ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 田中浩著 「ホッブス」 (岩波新書 2016年2月)

2017年05月05日 | 書評
民主主義的近代国家論の基礎となったホッブスの政治理論  第3回

序(その3)

 重田園江著 「社会契約説ーホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズ」ちくま新書は次のような問いかけで始まる。私たちが暮らすこの社会は、そのそもどうんな風に生まれたのか。社会の形成、維持に不可欠なルールとは何か。政治的秩序の正当性はどこにあるのだろうか。社会契約論とはそのような問いを根源まで掘り下げて考える思考実験装置である。普段は誰も意識しないで、その必要性も感じないし、誰がいつ定めたのか誰も知らない、実証性・実在性の極めて乏しい社会科学である。本書はこの「社会契約論」という近代思想を切り開いた巨人達、ホッブス、ヒューム、ロック、ルソー、ロールズの思索の軌跡をたどろうとする現代思想・政治思想の歴史である。まず社会契約論とはどんな思想なのだろうか。それは社会の起源を問う思想である。そして社会契約論は、社会が作られ維持されるために最低限必要なルールを問う思想である。そして社会は自然に成立したもので動かしがたいという考えを捨て、秩序はルールは人工的で状況次第でご破算でき新たな社会を創造しうるという前提に立つ思想である。社会契約はホッブスでは「信約」、ルソーは「合意」、ロックは「社会契約」と呼んだ。約束の思想は、人が社会で取り結ぶ関係とその条件を、約束を交わす人々の目に見えるようにする。約束の思想は秩序の条件を明瞭にし、現にある不平等や不正を、等価交換の神話で隠すことをできなくする。社会契約を政治的秩序と共同体をつくる始まりの瞬間における約束として考えようと重田氏はいう。約束は人に何をさせ、約束がなければできない関係とは何だろうか。社会契約は、「一般性」という社会的ルールの正しさを考える上で重要な理念となる。個々の利害から超越した自分が、集団のために社会ルールを思考することが「一般性」である。重田氏は4人の社会契約説を解説しているが、ホッブスについては次のように述べている。人の行為がいいとか悪いとかはさておいて、ホッブスは最も重要な基本的な事柄として「自己保存」を置く。生身の人間の激しいぶつかり合いからどうして秩序が生まれるのか。ホッブスは必ずしも明確に語っていない。後世これを「ホッブス問題」と称する。ホッブスは自然状態を「万人の万人に対する闘争」と考えた。自然状態を脱して法が強制力を発揮する政治社会に至る道、きっかけを考えるのが「ホッブス問題」である。人々が一斉に武装解除をするのでなければ、いつまでたっても契約は成立せず政治社会が現出することはない。ホッブスはここで「理性の命令」という概念を出してくる。これは別名「囚人のジレンマ」と呼ばれる問題に等しい。ホッブスは「ホッブス問題」をどう解決したのだろうか。リバイサンの記述は不明瞭である。ホッブスは「人々が戦争状態を脱して平和と安全を手に入れる唯一の方法は、自分たちの権力と強さを、一人に人または一つの合議体に与えることである」と考えた。構成員が相互性をもって、この合議体に権威を与え、私自身を統治する権利を与えることが条件である。ずるいやつがいて権力への距離が異なる場合、約束する人々の間で非対称性は許されない。そんなことがどうして可能になるのか、ホッブスは何も言及していない。ホッブスにおける政治とは、人間がその共存の条件を自分たちで決め、共同性の行く先をその都度修正してゆく初めもなければ終わりもない永遠の活動である。ホッブスの条件付き政治社会の再構成とは、社会契約論の典型であろう。永遠に鉄砲を放棄できないアメリカ人には社会契約論は今もなお不要である。この自己防衛の権利を放棄した秩序は、人間たちが結びつくという社会の中でしか根拠を持てない。すべての人が自分押し全権を譲り渡して、主権者は同意した全員の力の総計と同じ力を得る。ここに権利は主権者に結集し、国家権力が成立する。当事者ではない主権者が登場する。主権者との契約には、結合契約と、支配服従契約の2種類の契約が続いて発生する。この契約は何らかの集団を単位とする契約ではない(部族社会の長老支配)、だから個人はお互いにそれぞれ別々に無数の契約をすることになる。ホッブスは二人の人間が結ぶ「信約」をもとに、社会的結合へ時間と拘束力を導入することで「契約」を説明する。信約は契約の一種である。契約とは当事者双方が利益を見出す時のみ交わされる約束である。二人の当事者が自分お利益を互いに譲渡しあうと「契約」が成立する。即時履行の場合である。ところが将来履行するという約束では「信約」という。延期された約束履行(信約)に不安が生じたとき消滅する性格である。信約が反故にされる理由として「合理的な疑い」があげられるが、平和と安全に対する脅威から結ばれた社会契約は無効になることはない。社会契約には強い義務が発生する。ホッブスは契約が法とは違うことを強調している。法とは上下関係に基づく命令であり、これに対して社会契約は自由意思に基づく対等な人間の約束なのである。自由な合意と約束を通じて当事者双方を未来に向けて拘束する。その強い力は契約の中にある。つまり約束は約束する人間を時間制を伴って拘束の内に引き込むのである。これは個人間を互いに引きつけ合う引力である。契約とは人が何かを譲ることである前に、人と人とが約束を通じて関係の内に入ることである。それは政治的共同体の始まりだけではなく、それが維持されるためにも力を与え続けるのだ。「約束だけが政治社会に力を与え続ける」これが社会契約論の核心であり、ホッブスが社会契約論の創始者である由縁である。ホッブスを近代政治理論の創始者と呼んでも過剰評価ではない。ホッブスの政治理論は近代人権思想であるかもしれない。ホッブスは、人間は崇高で冒すことのできない存在であるとは一言も言わなかった。むしろ誰でも等しくくだらないものだという認識からスタートしている。本当の意味での近代的平等の深さと強さがあるのではないだろうか。それでもなお作られる秩序があるとするならば、それはすべての人を受け入れる秩序となるであろう。碌でもない人間から秩序を作るために、ホッブスは人間同士の約束と当事者の対等性という関係に着目したのである。人間に対するこれほどの信頼の思想が他にあるだろうか。

(つづく)