3月2日(月)
朝から曇りがちのお天気でしたが、小雨が降ったりやんだりと寒い一日でした。
月曜日はストレッチ教室の日ですが、会場が閉鎖され中止となりました。
こんなところまでコロナの影響です。
一日空きましたので、先日の中山道散歩の備忘録です。
追分の碑
前回のゴール地点です。
ここが忍街道と中山道の追分ですので、私たちは道の反対側にあるお地蔵さまに旅の安全をお願いして出発です。
地蔵堂の地蔵さま
追分の碑の反対側に地蔵堂が建っております。
私たちを見守ってくだすっているという優しいお顔立ちが印象的なお地蔵さまでした。
箕田の追分
中山道と忍街道との別れ道で、忍街道を行くと忍城のある行田市や館林方面へと続いております。
前砂村の碑
まだ建てて間もないといった風の石碑でした。
今回の街道歩きで一番目に付いたのは、新しい「中山道の碑」でした。
前砂の一里塚
日本橋から14番目御一里塚です。
左右に立派な榎が植えられていたそうですが、いつの間にか削られて平地となり、農地となり作物が作られようになり、近年は住宅地になってしまっております。
案内の講師の先生も、ここへ来るたびに案内板が無くなっているのではないかと心配しているそうです。
着いた時の第一声が「まだありました。良かった~」でした。
中山道間の宿の碑
間の宿という呼び方は、街道歩きをしているとよく出て来ますが、宿と宿の間にできた宿場という意味ですが、宿場として幕府から認められていたわけではありません。
妙徳地蔵堂
縁起によると眼病を救ってくれるというお地蔵様で、近隣の人々の信仰を集めているそうです。
お地蔵さま
優しいお顔をしております。
どのお地蔵さまも優しそうで、すがりたいと思う気持ちが分かるような気がいたします。
マンホール
人形の町鴻巣を象徴するようなデザインです。
道標
高崎線に分断されたところに建っておりました。
説明板
このあたりが間の宿の中心だったようで、公認の宿場町ではありませんでしたが、鴻巣宿と熊谷宿の距離が長かったために必然的に出来上がった宿場といえます。
吹上宿の名物は、「忍のさし足袋」「荒川のウナギ」「榎戸の目薬」だったそうです。
マンホール
吹上町のマンホールです。
町の花らしいのですが・・・
権八延命地蔵
歌舞伎の「鈴ヶ森」の話になった白井権八が江戸に向かう途中、路銀に困り果て、このお地蔵さんの前で辻切をしたそうです。その一部始終を見ていたお地蔵さんに、権八は「今の事を他言するな」と言ったところ、お地蔵さんが「己は言わぬが汝も言うな」と言い返したという。
そんな逸話の残っているお地蔵様で、地域の方々に大切に保存されておりました。
白井権八のモデルは、鳥取藩士平井権八という人物だそうです。
荒川堤が中山道
荒川の土手がそのまま中山道になっております。
すこぶる景色がよく、春の街道歩き満喫でした。
一里塚
久下新田二一里塚は、江戸から15番目です。
堤防の拡張工事で跡形もなく消えてしまったところです。
今からでも、復元すると景色の良い風景になると思いますが・・・
久下神社
村の鎮守さまで、久下直光が三島神社を勧進して創設された神社です。
「吾妻鏡」には、久下一族と熊谷一族が、将軍頼朝の前で境界線の争いをしたことが記されているそうです。
追分
写真の右側に行くと現在の本道で、中山道は直進して再び荒川の土手に上がります。
一人でこの街道歩きをしていたら、右へそのまま行ってしまいそうです。
権八地蔵堂
長土手にあったお地蔵さまと同じで、権八地蔵といわれております。
平井権八は鈴ヶ森で処刑されておりますが、どういう訳かこの地域には同じ地蔵堂が三か所あるそうです。
お地蔵さま
個々のお地蔵さまも優しいお顔をされております。
権八がこのあたりで村の人々に何か特別なことをしたのでしょうか・・・
久下の渡し
ここに荒川の渡しがあったそうです。
その跡を記す石碑ですが、まだ新しそうです。
東竹院
曹洞宗の寺院で、久下重光が開基、深谷城主だった上杉憲賢が中興開基したと伝えられております。
寺院の紋に久下氏の家紋をそのまま使っていることが、久下氏との繋がりが分かります。
久下家の丸に一の家紋は、頼朝の旗揚げの際、真っ先に駆け付けたのが久下一族でしたので、喜んだ頼朝が「一番」と書いて与えたという逸話が残されております。
山内には、久下一族のお墓があります。
久下重光の墓
このお寺を開基した重光公のお墓です。
達磨石
忍城主が達磨大師に似た石を秩父から城中に運ばせようとしたところ、川に転落してしまいたび重なる荒川の洪水などで行方が分からなくなってしまったそうです。
250年も経った大正14年に、この伝説の達磨石が東竹院前の荒川で発見されたために、川底から掘り起こされて東竹院に安置されたそうです。
言われてみれば達磨さんに似ております。
一里塚
八丁の一里塚は、江戸から16番目の一里塚です。
このあたりが、久下氏と熊谷氏とが争った境界だといわれております。
鎌倉武士たちは、自分の所領を命を懸けて守る事から「一所懸命」という言葉が生まれたといわれております。
今、国語の試験で「一所懸命」「一生懸命」どちらを書いても正解だそうです。
ここの一里塚も、曙公園になっておりまして、何も残っておりませんでした。
熊谷駅
今回のゴール地点です。
よく歩きました。
17.1キロ、24.890歩でした。