ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 田中浩著 「ホッブス」 (岩波新書 2016年2月)

2017年05月03日 | 書評
民主主義的近代国家論の基礎となったホッブスの政治理論 第1回

序(その1)

 本書は「リヴァイサン」の解説書かと思って読み始めたが、最初は各項目の取り扱いがいかにも浅いのでびっくりした。辞書の項目の解説程度の量で展開されるので、系統的理解が困難であると感じた。岩波新書の分量で160頁なので、深い説明は不可能であるとしても、対象を絞ることはせず、近代政治思想史の全体を把握することが目的であった。つまり本書は近代政治思想史の背景とホッブスの多面的な思想と評伝であるからだ。では駆け足でホッブスの政治思想を閲覧してゆくことになる。著者田中浩氏のプロフィールを本書あとがきから見てゆく。1926年(昭和2年)佐賀県生まれ、戦争中は陸軍経理学校に入学し、戦後は旧制佐賀高等学校文科乙類を卒業し、務台理作教授や自然哲学の権威下村寅太郎教授がおられた東京文理科大学文学部に進学した。1951年卒業論文は「ホッブス自然法理論におけるエピクロス的性格ー国家と個人の関係」であったという。戦後の民主改革の中で、河井栄次郎東大教授の「自由主義の擁護を読み、純粋哲学ではなく「社会哲学」を志したという。イギリスの「市民革命(ピューリタン革命)」期の思想家ホッブスを出発点に選んだ。ホッブスについては一橋大学の太田可夫教授(哲学)、名古屋大学の永田洋助助教授(社会思想史)、東大の福田歓一助教授(政治思想)の指導を受け、ギリシャ哲学については京都大学の田中美知太郎教授(スコラ哲学)、高田三郎教授(アリストテレス)、社会科学については重松敏明教授(社会学、ホッブス)、キリスト教については国際基督教大学の武田清子助教授(政治思想、ニーバー)の指導を得たという。東京文理科大学を卒業後、東京教育大学教授、一橋大学教授を歴任して、現在聖学院大学客員教授だそうである。専攻は政治思想。法学博士である。主な著書には、「国家と個人」、「近代日本と自由主義」(岩波書店)、「日本リベラリズムの系譜」(朝日新聞社)がある。今年2016年で90歳となられる。90歳で岩波新書に政治思想史の祖ホッブススの評伝を書かれるエネルギーに感服します。

 今日、日本では、ロックやルソーの名前は民主主義思想の先駆者として広く知られている。これに対してホッブス(1588-1679年)は1651年「リヴァイサン」を著したが、主権在民論者なのか絶対君主論者なのか明確でないところを捉えて日本では誤解されているところがある。しかし、ホッブスこそが近代国家論の真の創始者であるというのが、本書の言いたいことである。ホッブスは、史上初の「市民革命」であるイギリスのピューリタン革命期(1640-1650年)に、人間にとって最高の価値(最高善)は「生命の安全」にあり、これを確保するためには「平和」が最優先されるべきであると主張していた。ホッブスはキリスト教義から離れて、政治の主体は「人間」であり、「生命の安全」も「平和」も人間中心に考えられてる。ホッブスは人間中心の自己保存という考えから、有名な「社会契約論」によって「近代国家論」を構築した。人間が生きる権利はアプリオリに自然権であり、これを自然の闘争状態に任せていたら、生存権さえ確保できない。そこでホッブスは闘争状態の自然権を放棄し(武装解除)、互いの力を合わせて「社会契約」を結び、「共通権力」(国家)を作るとした。契約に参加した全員の多数決(民主政治の決定原理)によって代表者(政府、権力)を選出する。この代表者が選出されて初めて国家=コモンウェルスが成立したとホッブスは考えた。コモンウェルスとは最小限の抑止力を持つ政治体(共同体)のことである。それは群衆とは違う、代表が作る法律が人民が守って「法の支配」が実現していることである。17世紀中頃イギリスに市民革命が成功して近代民主国家ができた時代に生まれたホッブスの政治思想である。ホッブスはイギリスの伝統である国王と議会の伝統的二重権力構造(立憲主義)を排して、国家の平和を保持するためには主権者(代表)に強い力を与えよと述べた「リヴァイサン」が誤解される理由がここにある。誰に一元的強権を与えよとは言っていないので、絶対王権派ともクロムウエル革命の恐怖政治のどちらも当てはまる。ホッブスが近代民主主義の創始者として評価されはじめたのは、ベンサム主義者のモールズワース(1810-1855)がホッブスを取り上げた1840年以降のことである。つまり「リヴァイサン」が刊行されてから200年後の19世紀中頃のことになる。この時代の特徴は、イギリス国内で産業革命期に入りブルジョワジーが形成され、国際的にはアメリカ独立戦争、フランス革命後の欧米における中産市民層が台頭してきたことである。ベンサムがフランス革命後の1979年に「最大多数の最大幸福」と述べたことは、この中産市民階層の政治参加を援護した。アダム・スミスが1776年に著した「諸国民の富」(国富論)は資本主義的生産様式を描き出し、200年前の「市民革命」の時代とは違う格段の実力を備えた中産市民階層の台頭があってのことである。スチュアート・ミル(1806-1873)は「自由論」の中で、「思想・言論・宗教に自由」、「人身の自由」、「財産権の自由}、「労働者の結社・団結の自由」の4つの自由を掲げた。トマス・ヒル・グリーン(1838-1882)はピューリタン革命を正しく評価して、自由は手段であって政治の目的は人格の成長であるとのべ、ロックの「私有財産の不可侵性」を修正し、公共の福祉のために自由の制限があるとした。これは今日の福祉国家の生存権の重視にあたる。それより前にルソーは「人間不平等起源論」を1755年に書いているし、1791年ペインの「人間の権利」において「平等」という観念が初めて現れた。ドイツの社会学者マンハイム(1893-1947)は「保守主義」のなかで、台頭する労働者階級の政治的進出を阻む思想を保守主義と定義した。これらの思想家のいう「自由・平等」之考えは、実はホッブスが提起した万人共通に認められるべき「自由・平等」という政治原理に端を発するものであった。イギリスでホッブス思想を民主主義において捉えた最初のホッブス研究は、、ロバートソンの「ホッブス」(1886年)であろう。しかしホッブス研究が盛んになってきたのは、第1次世界大戦後のことである。イギリス政治思想史の権威グーチ(1873-1968)は、ホッブス、ロック、ベンサムをイギリス三大政治思想家と定義し、ホッブスを最初でオリジナルな、そして最もイギリス的でない思想家だいった。ドイツでは社会学者テニエス(1855-1936)、レオ・シュトラウス(1899-1973)、イタリアでは哲学者ボッビオ(1909-2004)はホッブスを民主主義の先駆者として位置づけた。カナダのマクファーソン(1912-1987)は「リヴァイサン」を編纂した。日本では明治期に最も研究された西洋思想家は、ルソー、ミル、スペンサーであるが、そもそも自由民権運動を抑圧した明治政府下ではホッブスを研究するものはいなかった。大正デモクラシーにおいて憲法学者市村光恵、法哲学者恒藤恭らがホッブス・ルソーを研究した。いずれにせよホッブス研究が開花したのは、第2次世界大戦後の民主化改革時代になってからのことである。

(つづく)