ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 伊東光晴著 「ガルブレイス―アメリカ資本主義との格闘」 (岩波新書2016年3月)

2017年05月31日 | 書評
戦後経済成長期のアメリカ産業国家時代の「経済学の巨人」ガリブレイスの評伝 第4回

第1部  アメリカの対立する2つの社会・経済思想とガルブレイスの経済学者としての出発
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2) ガルブレイスの経済学者としての出発

ガルブレイスは1908年10月カナダのオンタリオ州、五大湖に接するアイオワ・ステーションという小さな村に生まれた。村はスコットランドからの移民の子孫であり、なかでもガリブレイスの家は150エーカーの農場と150エーカの借地で地区牛を飼育していた。村で発言力があるのは100エーカー以上の自営農民で、家柄がよく、かつ頑丈な体躯を持つことであった。ガルブレイス家はリベラルな政党(自由党)支持者で、村のオピニオンリーダ-の一人であった。そしてスコットランド移民者は共同体を形成し、助け合いと協力関係で結ばれていた。アメリカはヨーロッパにように封建制(土地で結ばれた共同体)を持たない社会で、自らの努力だけが頼りの「フロンティア」社会であった。ガルブレイスが育ったスコットランド系農民社会はアメリカ社会と違って、互いが共生する社会であって、市場主義ではなかった。ガルブレイスの祖だった環境は、20世紀前半を代表する経済学者であるケインズやシュンペンターとはあまりにも違った環境であった。彼らは貴族出身で、ケンブリッジ大学とかウィーン大学で学んだエリート子弟であった。それに対してガリブレイスは農作業を手伝いながら高校を卒業しオンタリオ農業カレッジに通った。学んだ学科は畜産学、耕作法、園芸、農業工学といった農業関係の実学である。経済学者への道はまだまだ先のことであるが、農業大学で学んだことは決して無駄な寄り道ではなかった。彼の興味は畜産から農業経済に移り、卒業論文は「小作農の経済状態の実態調査」であった。アメリカの大学の水準はまだまだ低く、大卒だけでは使い道がなかったので、大学院が作られた。アメリカの大学は教養大学であり、その上に大学院が設置された。ガリブレイスは奨学金を得て、1931年カルフォニア大学バークレー(UCB)で、財団法人農業経済学研究所研究員として経済学の勉強を開始した。経済学の基礎をエイワルド・グレッサーと教授レオ・ローギン教授から学んだ。ガリブレイスのバークレー時代の師として財団研究所長のハワード・R・トーリーが重要である。彼の推薦で後にハーバード大学に移ることで運命を切り開くことができたからである。当時のバークレーの学生はリベラルから左翼までいて、ガリブレイスの思想形成に影響したと言われる。バークレー時代ガリブレイスは制度学派の祖ソースタイン・ヴェブレンの著書から学ぶところが多かったという。農業経済学から研究を進めたガリブレイスは経済の現実を変える政策提言を用意する姿勢を確立していった。農業の実学の中からアカデミズムに進むという二流から一流への道に進むのである。博士論文を契機として、1934年ハーバード大学経済学部講師となった。アメリカの政治が大きくリベラルに軸を移した時代に、しかもその第1期は農業政策が中心となって、ガルブレイスの専門とする農業問題が時代の脚光を浴びたのである。ガリブレイスの指導教授が農業経済のジョン・D・ブラックであったことから、彼と「流通過程のコスト分析」という共同論文を書いた。ブラックはガリブレイスの研究対象を農業から流通市場経済へ拡大変更させた。当時の市場理論はハーバードのE・チェンバリンの「独占的競争の理論」(市場の競争によって生産量は増え雇用は増すという理由)であった。しかしこの頃ガリブレイスはケインズの著書「雇用、利子および貨幣の一般理論」(1936年)を読んでから、不完全競争ないしは独占的競争論の現実に果たした役割とケインズが競争的市場を前提としたことに注目した。ケイインズの理論はハーバードだ学大学院学生によって支持され広まった。六うフェラー財団のヨーロッパ留学奨学金を得て(ブラックとトーリーの推薦があったから)、1937年英国のケンブリッジ大学留学が実現した。ジョーン・ロビンソン、オースティン・ロビンソン、ジェイムス・ミード、ピェル・スラッファー、リチャード・カーンらの「ケインズインナーサークル」ン人々との交流によって、ガリブレイスの眼は開けていった。又ロンドンスクールオブエコノミックスの保守派サークルとの交流も財産となった。ガリブレイスが、アメリカの経済学者に見られない、西欧的思想を感じさせるのはこの留学の故かもしれない。帰国後ハーバード大学では人事抗争事件があって、ガリブレイスの人事は進まず、1939年プリンストンの助教授として転出したが、3年後にはプリンストンを辞めた。第二次世界大戦が1939年に勃発してから、ルーズベルト政権も退陣し財政政策は戦争政策に突入した。経済顧問のラクリン・カリ―は1940年ガリブレイスをワシントン政府に招き、国家防衛諮問委員会顧問となった。そして物価管理局行政官補(1942年)から同局副長官(1943年まで)となった。実業界からの反発を受けて副長官を辞してから、雑誌「フォーチュン」に勤めた(1943-1948)。そして戦争が終わって再びブラックの援助によって1949年ハーバード大学の教授に就任することができた。

(続く)