ブログ 「ごまめの歯軋り」

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環境書評  ジョン・F・ロス 著 佐和紀子訳  「リスクセンス」集英社新書(2001年)

2006年12月10日 | 書評

「リスクは数値がなければ恐怖となり、数値化して比較できれば選択になる。」
が本書の主題である。リスクの数学と毒物学の歴史をたどり、リスクセンスを養う新しいリスク管理の方法を提案した。

1)リスクの数値化と相対化(リスクの数学)
リスク:損失や損害を伴う可能性のある行動や出来事(シェイクスピア)
*危険への恐怖
*確率論・・・・・パスカル、フェルマー 17世紀中頃
・・・・・・・・・・神の存在とゲームの損失計算
*数値化・・・・・確率論(数学)はリスクを数値化する手段  
*リスクの比較・・・・ジョン グランド 17世紀後半
*リスクの相対化・・・他のリスクとの比較 (死因表など)
*統計学
平均への回帰・・・・・フランシス・ゴールトン 19世紀後半
母集団と正規分布・・・・・アブラハム・ド・モワブル 
                                                       
「リスク構造の解明からリスクの選択へ」の科学的認識の時代
2)リスクの線引き(毒物学)
  パラケルクス(15世紀)・・・「総ての物質は毒だ。投与量が正しいかどうかで毒になるか薬になる。」
*用量関係曲線・・・・食品の安全性と毒性試験 「連邦食品医薬品法」 1906
*リスクゼロ方針・・・・・・不検出が原則・・・・・検出技術の進歩
*1950 デラニー委員会「発ガン物質には閾値がない直線型」  
    発ガンモデルの開発   1970年代
  少量投与で閾値を外挿して求める

リスクセンスの養成
3)リスクゼロ神話の崩壊とリスクセンスの養成
1995年 サイエンス誌 「限界に直面する疫学」:ゼロに近いリスク低減は新たなリスクを生み出す。
「毒蛇は殺す」:リスクゼロ思想は生態系の破壊、エネルギーの無駄使いになる。

リスクを判断するのは専門家ではなく、自分にとってなにが重要であるかという価値判断を行なうリスクセンスを養うことである。そのためには判断に必要な情報を自分で集め(知る権利を十分に行使し)、人の話は半分に聞いて総合的に判断することが肝要である。



小林秀雄全集第7巻[作家の顔]より 「文学者の思想と実生活」

2006年12月10日 | 書評
文学者の思想と実生活

いつもながら文学者間の論戦は結論というものがない。論戦は対立する論点が変容しながら果てしなく続くことが特徴である。正宗白鳥氏と小林秀雄氏の間に戦わされたトルストイの家出問題に端を発する実生活と思想の問題(これも小林氏の整理による)も長く続いた。正宗氏はトルストイの家出の直接的な原因は細君のヒステリーであったことを主張する。小林氏は問題はトルストイの家出の原因ではなく、彼の家出という行為の現実性だと主張する。といった風に最初から論点があっていない。この小文で小林氏はトルストイの思想を詳らかにしなければならないのに、なぜかドスエフスキー論にすり換えている。従って小林氏はトルストイを論じたのではなく、ドストエフスキー的生活と理論の相克を論じたに過ぎない。蛇足ながらトルストイの思想らしきものはトルストイの「芸術とは何か」の小論文に述べられるので次も読んでください。


書評  山鳥重著 「分かる」とはどういうことかー認識の脳科学ーちくま新書(2002年4月初版)

2006年12月10日 | 書評
分かるという感情はどうして出てくるのかーヒトの認識とは何かー

「人間は考える葦である」とはフランスの数学者・哲学者パスカルの言葉である。「考えること自体について」考えることは必ずしも容易ではない。私達人間は日常的に「分かる」、「わからない」を連発して生活しています。意識的に考えるだけではなく無意識的にも考えています。「分かる」ということは実は感情なのです。この「分かる」、「わからない」の感情を「考える」と言っているわけです。そして分かる時が来た時は「納得した」、「合点がいったとか「腑に落ちた」といって歓びます。他人から見ればおかしな合点の行きようもあります。本人だけの感情に過ぎません。とかくさように人間の認識過程は不思議なものです。しかし分からなければ人は生きてゆくことは出来ません。人間だけが持つこの高次な脳機能は生存の必須機能です。だから「分かる」ということをよく考えてみませんかということが本書の狙いである。

筆者山鳥重氏は神経内科の医者である。専攻は記憶障害、失語症、認知障害、脳機能障害の臨床医学である。主に高次機能障害学の立場から脳機能を見てきておられた。本書には脳科学や精神病理学上のテクニカルタームの一つもない。専門用語と科学方法論のレビューに満ち溢れた啓蒙書ではない。これでは分からずにはいられないというように、静かに淡々と実に平易な言葉で脳機能(これも硬い言葉だ)を語られる、やさしいお医者さんという印象を私は持った。本書には脳解剖図はないし、fMRI,PETの成果も書いていない。最後の章で初めて頭頂葉とか前頭前野という脳の部所名と位置図が出てくるに過ぎない。

ここでやっている書評も本書によれば、分かろうとする認識作業で、「うまくまとめと分かったという気がする」事だそうだ。筆者の言うことのオーム返しではなく、自分の概念としてひとつのイメージにまとめなければなりません。はたして何分の一が自分の血肉に化してゆけるのか。また纏めるということは抽象化/概念化することであり、そのために書評は堅くなり誤まると無味乾燥になる危険を持つもんだ。生き生きした理解を得るには、本書を買って具体例を読むことに尽きる。書評の限界をつくづく感じる今日この頃です。空しいかな。

分かるための素材 「心像」
心の働きには「感情」と「思考」の二つの水準がある。思考とは心像という心理的単位を扱ってその関係を知ることである。心像とは心が捉える主観的な現象です。心像は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感(知覚)が働いて心につくる心理現象(経験)のことだ。注意深い知覚は心の働きの土台になる。注意深い知覚により物の区別ができ、物を同定することが出来る。知覚心像が意味を持つようになるには繰り返しによる神経回路網の結合(記憶心像)が必要です。

分かるための手がかり 「記号・言語」
この心理現象(心像)に名前(記号音)を付ければさらに安定する。名前即ち言葉が人間では最も重要だ。言葉のすばらしさはそうした誰でも共通に確認できる外的現象だけでなく、心の内的状態をも記号化できることであった。分かったの第一歩は言葉の内容(記憶心像)を作っておくことである。

分かるための土台 「記憶」の分類
言葉は自分の心の記憶心像を呼びだしてくれるから意味が分かるのだ。その意味は自分の経験である。記憶には反射や情動反応のような種として遺伝的に有する記憶と個人としての心像記憶がある。心像記憶にも意識に呼び出しやすい記憶(出来事や意味の記憶、意味の記憶には①事柄の意味②関係の意味③変化の意味がある)と呼び出しにくい記憶(手続き記億、体が覚えているとか文法など)がある。とまあ記憶にはいろいろな分類があるものだ。

分かるにもいろいろある
①全体像がわかる(見当を付ける)
②整理すると分かる(無数の現象を分類する)
③筋を通すと分かる(過去の時間的脈絡を理解)
④空間関係が分かる(視空間能力、幾何学や運動に必須)
⑤仕組みが分かる(裏で働くからくりを理解する)
⑥規則に合えば分かる(数の世界)

どんな時に「わかった」と思うのか
①直感的に分かる(夢で発見する科学もある)
②まとまることで分かる(うまくまとめられると分かったという感情になる。心像の数が減らせられる。)
③ルールを発見することで分かる(思考とは見かけの世界の背後のルールを発見すること)
④置き換えることで分かる(取り込んだ情報を自分の操作可能な心像に置き換えることで分かった気になる)

分かるために何が必要か
①分かりたいという気持ちは多様な心像から意味というより高い秩序を目指すものだ。(分るというのは秩序を生む心の働きです)②記憶と知識の網の目を作る(大量の意味記憶に網の目のような連絡を付けることだ、これによって知識を容易に呼び出せる)
③分からないことに気付く事(分からないと心に違和感がうまれ、分かろうとする推進力が生まれる)
④すべて一緒に意識に上げるー作業記憶(完成に至る複数の心像イメージをしばらく同時に把握する能力を作業記憶という)
⑤分かったことは行為に移せる(しっかりした心像が形成できればそれは運動に変換できる、知覚して心理表象イメージに高めれば必要な運動が選択できる)
⑥分かったことは応用できる(別々の引き出しに入った知識を利用するには意味付けと連絡付けを十分しておくこと、すると共通の意味が理解できて応用がきく)

より大きく深く分かるために
①大きな意味をつかむこと(大きな情況での理解が必要、脳の前頭前野には複数の行動計画を選択する知能が存在する)
②深い理解(意味理解で心の処理が深まる)
③重ね合わせ理解と発見的理解(答えが自分の頭の中に用意できる分かり方と、答えが自分の外にある分かり方即ち自然現象の理解)