング旅の楽しさを知り、また横浜単身赴任時代の三浦半島や伊豆、外房でのシーカヤック漕ぎを体験した後、地元に戻ってから改めてその多島美と島ごとに異なる海洋文化の奥深さを再認識した瀬戸内海/芸予諸島の海の楽しさ。
そんなお気に入りの地元の海で、『あるくみるきく』のフィールドワークを実践した時の想い出は、今も忘れることができない最高の旅の記録である。

***

ブログは旅の記録。 時折読み返すと、その時の旅の光景や出来事、人との会話が、ありありと浮かんでくる。
そんな自分の旅の記録の中で、一番のお気に入りが、『家船の島、豊島』を訪問した時の記録。

*** 以下、以前綴っていたブログから引用 ***

『明治初年以来これほど発達した漁浦はない。しかもこの地の漁民はどこまでも出かけてゆく。漁船は船の側面に番号がいれてあるが、その頭に府県の記号がかいてある。広島県はHである。そのHとあるものを対馬でも平戸でも五島でも、また天草でも見かけて、きいてみるとみんな豊島からきたという。(私の日本地図_瀬戸内海/芸予の海、宮本常一)』

25

***

『マリちゃん』を出た後は、湊を歩いて挨拶してみても、はなしかけてみても、なかなか話が続かず、結局家船の漁師さんから詳しい話を伺う事ができなかった。

『沖からかえってきた若者達は退屈である。話しかけたらけんかを吹っかけてきた(私の日本地図)』 あの宮本常一でさえこう綴っている。 これも仕方なかろう。

***

それなら、豊島の銭湯『豊島温泉』にでも入って、汗を流し、何時間も島の集落を歩いた疲れを癒して帰ろう。 でも、銭湯が開くまでもう少し時間が有るので、日向ぼっこでもしようと、海沿いの公園へと向った。
広くて静かな公園の中を歩いていると、ベンチに腰掛けていたおばあさんに声を掛けられた。

***

『どっから来たん』 『こんにちは。 呉から来たんですよ。 今日は良い天気で気持ち好いですねえ』 しばらく四方山話を交わし、自然とおばあさんの隣に腰を掛けさせていただく。

ペリケースを開け、本を取り出し、『実はこの本を読んで家船に興味を持って、豊島に来てみたんですよ』 『えー、この本。 うんうん、家船ね』 『ここに写真が出てるでしょう』
『あらあら、ここに写っとる人は知っとるよお』

39

***

70歳だというこのおばあさんは、数年ほど前まで(!)4つ年上だと言うご主人と一緒に家船で漁をしておられたそうだ! これも縁であろう。 エビス様、ありがとうございます。

『十八でじいさんと結婚して、それから50年近く漁に出よったんよ』 『豊後水道の方へ行って、太刀魚を釣りよった』

『午前中に聞いた話だと、和歌山の方にも出漁していた人が居られたそうですが』 『うん、そう。 私らも、35歳の頃には和歌山の方に行きよったねえ』

***

なぜこの豊島で家船文化が生まれ、これまで続いてきたのか?
今回の豊島訪問にあたり、家船の本を読み、Webで資料を探し、これまでの経験を加味して、私なりの仮説を立てて来ていた。

その仮説を検証するため、偶然出会ったこのおばあさんに、一つの質問をしてみた。 『なんで、遠くまで漁に行くようになったんですか?』

『十八で結婚した頃はねえ、そりゃあ貧しい暮らしじゃったよ。 小さい島で、兄弟も多くて。 島の廻りで鯛やタコやなんやら釣って、麦や芋や食べよったけどねえ』 『やっぱりお金を儲けるには、魚が多い所へ出て行かんとと思うて。 一生懸命働いて、船を造って、おとうちゃん、稼ぎにいこうやゆうて、それから遠くに行くようになったんよ』

『なあ、兄ちゃん。 人間言うたら十人十色じゃろう。 借金しとうない、遠くの知らん所へ行くのは嫌じゃ言うて、島の廻りで漁をする人も居るし。 大勢の人間が、この島の廻りの漁で食べていく事はできんけえ、地で漁をしたい言う人にはそこで漁をしてもらって、なにがあるかわからんけど、遠くに行って儲けちゃろう思うとるモンは遠出するようになったんよ』

『船造るいうても、エンジンとレーダーやらGPSやら、無線やらいうて付けよったら、3000万とか4000万とかかかるけねえ。 そりゃ太いけど。 かというて、安いもん付けよったら魚も獲れんよー』

24

***

『そりゃあ、豊島は女の人が強いわい。 男の3倍は働くよね。 男の人は、漁が済んで、風呂入って、ご飯食べて酒飲んだら寝させるけど、女はそうはいかん。 片付けやら、洗濯やら、なんやかんやいそがしいじゃろ』

『洗濯させてもらうにしても、水をもらうにしても、寄留させてもらう所を見つけて、交渉して、やりとりするんは私らじゃけん。 水をもらうにしても電話を掛けさせてもらうにしても、お金を出してもダメじゃ言う人も居るし、お金なんかいらんいうて親切に分けてくれる人もおる。 人それそれじゃ。 親切にしてくれる人には、魚も分けるし、肉や野菜や灯油なんかもたくさん置いて、何倍にもして返すし』

斜め向いに座った私の膝を叩きながら、『なあ、兄ちゃん。 人は十人十色じゃ。 堅い生活しかでけん人も居るし、もうけちゃろう思うて外に賭ける人も居る。 十八でじいさんと結婚したが、この人なら間違いない。 ぜったいに私を養うてくれる思うて結婚したんよ。 ピョンピョン飛ぶほど元気じゃったし、いつもキョロキョロといろんなもんを観察しよったし。 この人なら間違いない思うたん。 人を見る目はあるんよ。 なあ、兄ちゃん』
と、またまたわたしの膝をポンポンと叩く。

***

『男は山を見て、海の底の形を知って、漁ができるようになるまで10年掛かる』

ペリケースを指しながら、『こんな平らな岩の上や、海の底には魚はおらんのよ。 この駆け上がりの所。 ここにおるんじゃけ。 下手に仕掛けを引っ張ったら、引っかかって仕掛けを取られて損するばあ。 じゃけえ、それを覚えるのに10年かかるんよね』

『豊後水道は波が高いけえ、昼間に料理するんは大変よ。 夜のうちによけいに作っとって、昼はそれを暖めるくらいかねえ。 煮しめとか、魚の汁とか。 それでも、波があるけえ、鍋を両手で押さえながら暖めたもんよ。 ほんまにすごい揺れてたいへんなん』

『太刀魚は、大きさによって分けて、5キロ毎に詰めていくん。 これを計るのが重とうてねえ。 一日に何回も何回も重たい魚を計るじゃろう。 肩が痛うて。 でも若い頃は、一晩寝たらなおりょおったねえ』

10

***

『子供をね、島において漁に出るじゃろ。 それが辛うてね。 子供が大きいなってこの仕事の事を理解してくれるようになってうれしかったけど、やっぱり子供と離れて仕事するのは辛いよね』

『そうよ。 お節料理は、男の人が作るんよ。 うちのじいさんは、一番にエビス神社に行きたいいうて、毎年12時5分になったら煮しめを作りよった』 『前の日? だめだめ、12時前に作ったら、前の年のものになるじゃろ。 それじゃあだめよ』 『それでね、煮しめができたらそれを持ってすぐに神社へ行きよったよ。 あー、今年は2番じゃった、マンが悪いいうて、そんな負けず嫌いな人じゃったねえ』

『ケンカ? けんかはほとんどしたことないね。 またねえ、けんかしちょったら、不思議と魚が釣れんのよ』

***

情が深くて豪快で、明るくて気さくなおばあさん。 時にはここに書けない愉快でおもしろおかしい話しがとびだし、二人で笑い転げた。 『いやあ、そりゃあそうですよねえ。 ワッハッハ! こりゃあ面白い!』

気が付くと、1時間以上が過ぎていた。

『おばあちゃん。 本当に興味深い楽しい話を聞かせてもらってありがとうございました。 ええ勉強になりましたよ。 また豊島に遊びに来て会えたら、また話を聞かせて下さいね』

『じゃあね。 にいちゃん。 またね』

***

ああ、これぞ『あるく みる きく』旅の至福の一時。

***

『旅の途中から私はこう考える事にした。宮本常一がかつて旅して会った人をがつがつと捜すことは可能だが、それはやめよう。ゆっくりとその土地を歩きながら、旅が会わせてくれる人、宮本常一が会わせてくれる人にだけ会っていこう。それが旅なのではないか。 (宮本常一を歩く、毛利甚八)』

家船の事を漁師さんに聞こうと気負っていたが、結局毛利さんが言う通りだということに気が付いた。 そう、『旅が会わせてくれる人』にしか話しを聞く事はできないのだ。

ようし、じゃあ『豊島温泉』に行くか!

*** あるくみるきく_家船の島を訪ねて、豊島訪問(その3) ***

豊島を訪問した時の、最初の記録は下記です。
『あるくみるきく_家船の島を訪ねて、豊島訪問(その1)』

やはりブログはいいなあ。 オワコンとも呼ばれているが、旅の記録を残すには、私にとって最高のメディアである!

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瀬戸内シーカヤック日記: カヤック事始め_第1次瀬戸内カヤック横断隊

2020年05月07日 | 旅するシーカヤック
1992年の冬に、中古のフォールディングカヤックを購入し、独りで海を漕ぎ始めた俺。

今でこそシーカヤックはTV番組にも登場するなど一般に知られるようになっているが、当時はまだ、せいぜいカヌーを川で漕ぐというイメージの時代。
カヤックやカヌー、シーカヤックに関する情報はとても限られていて、貴重なムック本や、一般的になったばかりのインターネットを使って海外の情報などを入手して、勉強していたことを思い出す。

***

それまで瀬戸内海や島根半島をベースとしてシーカヤックを楽しみ、沖縄での海旅の楽しさも知った俺は、新たな仕事のため約1年7ヶ月の横浜単身赴任となった。
これまでとは異なる新たな領域へチャレンジする仕事もやりがいはあったが、何より人の多さ/ウネリのある海況/島の少ないエリアの特徴など瀬戸内海とは全く異なる、そして日本のシーカヤックのメッカである三浦半島や伊豆、外房などでのシーカヤックを経験でき、楽しい単身赴任時代であった。

その単身赴任から呉に戻り、尺取り虫方式での瀬戸内横断を再開したとともに、西伊豆でのシーカヤックアカデミーで知り合ったSさんを通じて、内田隊長が設立された『第1次瀬戸内カヤック横断隊』に参加させていただけることとなったことは、まさに大きな転機となったのである。
もし、あの伝説となった『第1次瀬戸内カヤック横断隊』に参加していなければ、今の俺のライフスタイルは違ったものになっていたことは間違いない。

そして、あの時の横浜単身赴任で三浦半島や伊豆、外房などの海を漕いでいなければ、地元である瀬戸内海の多島美の美しさや、アイランドホッピングしながら島によって異なる文化を感じる旅など、芸予諸島での海旅の楽しみとその深さを再認識することもなかったであろう。

***

<観光文化研究所と第1次瀬戸内カヤック横断隊(以前のブログより)>

先日、三原市で行われた森本孝さんの講演を聴いたときにふと感じたのが、宮本常一が所長をしていた『観光文化研究所(観文研)』と、内田正洋隊長がリーダーを勤められている『瀬戸内カヤック横断隊』との間には、共通するものがあるということ。

***

『観文研は、同じ志を持った人が集まる場であり、同じ志を持った人たちがつながった場である』
→ 第1次瀬戸内カヤック横断隊も、プロ/アマを問わず、シーカヤックの世界を極めたいという熱い志を持った個性豊かな面々が様々な縁で集まり、経験豊かな内田さんをリーダーとして隊が構成されていた。

『宮本常一は、観文研の研究員に対して、毎月一回講義を行っていた。 これを通じて、モノを見る力と視点を教えられ、研究員の育成にもなっていた。 この講義が、宮本常一が仲間を育成していくやりかたである。
そしてこの講義を受けてモノの見方を学んだ事が、観文研出身の研究者と、大学だけで学んだ研究者との最大の違い』
→ 第1次瀬戸内カヤック横断隊は、まさに実践版シーカヤックアカデミーとして企画され、初冬の厳しい瀬戸内の海を、キャンプ道具を積んだシーカヤックで実際に旅しながら、ひどく荒れた海と寒気の中、お互いに助け合い、経験や知識を教え合い学び合うという、とても貴重な実践の場であった。

『宮本常一は、古い文化を復興させ、それを地域の将来につなげていくことを考えていた』
→ これぞまさに、私が瀬戸内カヤック横断隊から学んだ、『瀬戸内海洋文化の復興、創造そして継承』そのものである。

私は、第1次から第6次まで、毎回数日間だけの部分参加をさせていただいていたのだが、その中で一番深く印象に残り、そして後のカヤックライフ/カヤックスタイルに大きな影響を受けたのが、『第1次瀬戸内カヤック横断隊』

2004年の秋にブログを書きはじめたのは、第2次横断隊の事を記録に残しておきたかった事がきっかけだったので、第1次横断隊の事はブログには書いていなかった。
もう7年も前の事なので記憶も定かではないが、せっかくなので、その時の事を想い出しながら、記録に残しておこうと思う。

***

2003年11月20日 親父のクルマにフェザークラフトK-1を積み込み、蒲刈の県民の浜へと送ってもらう。
偶然、先日知り合ったエルコヨーテさんから、この隊が企画されている事を教えていただき、隊長からメンバーに送られてきた『設立趣意書』に感動&共感して、参加させていただくこととなったのだ。
さて、これからの数日間、いったいどんな日々が待ち受けているのだろうか?

数日前に山口県を出発した、記念すべき『第1次瀬戸内カヤック横断隊』は、寒気と強風の中、小豆島を目指して東に漕ぎ進んでいる。
予定では、今日には蒲刈島へ到着するはずなのだが、厳しい風と波に難儀し、遅れているらしい。

県民の浜に到着し、ケータイ番号を教えてもらっていたハラダさんに連絡をとって合流する。
今回が、ハラダさんとの初対面。
隊の到着が遅れそうだということ、そして今日到着してもそのままここから出発せず、一泊する可能性が高いと言う事なので、『のんびり待ちますか』という事に。

まずは、フェザークラフトK-1を組み立てる。
普段の旅と違い、天候によってルートも日程もどうなるか分からないとの事なので、リジッド艇では合流や離隊後の回収が難しいと判断し、今回は、進退自由なフェザークラフトで参加してみる事にしたのである。

その後は、ハラダさん、カメラNさん達と、桟橋の岩ガキを採集してつまみの準備。

午後、ようやく隊は到着したが、連日の悪天候でみんな疲れ果てており、やはりここ蒲刈で一泊する事になった。

今でもいろいろとお世話になっている、地元のIさんの好意でB&Gの艇庫をお借りし、雨露を凌がせていただく。 ありがたいことだ。
内田さんとは、伊豆のアカデミーやジョンダウドと漕いだイベントなどで何度かお会いした事があったが、隊長以外の隊員達は、私にとっては、ほとんどが初対面のメンバー。
ビールを酌み交わしながら、ここ二日間の厳しい旅の状況を聞き、交流を深める。

今回は初日から荒れており、一日漕いだ隊員は疲れているのだが、二日目から合流したまだ元気な隊員がペースを上げて引っ張っていったのだとか。
初めてのこと故、ペース配分もよく分からず、お互い競争のようになってかなりハイペースになり、クルマでの陸上班伴走が始まってからは、みんな荷物を軽くしてなんとか付いて行こうと努力しているとの事。
うーん、そんなハイペースだと、スピードでは劣るフォールディングカヤックでついて行けるかなあ?

横断隊は5時起床&7時出発が基本とされたので、軽く飲んで、みんな早々にシュラフに潜り込んだ。

***

2003年11月21日 朝5時前に起床。 シュラフを片付け、コンロに火を点けて朝食の準備。
そそくさと食事を済ませ、荷物をパッキング。
Iさんが準備して下さっていた、『歓迎 第1次瀬戸内カヤック横断隊』の看板の前で記念撮影をして、7時に出発した。

今日も強い西風が吹いている。 岬に沿って漕ぎ進み、黒鼻を越えると。。。
そこは、瀬戸内とは思えない荒れた海が待っていた。
西から南西の強風で大きなうねりが入り、これまで経験した事がないような瀬戸内海の別の顔を見せつけられた。
それ以来、瀬戸内への見方が大きく変わった。

津軽海峡横断や、ジョンダウドと漕いだ西伊豆のイベント、沖縄でのツーリングなどでは、これよりも厳しい状況はあったが、まさか地元の瀬戸内でこんな状況に遭遇するとは。

斜め後ろから押し寄せてくるウネリと風浪に、時折ヒヤリとしながら豊島に向かって漕ぎ進む。
『おーい、ここから海峡横断だ。 みんな固まって漕げよ』と隊長からの激が飛ぶ。

***

上蒲刈から豊島へ、豊島から大崎下島へ。
大崎下島の南岸が厳しかった。
南西からの強風によるウネリ。
そのウネリと風浪が、岸壁にぶちあたり、その返し波と重なって複雑な三角波が押し寄せる。

荒れた海での安定性にすぐれた『フェザークラフトK-1』と、手に馴染んで強風に強い『アークティックウインド』との組み合わせなのだが、それでもまったく気が抜けないパドリング。
 
スケグ仕様のカヤックで参加していた経験豊富なメンバーが、こんな状況で漕ぐなら次回からはラダー付きにする、と言っていたのが印象的。

また、ラダーもスケグもないバイダルカは、保針に苦労しているのに加え、激しい波で浸水もあるようで、時折岸沿いに寄ってはビルジポンプで水出しをしている。
それを待つ間、沖縄で荒れた海を漕いだ時の経験から、岸壁から離れた場所で待機する。
近くに居た隊長が、『そう。 こんな時は、岸壁から離れた方が波が安定しているんだよな』

後で聞いた話では、バイダルカは潮流や風に応じて舟が行きたい方向があるのだそうだ。
それに従って漕ぎ進むには楽なのだが、今回の様に一団となって行動する場合には、必ずしも舟が行きたい方向と隊が進む方向が一致するとは限らず、操船にはかなり苦労したようである。

***

なんとか岡村島まで漕ぎ進み、観音崎を越えたあたり。
とつぜん目の前につむじ風が巻き起こり、海水のしぶきが空中に巻き上げられていく。
強風は隊員達をも襲い、風沈しそうになる。
『こりゃ、やべえ。 一旦上陸しよう』

小さな浜にシーカヤックを引き上げ、ほっと一息。
『観音崎に様子を見に行こう』ということになり、高台に登ってみると。。。
そこには一面真っ白な海が。
沖を行く大きな貨物船が向かい波に突っ込み、砕けた白波が高い船首を越えていくという恐ろしい光景。

皆一同に『こりゃあ絶対無理だな。今日は岡村島泊じゃないか』、『いやあ、これは漕ぎたくないですねえ。怖い怖い』とささやき合う。
でも隊長は、『ようし、じゃあ島の反対側を見に行ってみるか』
一部の隊員が同行し、小大下島との間の瀬戸をチェックしに行くことに。

歩きながら隊長は、『俺たちはダカールラリーに参加するトレーニングを受けていたんだ。 そこで教えられた事の一つが、どんな厳しい状況でも<後ろ向きの言葉は発しないこと>。 常に前向きに、どうやったらできるか考えるんだ』 なるほど!

***

小大下島との間の瀬戸と、島の北側は、少し荒れてはいるが、南側と比べると少しは波が低そうだ。
『どうだ、これならいけるんじゃないか』

再び漕ぎ出し、なんとか小大下島との間の瀬戸を抜け、大下島の北岸へ。
南側の海峡に比べると確かに少しはマシだが、それでも波は高い。
近くを海上保安庁の巡視艇が通る中、ヒヤヒヤしながらだが、なんとか無事に漕ぎ抜けた。

柏島を抜け、宗方の南岸まで進むと浜があり、奥には昔の学校の様な建物が。
少し早いが、今日も風と波に打ちのめされ、みなクタクタである。
シーカヤックを引き揚げ、キャンプできるかチェックする。

そう、初めてとなる第1次横断隊では、まだルートも確立しておらず、キャンプ地についての情報も不十分だったので、常に新たなルートとキャンプ地を開拓しながらの旅であったのだ。
正に、開拓者精神/パイオニアスピリッツで満ちあふれていたのである。

管理人さんに聞いてみると、ここは素泊まりもできる宿ということで、泊まらせていただく事になった。
 
着替えて濡れものを干し、風呂に入って体をほぐす。
夜はビールを飲みながら今日一日の旅を振り返る。

横断隊参加で初めて漕いだ日は、このように大変厳しい一日であったが、経験豊かで志も高く、個性的なメンバーと一緒に漕いだこの日を一生忘れる事はないだろう。
これぞ実践版シーカヤックアカデミー。

感謝、感激! そして 感動! こんな経験ができるなんて。
この日を境に、俺のシーカヤックに対する考え方や向き合い方が大きく変わった。 シーカヤッカー冥利に尽きるとは、まさにこの事である。

***

2003年11月22日 今朝も5時起床。
簡単な食事を済ませ、荷物をパッキングするとミーティング。 今日のルートを決めるのだ。

ルート案としては、大三島の南岸を漕ぎ抜け、鼻栗を抜けて生口島経由で因島に行くという案と、大三島の西岸を北上し、生口島の北岸経由で因島を目指すという案。

隊長が言う。 『みんな、自分の意見を言うんだ。 自分がどうしたいのか、なぜそうなのか。 話し合って結論を出そう』
メンバーは侃々諤々意見を述べるが、ここ数日痛めつけられてきた西風の恐怖がトラウマとなり、大三島の西岸北上案が大勢を占める。
『昨日の様な波は、もうたまりませんよ。 三原側に上がれば風も弱いかも』 『大三島の南側はエスケープできる場所もあまりなさそう。 北にいきませんか』

ほとんどのメンバーが北上ルートを主張し、その案で行く事に。
風が強い中、浜から出発して時計回り方向に漕ぎはじめた。
しばらく行くと、後ろから声が聞こえてきた。
『どうしたん?』 『一人、引き返す言うてます』

どうやら、あまりの風の強さに一人がリタイアを決めたらしい。
出発してまだ10分も経っていない。 いやはや。
浜までサポートする隊員を待ち、再び漕ぎ出した。

しばらく向い風の中を漕いでいる時、皆が気づきはじめた。
『え、今日は北西風じゃあないか!』 そう、風向きは日々変わるのだ。
宗方の南岸では、岬を回ってくる風で風向きが正しく判断できなかったのだが、北上ルートは向い風。

ここ数日の西風トラウマによって、より良い判断ができなかったのである。
今日は、大三島南岸ルートなら風裏だ。

でもこの時の『痛い経験』は、第2次横断隊以降のルート決定に活かされる事になった。

***

地図を見れば分かるように、大三島は大きな島である。
厳しい向い風の中を、一団となって時計回りに漕ぎ進む。

盛港を越え、生口島へ漕ぎ渡ろうとしたとき、斜め後方からの大きな波に、多くのメンバーのカヤックが翻弄された。
『隊長、ムリです。 戻りませんか』

一旦引き返し、盛港の中で一息いれる。
『みんな、怖かったら言えよ。 俺にはみんなが怖いと思っているかどうか、分からんからな』と隊長。
なるほど、様々な修羅場を漕ぎ抜けてきた隊長とメンバーでは、怖いと思うレベルが違うんだ。
自分が無理だ、怖いと思ったら、率直に伝える事も重要なんだなあ。

再び漕ぎ出し、井口港の方へ進む。
もし、井口港から三原行きのフェリーがあれば、それでエスケープしようという案も出たのだ。
港に近付くと、一隻の漁船が居た。
私は漁船に近付き、『こんにちは。 あの港から三原までフェリーは出ていますか?』 すると『いやあ、あそこからは高速艇しか出てないよ』との事。

『隊長。 残念ながら、あそこの港からはフェリーは出ていないそうです』 『そうか、じゃあ多々羅大橋の下を横切って生口島へ渡ろう』
『そして、漁師さんなどに話し掛けて、地元の情報を聞く事は大事だ。 これからも、そういうコミュニケーションをしっかりやって行こう』と一言。
『はい、わかりました』

***

多々羅大橋の下を漕ぎ渡り、再びバウを北に向けてサンセットビーチへ。
 
上陸して情報板を見ると、高根島との間の瀬戸は流れが厳しいらしい。
疲れきった隊は、完全に戦意を消失し、ここから因島まで、陸上班のクルマでエスケープすることになった。
ここのレストランでお昼ご飯を食べ、何回かに分けてカヤックと荷物、そして隊員を因島まで陸送。

***

11月の下旬である。 日没は早い。
全員がキャンプ地に揃ったのは、すでに暗くなってから。
 
テントを張り、食事の準備に取り掛かる。
数日間一緒に厳しい海を漕いできて、気心も知れた仲間である。
自然と役割分担をして、テキパキと調理を進めていく。

それを眺めながら隊長が、『ほんま、この隊のメンバーは最高やのう』とポツリと呟いた。
うん、俺も本当にそう思う。 なんて素晴らしい隊なんだ!

肉を炒めていると、『オリーブオイルは体に良いんだ』 『お、生姜を入れようぜ。 体が暖まるからのう』と隊長。
なるほど、寒い時には生姜が良いんだ。
こうして、一つ一つ知識が増えていく。 

酒を飲み、食事を摂り、今日一日を振り返りつつ、疲れた体を充電していく。
明日も5時起床である。

俺は、Oさんのテントの横にテントを張り、しばしバカ話を楽しんでからシュラフに潜り込んだ。

Oさんとは、この横断隊でお会いしたのが初めてなのだが、なんだか気が合うのである。
『おやすみなさい。 また明日5時に』

***

2003年11月23日 今日は快晴。
第1次横断隊で最高の好天となった。
 
気持ち良い朝。
もう既にルーチンワークとなった5時起床、簡単な朝食、荷物のパッキング、そして7時出発。
みんなの表情も明るい。
 
最高のコンディションの中、順調に漕ぎ進み、田島の近くを漕いでいたときの事、隊長のケータイに着信が。

それは、思いもかけず、隊長の友人の訃報であった。
このため、隊長は急遽予定を変更する事になり、この先で上陸されるとの事。
そのため今回の横断隊は、当初は小豆島を目指す予定であったのだが、残りのメンバーで白石島まで漕ぎ、そこをゴールとすることとなったのだ。

***

無事に漕ぎ進み、白石島に到着した。
私にとっては初めての白石島。

カヤックを引き揚げ、ゴールを祝ってビールで乾杯。
うーん、美味い!

夜は隊長も合流され、みんなで瀬戸内シーカヤックの歴史に新たな1ページを刻んだ画期的なこの旅を振り返りつつ、夜の宴は盛り上がった。

***

初めての試みで、ルートもキャンプ地も手探り状態だった第1次瀬戸内カヤック横断隊。
ショートカットや思いもかけぬ中断もあったが、出来るだけの事はやったという充実感の方が強かった。

経験豊富で志の高い隊員が集まり、初冬の厳しい瀬戸内の海を、助け合い、教え合いながら漕ぎ進んだ熱くて刺激的な日々。
それは、『共育』/『切磋琢磨』という言葉が正にピッタリと当てはまるような充実した旅であった。
そんなリアルな海旅の中、私は様々な局面で隊長が呟く一言を、まるで乾いたスポンジのように一滴残らず吸収し、咀嚼して、自分の心に刻み込んでいった。

『プロって言うのはなあ、お金をもらうからプロ、お金をもらわないからアマなんてもんじゃないんだよ。 シーカヤックを極めようと志し、それを通じて自分が目指すものを成し遂げようっていう意志を持って実行していくんなら、それはプロだ』

***

2003年の、あの最高の経験があったからこそ、シーカヤッカーとしての今の俺があると感じている。
そして昨年から、残念ながら諸般の事情により参加を見合わせているが、この画期的かつ純粋に実践版シーカヤックアカデミーとして企画&実行された第1次瀬戸内カヤック横断隊に様々な縁で参加させていただいた事、そして尊敬する隊長と個性的な隊員達との出会いには、今でも心底感謝している。

『全行程参加が基本』という横断隊では、サラリーマンカヤッカーという制約もあり、第1次から第6次までの参加がいずれも数日間という部分参加であった俺は出来の悪い落第生ではあったが、これからも初心を忘れず、実践版シーカヤックアカデミーで学んだ『瀬戸内海洋文化の復興、創造そして継承』を実践していきたいと、強く想っている。

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瀬戸内シーカヤック日記: カヤック事始め_沖縄海旅編

2020年05月06日 | 旅するシーカヤック
1992年の冬に、中古のフォールディングカヤックを購入し、独りで海を漕ぎ始めた俺。

今でこそシーカヤックはTV番組にも登場するなど一般に知られるようになっているが、当時はまだ、せいぜいカヌーを川で漕ぐというイメージの時代。
カヤックやカヌー、シーカヤックに関する情報はとても限られていて、貴重なムック本や、一般的になったばかりのインターネットを使って海外の情報などを入手して、勉強していたことを思い出す。

***

芸予諸島の地元の海を、独学で、独りで漕ぎ始めていたのに加え、カヌーの里おおちのスクールやツアーへの参加により、江ノ川や錦川での川旅/リバーツーリング/キャンプツーリングの楽しさも知り、カヤック旅の幅と深さが徐々に広がりつつあった。

そんな時期、何かをきっかけに、沖縄でのシーカヤック旅に始めて参加することに。
確か、始めての沖縄シーカヤック旅は、当時のエコマリン沖縄が主催した、フェザークラフトで那覇から慶良間まで渡る、アイランドホッピングの旅だったと記憶している。

***

梅雨も明けた初夏の那覇。

この沖縄本島から、途中の無人島でキャンプしながら、慶良間まで漕ぎ渡るシーカヤックの旅。

俺にとっては始めての外洋ということもあり、ドキドキワクワクの旅の始まりである。

大昔のことなので、まだ防水フィルムカメラの時代であり、パソコンに入っているデジタル化した画像は僅かしかないのだが、その時の旅の楽しさは今でも良く覚えている(今回のこの旅の数枚の写真は、ツアーに参加されていたYさんからいただいたものばかり)。
フォールディングカヤックにキャンプ道具を載せ、自力で島伝いに目的地を目指すというアイランドホッピングの楽しさを知った、俺の旅のスタイルの原点。

この時はタンデム艇だったので、Zakiさんという関西の方とペアを組むことになった。
人に運命を任せることが苦手な俺は、スターン側を漕がせていただくようにお願いし、受け入れていただいたことを覚えている。
後で知ったことだが、この方はベテランのシーカヤッカーさんだったので、他の人から『お前がバウ側を漕ぐなんてねえ』と言われたそうで、今でも申し訳なく思っている。

この方とは縁が続き、後に沖縄カヤックセンターが主催した、フェザークラフトで行く伊是名/伊平屋ツアーでもご一緒させていただくことになったのだ。

***

梅雨明けの沖縄は、陽が昇ると急速に気温が上昇することに加え、刺すような厳しい日差しを避けるため、早朝から昼前まで漕ぎ、早めに上陸した島でテントを張り、その後はシュノーケリングなど海遊びや酒を楽しむという旅である。
実際旅の途中では、テントの中で寝ていても、朝に陽が昇ってくるとテントの中がいきなり暑くなり、とてもじゃないが寝ていられなくなったことで、沖縄の夏の厳しさを体で感じたことを覚えている。

外洋の大きなウネリも、フェザークラフトK2の長くてしなやかな船体が、波のエネルギーを上手く吸収していなして行くのが体で感じられる。
時には強い潮の流れの中も漕ぎ、島から島へのアイランドホッピングの旅は続く。

ある無人島で夜テントに寝ていると、ある方に起こして頂き、呼ばれるままに付いて行ってみると、ウミガメの産卵。

生まれて初めての、貴重な体験であった。

何日間の旅であったかは、記憶が定かではないが、このアイランドホッピング旅は俺に強烈な印象を残し、これ以降、毎年のように沖縄に通うようになった時期がある。

まさに、罹患すると重症化する『沖縄病』

その後は、息子とふたりで沖縄でのシーカヤックツアーに参加したり、家族4人で沖縄旅を楽しんだりもしたが、初期の頃は、家族を残して沖縄での海旅を楽しんでいた、懐かしい30代の頃。

***

また、沖縄といえば忘れられないのが『ホクレア』との出会い。
その年が、たまたま5年毎に連続休暇が取得できるリフレッシュ休暇の年であったので、ホクレア号が沖縄に到着予定の時期とは外れていることは知りつつも、ゴールデンウイークとリフレッシュ休暇を連続させることで、半月以上沖縄にこもっていたのだ。

連続休暇の前半は、レンタカーを借りて浜比嘉島でキャンプをし、レンタルシーカヤックを借りて海遊びなどを楽しんでいた。
ある日の夕方、ラジオを聞いていると、『ホクレア号が糸満に到着した』とのニュースを偶然に聴き、内田隊長に電話をして、すぐに糸満に向かったことを覚えている。

糸満で、内田隊長に合流し、ナイノアトンプソン氏ともお話をさせていただいた。

また、糸満港での歓迎行事の一環として、始めてサバニを漕がせていただいたことも、良い想い出である。

貸していただいた、ミーカガンも懐かしい。


***

ホクレアの後は、漕店さんの慶良間ツーリング、そして沖縄カヤックセンターさんの伊是名/伊平屋ツーリングのダブルヘッダーを満喫。

特に、伊是名/伊平屋は、あまり観光地化しておらず、手付かずの沖縄の原風景が残っている感じで、今でもとても印象に残っている旅の一つ。

フェザークラフトでの旅は、俺の旅のスタイルの原点。

誰も居ない浜で、のんびりまったり、オリオンビールを飲みながら過ごす時間ほど、贅沢な時間はないのではないか。

みんなで貝を拾って食べたり、

その貝で炊き込み御飯が作られたり、

アバサ(ハリセンボン)を堪能したり、

キャンプ地からかなり歩いて、地元の商店で買出ししたり、

とても楽しい海旅の連続。

***













***

瀬戸内海と日本海、江ノ川と錦川しか知らなかった当時の俺にとって、沖縄でのシーカヤック旅という別世界を知ったことは、まさに目からウロコの出来事であった。
30代の頃は、毎年のように沖縄に通うことになったのだが、その後あるきっかけで、地元の瀬戸内の良さを見直すことになろうとは。

シーカヤックは、少なくとも俺にとっては、単に海でのパドリングを楽しむだけのスポーツではなく、その地域の特性や地理条件によって楽しみ方が大きく変わるものだと思っている。
そして、そうだからこそ、海旅の楽しさは奥が深いのだ。

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昔のブログへのリンク:

沖縄旅・浜比嘉島

ホクレア号がやってきた

伊是名/伊平屋ツアー

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瀬戸内シーカヤック日記: カヤック事始め(2)_リバーカヤック体験@カヌーの里おおち

2020年05月02日 | 旅するシーカヤック
1992年の冬に、中古のフォールディングカヤックを購入し、独りで海を漕ぎ始めた俺。

今でこそシーカヤックはTV番組にも登場するなど一般に知られるようになっているが、当時はまだ、せいぜいカヌーを川で漕ぐというイメージの時代。
カヤックやカヌー、シーカヤックに関する情報はとても限られていて、貴重なムック本や、一般的になったばかりのインターネットを使って海外の情報などを入手して、勉強していたことを思い出す。

そんなある時、カヤックを購入したお店の店長さんからいただいたアドバイス。
『海を漕ぐにも、リバーカヤックのテクニックを知っていれば役に立ちますよ』
『昨年、島根に”カヌーの里おおち”というのができてレッスンもやっているので、一度行ってみたらいいんじゃないかな』

と言う訳で、早速調べてカヌーの里おおちのレッスンに参加することにしたのである。

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カヌーの里おおち。
俺のカヤックライフを振り返る中で、ここの存在は、とても大きな影響を受けた大切な学びの場であった。

これは古いパンフレット。
開設当初のものではないが、この中の写真の一つに、俺も写り込んでいる。

懐かしいなあ!

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もう大昔なので、記憶は曖昧な所もあるが、初めて参加したレッスンは、確かローリーイネステイラーさんも講師として参加されていた、ダウンリバーのレッスンであったと思う。

この資料は昔、ある自動車メーカーのホームページにあった、ローリーイネステイラーさんの記事。
当時、彼はプロシードマービーというSUVのカタログに出ていたので、その関係でこんな記事が出されていたのであろう。

有り余るほどの時間がある今、このブログを書くのに昔の資料を探していて見つけた貴重な資料である。

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カヌーの里おおちの下流にある、赤塚発電所の排水口付近の瀬を中心に実施された、川下りの練習。

家から持参したフジタカヌーSG-1でこのツアーに参加し、憧れのローリーさんを含むスタッフの方に、初めての川下りを教えていただけるというとても幸せな時間であった。

今思うと、それほど激しい瀬ではなかったと思うが、何せ初めてのダウンリバー。
江ノ川の本流に、左から合流してくる発電所からの排水が合流し、波が高くなっている瀬。
安定性が高いフォールディングカヤックとはいえ、今からそこに突入するのだと思うと、『ドキドキ、ワクワク』

本流に乗って下り、瀬では左舷を波に食われないように体重を右に掛けながら、必死にパドリングして漕ぎ抜け、右側のエディに入る。
エディを使って上流に戻り、再び瀬を下ることを、何度か繰り返した。

その何回目かに、気が緩んだのか左舷を波に食われ、いきなりの『沈!』
何が起こったのかも分からないまま、パドルを手離さないようにだけ気をつけてコックピットから抜け出し、カヤックに掴まって流される。
流れが弱くなったところまで来ると、スタッフの方にレスキューしていただき、河原へ。

カヤックの水を抜きながら、『人生初の沈です』
ローリーが、『これでカヤッカーとして一人前だね』
全身ズブ濡れではあったが、なんだか爽快な気分であったことを覚えている。

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当時、カヌーの里おおちでは、冬から春の間に、1年間のスケジュールが郵送で送られてきた。

参加人数が限られていて、人気もあったので、予定を確認し、すぐに電話でいつくかのツアーやレッスンを申し込んでいたことを覚えている。

当時は、江ノ川の上流から河口までを、何回かに分けて漕ぎ下るという尺取虫方式の川旅企画があったり、ローリーイネステイラーさんや堀田貴之さんと下る川下り旅があったり、秋になると江ノ川を登ってくるサケ(鮭)を見に行くツーリングがあったりと、とても充実した企画が満載であった。
そして、江ノ川をサケが登ってくるというのを知ったのも、ここのツアーがあったからこそである。

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次第に川下りも楽しくなり、ダンサープロラインを入手して、江ノ川のツアーに参加したり、錦川を下ったりもしていたあの頃。

江ノ川の河口を目指す旅など、下流でのキャンプツーリングでは、スペクトラムにキャンプ道具を積んで参加もしていたなあ。

河口に到着したら、暴風雨になり、タープの下に避難したことも、懐かしい思い出である。

この時のタープは、確かスタッフさんが持っていたタルサタイムのムササビウイングだった。
堀田さんが江ノ川に来られていた関係で、カヌーの里のコアなお客さん達の間では、ムササビウイングタープが定番であった。

うちにも、あまり使っていない当時のムササビウイングタープがあり、先日引っ張り出してみると、加水分解が始まっていたようなので手入れをしたところ。

この事態が収まったら、初期のムササビウイングタープを張って、のんびりまったりキャンプ旅を楽しみたいものである。

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独学で始めた俺のカヤックライフに、川下りのテクニックやノウハウ/経験を加えることができたのは、カヌーの里おおちのおかげである。
また、ローリーイネステイラーさん、堀田貴之さんなど、当時の憧れのカヤッカー/カヌーイストの方々から様々な考え方を教えていただき、影響も受けた。

その後、瀬戸内や日本海での尺取虫方式の旅を行ったのも、ローリーさんの日本一周旅のお話を伺った影響が大きいようにも思う。

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江ノ川では、のんびりと下るキャンプツーリングも楽しめるし、




大雨の後には、激流下りも体験できる。




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有り余るほどの時間を使い、昔の資料を引っ張り出し、懐かしく思い出しながらそれらを眺め、自分のカヤックライフを振り返る。
たまにはこんな時間も、良いもんだ。

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