ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 田中浩著 「ホッブス」 (岩波新書 2016年2月)

2017年05月07日 | 書評
民主主義的近代国家論の基礎となったホッブスの政治理論 第5回

1) ホッブス政治学の確立ー「法の原理」(その1)

 ホッブスは大学卒業後、キャベンディッシュ男爵家の家庭教師に就任しました。オーブリーによるとホッブスの人となりは「大柄で、人好きがする快活な青年で、知力と洞察力は鋭く過つことがなかった」という。学芸保護を重んじた伯爵家では国内外の学者や政治家と知り合うことが多く、収集された古典・歴史書・法学書・哲学書を読むことができた。そして貴族の子息の付き添いで3度にわたる外遊がホッブスの知見と見識をおおいく成長させたといえる。1608年から1640年までの約30年間のデヴォンシャー伯爵家の時代が、ホッブスの学問形成にとって決定的に重要である。ホッブスは1610年に青年貴族の世界旅行に付き添ってフランス、イタリアの旅に出かけた(1610-1613)。ホッブスはヴェネチアでモンテーニュやベイコンの愛好者であったパオロ・サルピ(1552-1623)にあった。ホッブスはアリストテレス哲学を嫌い、ローマ教皇を批判し、ベイコンの秘書としてラテン語翻訳を手伝ったりしたにはこの第1回海外旅行に深く関係していた。ホッブスは貴族家の住み込み秘書・家庭教師という職業から生涯独身であった。ホッブスはエウリピデス、ソフォクレス、プラトン、アリストテレスを研究した。中でもエウリピデスの「メディア」の詩を翻訳し、人間中心主義を学んだことがのちに「人間の本性から出発して国家論を構築したことにつながるようである。又ホッブスはギリシャ・ローマ時代の歴史をを研究し、ツキジデスの「歴史」の翻訳を出版した。ペリクレス時代のような安定した民主政治が国内平和の条件であることを発見し、「哲学者と法学者の対話」やピューリタン革命を分析した「ビヒモス」につながった。スコットランドの貴族ジャヴェス・クリフトンの子息の大陸旅行の付き添いで、フランスパリやイタリアを訪れた(1629-1631)。この旅行中ホッブスはユークリッドの「原論」に夢中になったと言われる。また2代目デヴォッシャー伯爵と3回目の大陸旅行へ出かけ(1634-1937)、フランスの学術サロンのホストであるミニモ会修道士メルセンヌ(1588-1648)のサロンに出入りした。フランスの哲学者・物理学者ガッサンディ、デカルトなどと交流した。またイタリアフィレンッツェにガリレイを訪問した。1937年に大陸外遊から帰国したホッブスは、「物体論」、「人間論」、「市民論」の三部作からなる哲学体系の執筆準備に取り掛かった。しかし当時のイングランドはチャールズ1世の「船舶税」を巡って国王と議会の対立が最高潮に高まり、下院のハムデンが指導する反税闘争が深刻な状況となっていた。「船舶税」こそがピューリタン革命の導火線となった。このためホッブスは哲学体系の順番をひっくり返して、1640年5月に「市民論」と「人間の本性」、「政治体」を内容とする「法の原理」を書き上げた。ホッブスは「社会の哲学」は私から始まると自負している。当時の王党派はこの書を「制限・混合王政論」を擁護するものと理解していたようである。すなわち国王の権限は制定法やコモン・ローによって、また議会によって二重に制限されというイングランド伝統の政治思想であった。しかしホッブスの「法の原理」は、「生命の安全」を守るための「主権の欠如」が内乱の要因であると考え、チャールズ1世に直接の擁護するものではない。革命議会は王党派への弾劾を強め、王党派とみられたホッブスは身の危険を感じて1640年末にいち早くフランスへ亡命した。リヴァイサンの序文で、ホッブスは大きな権力を欲しがる王党派と大きな自由を欲しがる議会派の間をすり抜けて、人間の生命と安全と平和のためになぜ権力は一つでなければならないのかを述べている。そしてこの政治姿勢と政治原理は、革命前に書かれた「法の原理」と革命後に書かれた「リヴァイサン」においても変わってはいない。ホッブスの政治学の三部作「法の原理」、「市民論」、「リヴァイサン」を通じて一貫した政治理論は、生命の安全と平和の確保という原則を保持し続けたことによって、現代にいたるまで影響を与え続ける近代政治学の創始者としても栄誉をホッブスに授けた。イングランドの政治は、国王と議会の協同による伝統的な二重権力論(制限・混合王政論)にこだわっている限りは、両者の闘争は終結せず、安定な政治は望めないというホッブスの信念があった。イギリスに議会ができたのは1295年の「マグナカルタ」(課税は議会の承認を必要とする)以来のことである。以降中世から近代におけるイングランドの民主主義の発展は、国王の権限をいかに縮小し、議会の権限をいかに拡大するかという争いであった。ジェームス1世(1566-1625)は17世紀になって「王権神授説」を高言して、国王と議会の対立を招いた。議会は1628年「権利の請願」を国王に突きつけ、1640年まで国王は議会を招集しなかった。1640年に議会が招集されると、議会は国王の大権に反対し内乱状態となり、1642年「ピューリタン革命」となった。国王は「絶対君主主権論」を唱え、議会は「議会主権論」を唱えて革命に向かって先鋭化したのであった。

(つづく)