ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 田中浩著 「ホッブス」 (岩波新書 2016年2月)

2017年05月06日 | 書評
民主主義的近代国家論の基礎となったホッブスの政治理論 第4回

序(その4)

 重田園江著 「社会契約説ーホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズ」ちくま新書では、重田氏はルソーの社会契約論について、『ルソーが描く「社会契約」のハードルは高く理想的で次の条件を満たすものであること。第1に契約は限りなく強いこと、第2に普遍的でシンプルでなければならない、第3に政治社会には寿命があるが社会契約は持続性がなければならない、第4に社会契約は拘束を生むが個人は依然として自由であることである。契約の条項は「我々は身体とすべての能力を共同のものとし、一般意思の下に置く。それに応じて我々は団体の中で各構成員を分割不可能な全体の一部として受け入れる」というものである。これは「全面譲渡」に相当する。自由と平等と相互性の理念は、一般性あるいは一般意思と不可分に結びついている。ルソーは主権者が第3者(絶対主義的国王、官僚など)であることは絶対に忌避されなければならない。命さえ守ってくれるなら誰でもいいとするホッブスのようなあいまいさは避けるべきだとする。主権者は人民でなければならない。「社会構成員」とは「一つの精神的で集合的な団体」とされる。そしてその構成員は共同の自我と生命、意志をもつという、抽象的な内容に昇華される。社会契約を結んで新しい社会を作ろうと考えた瞬間、その人は契約当事者で政治体の一員としての自己となる。その内部で自分を含む全体との間で結ばれる契約が「社会契約」なのである。さらにこの共同体、政治体が担う意志が「一般意思」なのである。一般意思とは法を作る意志であり、個々の意志の総和ではないのだ。ルソーの政治体の内部にいる人は3つの名称で呼ばれる。第1は法を作り政治に参加し、共同体を動かす「市民」、第2に自ら進んで法やルールに従う「臣民」、第3に政治体参加者である市民の集団を全体として見たら「人民」と呼ばれる。人民を国家のアクターとみると「主権者」となり、主権者が人民である時人民主権(主権在民)が成立している。このような「一般的な自分」が特殊存在としての自分と約束を結ぶのだ。人は政治体の参加者あるいは主権者としては、一般的な視点に立ち、一般意思に従って行動しなければならない。「一般意思」はルソーが言い始めた概念ではない。そこで「一般意思」の概念の歴史を繙こう。一般意思とはアウグスティヌスを通じて中世神学に流れ、マンブランシュによってフランス哲学に影響を与えたとされている。中世キリスト教は当然ながら神の完全性から創造主の意志を意味した。神は一般意思としてはすべての者の救済を意図し(建前上)、だが原罪以降は神の特殊意志は特定の者の救済を拒んだ(実情)。ここで一般性と特殊性の対比が、マンブランシュからモンテスキューを経てルソーに受け継がれたと見ることができる。永遠不変の一般意思に対する、個別事象の「特殊意志」という対比である。ルソーは一般意思は自分の特殊な利益に左右されてはならないとして、一般意思は特殊意志と鋭く対立する構図を描いた。モンテスキュー(1689-1755)は「法の精神」において、法を作る事、立法権力は一般意思に属するが、司法権力は個々の事件を裁く特殊意志であると考えた。この3権分立の考えはルソーに継承されている。ルソーはそれを「人民主権」といい、どうしたら人民の意志である一般意思を発見できるかに苦心した。ルソーは一般意志には神を必要としない近代性を徹底させたのである。人間が自由意思によって社会を形成し、人間が約束する力によって一般意思が現れると考えた。一般性は、多様性と自由を抑圧するものではなく、自由を実現しまた多様性を尊重するためにあるということである。社会契約においてこそ政治が生まれり場所であり、人民が政治的自由を手に入れる場所である。そしてルソーは一般意志は重力の法則と同じレベルにおいて成立する普遍性を持つので、過つことはないと確信した。』とまとめた。 ルソー著 「社会契約論」岩波文庫では、ルソーは「不平等起源論」では、自由で平等な孤立人である自然状態を構想し、この原始自然状態から社会状態に移行すると、財産の不平等が起き私有財産が生まれたとした。現状の社会がいかに矛盾に満ちた救いがたいものであるかを描いたのだ。鋭い社会批判となるのは当然であった。これに対して「政治経済論」は政治の問題を取り上げ、「社会契約論」で論じる理論のすべてはこの「政治経済論」に含まれていた。しかし「政治経済論」では政治体制または国家組織論としては未完成であった。主権在民の非拘束性、絶対性は「社会契約論」で初めて確立された。ルソーが革命的民主主義の国家理論をとなえた初めの人となったのはこの点である。人は生まれた自然状態では自由であるのに、社会状態では奴隷になるのはなぜだろうかという「社会不平等起源論」の問いは、社会契約論において約束することで自由と平等を取り戻すことができるという革命的展開を遂げた。それには個人的な意思ではなく「一般意思」という観点で約束することであるというのが社会契約論のミソである。この人民の一般意思は、絶対的であり、誤まることもない普遍的原理である。主権は他人に譲り渡したり分割したりすることはできない。一般意思の行使が主権であるとする主権の絶対性理論はルソー独自というよりホッブスを引き継いだものであるが、ホッブスが絶対君主でもいいとしたのに対して、ルソーは人民権力の絶対性を主張した。こうして、「各構成員の身体と財産を、共同の力をすべて結集して守り保護するような結合の形式を見出す事、そしてそれによって各人が人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず自由であることが根本的な問題であり、社会契約がそれに解決を与える」というルソーの命題が宣言される。社会契約の本質的なことは「われわれは身体とすべての力を共同のものとして、一般意思の最高の指導の下に置く。そしてわれわれは各構成員を全体の不可分の一部として、ひとまとめのものとして受け止める」であるという。この結合行為からその統一、その共同の自我、その生命、その意志が生まれるのである。その結合体を、「共和国」、または「政治体」と呼び、国家、主権者とも呼ばれる。構成員は「人民」、主権に参加する者は「市民」、国家の法律拘束される者は「臣民」と呼ぶ。ここで各個人は二重の関係で、主権者(人民)の構成員でありかつ国家の構成員(臣民)で約束している。自分に対して義務を負うことと、全体に対して義務を負うことが発生する。各個人は人間として一つの特殊意志を持ち、彼が市民として持っている一般意思とは異なる。一般意思へ服従するよう強制される。自然状態から社会状態への移行は、各人に正義と道徳、理性に従った行為をすることを要求し、また自分が自分であるという道徳的自由(奴隷状態でない)を獲得できる。社会契約によって自然的平等が破壊されるものではなく、かえって肉体的不平等に替えて道徳上及び法律上の平等に置き換えること、契約によって権利が平等になることである。

(つづく)