ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

師走に入りました

2006年12月01日 | 写真館
2006年(平成十八年)も師走となりました。ブログの訪問者の皆様もなにかと気ぜわしいことでございましょう。今年は良かった人、失業した人、失恋した人色々ございましょうが、あと少しがんばってみましょう。いいこともあるかも。
何につけても体が資本ですので、お風邪など召さないように、暴飲暴食は慎みましょう。本ブログもがんばりますのでますますのご愛顧のほど。


最低賃金は生活保護水準より低い 格差社会是正へ動く

2006年12月01日 | 時事問題
asahi.com 2006年12月01日06時07分
最低賃金引き上げへ 生活保護水準を考慮 厚労省方針
 厚生労働省は30日、企業が働く人に支払う最低賃金の水準を引き上げる方針を固めた。最低賃金が地域によっては生活保護の水準を下回り、ワーキングプア(働く貧困層)を生む事態を改善するのが狙い。最低賃金法を改正し、「生活保護との整合性も考慮する必要がある」と明記する。基準を下回った企業に対する罰則も強化する。06年の平均時給額は地域別が673円、産業別は761円。見直し案では地域別について、最低賃金の算定根拠として生活保護の水準も考慮する。地域別の平均時給を年収に換算すると約140万円。生活保護の基準額は1人世帯(男性45歳)で148万円、2人世帯(女性48歳、子供12歳)で231万円など、最低賃金よりも高くなっており、見直しが実施されれば、最低賃金が底上げされる。

企業の目的は国民の生活向上にあるのではないか。国民の生活破壊にたった企業の繁栄は無国籍資本の論理である。

 企業から拒否された若者所謂フリーターはパートやアルバイトでの生活を余儀なくされまさに企業の収奪の対象に化している。いまや日本では格差社会が進行し社会的不安の材料になりつつある。このあたりの事情は 橘木俊詔「格差社会」岩波新書に解析されている。格差社会が進行すれば当面企業は安い労働力を得られるが反面人材の空洞化を招き長い目では経済活動の効率低下につながる。

格差社会はどのように進行しているのか
日本の格差社会の様相をみると、66歳以上の高齢者の貧困が著しい事が分る。ついで25歳以下の若者である。貧困層をみると世帯別では母子世帯と高齢単身者である。これは離婚の増加と核家族化によるものであろう。そして70歳以上の高齢者には無年金者が多いことも特徴である。若者の貧困率が高いのは日本の不景気によるものである。フリーターの平均年収は140万円である。
最低賃金はOECD9カ国の中では日本は3番目に低い。東京の最低賃金は12万円で生活保護支給額は16万円で最低賃金のほうが生活保護制度による支給額より低くなっている。これが厚生労働省という同じ役所がやっている矛盾です。この低所得労働者には非正規労働者とくに女性のパートタイマー、若者のかなりの数は最低賃金以下の賃金で働いている現実がある。
一方、富裕層では高額納税者(年3000万円以上の納税者、一億円以上の所得者)は会社経営者(創業者)と開業医である。サラリーマン経営者と労働者との格差はそれほど大きくはないが、いまやIT企業の創業者の収入は大きい。又村上ファンドのように、株や資産運用によって儲け、海外に拠点を置くことで日本の税逃れが流行している。これらの傾向が進めば日本の産業を支えてきた大企業や医療技術を支えてきた大病院の人材が空洞化するおそれがある。



環境書評  酒井伸一著 「ゴミと化学物質」 岩波新書(1998年)

2006年12月01日 | 書評
国立環境研 酒井伸一助教授のプロフィール 酒井助教授は京都大学工学部衛生工学科廃棄物熱処理工学の平岡正勝名誉教授一門の出であり、有機塩素系化合物(ダイオキシン、PCBなど)の熱処理工学が専門である。本書の主題である化学物質については論点が平凡である。ゴミの燃焼・熱処理技術とゴミ戦略という観点で読めばいい。

クリーン・サイクル・コントロール戦略(3C戦略)
GDP(国内総生産)の増加は必然的に廃棄物発生量、エネルギー消費量の増加と相関している。とくにゴミ発生量は景気の先行指数といわれる。我が国の一般廃棄物(家庭)量は年間約5000トン、産業廃棄物約4億トン、建設廃棄物約6000トン(1990年代中ば)といわれ、リサイクル率はわずか8%にすぎない。つまり「ゴミ破局」がヨーロッパより10年遅れでやってきた。特に最近は有害な廃棄物に対してはバーゼル条約や特別管理廃棄物の規制が行なわれた。例えば、ゴミ燃焼におけるダイオキシン問題、環境ホルモンと残留性有機汚染物質、廃自動車とシュレッダーダストに含まれる有害物質は適切な処理が必要である。

廃棄物対策の基本的な考えは①発生抑制②リサイクル③適正処理であるが、有害化学物質を含む廃棄物処理対策の優先性は次の順である。
① クリーン:有害物質を使用しない製品と工程のクリーンテクノロジ‐開発
② サイクル:工程内での有害物質の回収・リサイクルおよび製品段階の回収・リサイクル
③ コントロール:廃棄物無害安定化処理技術
また廃棄物対策の誘導的手法として次の手法の検討が進められている。
① 制的手法:化審法、リサイクル法、廃棄物処理法、バーゼル国内法、循環型社会形成推進法
② 経済的手法:課税・課徴金、デポジット制、補助金、減税、処理料金
③ 情報インセンティブ:エコラベル、ライフサイクルアセスメント、環境監査、PRTR、リスクアセスメント



小林秀雄全集第6巻 「私小説論」より「地下室の手記」と「永遠の良人」

2006年12月01日 | 書評
「地下室の手記」と「永遠の良人」

まずこの論文は未完であり、「永遠の良人」については何も述べられてはいない。まして2つの作品の連関や比較などは未完である。したがって「地下室の手記」論とシェストフの「悲劇の哲学」批判と題名変更をしなければならない。
本論の目的は言うまでもなく、シェストフの「悲劇の哲学」がでっち上げたドストエフスキー像から小林氏が別の像を作り上げるところにある。ドストエフスキーが言いたかった信念の更正とは「民衆の最低の段階まで自ら下ってみて、国民的根源へ、ロシア魂の認識へ、国民精神の是認へ立ち返る信念のことである。」
「地下室の手記」の目論みは、世間のおきてに抗して、狂人となって最大限に自意識を燃え上がらせることであった。小林氏はドストエフスキーの人間学の独創性を次のように定義した。「19世紀の人間つまり主人公は無性格でなければならない。読者が捕らえようとしても困惑するほどあらゆる性格が与えられそれがほとんど意義をも持たない行為にある。主人公の意識は固定できないし、実体的なものから成立していない。それは意識の流れる音である。」
分かるかなー!!わからねーだろうなー!!と小林氏の笑いが聞こえてくる。



書評 茂木健一郎著 「クオリア入門(心が脳を感じるとき)」  ちくま学芸文庫(2006年3月)

2006年12月01日 | 書評
心は脳のニューロンの発火現象に過ぎない。しかし現時点で科学的に説明することは難しい。

今売り出し中の脳科学者茂木健一郎氏の著作としては、本書評コーナーでたびたび取り上げてきた。「脳と創造性ーこの私というクオリアへ」、「脳の中の人生」、「脳整理法」、「意識とはなにか」、「脳と仮想」に続いて今回が6冊目である。発行時期的にはこの本が一番古い本だ。茂木氏の原点とも言える本である。私は時間的に逆に著作を読んできたようだ。2回読んでもさっぱり腑に落ちない(理解できたと言えない)難しい内容である。なぜかというと、実験的事実の集積というべき経験科学の徒であった私にとって、今回の科学というか哲学というか心理学というかさっぱり判別できない学問的手法に習熟していないので、善悪、真偽の判定が経験的に出来ないからだ。茂木氏は「私たちの心の全ては、私たちの脳のニューロンの発火によって起こる脳内現象に過ぎない」という命題を与えて下さる。科学の徒として私はこの「命題」は是とする。しかし問題はそれ以降の科学的説明のやり方にある。心という頭の中にいる小人(ホムンクルス)を仮設する二元論ではない点は評価するが、この本を読んで分かったように心を計測する科学的手法を持たない科学の現状では、脳内物理現象(PET,fNMR、近赤外法、電極法などなど)と心の関係が結局対応できない限り科学にはならない存在なのではなかろうか。偉大な科学者の仮説と仮説を矛盾なく縫い合わせるような芸当が本書の目的だとしたら、私のような無関係な読者はついてゆけない。差別的表現のつもりではなくあくまで比喩表現として「盲象をなぜる」式の非実体的模索(武谷三男の三段階弁証法的科学論における第一段階でしかも実体を扱っているわけでない)に過ぎない。悪いけどまだ茂木式脳科学は科学ではない。視覚心理学か哲学の段階である。実体(脳の物理)との対応が取れない現象(心象)は掴みようがないではないか。

茂木氏の理論的出発点としては、クリック・コッホ仮説「大脳皮質の前頭前野や運動前野など、脳の前側の領野のニューロンに直接シナップス結合しているニューロンの活動だけが、視覚的アウェアネスの中に明示的に現れる」からは両眼視野闘争が説明できないとして否定し、かわりにマッハの原理「認識において、あるニューロンの発火が果たす役割、そのニューロンと同じ心理的瞬間において発火している他の全てのニューロンの発火との関係においてのみ決定される。単独で存在するニューロンの発火は意味がないとする所謂相対論」を茂木氏は他の問題においても一貫して支持される。いわゆるマッハ主義者である。どちらがどうとは私には分からないが、相対論にしておいたほうが発展性があるということであろうか。かえって曖昧模糊として何が何やらすっきりしないが。

茂木氏はかってアメリカの哲学者チャーマーズが提唱したクオリア一元論「クオリアという心象の立ち上がる過程が心脳問題の本質」という見解であったが、種々の問題が提示されるにつれて一元論では処理できないことを自覚され、クオリアは環境が心の中で立ち上がる初期過程と位置づけ、さらにクオリアと前頭前野との関連性により意識や運動、志向性といった人間本来の属性の立ち上がりを追及される立場に移行された。すなわち「主観性としての私」を本書においては視覚心理学実験を大幅に取り入れて論じておられる。私にはこの論は理解できない。予断できないが「私という存在は脳機能から説明不可能であって社会的存在や哲学的存在においてのみ存在する」代物ではなかろうかと想像している。数段階の視覚神経野のネットワークと主観性にはアナロジーは成立しても違う分野を取り扱っているはずだ。また意識の座として前頭前野における志向性をポインター(抽象的認識)とクオリア(心象)で説明され、行動分野とポインターは共通しているようだとか説明されている。様々な問題をマッハ原理から説明されている。しかし結局私には、茂木氏の「私」の存在は証明されていないし、なにか捉えようのない「心」の周りをうろうろまわって眺めているようなだけに見える。要するに見取り図の提案が本書の目的で、あとは今後の脳科学の進展に乞うご期待ということのようだ。