ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート R・P・ファインマン著 大貫昌子訳 「ご冗談でしょう、ファインマンさん」 (岩波現代文庫上・下 2000年1月)

2017年05月25日 | 書評
量子電磁力学のノーベル賞物理学者の奇想天外なお話、 科学への真摯な情熱 第3回

1) ファインマン氏の年譜

* 1918年5月11日: ニューヨーク市クイーンズのファーロッカウェイという小さな海辺の町のユダヤ人家庭に生まれる。2歳頃から驚くほど多弁な子になり父親が購入した大英百科事典をむさぼり読む。父メルヴィルの生業はベンダー・アンド・ゴールドシュタイン社の制服販売業。
* 1918年 - 1935年: ファーロッカウェイに居住。 息子を科学者にしたいと考えていた父親は、幼いファインマンに自然科学の面白さを熱心に教え、一方ではユダヤ教の日曜学校に通わせヘブライ語まで習わせた。
* 11歳か12歳のころ、ラビ達が言っていたユダヤ教の奇跡を少年なりに強引な解釈をして理解、納得に努めていたが、死にゆく登場人物の回想シーンという説話に整合性が見出せなかったリチャード少年は大泣きしてしまう。驚いたラビは「これは作り話なんだよ」と説明するが、これをきっかけにファインマンの宗教嫌いが決定的なものになり無神論を大っぴらに標榜するようになった。
* 11歳か12歳のころ、自宅に「実験室」を作り、色々な実験をして遊ぶようになった。特にラジオには大きな関心を示し、壊れた古ラジオを直すなどの特技を持つようになった。これが評判となり、大人が子供のファインマンにラジオの修理を依頼することが度々あった。化学と数学は高校まで学年でトップの成績であった。
* コロンビア大学を受験したが、当時アイヴィー・リーグを中心に設けられていた「ユダヤ人学生上限枠」のため不合格となったため、MITに進学することになった。
* 1935年 - 1939年: MIT(マサチューセッツ工科大学)で物理学を学ぶ。 MITを卒業した1939年の夏休みの間、プラスチックに金属メッキをするメタプラスト社にアルバイトで入り、それまでよりはるかに多くの種類のプラスチックにメッキできるようにしたり、何時間も掛かっていた作業をたったの5分に短縮するなどの才能を発揮した。ファインマンが化学においても優れた知識とセンスを持っていた証拠である。
* 1939年 - 1943年: プリンストン大学の大学院生となり、ジョン・ホイーラー教授の助手を務める。 1941年: 最初の妻アーリーン・グリーンバウムと結婚する。ホイーラーの勧めにより、電気力学の量子論についてのゼミをすることになったが、ゼミの前評判を聞きつけてユージン・ウィグナー、ヘンリー・ノリス・ラッセル、フォン・ノイマン、パウリ、アインシュタインなどのそうそうたるメンバーが出席した。原子爆弾開発プロジェクトマンハッタン計画への参加を持ちかけられ、当初は断ったが、ヒトラーが原子爆弾を先に開発する恐れがあると思い直し、結局この計画にたずさわることになった。このため自分の研究をしばらく諦めて、しばらくはプリンストン大学内でこの計画に協力した。最終的にはロスアラモスに行くことになったが、行く直前に6週間休暇をとって電磁波の先進波についての博士論文を書き終え、博士号を取得。
* 1943年4月 - 1946年11月: ロスアラモス国立研究所に移ってマンハッタン計画の任務を遂行。理論グループに所属していたが、下っ端の雑用からテネシー州オークリッジにあるウラン濃縮工場の視察、および、計算機を使った膨大な計算等々、様々な任務に携わった。
* 1945年: 妻アーリーンが結核で亡くなる。
* 1946年11月6日 - 1951年: コーネル大学の教授。 1947年の夏ブラジルで過ごす。1951年の半年間ブラジルに滞在。
* 1951年 - : カリフォルニア工科大学の教授 1951年末: 2週間ほど日本訪問。2回目の結婚、しかしすぐ破局。
* 1953年: 国際理論物理学会 東京&京都で来日。
* 1959年: 3回目の結婚
* 1965年: 量子電磁力学の発展に大きく寄与したことにより、ジュリアン・S・シュウィンガー、朝永振一郎とともにノーベル物理学賞を共同受賞した。
* 1972年: エルステッド・メダル受賞。
* 1978年: 腹部の癌の1回目の手術を受ける。
* 1979年: アメリカ国家科学賞受賞。
* 1986年: この年の1月28日に起きたチャレンジャー号事故に際しては、調査委員の一人として事故原因の究明に参加。
* 1988年2月15日: 午後10時34分UCLA医療センターで癌により死去(69歳)。

(つづく)