ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 吉田千亜著 「ルポ 母子避難ー消されゆく原発事故被害者」 (岩波新書2016年2月)

2017年05月19日 | 書評
子供を守るため自主避難した原発事故被害者への、住宅供給政策と生活支援策の切り捨て 第5回

1) 原発事故直後から避難までの恐怖

 さて上記の3冊は、避難者(自主・強制避難者)の住宅問題、福島原発事故被災者支援政策、福島原発事故計画的避難地域飯館村の生活再建問題を論じてきたが、本書、吉田千亜著 「ルポ 母子避難ー消されゆく原発事故被害者」(岩波新書2016年2月)は東電福島第1原発からかなり離れた避難地域に指定されなかった場所ではあるが、子どもの低線量被曝を恐れた人々が自主的避難(避難指示地域外避難者)した場合の問題点、おもに母子避難をルポ的にまとめられた書である。2011年3月11日午後2次46分マグニチュード9の大地震が東日本(東北地方)を襲った。地震に因る津波がいわき市海岸線に到着したのは午後3時39分のことである。津波による冠水で東電福島第1原発(もちろん第2原発も含めて)の原発4基は海水冷却機能を喪失し、暴走状態に陥った。そのことは原発周辺の住民の誰が知らなかった。夕方NHKが福島第1原子力発電所で2機の原子炉の冷却機能が停止したと伝えた。枝野官房長官が記者会見を始めたのが7時半のことであった。午後9時頃政府は「原発から半径3Km圏内の住民には避難を、半径3-10Kmの住民には屋内避難を呼びかけた。状況は刻一刻悪化していた。冷却停止から3時間で炉内の水はなくなり、燃料棒のメルトダウン(溶融)、次には反応容器の底に落ちた燃料によるメルトスルー(原子炉の破壊)が起きていた。原子炉によって緊急対策の状況が異なるが、それは午後8-12時のころと思われる。1号機から3号機(第4号機は運転停止中)は冷却機能を失い、第1号機の圧力容器の圧力が上昇し、ベントから放射性物質が外部に漏れ出ることが予想さた。避難指示の範囲は半径10Km圏内に拡大された。しかし12日早朝には原発に最も近い浪江町、高瀬地区で15μSv/hr(平常時の約500倍)の空間線量を記録した。午前10時には双葉町で32μSv/hrがモニタリングポストで記録された。1号機のベント(圧力逃がし弁)が行われ、午後2次40分には双葉町で4600μSv/hrが記録された。これらの放射線量のデータはメディアは報じてはいない。12日午後3時36分1号機の原子炉建屋が水素爆発をした。12日夜には避難指示は第1原発より半径20Km圏内に拡大された、第2原発でも半径10Km圏内の住民に避難指示が出た。第1号機の爆発後第1原発敷地内では1015μSv/hrが記録された。この章でルポはいわき市北部に住むある家族の避難経過を伝えている。孫の被曝のことが心配で、3月12日夕方親戚全員10名は最初は第1原発から30Km離れたいわき市南部の親戚の家に避難した。14日朝、娘夫婦と子供の3人と妊娠中の妹さらに遠くへ避難させることを家族で話し合って決めた。その日の午前11時第3号機の原子炉建屋が爆発した。14日午後1時過ぎ第2号機の冷却装置も停止した。燃料棒のメルトダウンの危険が迫った。15日午前6時10分第2号機化や衝撃音と黒煙が噴出し、大量の放射線もれが発生した。午前9時38分には運転停止中だった陀4号機からも出火した。これは3号機から漏れ伝わった水素による出火であった。家族は一般道で茨城県北部を経て埼玉県を通過し、静岡県の親せき宅を目指した。立ち寄ったコンビニで「いわき」ナンバーを見て店員がたじろいだという。避難者と車を放射能を帯びているという差別の目であった。3月13日いわき市は独自に県北部の一部住民に避難を要請した。しかし政府はいわき市に避難指示を出していないので、これは自主避難である。いわき市から避難した人は3月15日で推計15377人に上った。4月19日福島県内で子供たちが屋外活動を行ってよい基準値1mSvが年間20mSv(3.8μSv/h)に20倍も引き上げられた。5月に娘夫婦は一度いわきに戻った。1年間は被曝を避けるため、夫の通勤のこともあり週末に通えることも考えて6月に埼玉県の古い雇用促進住宅に避難した。

(つづく)