ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 田中浩著 「ホッブス」 (岩波新書 2016年2月)

2017年05月04日 | 書評
民主主義的近代国家論の基礎となったホッブスの政治理論 第2回

序(その2)

 ホッブスの政治思想を生んだ時代の背景を概観しておこう。偉大な思想はいつも「危機の時代」とか「変革期」に生まれるものであるから。近代においては、ピューリタン革命期にホッブスやハリントンが、名誉革命期にロックが、ベンサム、スミス、ペインがイギリスの産業革命期やアメリカの独立戦争に現れ、フランス革命前夜には百貨全書派のヴォルテール、ディドロ、ルソーらが輩出し、欧州全体を巻き込んだ「1848年革命期」にはマルクス、エンゲルス、J・Sミルに登場した。イギリスにおいて資本主義が発展し、その矛盾が顕在化した19世紀後半期の帝国主義の時代には、労働問題・植民地問題・奴隷制問題・福祉国家を考察したトマス・ヒル・グリーンが現れた。20世紀のロシア革命期にはレーニンが、中国革命期には孫文や毛沢東が現れた。日本では明治維新期に啓蒙主義者の福沢諭吉、植木枝盛。中江兆民たちが、自由民権期・欽定憲法制定・日清日露戦争期にはそれを批判した田口卯吉、陸葛南、などのリベラリストを生んだ。大正デモクラシー期、日中戦争期には抵抗の知識人長谷川如是閑が現れ、戦後の民主改革期には丸山眞夫が活躍した。ホッブスは晩年に二篇の自伝を書いた。「ラテン詩自伝」(1672年)と「ラテン語自伝」(1674年)であるが、いずれも小篇で、内容的にも抽象的である。むしろオーブリーの書いた「名士小伝」がホッブスの思想と行動をに関する貴重な資料となった。オーブリーは16-17世紀のイングランドや欧州の名士を紹介している。ホッブスは1588年4月5日イングランドのウイルトシャ―州マームズベリで生まれた。スペイン艦隊とイギリス艦隊が決戦を迎えた7月中旬の直前であった。イギリスの覇権が確立し、イギリス資本主義の発展期とともにホッブスは成長した。92年に及ぶ生涯は、デヴォンシャ―伯爵家の庇護のもとにあった。ホッブスはピューリタン革命を挟む17世紀のイングランドと欧州の激動期のすべてを経験できたのである。ホッブスは52歳の時に最初の政治学書「法の原理」(1640年)を書き、2年後に「市民論」(1642年)を書き、チャールズ一世が斬首され、クロムウエル(1599-1658年)が政権を取ったピューリタン革命のときに「リヴァイサン」(1751年(を書いた。そしてイギリスの共和制時代の60歳代から70歳初めにかけて、「物体論」(1655年)、「人間論」(1658年)を書いた。80歳を前にして「哲学者と法学徒との対話」(1666年)、「ビヒモス」を書いた。ビヒモスもリヴァイサンも旧約聖書に出てくる怪獣の名前である。ホッブスは近代イギリスの出発点である「市民革命」の真の生き証人であった。ホッブスが生まれた家庭は12歳のとき(1600年)、貧乏牧師であった父親が蒸発し、叔父方に預けられ、秀才の誉れ高かったホッブススはオクスフォードのモードリン・カレッジの学校に入った。これがホッブスの幸運の第1の契機となった。ホッブス14歳の時オックスフォード大学に入学した。1606年に大学を卒業し、名門貴族キャベンディッシューハードイィック男爵の長男の家庭教師となった。1616年にはデヴォンシャー伯爵家の家庭教師になった。当時のオックスフォード大学・ケンブリッジ大学の学生は貴族や地主階級の子弟で、生まれながらの地方の支配者であった。中産階層出身学生は多くは学者や医者を志した。ホッブスが貴族の家庭教師に推薦されたのは幸運中の幸運であった。仕事は午前中の語学の教師となり、住居・生活費・年金まで保証され、時間はたっぷりあってホッブスを世界的な思想家に成長する第2の契機となった。これからホッブスの政治思想の進展を彼の生涯にあわせて4期に分けてまとめる。第1期:ホッブス政治学の確立ー「法の原理」、第2期:近代国家論の誕生ー「市民論」、「リヴァイサン」、第3期:哲学体系の完成ー「物体論」、「人間論」、第4期:近代政治思想史上のホッブスの意義である。ホッブスの各論に入る前に、見通しを得るためこれまで私が読んだ「社会契約論」の2冊の本の概要を紹介する。①重田園江著 「社会契約説ーホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズ」ちくま新書、②ルソー著 「社会契約論」岩波文庫である

(つづく)