ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート R・P・ファインマン著 大貫昌子訳 「ご冗談でしょう、ファインマンさん」 (岩波現代文庫上・下 2000年1月)

2017年05月27日 | 書評
量子電磁力学のノーベル賞物理学者の奇想天外なお話、 科学への真摯な情熱 第5回 最終回

2) 本書に書かれたファインマン氏の逸話 (その2)

* ノーベル賞受賞の知らせの電話が朝の3時半前後にかかってきた事に腹を立て、賞を受けるかどうかも言わず、「今眠いんだ」とだけ言い放ち、すぐに電話を切ってしまった。その直後から次から次へと電話がかかってきてうんざりし、ノーベル賞を受けなければこんな目に遭わずに済むのかと考えて受賞を断ろうと考えたが、断った方が余計ことが大きくなると『Time』誌の記者に諭されて、受け取ることにしたという。
* コーネル大学の教授時代、原爆開発の反動で研究意欲を失っていた。その間も来るいろいろな研究所や大学からのオファーにストレスを感じていたが、あるとき「自分は遊びながら物理をやっていこう」と決心した。その頃たまたまカフェテリアに居合わせた男性が皿を使ってジャグリングしている場面に遭遇、皿が回転するときは横に揺れている事に気づき、その運動を解明するために、皿を構成する質点の運動をすべて計算するなど単なる好奇心から計算を行った。そのときは全く意味がなく、ただの「遊び」でニュートンの法則だけを用いてその事象の計算を行い証明した。その計算をベーテに披露するも「それが何の役に立つんだ?」と訝られ「だけど面白いだろう?」と答えるとベーテも得心した様子だったという、結果としてその時の洞察が基になって、後々ノーベル賞を受賞する布石になる。
* カリフォルニア工科大学の同僚であったマレー・ゲルマンとは強力なライバル、論敵関係にあった。ゲルマンが命名したクォークのことをファインマンは「パートン」(部分子)と呼び、「ファインマン・ダイアグラム」のことをゲルマンは「ステュッケルベルク図」と呼んでいた。
* シカゴ大学で研究所の所長を務めていたエンリコ・フェルミが他界した後、その後任として就任の要請が来たが、カリフォルニア工科大学の環境の良さを気に入っていた為に待遇も聞かずに断った。後日にその給料が知人から知らされたが、その高さに驚き、逆に断ってよかったと懐古している。物理に関係の無い雑事に関わることを酷く嫌がり自らを「社会的無責任論者」と称し、秘書ですら「胸がすくくらい、好条件の要請や招聘を殆ど断っていた」と感嘆していた。結果、30年余りに渡ってキャルテクに在籍、教鞭を取り研究に没頭出来る環境で過ごした。
* フリーマン・ダイソンは英国の両親に宛てた手紙の中でファインマンの事を「半ば天才、半ば道化」と評して、事実ファインマンの一般的イメージも「自由奔放で愉快な天才科学者」で認知される。ただダイソンは自分で軽々しく形容したファインマンに対する上記の第一印象を後々酷く後悔している。正しくは「完全な天才、完全な道化」。
* 可愛い娘には目がなく、女性の心理を色々と研究して、どのようにすれば女性にモテるかをよく知っていたし、実際よくモテた。カリフォルニア工科大学で教鞭を執っているときはほとんど毎日のように自宅近くのストリップバーに通っていて、ダンスを眺めたりダンサーの気を引いたりしていた。また、ラスベガスが好きだったが、その理由のひとつもダンサーに会えることだった。
* ファインマン・ダイアグラムがそこかしこに描かれたマスタードカラーのバンに乗っていた(ナンバープレートはQANTUM:ナンバープレートの文字数制限(6文字)のため)。このバンは現在カリフォルニア工科大学に寄贈されている。
* 物理学会で初来日した際はわざわざ日本語を(片言ながら)覚えてきている。また、日本式のホテル(旅館)に興味を持ち、和式の旅館に泊まりたいと主催者に無理を言って泊まらせてもらった。別の機会に来日した時にも、とあるリゾートホテルから三重県の山側にある町の小さな宿屋にわざわざ変えてもらったりした。
* 海産物が大嫌いで、一度カキを試してみたが、あまりの不味さに耐えられなかったという。ただし来日した際に食べた魚は美味しかった(新鮮で生臭くなかった)ので食べることができたが、帰国してから魚料理を食べに行ったらやはりまずかったと語っている。魚の腐敗臭g嫌いだったようだ。
* 3度の結婚を経験した。最初の妻(アーリーン)とは結核により死別、2番目の妻(メアリ・ルー)とは離婚。最終的な家族には3番目の妻のグウェネスのほか、実の息子にカール、後に養子として迎えたミシェルがいる。カールは幼い頃から父親同様に数学に多大な興味を示したが、同じように生活してきたはずのミシェルは全く興味を示さず、ファインマンはその違いに驚いた。
* NASAのチャレンジャー事故調査委員になるべきかどうか悩んでいたとき、夫人のグウェネスに、12人の調査員はみんなでぞろぞろ連れ立って、色々な処を調べるが何も見つけられないけど、あなたが行けば、ひとりで飛びまわって、ひとの考えないようなことを調べ、きっと事故原因を見つける。あなたみたいなやり方のできる人は、他にはいないから」と諭され、委員になる事を決意したと話している。
* 晩年、友人との談話中にたまたまソ連の「クズル」(現・ロシア連邦トゥバ共和国)という地を知り、どうにかして訪れたいと、何年にもわたって交渉を重ねていた。肝心の理由は「変わった地名だから」というものであった。
* 理論物理学の分野で八面六臂の活躍をしたファインマンであったが、一度「故障」を起こしている。1984年IBM社製パーソナルコンピュータの購入でパサディナまで出かけた時、興奮のあまり歩道の段差に躓きビルの壁面に頭部を打ち付け大量出血、通行人に病院に行くよう促されるも大したことはないと自己判断。後日、庭先にある車を探すのに45分も費やしたり、深夜に突然起きて息子の部屋を通り抜けたり、講義内容が支離滅裂になっている事に気づいて謝罪するなど奇妙な挙動を起こすようになる。脳走査の結果、脳組織を圧迫するほどの大量の硬膜下出血をし、手術以前3週間の記憶は欠落したままであった。
* 生涯を通じてユーモア溢れる語り口で有名であったが、それは死に際まで変わらず、最後に口にした言葉は"2度と死ぬなんて、まっぴらだよ。全くつまんないからね(I'd hate to die twice. It's so boring.)"であった。
* 彼の3癖というか悪趣味は、パーカッション打ち、絵描き、暗号解読、錠前明け、女遊びなどである。
* 彼が幼少の頃に過ごしたファーロッカウェイのコーナガ・アベニューは、彼にちなみ2005年5月11日にニューヨーク市により『リチャード・ファインマン・ウェイ』と改名されている。

(完)


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