ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 田中浩著 「ホッブス」 (岩波新書 2016年2月)

2017年05月09日 | 書評
民主主義的近代国家論の基礎となったホッブスの政治理論 第7回

2) 近代国家論の誕生ー「市民論」、「リヴァイサン」 (その1)

 1640年革命議会(長期議会ともいう 1640-1653年)が始まった直後、長期議会の圧迫を予知してフランスへ亡命した。ホッブスが亡命した理由は「法の原理」で一国の平和を保つためには主権者に強い力を与えなければならないと書いたことで、国王擁護派だと見られ議会派から追及されるおそれがあったからである。ホッブスは代表(主権者)に強い力つまり法を制定する力を与え、国民はそれに従うべきだということで、特段国王を擁護したものではない。フイルマーの「神権授与説」とは全く違う。ホッブスは、当時の国王と議会の対立の中で、一国の主権は一つでなければならず、主権者は全国民の利益を代表しなければならないことを説いた。当時の革命の状況ではそのような社会契約説はとうてい両派に受け入れがたいものであった。長期議会はホッブスの説を説いた人を投獄したり又は処刑した。ホッブスは11年間フランに亡命せざるを得なかった。亡命中に「市民論」(1642年)、「リヴァイサン」(1651年)を書くことができたので、亡命生活は成功したというべきであろう。「市民論」は欧州の知識人に読んでもらうためにラテン語で書かれた。当時のイングランドではホッブスと革命詩人ミルトン(1608-1674年)の二人がラテン語の名手と目されていた。本国イギリスでは1644年マーストンムァの戦い、1645年ネイズビーの戦で王党派が破れ、王党派の貴族が続々フランスに亡命してきた。ホッブスの主人デヴォンシャー伯爵も1642年にフランスに亡命した。1646年にはチャールズ皇太子がパリに来て亡命宮廷を開いた。ホッブスはそのチャールズ皇太子の数学の家庭教師になった。宗教的にはホッブスは国王が教会の上に立つイギリス国教会を支持しており、国王を攻撃するピューリタン長老派とは仲が良くなかった。イギリス本国では1648年で内戦は終了し、独立派クロムウエル派が下院議員がイギリスの最高権力を掌握し、1649年チャールズ1世が処刑され王政が廃止された。こうしたなか1649年ホッブスは帰国の決意をした。パリでの亡命生活も危なくなる中で、ホッブスはスチュアート王朝への忠誠よりは、新政府への帰順を選択したようである。ホッブスの政治理論からして当然の帰結であり、現実政府に従うべしと心を決めた。こうして1649年後半から「リヴァイサン」の執筆にとりかかった。この「リヴァイサン」を皇太子に献呈したが、王党派や国教会聖職者らのホッブスへの批判が高まり、亡命宮廷の出入りが禁止された。1652年ホッブスは11年ぶりにロンドンに着いた。クロムウエルから帰国を許可された。「市民論」と「リヴァイサン」は欧州全体の国々の統治者と人民に向けて、人々が平和と安全に生きる政治とは何かを発信するために書かれた。ホッブスの政治原理(自由・平等・平和)はそれぞれの国でそれぞれの時代に渡って、ロック、プーフェンドルフ、スピノザ、ルソー、ペイン、ベンサム、ミル、トレルナなど第1級の思想家によって受け継がれている。また日本憲法の3原則(基本的人権の尊重、国民主権主義、平和主義)はまさに、ホッブスの政治原理そのものである。亡命生活の最後に書いた「リヴァイサン」は、「市民論」は王党派のために書いたとして、「リヴァイサン」はクロムウエルのために書いたとして、ホッブスはごうごうたる非難を受けた。この周辺の非難は当たらない。ホッブスは社会契約論によって、主権者は全人民の代表であり王党派とか革命派とかに限定したわけではない。すなわち「人民主権」の近代政治原理を主張したのである。この国民主権主義、人民主権主義はホッブスより一世紀後のペインやルソーによって受け継がれ開花したのである。次に「市民論」(1642年)と「リヴァイサン」(1651年)について、まとめておこう。

(つづく)